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差別は外側からの圧迫であり、自由は内側からの解放。
完全なる自由は、文化・習慣・人間性別さえも否定し開放を志向する。よって、破壊者である完全なる自由は嫌われる存在へと向う。悪と見える差別と、善と見える自由が表裏一体ならば、完全なる自由と同様に、完全なる差別の廃止も嫌われ拒否される存在となる。
結果、差別は容認される。何故ならば、完全なる自由が悪しき物であるからである。果たして、その守られる差別とは何であろうか・・・!?

質問者からの補足コメント

  • 正月にお年玉をあげました。
    5歳の子供には5千円、10歳の子供には1万円。差別です。
    正月にお年玉をあげました。
    女の子には5千円、男の子には1万円。差別です。
    社会や文化常識によって許容される事もあり、許容されない事もある・・・自由も社会や文化常識によっては、許容される事も許容されない事も・・・

      補足日時:2023/01/03 15:41

A 回答 (10件)

「守らねばならない差別とは何か?」??エエ~


いくらでもあるが。
犯罪所は絶対差別する、女人禁制の場所では絶対差別するべし
男には男の道があり、女には女の道がある
悪人と善人とは差別するべし、
教養のある人格者と、無知無学無能なアホとは差別するべし、
責任を果たす奴と、無責任な奴とは差別するべし
それ当たり前の差別でしょ
この世は差別だらけでいいんですよ。

質問者:karin_septemberさんは、
差別が悪い事と洗脳されていませんか

自由は内側からの解放」ハ??エエ~、じゃ本能で生きる動物と同じだ
自由は外側から、責任と言う重りを付けるんですよ、
無責任な奴に自由など絶対に与えてはならない、クビに鎖を付けるべき
自由=責任だよ
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この回答へのお礼

ご回答有難う御座います。
>差別が悪い事と洗脳されていませんか
差別が悪いとは言ってません、許容される差別と許容されない差別があるという話し。

お礼日時:2023/01/06 16:16

お年玉か



成長するうちにいつの間にか親もくれなくなった。
何歳で終わったかは覚えてないが、学生時代の終わりごろだろうか。
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この回答へのお礼

ご回答有難う御座います。

お礼日時:2023/01/06 15:59

補足について。



年齢により、お年玉の額に差があることを差別とは言いません。何故ならば、いつか10歳になる権利のない5歳児は、存在しないからです。

あなた自身が、相手の性別によりお年玉の額に差をつけることも、差別とはいいません。それは、あなたの勝手でよろしいことです。つまりそれは「自由」の範囲内です。
あなたの偏見が、自分以外の誰がが誰かにあげるお年玉に干渉した場合。女の子には五千円だ。男の子には一万円だと、それであらねばならぬと、お年玉の額を規定し、相手の自由を制限した場合、差別となります。
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この回答へのお礼

ご回答有難う御座います。
>・・・お年玉の額に差があることを差別とは言いません。
差別だと思いますが・・・但し、許容される差別でしょう。差別の定義が曖昧か・・・

お礼日時:2023/01/06 15:58

人間性否定という共喰いはよくない


という大前提です。
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この回答へのお礼

ご回答有難う御座います。
>人間性否定という共喰いはよくない
その守られる差別とは・・・常識という事か・・・

お礼日時:2023/01/03 15:29

完全なる自由は嫌われるのは、あったりめえだよ、


守らねばならない差別はごまんとあるぞ、それを区別と言ううんだ
何を質問しても自由だが、メチャクチャな質問に見えるが
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この回答へのお礼

ご回答有難う御座います。
質問は「守らねばならない差別とは何か?」です。

お礼日時:2023/01/03 15:26

お礼拝見致しました。


部落問題や障害者問題などを詳しくみると、自分たちのことを卑下することに慣れてしまっている人たちが一定数存在します。そんな方たちが差別を容認してしまったり、なんでも安易に援助を受けて当然などと言う考えに結び付いたりしています。これも差別の被害と言えば被害なのですが、差別され続けるうちに、差別されることが当然になってしまい、自分たちを差別するようになってしまうこともあるようです。
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この回答へのお礼

ご回答有難う御座います。
>差別されることが当然になってしまい・・・
外部からの影響の結果、自己の思考に影響があったという事でしょう。逆に言えば、内部から差別性が発生したとは思えない・・・自己精神内の変更では改善できない問題であろう事からもそれを想定できます。

お礼日時:2023/01/03 15:23

近頃、「差別する自由」なるものまで主張する人たちもいます。

その意味でも、差別と自由は別物だと言えるでしょう。

差別は「外側からの強制圧迫」の一部でしょうが、=ではありません。弾圧や強制、搾取なども含まれますし、「内側」からの差別(自己差別)も存在します。
また、自由は「内側からの解放」だけでなく、当然、「外側からの開放」(他者による解放)もあります。
差別も自由も自己の力で行うものもあれば、他者の力による場合もあります。内外のベクトルで分けられるようなものではありません。
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この回答へのお礼

ご回答有難う御座います。
>「内側」からの差別(自己差別)も存在・・・
自己差別と言うものがあるのだろうか・・・・
ある人を劣等者と思うことは、法的に良心の自由として常識に許容され、それが外的に他者への影響が生じた時に差別とされる筈です。仮に、自己差別が存在するならば内的差別は守られる差別であり、外的差別は排除される差別となるのか・・・・

お礼日時:2023/01/01 16:53

善と悪であるとか。

外面内面であるとか、理念や概念として、それを考えてるから、思考のベクトルを奪われるんですよ。

行為と身体として、それを考えてみて下さい。

偏見を得る者がそこにいたとしても、実際として差別という行為に至らなければ、その人は差別者ではない。
殺人を欲求しても、実際として殺人という行為に至らなければ、殺人者ではない。

自由も同じもの。それを求めることが自由なのではない。実際の状態としてどうあるかです。

上記は余談でした。

で、自由が悪しきものであるから、差別する自由も当然に制限を受ける。勿論、行為と身体の制限です。差別と自由が表裏一体なのではなく、保護と制限が表裏一体ということです。
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この回答へのお礼

ご回答有難う御座います。

お礼日時:2023/01/01 16:19

>表裏一体・・・と言う意味で同じと言っています。



自由が差別から逃れることのみを指すならたしかに表裏一体ですが、自由とはそんなに狭い意味ではないのではないでしょうか。

内的抑圧のように、自分の自由を自分が奪っている可能性もあるわけですし。
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この回答へのお礼

ご回答有難う御座います。

お礼日時:2023/01/01 16:13

>差別は外側からの圧迫であり、自由は内側からの解放。



1行目からご自身で「差別と自由は別物だ」って書いてるじゃないですか。
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この回答へのお礼

ご回答有難う御座います。
>表裏一体・・・
と言う意味で同じと言っています。

お礼日時:2023/01/01 09:29

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