素人です。

質問1:
 物理の考え方には、認識できない物は存在しないと考えるそうです。そういう表現で合っているでしょうか。私は、そうは思わないのですが、理由としては、私の家の庭には、赤い花が咲いていますが、その事実を知っていても知らなくても、その花がそこにあることを私の隣人は知っているからです。つまり知覚による認識と、認識対象の存在・不存在は関連性が無いという考え方を 私はします。 物理の考え方では、この花の例はどうなっているのかなと思います。

質問2:
 宇宙において空間というものは、特別な存在のようで、分子や粒子やもっと細かなヒモとか、光とか、何かしらのエネルギーとか、そういうものが、存在しない世界も 選択しえたろうに、どうしてまた、存在するということが選択されたのかなと思います。そういうものが存在するからこそ、空間があるのかも知れませんが。
 私がたまたま、そうした素粒子やエネルギーが存在する宇宙側に生まれたからであって、何もない つまり 虚無(本当に虚無です、無の宇宙ではなくて)の宇宙(宇宙と呼べないかもしれませんが)においては、知覚機能をもった人間も何もないから 感じようがないのかもしれませんが、それでも 不思議だなと思います。

「宇宙が選択したこと: 存在」の質問画像

A 回答 (7件)

1の方だけ, なんですが, 「理由としては」の文章がおかしい感じがします.


「あなたの家の庭に赤い花が咲いている」という事実を「知っていても知らなくても」その花がそこにあることを隣人が知っている, と書かれていますが, 「あなたの~咲いている」という事実を*誰が*「知っていても知らなくても~」といわれているのですか? この*誰が*が隣人であるとすれば, 文章としておかしいです. 「赤い花が咲いているという事実を知らない」のなら, 「そこにあることを知っている」とはいえませんよね.
ちなみに, 相互作用 (「認識」もその一種) がないなら存在すると仮定しても存在しないと仮定しても理論展開は全く変わりません. そういう (「理論展開が変わらない」という) 意味で「存在しない*と考える*」だけです.
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この回答へのお礼

認識も一種であるとされる相互作用がないなら存在すると仮定してもしなくても物理の理論展開は全く変わらないと。

そう物理では考えるということですね。であれば、物理のそうした考え方は私には無害なので安心しました。存在を否定するかのように物理が考えると思っていましたので。

ただ、「理論展開」という言葉に煙でまかれた気がしますが。

しかし思うに、物理の学生は、自由な発想のもとで学んでいるのかなと思います。時々、振り返って、当然とされていることでも改めて考える、たとえ学会で孤独になってもです、ことが大切かと。

お礼日時:2009/05/29 20:50

 回答番号:No.4 それは真にご迷惑をおかけしました。

他人の文章は読みにくいのに、ミスをしでかしました。

 質問1:≪私は、そうは思わないのですが、≫という、ご質問のお言葉には賛成です。でも揚げ足取りになりますが、説明のための例として出されている事柄は少し修正していただけないでしょうか。
 お庭に咲く赤い花を気づけないことがあっても、それは偶々であって(のは:削除)、一定の条件が解消したり、或いは一定の条件が充足すれば、お庭に赤い花が咲いている事は確認できるのですね。
 科学の場合も、偶々対象となりえてないobjegtでも、科学の対象となりうるobjegtはありうるでしょうね。
 ですから、説明の便宜での具体例としては必ずしもお庭の赤い花の存在事実は、ご説明としてはむしろ誤解(を:削除)の元になりませんでしょうか?
 物理のことはわかりませんが、物象と知性での認識である科学としては、その赤い花は多分偶々対象になっていないだけですよね。
 質問者さんが素人かどうかは存じませんが、私は素人です。
 物象性があるものであれば、それは科学としても存在するobjegtであり、objegtとなりうるものである。仮令、観念でしかないものであっても、物象的側面では、それは医学や心理学、その他の物象的側面で対象になしうるものである。科学として認知し、認識していくことはかのうでありましょう。
 たしかに観念を観念としては科学のobjegtになしえないかも知れませんね。

質問2:
 私も学齢以前、五、六歳ですが、もう60数年前、よく類似の思いに駆られました。
 自分とこの世界どうしてこうなんだ、何でここにいるのだ。自分は。これは何だって。つくずくと自分と周りを見回して、不思議の観の中に入ってしまいました。

 きっと、物理とかの科学でいう存在とか、或いはいわゆる存在というもの自体をその外から認知し(我々の知覚や認知ということなのか不明ですが)、認識(我々の認識ということなのか不明ですが)するしかないのでしょうか?
 その出た世界は存在ではない世界、世界ではない、ある何かなのか。それも不明ですが。
 今、私が一応落ち着いているかの状況は、やはり理知や物象的なことを度外視して、ヒンドゥの教えに傾倒し、精進の真似をしているからであります。
 一切は存在していない。存在しているのはある一(いつ)なるる意識である。その意識が創造という行為をする(一なる意識としては、創造ということばがあてはまるものかどうかは不明です。私自身は、一つの脈動であると感じております。)。それはその意識がその意識の中で夢をみることである(我々が観念したり、夢を見る現象は一なる意識が見つめ、simulacraし、その相似が我々にマイクロ化して内在しているものだと感じています)。いっさいはその意識の夢である。
我々とは存在していない。夢でしかない。全ては一(なる意識の紡ぎ作用)に帰す。というようなものです。

 そういう認識では、この第二質問文末における、どうしてこういう世界なんだという疑問には、答えられていませんね。

 ご質問へのまともなご回答や、科学認識の方法の展開がなされ、私の口が発している唯一の存在というものの役割や場が、説明されていくことは期待しております。
 でも私のヒンドゥの教えでは、そのためのルートが提示されております。
 それは、その唯一存在になることだと。 以上参考までに。

 なおご質問は、私のような思いとは関係ないことなのでしょうね?
 関連的でも結構ですので、コメントがあると有り難いですね。
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この回答へのお礼

一生懸命読んだのですが、何をおっしゃろうとしているのかが理解できませんでした。objegtも。objectなのか。。。

いえ、私自身やこのパソコンも存在しております。

私はインドには2度行きました。

お礼日時:2009/05/30 18:11

 〉私の質問は、認識できないものを存在しないという考え方を物理はなぜするのか(私の表現が正しくないかもしれません)。

どうなっているのかなと。

 「認識」の定義の問題になってきますね。もはや「哲学」です。もちろん古代ギリシャや近代ヨーロッパでは数学も哲学でしたが。
 ものすごく大雑把な表現ですが、「そう考えるとつじつまが合う」からです。
1.まず、現実の話として。
 アインシュタインの相対性理論は、どう考えても正しい(理解できる人間が世界中にいなかったというのは単なる作り話)が、証明できない。なので「光電効果」という、今では中学校でもやる実験で(薄い金属板に光を当てたら電気が起こる)ノーベル物理学賞を授与しました。後に太陽の重力で空間がゆがみ、太陽に隠れて見えないはずの水星が見えたので、相対性理論は証明されました。これは、「認識できないものを存在しない」の「認識」を、「目で見て観察」と解釈した例です。
2.純粋試論の話として。
 -1の平方根は「√1」と表記されます。しかし、こんな数は実在しないので「虚数=i」と表記されます。「複素数」とも言います。「√2」や「π」なら、無理数だがまだ現実に存在しますが、iは現実世界に存在しません。つまり「知覚して認識する」ことは不可能です。しかし、「数学的概念」として認識することは高校生でも出来ます。
 こちらの方の「認識」を「存在」と称するならば、お考えのとおり「知覚による認識と、認識対象の存在・不存在は関連性が無い」、少なくともイコールではない、です。現に、半導体の理論はiがあってこそ発展し、半導体の塊のケータイが機能していますから。
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 質問1:≪私は、そうは思わないのですが、≫という、ご質問のお言葉には賛成です。

でも揚げ足取りになりますが、説明のための例として出されている事柄は少し修正していただけないでしょうか。
 お庭に咲く赤い花を気づけないことがあっても、それは偶々であってのは、一定の条件が解消したり、或いは一定の条件が充足すれば、お庭に赤い花が咲いている事は確認できるのですね。
 科学の場合も、偶々対象となりえてないobjegtでも、科学の対象となりうるobjegtはありうるでしょうね。
 ですから、説明の便宜での具体例としては必ずしもお庭の赤い花の存在事実は誤解をの元になりませんでしょうか?
 物理のことはわかりませんが、物象と知性での認識である科学としては、その赤い花は多分偶々対象になっていないだけですよね。
 質問者さんが素人かどうかは存じませんが、私は素人です。
 物象性があるものは科学として存在するobjegtであり、objegtとなりうるものである。仮令、観念でしかないものでも、それを医学や心理学、その他の物象的側面で対象にし、そういう説明はありうると存じます。
 でも観念を観念としてはobjegtになしえないかも知れませんね。

質問2:
 私も学齢以前、五、六歳ですが、もう60数年前、よく類似の思いに駆られました。
 自分とこの世界どうしてこうなんだ、何でいるのだ。自分は。これは何だ。ってつくずくと自分と周りを見回して、不思議の観の中に入ってしまいました。
 きっと、物理とかの科学でいう存在とか、いろんな意味での存在というものの外から認識(ということになるのか)するしかないのでしょうか?
 その出た世界は存在ではない世界、世界ではない何かなのか。
 私が今一応落ち着いているかの状況は、やはり理知や物象的なことを度外視して、ヒンドゥの教えに傾倒し、精進の真似をしているからであります。
 一切は存在していない。存在しているのはある一んる意識である。その意識が創造という行為をした。それはその意識がその意識の中で夢をみることである。いっさいはその意識の夢である。我々とは存在していない。夢でしかない。全ては一に帰す。というようなものです。
 そういう認識では、第二質問文末の、どうしてこういう世界なんだという疑問には、答えられていませんね。
 そういうことも含めて、唯一の存在の役割や場が、仮に私たちの科学で説明できることは期待しております。
 でも私のヒンドゥの教えでは、そのためのルートが提示されております。
 それは、その唯一存在になることだと。 以上参考までに。

なおご質問は、私のような思いとは関係ないことなのでしょうか?
 このことをご補足頂くと、有り難いですね。それで補足要求にチェックを入れます。
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この回答へのお礼

回答欄の文章のあちらこちらに、タイプミス?なのでしょうか、助詞の使い方が正常でない箇所がありまして、文章の意味がわからなかったです。例えば:
<それは偶々であってのは、一定の
<存在しているのはある一んる意識

だからお返事ができません

お礼日時:2009/05/29 20:43

1.認識できない物は存在しないと考えるそうです。

そういう表現で合っているでしょうか。

“認識出来ない”ではなく“影響しない”だったと思います。
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この回答へのお礼

そうなのですか。

影響しないものは存在しない。

ふむ、難しいですね。

無影響のものは存在しないと?
なんだか煙につつまれたようで第一印象は不自然に聞こえます。
物理はどうなっているのでしょうね。興味あります

お礼日時:2009/05/29 20:39

1 知覚による認識と、認識対象の存在・不存在は関連性が無いという考え方、物理の考え方では、この花の例はどうなっているのか



 私の友人に自動車に詳しい人がいて、チラッと見ただけで「今の車はトヨタ・コロナの○年式の△タイプだ」といいます。
 また、音楽に詳しい友人はちょっと聞いただけの喫茶店のBGMを「この演奏の指揮者は○○で、△年の×での録音だ」といいます。
 でも、私にはただの「クルマ」で、ただの「BGM」です。「赤い花」が存在するのは「赤い花」と「黄色い花」を区別(認識)する「人間」が存在するからで、いなければ単に「花」です。さらに言えば、「花」と「地面」を区別(認識)する「人間」が存在しなければ、「物体がある」だけです。私が「クルマが走った」「音楽が流れている」と認識するのとと同じです。したがって物理学では「赤い花」ではなく「質量mの物体」とあらわします。私はオオヒメゲンゴロウとヒメゲンゴロウの区別がつきますが、たいていの人間にとっては「ムシ」です。

2 どうしてまた、存在するということが選択されたのか
 「選択する」という表現を使う時点で、あなたはそこに「意志」を介在させています。「意志などない、ただそうなった」という立場と「意志があってそうなった」という立場に分かれるのは宗教上の議論で、どちらも現在では証明不可能です。神の存在は人間あっての存在だ、人間が考えて作り出した架空の存在だ、ともいわれますが、「宗教を持つ人間」という存在がない時代に、神(のような存在)がいたかもしれません。それは証明困難です。「有る」の証明はたやすいが、「無い」の証明は難しいのです。たとえば、「緑色の髪の人間がいる」を証明するにはたった一人のサンプルの提示で済みますが、「いない」の証明には、約64億人の全部調べて、なおかつ過去と未来の全人類を調べねばなりません。したがって、「わからない(回答不能)」が正解です。
 
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この回答へのお礼

質問1:
ご回答は、認識対象の存在物を「質量mの物体」と物理で認識するということですが、私の質問は、認識できないものを存在しないという考え方を物理はなぜするのか(私の表現が正しくないかもしれません)。どうなっているのかなと。

質問2:
はい意識して用いた言葉です。実は宗教の方向に話を持っていきたくありません。存在する方が、全くの虚無よりも楽しいかもしれないからでしょうかね。

お礼日時:2009/05/29 20:37

質問1:あなたの考え方は、アインシュタイン、シュレーディンガー、ド・ブロイなどの「実在論」に近いと思います。


一方量子論の主流であるいわゆるコペンハーゲン学派は「そんなの分からない」に近いと思います。これは「科学」が「経験主義」であることのせいでもあり、プラグマティズムに近いと言えます。
また、リチャード・ファインマン先生の様に「そんなの考えたって意味がない」という立場もあります。
いずれにせよ科学は「否定出来ない仮説」は「真実かも知れない」という立場であり、分からない事は先延ばしです。
質問2:その世界はビッグバンの前の「時間も空間もなかった」世界に相当する様に思われます。
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この回答へのお礼

質問1:
そうなのですか。化学はなぜ経験主義なのでしょうね。
私が言いたかったことは、知覚できない物を存在しないと決め付けずに広い心構えでいた方がいいと思ったのです。

質問2:
いえ、時間も空間もなかった「無の世界」は本当の無ではないらしいのですが、もっと真に虚無の世界です。虚無なのでそれを宇宙と呼べるか怪しいですね。存在する道が 意志か偶然か必然で 選択されたことが本当に不思議です。

お礼日時:2009/05/29 20:31

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