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例えば、日本陸軍歩兵科の小銃中隊の中隊長の"完全軍装"がどのようなものか知りたいです。
普通の兵や下士官の完全軍装なら分かりますが、どうしても下級将校の完全軍装というものがどんなものか分かりませんでした。
小円匙、銃剣、雑嚢はしないと思いますが、他はどう兵や下士官と違うのでしょうか?
ご存じの方宜しくお願いします

A 回答 (5件)

 将校の完全軍装ということですが、兵科によって微妙に差異があるのですが、いちおう平均的なところを説明します。



 頭からいけば、鉄帽は将兵ともに変わりはありませんが、略帽でもある戦闘帽は夏冬とも素材は同じですが、帽章の星が将校は刺繍で兵は布になり、あご紐も将校は本皮製で兵は代用革になっています。
 戦闘服も上下ともデザインは将兵同じですが、自前で調達する将校はオーダーメイドで材質や仕立てに大きな違いがあり、色調も兵よりは青みがかった色が強くなっていました。ただしこれは戦闘中に敵の狙撃兵のいい目標になるということで、実戦ではあえて兵用の上下を着ていたようです。

 軍靴は将校は黒または茶色の牛革製の長靴で、乗馬の際はこれに拍車を取り付けていました。ただこれも前線、とくに南方では使い勝手が悪く、ほとんどの将校が兵用の布製のゲートルに布ゴム製の地下足袋を好んで履いていたそうです。
 装備類に移ると、まず軍刀ですが帯刀バンドを左腰の軍服の下につけて下げ、唯一の実践的武器である拳銃(私物)は革嚢(ホルスター)を左肩から右腰に掛けます。
 小円匙、銃剣などは携帯しませんが、雑嚢に近いものは携帯します。それは将校の必携装備である図嚢(地図や書類、筆記用具などをいれる皮製のかばん)です。図嚢は吊革または環で右腰に下げます。またこれも将校の必携である双眼鏡も革ケースに入れ、これは右肩から左腰に吊ります。
 背嚢(これも雑嚢代わりといってもいいでしょうね)ですが、これは兵と同じで将校も携帯しますが、兵用よりは小型で上質の牛革で作られており、飯盒もやはり兵用よりは小型ですがこの背嚢に入れて持ち運びます。水筒もありますが、これも小型で吊革で右肩から左腰に下げています。

 ほんとうはもっとこまごましたものがあるのですが、ざっとした説明ですがご参考になれば幸いです。
 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!!
なるほど大変勉強になりました、図嚢や略帽などの一部を除けば兵や下士官と同じなんですね!
詳しく解説頂き有り難うございます!!

ただ本質問とは少しズレるのかもしれませんが、とあるページで将校は背嚢をつけず、荷物は従兵に預けると聞きました。
背嚢を背負った将校は、満州の何かの式典の写真で一度だけ見ました。背嚢の上に外套をくくりつけてましたが、兵みたいに上に携帯天幕は背負っていませんでした。
ただ色々な写真を見ましたが、他に背嚢をつけている将校の写真を見たつけられませんでした(主に中国戦線でしたが)。
乗馬時なら鞍などに荷物をくくりつけますが、普通徒歩の行軍の際は背嚢を背負っていたのでしょうか?、それとも背嚢は背負わず、荷物は当番兵に預けて、戦地での行軍には将校用背嚢は持ってきてなかったのでしょうか?
あと将校用天幕というのは聞いたことがないのですが、将校は露営の際どうしていたのでしょうか?、普通の下士官兵と同じ天幕を持っていたのでしょうか?

色々すいません、ご存知でしたらいいのでよろしくお願いします…

お礼日時:2009/06/03 01:42

>将校は背嚢をつけず、荷物は従兵に預けると聞きました。


背嚢を背負った将校は、満州の何かの式典の写真で一度だけ見ました。背嚢の上に外套をくくりつけてましたが、兵みたいに上に携帯天幕は背負っていませんでした。

 将校が兵と同じように背嚢を背負って、前線を移動したり行軍したりすることはそれほど不思議なことではないことでした。旧日本陸軍は今では負の面ばかりがクローズアップされがちです(確かに新兵訓練などは陰惨なことが多かったのですが)。また上級将校の中には問題の多い、人間的に?が付くような人物もいたことは事実ですが、中隊長クラスの将校は苦労人が多く、また部隊そのものの雰囲気もいわゆる家庭的な空気が強いことも多い事もひとつの事実でした。
 つまり将校という絶対的な権限を振りかざせば、部下の兵など虫けらの様にこき使うことも当然と思われるようなこともありますが、多くの下級将校(つまりは実戦部隊で戦闘に立つ将校)はそのような行為を潔しとはせず、頑なに自分のものは自分が運ぶといった態度を、最後までとり続けた将校たちが多く見られました。前線での作戦会議などのシーンを写した写真などには、フル装備を律儀に左右の肩から何本もたすき掛けにしている将校の写真をよく見かけます。
 なんといっても完全武装の兵一人が身につける装備類は、正規の装備であれば30キロ以上もあるのですから、従兵であっても立派な戦力であり、同じような装備類を身に付けていたはずです。その従兵にその上自分の物を運ばせるということは、現実的に指揮官としてはどうかと私でさえも思いますからね。

 携帯天幕ですが(存在はしているのでしょうが、私は現物の写真をまだ眼にした事がありませんので、ちょっと自信が…)、これを個々の兵が携帯していくということはあまり聞いたことがなく、実際に手持ちの日本陸軍関係の資料にもそのような記述や資料は探すことが出来ませんでした。

>色々な写真を見ましたが、他に背嚢をつけている将校の写真を見たつけられませんでした(主に中国戦線でしたが)。

 戦闘中はもちろんですが、通常の前線風景でも将校が背嚢を背負った写真がなかなか見つけられないのは、やはりあの恰好そのもののせいではないでしょうか。特に冬季に外套の上に背嚢を括りつけた恰好は、どう贔屓目に見ても軍人(将校)としての威厳が損なわれかねませんからね。
 そういうこともあって、なかなかそのような写真が残っていないのではないかと、これはあくまでも私の推測ですが、考えます。私自身がよく見る将校などの写真も、やはり多くが全ての装備類を身体から外し、軍刀の柄に両手を預けている写真ですし。

>乗馬時なら鞍などに荷物をくくりつけますが、普通徒歩の行軍の際は背嚢を背負っていたのでしょうか?、それとも背嚢は背負わず、荷物は当番兵に預けて、戦地での行軍には将校用背嚢は持ってきてなかったのでしょうか?

 前述したように将校自身が携帯していたことが多かったと思いますが、もう一つ、輜重部隊の存在があります。輜重つまりは補給部隊は元来が部隊の軍需品の輸送やさまざまな兵器類の修理、更には衛生や給水などを担当しますが、そのなかに「大行李」と「小行李」という区分があります。「小行李」は弾薬や糧食、医薬品など実際の戦闘に必要なものを担当し、「大行李」は宿営や給養などに必要な物品を運ぶものです。
 つまり行軍の際はこの「行李」を活用して、戦闘部隊の将校や兵たちは常に臨戦態勢を維持していたといえますので、従兵や当番兵などには負担はなかったといえるのではないかと思います。
 もっともこれらは戦況が日本軍にとって、有利な状況で推移しているという前提条件が必要でした。

>将校用天幕というのは聞いたことがないのですが、将校は露営の際どうしていたのでしょうか?、普通の下士官兵と同じ天幕を持っていたのでしょうか?

 日本軍が実戦場において天幕を使用していたような戦記や記述・写真などを、これまでにあまり見かけたことがありません。個人的には天幕での露営はあくまでも演習の際に使う程度のもので、戦場ではそのような手間や敵に発見されやすいような構造物を用意することは非現実的な気がします。
 中国戦線では部隊は戦況に余裕があるときは天幕を張ったり、あるいは民家や公共的な建物を「徴用」して利用したこともあるかと思います。「シベリア出兵」の際には兵員宿舎そのものを現地に建設していたこともあありますが、これはあくまでも例外でして、戦闘継続中や戦況そのものが逼迫している場合は、露営とは名ばかりでほとんどが野宿していたと思います。インパールや南方戦線などでは、露営という言葉さえ死語と化していたのではないでしょうか。
 
 長くなりました。回答のいくつかは、私個人の推測も混じっておりますことをお許しください。

この回答への補足

お返事有り難うございます!!
長くなったので、補足ではないのですが、補足欄を利用してお礼を書かせて頂きます

>将校が兵と同じように背嚢を背負って、前線を移動したり行軍したりすることはそれほど不思議なことではないことでした。…
>なんといっても完全武装の兵一人が身につける装備類は、正規の装備であれば30キロ以上もあるのですから…

それは自分も思いました。背嚢だけとはいえ、着替えやらなんやらが入る重いものを預けられたら当番兵は不満なのではないかと。でも当番兵を経験した人の従軍記では一度もそういった記述がなかったので、おかしいなと思ってました。長くて辛い行軍の際は背嚢の中身を捨てたりして軽くしたりするのに、将校の荷物を背負うのはどうなのかと…。そうでしたか、基本的に徒歩の将校は背嚢が普通なのですか…
(全然関係ない話かもしれませんが、Gloryという南北戦争映画でも、将校は背嚢を背負ってなかったので、伝統的に貴人たる将校は背嚢を背負わないかと思ってました…)

> そういうこともあって、なかなかそのような写真が残っていないのではないかと、これはあくまでも私の推測ですが、考えます。私自身がよく見る将校などの写真も、やはり多くが全ての装備類を身体から外し、軍刀の柄に両手を預けている写真ですし。

そうですね、僕の探した写真では行軍シーンはカメラが引きで捕らえられ部隊全体が写るシーンが多くて、将校かどうか確認できない場合が多かったです。戦闘中の活躍や、戦闘後のシーンはありましたが…
ネットで見られるものだとこの当たりを確認しました
ttp://forum.axishistory.com/viewtopic.php?f=65&t=105642&
図嚢・軍刀・拳銃嚢を身につけた将校だと見つかるんですが…

補足日時:2009/06/05 03:41
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この回答へのお礼

(補足欄から続きです)

>つまり行軍の際はこの「行李」を活用して、戦闘部隊の将校や兵たちは常に臨戦態勢を維持していたといえますので、従兵や当番兵などには負担はなかったといえるのではないかと思います。もっともこれらは戦況が日本軍にとって、有利な状況で推移しているという前提条件が必要でした。

なるほど。忘れてましたが将校の私物、…着替えの服(普通の着替えや正装とか?)や典範令などを入れた将校行李の存在もありますね。あれは輜重か当番兵が運ぶと聞きました
いくつかの証言から、行李班がいないときは普通は当番兵が将校行李を担いだのだと思います…
将校行李は柳で編んだ軽い柳行李だったり、頑丈な木枠の上に革を張った重そうなものも見たことがあるので、これは当番兵の負担になったでしょうね…

>個人的には天幕での露営はあくまでも演習の際に使う程度のもので、戦場ではそのような手間や敵に発見されやすいような構造物を用意することは非現実的な気がします

うーん、作戦中の接敵機動中などでしたら、立哨や不寝番をおいてもたしかに不安ですね。
従軍経験者の話を読む限り、「草の上に(天幕などなく)寝た」「背嚢を枕にそのまま寝た」など、天幕を使わずに寝たという話はいくつか聞きました。露営以外でしたら中国戦線では村落露営(無人の村の家を宿に使った。なぜか知りませんが"露営"がつきます)の話はよく聞きます。
南方での天幕を使った話を聞きました。将校の話でしたが、携帯天幕をつなぎ合わせて小さな幕舎を作るという話ですが、14人程度の特別な任務を帯びた人の話なので一般的ではないと思います。
南方ではマラリア蚊がでるので、蚊屋と一緒に携帯用天幕を使ってたのだと思ったのですが…

> 長くなりました。回答のいくつかは、私個人の推測も混じっておりますことをお許しください。
いえ貴重なお時間を割いて頂き本当にありがとうございました。
色々勉強させて頂きました。ありがとうございます!!

お礼日時:2009/06/05 03:42

>戦地での行軍には将校用背嚢は持ってきてなかったのでしょうか?



 作戦中、将校の持ち物は、将校行李に納めて、「大行李」とよぶ輸送部隊が運びました。将校が背嚢を背負うのは部隊の出陣式、小部隊単位の挺進作戦のとき、また連隊軍旗拝受式典での連隊旗手などです。あるいは、旧ソ連軍の記録映画のなかに関東軍の将兵がシベリアへ連行される場面で、背嚢を負う将校の動く姿を見ることが出来ます。

 資料=『歩兵第百四聯隊小史』(原書房71年)、『新品将校奮戦記』(共栄書房 81年)

>将校用天幕というのは聞いたことがないのですが、将校は露営の際どうしていたのでしょうか?、普通の下士官兵と同じ天幕を持っていたのでしょうか?

 天幕については、歴史群像太平洋戦史シリーズ39『戦場の衣食住』(学習研究社)所収の「露営と廠舎」に詳しく載っています。方錘形携帯天幕は個人用の天幕ですが、組み合わせで様々な形が作れ、あるいは紐でつなぎ合わせ十六枚で二十四名収容の大型天幕を構成する事ができました。また、九五式携行天幕は対ソ戦用に開発された防寒機能を有する天幕で十八名を収容できました。天幕はたとえばノモンハン事変や満州事変での構築物がない平原において大いに活用されました。またスコールが来る南方のジャングル地帯でも天幕は必需品でした。

 旧陸軍の将校の装備に補足しておきますと、歩兵科の下級将校の軍靴は、短靴に巻脚絆か革脚絆が基本です。長靴も履く事はあるものの戦闘中には不便だったという話を聞きました。

 旧陸軍の服制に関しては「陸軍用被服制式区分表」というのがあり、これにこと細かく規定されてその数は本欄に書ききれないほどですが、これに試製熱地編上靴などや南方軍の兵器廠で作られたベアリング製軍刀なども加えると相当な数になるようです。 
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この回答へのお礼

どうも、お返事ありがとうございます!!

>作戦中、将校の持ち物は、将校行李に納めて、「大行李」とよぶ輸送部隊が運びました。将校が背嚢を背負うのは部隊の出陣式、小部隊単位の挺進作戦のとき、また連隊軍旗拝受式典での連隊旗手などです。あるいは、旧ソ連軍の記録映画のなかに関東軍の将兵がシベリアへ連行される場面で、背嚢を負う将校の動く姿を見ることが出来ます。

実は将校行李という存在が疑問でした。もし将校行李があるのなら背嚢なんて必要ないのでは?…と。
となると、将校(例え少尉など下級でも)背嚢は一般的には背負ってなかったんでしょうか??
「新品将校奮戦記」は面白そうです。古本屋で探してみます!!


>天幕はたとえばノモンハン事変や満州事変での構築物がない平原において大いに活用されました。またスコールが来る南方のジャングル地帯でも天幕は必需品でした。

「戦場の衣食住」は読みました!大変参考になる本だと思いました。今手元にないので確信できませんが、たしか将校の天幕については書かれてなかったと思います。携行天幕は組み合わせで色々作れるようなので、将校は一人で一つの天幕で寝たのか、将校同士で集まって小さな幕舎を作って寝たのか、それとも自分の部下たち(当番兵とか…?)と一緒に寝たのか…。本部・指揮班の人たちはどうやって寝たのか…うーん。よく分かりません…


>旧陸軍の将校の装備に補足しておきますと、歩兵科の下級将校の軍靴は、短靴に巻脚絆か革脚絆が基本です。長靴も履く事はあるものの戦闘中には不便だったという話を聞きました。

おおそうなのですかありがとうございます!。たぶん中国戦線では巻き脚絆が多い気がしました…。写真とかを見る限り

>旧陸軍の服制に関しては「陸軍用被服制式区分表」というのがあり、これにこと細かく規定されてその数は本欄に書ききれないほどですが、これに試製熱地編上靴などや南方軍の兵器廠で作られたベアリング製軍刀なども加えると相当な数になるようです。 


「陸軍用被服制式区分表」是非見てみたいですね。どんなものかよく分かりませんがきっと読み切れないような気がしますが…

情報ありがとうございました、色々新しい情報があって助かります!!

お礼日時:2009/06/05 03:44

>将校行李があるのなら背嚢なんて必要ないのでは?…と。

となると、将校(例え少尉など下級でも)背嚢は一般的には背負ってなかったんでしょうか

 行李については比留間弘『地獄の戦場泣きむし士官物語』(光人社 82年)の13頁に絵つきで解説がのっています。実は私も一つ持っていますがカンバス地で四隅に革あてが付いて丈夫なものです。たぶん放り投げたりしても耐えられるよう頑丈に作ってあるのだと思います。同書の著者は、陸士五十七期卒(工兵科)で1944年卒業後見習士官としてビルマの工兵第15連隊へ配属された方。
 
 小銃中隊の下級将校という設定ですから、威力偵察または挺進行動により少数の部下を率いて何日間か過ごすことがあるわけです。そのときは背のうを使ったり、携帯天幕を持参することになります。したがって、固定的に捉えるのではなく臨機に使用していたと理解してください。

>「新品将校奮戦記」は面白そうです。古本屋で探してみます!!

 同書の筆者は陸士五十三期卒で、見習士官として1940年に北支の歩兵第六十二連隊に配属され第十中隊付、少尉任官後連隊旗手、第二十一師団司令部付、印度支那駐屯軍司令部付という経歴を有した方。出陣指揮の写真が表紙となっています。

>将校の天幕については書かれてなかったと思います。携行天幕は組み合わせで色々作れるようなので、将校は一人で一つの天幕で寝たのか、将校同士で集まって小さな幕舎を作って寝たのか

 天幕は兵用・将校用の区別はありません。しかし将校と兵の区別は厳然としていました。『戦場の衣食住』131頁に「露営では兵員各個が携帯している携帯天幕を組み合わせて掩覆物と呼ばれる覆いや幕舎を構築した。~ 大型の天幕は司令部業務や医療業務のほか、寒冷地での集団宿営にも利用された」とありますから、状況に応じて天幕を大きくしたり最初から大型天幕を準備したということです。 

>中国戦線では巻き脚絆が多い気がしました…。写真とかを見る限り

 前出の『新品将校奮戦記』掲載の写真を見ると、歩兵第六十二連隊に配属された見習士官の集合写真では全員編上靴に巻脚絆。軍旗を捧持して行軍中の写真では連隊旗手は短靴?に巻脚絆。『歩兵第百四聯隊小史』掲載の連隊旗手は短靴に革脚絆、第五中隊幹部の集合写真では中隊長が革脚絆、その他は巻脚絆で地下足袋着用もみえます。
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この回答へのお礼

お返事ありがとうございます!

> 小銃中隊の下級将校という設定ですから、威力偵察または挺進行動により少数の部下を率いて何日間か過ごすことがあるわけです。そのときは背のうを使ったり、携帯天幕を持参することになります。したがって、固定的に捉えるのではなく臨機に使用していたと理解してください。

なるほど、そういうときは背嚢を背負うんですね…。分かりました!!


> 天幕は兵用・将校用の区別はありません。しかし将校と兵の区別は厳然としていました
>状況に応じて天幕を大きくしたり最初から大型天幕を準備したということです

つまり将校の場合は当番兵あたりが例えば24枚の幕布でつくる幕舎を作って、その中で将校は寝て。兵士はまた別に幕舎を作ってそこで寝る。という感じでしょうか?

お礼日時:2009/06/06 00:22

 こんにちは。

毎回丁寧なお返事を頂きありがとうございました。
 さて今回勝手にお邪魔したのは、あなたへ回答を差し上げる際、色々調べていた資料の中に、兵士が雨の中、端に穴が並んだ防水布のようなものを着ている小さな写真を見つけたのですが、どうも本来の雨合羽ではないような気がしてちょっと調べてみました。

 答えは私の資料の中に「日本陸軍兵器集・1979年」というのがあるのですが、その中にありました。当時一般の兵たちは雨が降ると携帯天幕を首に巻き、雨合羽の代用に使用していたということです。さらにその記事の中に、携帯天幕は兵士たちの間では本来の使用目的より、タープ代わりやこのように雨具やあるいは物入(防水に加えて頑丈な造りでしたから、いい風呂敷代わりですね)に重宝していたそうです。

 よく考えれば当時の日本軍に防水性の雨具が配給されていたということは聞いたことがありませんでしたので、なるほどこうやって個々の兵士たちは融通を利かせていたのかと感心した次第です。ちょっと面白い記事でしたので、失礼ながら勝手に回答させていただきました。何かのご参考になれば幸いです。私もいい勉強になりました(*^_^*)
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この回答へのお礼

お返事ありがとうございます!!
いやこちらこそ色々お世話になりました。詳しい方ばかりで自分も色々勉強になります。

>当時一般の兵たちは雨が降ると携帯天幕を首に巻き、雨合羽の代用に使用していたということです。さらにその記事の中に、携帯天幕は兵士たちの間では本来の使用目的より、タープ代わりやこのように雨具やあるいは物入(防水に加えて頑丈な造りでしたから、いい風呂敷代わりですね)に重宝していたそうです。


おおそうなんですか!!、情報ありがとうございました。そういえば何か小さなモノを運ぶとき携帯天幕を巻き付けて、一緒に背嚢の上に載せたみたいなのを聞いたことがあります。シンプルなものなので色々な用途に使ってたんでしょう、現場の兵も色々応用してるのですね…
特別なことはよく記述されるますが、当たり前のことの方が記録に残りにくいし、なかなか体験者の方に聞ける機会もないので困っていました^^
色々と情報ありがとうございました!

お礼日時:2009/06/07 00:15

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