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徳川家の戦力は関ヶ原の戦いの時は、諸大名の兵力を除いた家康や秀忠の直営の戦力だけでも合わせて六万ほどはあったのに、
なんで幕末の鳥羽伏見の戦いでは一万五千ほどしか動員できなかったのでしょうか?

A 回答 (5件)

まず、関が原の戦いの時の徳川家の戦力は後の徳川将軍家、親藩、譜代の諸大名、旗本御家人の戦力の合計です。


その後、親藩や譜代の諸大名、旗本などが独立してしまいます。
江戸時代の中で旗本御家人による小姓組、書院番、新番、大番、小十人組が整備されていきます。
戦時ではないので、行政官と職掌は分離され、構成員は減少されています。また、番頭なども名誉職化しており兵力自体劣っていると思います。しかし、大名なども同じ状況でしたので特に幕府が劣っていたと思いません。
会津藩では保科正之が万石取りの家臣よりも多くの直臣がほしいと他の同規模の藩よりも石高の大きな家臣を減らして、藩主として動員できる家臣を増やしています。
薩摩藩、長州藩、土佐藩などは上士と郷士といった江戸時代以前からの身分等があり藩として動員できる人員が多かったともいえます。それでも、長州藩の奇兵隊といった新しく構成された兵もできました。

江戸時代のうちに身分も硬直化され、将軍や藩主として動員できない兵が生じ、動員した兵も質が劣る状況だったということでしょう。そこで、幕末になんらか対応しようと成功したところと失敗したところがあったということです。
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関ヶ原の頃の武士の多くはいわゆる「戦士」です。

そういうとかっこいいですが、要は戦場で武器を振り回すだけがとり得の連中です。戦国時代がほぼ終わり徳川政権による安定した社会が出現するとこういった「武士」の処遇という大問題が発生します。
これは豊臣政権の頃から問題だったのですが、秀吉は朝鮮に出兵することでこの問題を解決しようとしました。つまり外征することによって彼らに活躍の場を与えようとしたのですね。
しかし徳川幕府はそういう手段を取りませんでした。ゆえに、大阪を中心に各地に失業武士が溢れることになります。失業武士は文字通り失業していますから不満がたまります。しかも彼らは武器を持ち歩きその使い方にも精通しているわけです。
そんな浪人連中を、まず大阪の陣でかなり数を減らします。豊臣方には大勢の浪人が集まっていました。そして、島原の乱でほぼ一掃されました。徳川幕府はあえて島原で乱が起こることを見過ごしたふしがあります。そこに幕府への不満分子を集めさせて一掃させたのでしょう。
しかし、そんな浪人連中が本当にほぼいなくなるには由井小雪の乱まで待たなければなりませんでした。

その後徳川ジャパンは200年に渡って平和な時代が続きました。その間、軍事部隊を大動員する必要もなくなっていたのです。参勤交代には擬似軍事演習という側面もありましたが、長続きする平和の時代と各藩の財政事情から軍事的ノウハウは失われました。
だから、幕末となっていざ大軍を動員するといっても何をどうすればいいのか知っている人は誰もいなかったのです。
そもそも徳川幕府というのは武器を持っていません。鉄砲は200年前の火縄銃だし、あとは槍だの刀だの。ところが時代は近代化して銃器で撃ち合う時代です。そのためには小銃はもちろんその弾薬や大砲も用意しなくてはなりません。数だけ集めても戦力にならない上維持費がかかってしまうので集めりゃいいってもんでもないわけです。

逆にいえば、よく一万五千も集めたともいえるわけです。全くゼロの状態からやったわけですから。江戸市中には旗本百万騎なんていっていましたが、実態はその旗本連中はもう先祖代々みんな集まって軍事行動するなんてことをやっていなかったので何の予備戦力でもなかったのです。

また重要な問題として「金がない」という深刻な事情もありました。これは官軍とて同じで、薩長軍は錦の御旗をもらって「さあこれで徳川は賊軍だ。いっちょう江戸まで行ってやる」と息巻いたもののお金がサッパリなくて(皆な御旗をもらうことばっかり考えていていざもらってから金がないことに気づいたお粗末っぷり)困り果てたそうです。
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武士は基本的に自腹です。


接待も戦も自腹です。
やる気なんか出ませんよ。
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かなりざっとですよ。



殆どやる気無し。
が正しいと思います。

二条城の水戸藩士200名と口論となった新撰組は
伏見奉行の警護に赴きます。

ここでも武家とは作戦が食い違い、武家は主要な配置を譲らない。

城南宮を作戦から無視するなどし、薩長軍は城南宮を占拠すると
ここを本陣にし、大砲や銃で攻撃を開始します。

大背走して大阪に逃げ込みます。

徳川慶喜が大阪を脱出以降の戦いは
甲州勝沼の戦いだけで、200名。(300名)

交戦派をたたき出した。と言うのは

小栗上野介が、
官軍が箱根に来たら挟み撃ちにし、艦砲射撃を加えれば
錦の御旗でも勝てる。

こう言うと、誰もがこれなら勝てますと喜びますが、
勝は翌日、慶喜の命令だと勘定奉行を解雇。
小栗は急遽国許へ返されます。

大きな戦争は東北以北で起きたのです。
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関ヶ原の時は、


部下はほとんど武官
幕末には
部下はほとんど文官

と、職能が変わってきたためではないでしょうか。
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