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芥川龍之介は、ポール・ケーラスの『カルマ(因果の小車)』所収の「蜘蛛の糸」(1894年)を独特の世界に仕立て直しました。
芥川龍之介はなぜ、結び部分の教訓を省き、極楽の描写で終わらせたのだと思いますか?
、、、というところから一歩進めて、哲学カテゴリで聞いてみますので、作家・表現・宗教などにからめてご自由にお考えを頂戴できればと思います。

青空文庫から「蜘蛛の糸」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/92_14 …

ポール・ケーラスの作品から芥川が削除した教訓
『・・・カンダタの心には個我のイリュージョンがまだあった。彼は向上し正義の尊い道に入ろうとするまじめな願いの奇蹟的な力を知らなかった。それは蜘蛛の糸のように細いけれども、数百万の人々をはこぶことができる。そしてその糸をよじのぼる人々が多ければ多いほど、その人々の努力は楽になる。しかしいったん人間の心に「これは私のものだ。正しさの幸福をひとりじめにして、誰にだってわけてやるまい」という考えがおこるや否や、糸は切れて、人はもとの個々別々の状態におちてしまう。利己主義selfhoodとは呪いdamnationであり、真理truthは祝福である。地獄とは何だろう。それはエゴチズム(利己心)に外ならず、ニルバーナ(涅槃)は公正な生活a life of righteousnessのことなのだ。・・・』

A 回答 (27件中21~27件)

極楽界(?)は高度な自由(不労所得)世界。


それに対して現世の人間界は不幸も喜びも入れ替わり立ち代り訪れる競争社会。
地獄界(?)は安らぐことのない不自由(無償労働)社会。
ということをあらわしているとします。

人間界より高い低い世界がある、というのは人間からそう見える、
人間だけが持つ概念であると思うのですが、あったとして、
極楽と地獄に於いて個人としての生き方は全て世界に帰属され、
権利や義務という形式的な存在がない。

人間界でないところで、権利を独占しようとすると(自分さえ良ければ)
の前では卑しい心も同情というのもないので
、義務も生じないということだと思います。

つまり神仏など気まぐれで絶対者としか言いようがなくなるのですね。

不幸因子を可能な限り取り除こうと競争するのが人間の本質ですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
二段落目までふむふむと読みました。世界に帰属され、まで、とてもよくわかります。

権利と義務 で立ち止まりました。
新しい切り口だと思います。そして、そのじつ、個人はない、という話であり、
没我や滅私という仏教らしい壺にはまりそうな、いや、はみでそうな。

ふつう権利と義務は、一者の上に負わされる表裏一体の要素ではありませんでしたか。
カンダタの権利と釈迦の義務、と分けてはずるいです。

人間界は入れ替わり立ち替わりのある競争社会だから、だれしも成長し幸福になるチャンスが得られるということですね。
それもそうですし、まぁでも、
「自己を運びて万法を修証するを迷とす。 万法すすみて自己を修証するは悟りなり」
もう少し易しい訳のこちらのほうが好きですが
「我万法を証するにあらず。万法来りて我を証す」
という感じでもありますので (道元)
何か取り除こうと競争してじたじたするより、降りかかること起ることすべて
ありのままに受け入れられるところに迷妄晴れて突破口があるかもしれないのも人間の世でございましょう。

お礼日時:2009/07/03 03:23

今朝方、この質問を最初に目にしたとき、ふと思ったのは、龍之介が「読者層」に「子供」の視点を重要視したからではないのだろうか?ということです。

子供達にとっても「分かりやすく」かつ「固定観念を生じさせない」という観点。そういう意味から(個人的には)文学的というよりも、哲学的な観点が強いように思いました。

さて、この物語を視点の推移という観点から見てみたいと思います。

その前に、しごく単純な考え方を載せておきます。
===
もし、カンダタが糸をよじのぼる人々をそのままにしたとします。彼は天国へ昇ることが出来るかも知れませんが、地獄の人々が全員天国へ昇ったとたん、天国は地獄へと変化し、さらに上位の天国が現れるだけかもしれません。
===
これは、誰もが考え得る一つの「もし・したらば」のパターンです。
この視点の推移をそのまま御釈迦様の視点に移したならば、
===
もし、御釈迦様自身に「救う・救わない」という迷いが生じなかったならば、カンダタが救われる時期がずいぶん早くなっていたかも知れない。一方で、小さな蜘蛛を救ったという小さな善行の積み重ねこそが求められていたとすれば、「一度に多くの衆生を救う・救わない」という二者択一を迫られたカンダタが「結果的に救われなかった」こと自体、大して影響がなかったかも知れません。

いずれにしても、御釈迦様自体が引き起こした「気の迷い」は、カンダタが「蜘蛛を救った」時の「気の迷い」と対比されるべきでしょう。

カンダタのそれが、「悪」のなかの「小さな善行」だとすれば、御釈迦様のそれは、「善」のなかの「小さな悪行」になるとも考えられます。
そのような「迷い」から離れたところに佇んでいる蓮池の蓮の視点こそが「真の」御釈迦様の視点ではないだろうか。
===
となり得ます。
ポール・ケーラスの解釈は、このような視点の推移を止めてしまうだけではなく、個と全体といった別の視点を提示することで、違和感を生じさせるだけになっているのかも知れません。
と、ここまで書いて、
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/memb/hayashi/aku …
を見つけました。
「因果の小車」は、上述の「視点の推移」ではなく、まさに「我執」という概念について書いています。
しかし、「蜘蛛の糸」の話は「我執の念」に対する教訓とするには、違和感があるように思われます。龍之介は、その部分を抜き出そうとしたために、後半部分を削除したのかも知れません。。。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
分かりやすくて固定観念を生じさせないのは子供の読み物にとって大切ですね。わたしも子供向きだと思います。
ご回答は、いろいろな観点から見てくださいました。

> 地獄の人々が全員天国へ昇ったとたん、天国は地獄へと変化し、さらに上位の天国が現れるだけかもしれません。<

これは単純でもないですよ。深い真理を突いていると思いますが。。。

ところでこのお釈迦様は、迷ったのでしょうか?
まあ、気まぐれかお戯れか、魔がさしたようにみえなくもないですが。

カンダタは、糸が切れないこと、全員が上にあがれることを想定しなかったのですが、
いただいた「視点の推移」でお釈迦様側からみると、
>「一度に多くの衆生を救う・救わない」という二者択一 <
であった。ということでわたしはご回答を正しく読めていますでしょうか。

> 小さな蜘蛛を救ったという小さな善行の積み重ねこそが求められていたとすれば、「一度に多くの衆生を救う・救わない」という二者択一を迫られたカンダタが「結果的に救われなかった」こと自体、大して影響がなかったかも知れません。<

影響がないというのは、一匹の小さな蜘蛛を救ったことがですよね?
すると、そもそも多くの小さな命を助けたわけでもなし、衆生を救うことができないとて当然ではありますが、、、

因果応報としては、かつて蜘蛛を救った善行は、蜘蛛の糸を極楽から降ろしてやるという結果ですっかり消化しているのではないかと。
あとはカンダタの自力の問題で、糸がぷつりと切れた結果には、先の善行は及んでいないのではないかと思われます。

と、ここまで書いて、自利利他、自利利多がベースなのだとつくづく思い知りました。
自力がどう実を結ぶか という視点を導入したおかげです。
ポール・ケーラスの教訓が個と全体になるのは、仏教学者らしい自利利他の考えがあるためですね。

URLをありがとうございます。
井桁先生は存じ上げていて、ホームページはお気に入りに入っていましたが、あまり読み込んでいません。
ロシアの「一本のねぎ」の訓話は素朴な感じですよね。
貧しく厳しい土地ならではの、自分だけ助かる人を戒める直載な物語なのでしょうか。
脱北者などどうすればよいやらですが。

お礼日時:2009/07/03 02:27

追伸の参考程度に:



☆ この視点の誕生について特に思われることってありませんか?

このように問われますと、釈迦如来のある日の行動についてお答えしなければなりませんね。このある日というのは皆さんが忘れようにも忘れ得ない一日のことなのですね。ちょうど2000年ほど前のナザレのイエスと言われたお方がゴルゴダの丘でなくなられたその日の行動なんですよ。その日、釈迦如来も他の神々もそれぞれ悲しみを越えた行動をしていた。その一つが蜘蛛の糸ですね。だから芥川のようにそれを淡々として観て、描写したというのがより正確な記述だと思いますよ。釈迦如来もそれを教訓として行ったわけではないということですね。ある意味、地獄のどうしようもない悪人のカンダタでさえ救えるのにそれが出来ないのですよといいたかったわけですね。先の復活のことがわかってはいてもそのときは仏や神々も悲しいのですね。

☆ そして、僧侶が説法を文学のように語ることについてはお考えはありませんか?

それには何の反論もありません。当然それも良いと思います。ただ、「蜘蛛の糸」には言語に絶する状況があったということだけなんですね。あの日のことを知らない坊主がどのように語ってもそれはそれでいいのですね。
知りえた者は描写しか出来ないといいたいだけなのです。
だから芥川龍之介はそのように書き換えたのでしょう。
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この回答へのお礼

凄いお話をありがとうございました。
若いころの諸星大二郎か若いころの萩尾望都にマンガにしてもらっていたらと悔やまれます。
こんな、読む人の少ない質疑の場でご教示いただき恐縮です。

お礼日時:2009/07/03 00:58

No.2です。


回答のお礼をいただき、ありがとうございました。

>表現は簡単ですが、「本質」に向かうにはどうすべきか、というところは難しいところと思います。

芥川がそこまで考えていたかどうかはともかくとして、(芸術)表現の目指すところは、過去・現在・未来を問わず、現実世界をあるがままに描き出すところを措いて他にはありえませんよね。

そして、おっしゃるとおり、それがとにかく「難しい」のは、われわれが現実世界をあるがままに見ようにも、生まれて以来この方、知らず知らずのうちに身に着けてきてしまった、あまりにも種々雑多なフィルター、色眼鏡を介してしか見ることができないからではないでしょうか。

となると、現実世界をあるがままに見るためには、自分の見方がこういう種々雑多なフィルター、色眼鏡によって根本的に制約・規定されていることを自覚し、さらにはこういう見るための媒質の基本性格なり、正体なりを正確に知ることが大前提となるはずです。
もちろん、その結果として、現実世界をあるがままに見ることができるようになるどころか、さらに深遠な迷妄世界に陥ってしまうというのが実際のところであるにせよ。

なお、(芸術)表現とは、どんなに正確な観察を繰り返したり、蓄積したりしたところで、そこからひとりでに生まれてくるわけではないですよね。
(芸術)表現とは、芸術家の観察や見方の延長線上に位置しつつも、そこから飛躍することではじめて実現しえた、その意味では一種衝動的な行為の結果でありますから、芸術家の観察と描写とは密接に関係しつつも、両者は截然と区別されるべきかと思われます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
わたしが申しました「表現は簡単ですが」は「本質と言うはたやすいものの」の意味でした。紛らわしいことを申し上げました。
しかしそこから有意義な方向へ思わぬ展開をいただきましたのでよかったです。

そうですね。西洋の絵画について言えば、クールベあたりから、現実をあるがままに描き出そうとしています。
中世から18世紀までは、絵画を使って教化する目的があったのと、
つねに理想の世界を知らせることが芸術の目的だったので、
自国の歴史の正当性とか、王侯貴族の歴史的裏付けのある威厳とか、古代世界の崇高さとかが描かれていました。
写真が発明されたあとになって、スナップ写真のように気軽で素早く生き生きした、見えるとおりの像が描きとめられるようになったのですが、
まさにこうしたことが「フィルター」なのでしょうね。ひとびとの観念の上の現実が変化したのだと思います。
世界像が変わり、価値観が変わり、すると、見ることも変わり、こんどは媒質の上へ創り出すことも変わったのでしょう。

芸術家の対象の観察と描写は興味深いテーマです。おっしゃるとおりと思います。
見ること---光学の歴史は芸術家の独壇場です。彼らの手によって、遠近法やランタン映写機など魔術的なものへ飛躍するのです。
いっぽうで盲昧な誤謬の歴史も芸術家の独壇場です。真実よりも、真に迫る真実味を、追及するためでしょう。
どちらも、芸術の遺産だと思います。

お礼日時:2009/07/03 00:51

 amaguappa さん 昨日は適時のご回答をいただきありがとうございました。

bragelonne です。
 このご質問に接しまして お互い文学づいた恰好だと思いましたが それは――やはり思いますに―― 現代人に対しては哲学もこの文学の要素を容れて述べる道が考えられるということがひとつ意識にのぼりました。もう一つには amaguappa さん独特の縦横無尽に広がる対話の世界を目指しておられる。というよりも つねにそのような世界に臨んでいられる。
 ★ 芥川龍之介は・・・独特の世界に仕立て直しました。
 ☆ おそらくこの《独特の》という規定内容をどう解釈するかが焦点になるようだと考えます。その一点から上に触れた対話の世界が広がる模様であると。

 さてわたくし特有の見方です。それは ここでの《お釈迦さん》が――今度あらためて読んだ結果―― いやにおっとりと構えた普通の人間だなぁと思ったことです。目覚めても悟ってもいないと 例によってわたしの悪口の系譜におさまるかたちで捉えられたことです。

 その前に《教訓》に関して感じたことをつづります。
 教訓をはさむか否かは 文学にとってあまり関係ないと思いました。ほかの回答者の方には悪いのですが ここで芥川も教訓をいっさい省いたわけではないようです。最後のところですが
 ▲ (芥川:蜘蛛の糸) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・(α) 自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、かん陀多の無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。
 (β) しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着致しません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (β)の部分が いわゆる教訓抜きの文学というところでしょうが つまりは(α)で教訓めいたことを述べたけれどもそれをこの(β)で消したということでしょうけれど これについてはどうなのでしょう?
 わたしはそれよりも 紹介にあったケーラスの
 ◆ ・・・そしてその糸をよじのぼる人々が多ければ多いほど、その人々の努力は楽になる。
 ☆ の部分のほうが もし教訓を出すのであればふさわしいと考えます。
 ◆ それは蜘蛛の糸のように細いけれども、数百万の人々をはこぶことができる。
 ☆ という箇所ですね。
 ですから
 ★ 芥川龍之介はなぜ、結び部分の教訓を省き、極楽の描写で終わらせたのだと思いますか?
 ☆ の問いにはあまり関心が向きません。教訓をつける・省くは どちらでもよい。つまり何を伝えるか・または伝えないかだと考えますから。

 この作品《蜘蛛の糸》について感じ考えたことは 
 ○ ブッダは いやに人間くさい。
 ○ 人間臭い言わば世間の知恵といった内容としての これは ただの因果応報の説教であるに過ぎない。
 ☆ です。なぜなら (1) すでに人びとの間に《善》とは何か《悪》とはどういうことかが決まっているとしている。(2) その決まった善行と悪行とを天秤にかけて 極楽行きか地獄行きかを決める。(3) ところが ブッダのおしえというのは 地獄行きの状態をどうするかという倫理学であり時に信仰であると考えられる。
 (4) ゆとりを持つことはいいのですが ここでお釈迦さんは あまりにもおっとりとして何にも考えていない。(5) 糸が切れて落ちて行ったあとのカンダタなり他の人びとなりに対してどう接するか これがどうして抜け落ちているのか。(6) こんな子供だましの物語に惹かれたこともあったのだなぁと思う。

 さらにこの議論をすすめます。(7) わたしごとですが わたしは今【Q:われわれは原罪を犯せしや】という質問を出しているのですが それは《原罪とそれのつぐない・贖い》という部分は 物語から省いてはどうかという問題提起です。(8) 言いかえると 善悪の規定による人間評価をやめよう。(9) 言いかえると 天国地獄あるいは極楽地獄の思想は 哲学からは省こう。(10) 因果応報は 哲学にとって(《ひとが生きる》にとって) どうでもよい。
 (11) その自由こそが もし言うとすれば 勧善懲悪すらを含むことになる。(12) 自由とはそういうものだ。
 (13) すなわち 蓮の池のほとりを歩くお釈迦さんは要らない。
 (14) ちなみに十字架上のひとは 罪の贖いのためではなく(つまりそれは どうでもよく) ひとにとって自然の誕生のあとさらに新しい生があるということを言おうとしている。(むろんこれは論証し得ぬドグマです)。

 ◆ ニルバーナ(涅槃)は公正な生活a life of righteousnessのことなのだ。
 ☆ にちなんで考えるならば こうではないでしょうか。
 (15) 生活の日常性とは 自由がむしろのっぺらぼうの顔をしていることだ。
 (16) こののっぺらぼうの海を 漱石ではないが うんうんとみづからを押して日から日へと進み行くこと これが《公正な生活》であり 涅槃である。
 (17) ▲ (芥川:蜘蛛の糸) ~~~~~~~~~~~~~~
 御釈迦様は・・・このかん陀多には蜘蛛を助けた事があるのを御思い出しになりました。そうしてそれだけの善い事をした報(むくい)には、出来るなら、この男を地獄から救い出してやろうと御考えになりました。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この観念の像としての《お釈迦様》をお釈迦にすることが ニルワ゛ーナである。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
質問の仕方が適切ではないなと、質問を書きながら思っておりました。まあみなさまにお助けいただいてなんとか。

おっしゃるように芥川のほうにも著者の語りが入りますね。
終わりごろに登場人物の心の内を推し量る語りには、いかにも説話を思わせます。
著者の視点がお釈迦様の心中から蓮へ移動するのですが、眺めるばかりで、物語全体を教訓へ総括し俯瞰する書き方ではないように思います。

ケーラスのほうの教訓ないし話の意図というのはおそらく違うようですね。わたしもそう思います。
そして、芥川作品のブッダは人間臭いですか。そうかもしれません。

> ブッダのおしえというのは 地獄行きの状態をどうするかという倫理学であり時に信仰であると考えられる。

地獄に行かないというより、輪廻をしないことが眼目でしょうか。。。
生き方を律するための、死後の架空物語や処世訓と考える向きは多いでしょうし、
事実、仏教はそういう景色に寄りかかって民間信仰を取り込んだと思われますが、
わたしは、むしろ死を律する道程か、死後に繋ぐ過程としての生を見ている側面が濃厚と感じます。
死と唯識の思想であり、倫理や信仰の点では地域と時代に応じて雑駁なように思います。

頂戴した議題の(7)以降は、、、そうですね、西洋人の自我にとっては、原罪は屁のようなものか、あるいは何か機能するとしても、
日本人の自我というのは自然と未分化ですから、わたしの考えでは、西洋の原罪を適用するわけにはいきません。
それにしても、罪深く業が深いと輪廻する苦しみがあるから輪廻しないようにつとめましょうという教えと、
原罪を清めてくれた方を信じる者は永遠の命を得て復活するから信じましょうという教えは、
どうしてここまでの違いになるのでしょうねえ。
(17)は、たしかに観念の像です。思ったり考えたりするところが愛嬌で、子供に受けがよろしいのではないでしょうか。たぶん。

お礼日時:2009/07/03 00:10

>芥川龍之介はなぜ、結び部分の教訓を省き、極楽の描写で終わらせたのだと思いますか?



理由は簡単でして、小説家の芥川が書きたかったのは《教訓》譚ではなく、《小説》だったから、としか説明しようがないと思いますが。

音楽家や美術家の仕事が、音や線・色彩等を媒質にして、できるだけ具象的、直截的、写実的に人間や世界の本質を描き出すところにあるとすれば、小説家の仕事にしても、卑近な世俗的言語を媒質にしている点を除けば、目指すところは音楽家や美術家と何ら変わりはないですよね。

一方、《教訓》となると、これは一種の科学、知識ですから、確かにこれはこれで人間が生きていく上で大切なものではありますが、それだけに、ひとえに具象性、直截性、写実性に固執したがる芸術の主眼には断じてなりえないはずです。

ということで、芥川が「結び部分の教訓を省き、極楽の描写で終わらせた」のは、真正の小説家からすればごくごく当然な措置だったと考えられます。

なお、「蜘蛛の糸」執筆に際して参照した鈴木大拙訳では、"The illusion of self was still upon Kandata."は「我執の妄念は尚ほ犍陀多の胸中に蟠まり居たりしなり」と、"What is Hell? It is nothing but egotism, and Nirvana is a life of righteousness."は「そも何をか称て地獄といふ、地獄とは我執の一名にして、涅槃は正道の生涯に外ならず」とあります。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
はい、小説だったからというのはわたしもそう思います。
小説家が、音楽家や美術家と変わりなく、媒質をつうじて描き出すものは「人間や世界の本質」だというお考えをいただいたように思います。

表現は簡単ですが、「本質」に向かうにはどうすべきか、というところは難しいところと思います。

本質ということで言えば、教訓(ケーラス)が突こうとした本質と
芸術(芥川)が突こうとした本質が、それぞれにあるのではないでしょうか?

> 一方、《教訓》となると、これは一種の科学、知識ですから、確かにこれはこれで人間が生きていく上で大切なものではありますが、それだけに、ひとえに具象性、直截性、写実性に固執したがる芸術の主眼には断じてなりえないはずです。

教訓譚と芸術の差を考えていたら、ふと、仏像と現代彫刻の差のような気が。。。
素朴な仏像も、こんにちでは鑑賞物だったりして、芸術の本質って何なんでしょうね。
鈴木大拙訳ありがとうございました。
パソコン内に写していたものなので記憶が曖昧ですが、引用はたしか吉田健一訳です。性格の違いが出てますね。

お礼日時:2009/06/30 10:53

芥川龍之の「蜘蛛の糸」は観たまんまの描写ですね。


つまり釈迦如来のある日の行動を観て書いたという感じですね。そこには一片の押し付け、推測、教訓らしきものはありませんね。
ポール・ケーラスの作品では同じものを観ても、蜘蛛の糸を隠喩や暗喩として捉え、そこに一片の教訓を見出すという筋書きですね。まあ、修行僧はいろいろ考えをめぐらすということだけでしょう。
その差が出ていると思いますね。
文学者が観て書いたか、坊主が観て書いたかの違いだけといいたいのですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
極楽の描写に始まって、釈迦如来のある日の行動ですよね。この視点の誕生について特に思われることってありませんか?

また、文学者の資質と僧侶の資質の違いをご指摘いただいたように思います。
自然主義の文学者は作品を説法のように語るわけにはいきませんが、古い時代の教訓譚の類は、やはり文学ではないのでしょうかね。

そして、僧侶が説法を文学のように語ることについてはお考えはありませんか?

お礼日時:2009/06/30 10:28

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