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京都の島原遊郭は花街であって遊郭ではないのでしょうか?さまざまな資料を見ていると「島原遊郭は花街であって遊郭ではない」といった文章を目にします。しかし、遊郭は女性が体を売る場所ですよね?もし芸だけを売るのなら「島原遊郭」ではなくて「島原花町」ではないのだろうか、と思い質問させていただきました。また島原遊郭についての詳細が載っているサイトがあれば教えてください。返答、宜しくお願いいたします。

A 回答 (10件)

「遊郭」も「花街」もほとんど同じものです。

どちらも法律用語ではありませんので、これらの言葉を使う人も厳密に区別して使っているわけではありません。

一応、広辞苑の定義を示しますと

遊郭:多数の遊女屋が集まっている一定の地域。いろざと。いろまち。くるわ。遊里。明治以後、貸座敷営業が許可された地域。

花街:料理屋・芸者屋・遊女屋などが多く軒を並べている町。色町。色里。

上記のように、いずれの説明の中にも「色町(いろまち)」「色里(いろざと)」という言葉が入っているように、両者は同じものを言い換えただけに過ぎない場合が多いです。

ただ、「遊郭」の定義の中に「明治以後、貸座敷営業が許可された地域」と入っていますが、強いて言えばこれが「遊郭」と単なる「花街」の違いとなります。

「貸座敷」という現在では死語になっている言葉ですが、過去の質問
「江戸時代と明治の吉原」
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3639209.html
のNo.1で私が回答していますので参照して下さい。
明治時代になって、形式的にですが
「文明国であることを示すために人身売買を禁じた」
ため、「娼妓解放令」が出され、従来の遊女屋が「貸座敷」という別な名称になり、ほぼ同じ営業を継続したものです。
上記の回答の中で、 「公娼と私娼」という、内務省警保局 (現在の警察庁に概ね相当)が昭和6年に作成した資料を引いて説明していますが、「遊郭=明治以後、貸座敷営業が許可された地域」で営業する「貸座敷」で売春する娼妓は「公娼」と警察署から呼ばれ、それ以外の「私娼窟」で売春する娼妓は「私娼」と呼ばれて区別されました。

さて、上記の史料「公娼と私娼」がWeb上で閲覧できますが、「23 / 218」(史料の表記では32ページ)に
「主たる遊郭の所在地、営業者数、娼妓数…」という表があります。
この表の「京都府」の項目を見ますと、
『京都市下京區島原』
があります。(貸座敷)営業者数は146、娼妓数は483となっています。

ご質問への直接の答として、戦前の内務省警保局という監督官庁の公式見解によれば
「京都市の島原は『遊郭』である」
ということになります。

また、ここまでの回答で「芸者には芸だけを売る芸者と体を売る枕芸者の区別があった」と言った意見もありますが、売春防止法以前の日本で「芸だけを売る芸者」というのは実際は存在しなかったと考えた方が良いです。芸者というのはそのような甘い仕事ではありませんでした。

芸者(戦前の法律用語では芸妓)は、多額の前借金を背負って芸者屋に年季奉公していました。
芸妓になる際の年季奉公契約書には、「抱え主から売春の指示があればそれに従い、借金返済のため努力する」旨の条項があり、警察から芸妓鑑札を受けていました。戦前について書いた本を読むと「芸者を揚げて遊ぶ」という言葉が出てきますが、これは「芸者と酒を飲み、その後でセックスを楽しむ」ことを意味しました。

芸妓というのがいかなる存在であったかについては、過去の質問
「舞妓さんの人生」
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1960390.html
のNo2の私の回答で詳細に述べていますのでご覧下さい。

また、上記の回答でも触れていますが、実際に芸妓であった人が書き残した貴重な手記が出版されています。

芸者―苦闘の半生涯 (平凡社ライブラリー)
増田 小夜 (著)
http://www.amazon.co.jp/dp/4582761224/
サブタイトルの通り、芸者というのがいかに過酷な稼業であったか、「芸者は芸を売るもの」というのがタテマエに過ぎなかったことが良く分かります。

簡単に言うと、娼妓と芸妓は大して違うものではなかったということでです。ちなみに、昭和の初めに農村が貧困に喘いでいた頃、娘を身売り(前借金を親が受け取って、貸座敷や芸妓屋と年季奉公契約を結ぶ)させると
娼妓 1000円
芸妓 700円
が相場ということで、より過酷な境遇に置かれる娼妓の方が「娘を売って得られるお金」が多少は多かったようです。

また、当時は芸妓屋で抱えている芸妓の稼ぎが悪いと、抱え主が「女郎屋に売り飛ばすよ!」と芸妓を脅す (客に一生懸命サービスして稼げ!) ことが普通に行われ、実際に、芸妓として身売りした女性が貸座敷に娼妓として「転売される」(前借金と女性の身柄が芸妓屋から貸座敷に移転する)ことが珍しくなかったようです。

猟奇事件を起こしたことで有名な「阿部定」という女性がいます。この人は、「娼妓と芸妓と酌婦の間を行ったり来たりしていた女性」であるようです。

阿部定についてはこういう本が出ています。

阿部定正伝 堀ノ内雅一 (著)
http://www.amazon.co.jp/dp/4795826722/
かつての日本に存在した「芸妓」と「娼妓」というのがいかなるものであったのかを知るには好適な文献でしょう。絶版ですが、アマゾンのマーケットプレイスで容易に購入できます。

下記のウィキペディアの記述は非常に詳細ですが、この本を下敷きにしていると思われます。
阿部定
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%83%A8% …
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この回答へのお礼

な、なるほど……。結局「遊郭」と「花街」の違いはすごく曖昧で、ほとんど同じようなものだ、ということですね。
芸妓は今だからこそ「芸だけを売る」というのは通用して、昔は通用しなかったのですね……。昔は芸も身も売っていたようなものだったんですね……。歴史小説などでは描かれない、過酷な状況を知ったような感じです。
やはり昔は借金を返すためという名目の上での人身売買は、当然のことだったのでしょうか?

お礼日時:2009/07/14 21:46

No.4です。


「やはり昔は借金を返すためという名目の上での人身売買は、当然のことだったのでしょうか?」

これについては、「民法90条についての昭和30年の判例変更」が分水嶺となっております。昭和30年より前の日本では
「人身売買は当然のこと」
でした。

それまでは、大審院 (戦後の最高裁判所に相当) の判例により
「娼妓が公認の業である以上、その稼業所得をもって前借金の返済に充てる旨の契約をしても、民法第九十条にいう『公の秩序または善良の風俗に反する無効の法律行為』にはならない」
となっておりました。

戦前も、人身売買契約はタテマエとしては無効とされておりましたが、上記の大審院の判例がある以上、前借金を実質的に「人身売買の対価」とする「娼妓稼業契約」「芸妓稼業契約」は有効でした。

即ち、娼妓や芸妓がいったん身売り (通常は娼妓または芸妓になる女性は未成年者であるので、法定代理人である父親が前借金を受け取って、貸座敷業者または芸者屋と娼妓稼業契約または芸妓稼業契約を結ぶ) をした場合、前借金を利子をつけて返済しない限り自由の身になることは出来ませんでした。

これについては、先の回答で言及した、

国立公文書館 アジア歴史史料センター
http://www.jacar.go.jp/
ここで、キーワードを 「公娼 私娼」として検索すると出てくる、
【 レファレンスコード 】 A05020127200 「公娼と私娼」
という、内務省警保局 (現在の警察庁に概ね相当) が昭和6年に作成した資料

の 45 / 218 (資料のページでは91ページから)に「12 娼妓稼業契約」として、当時の娼妓契約を巡る警察の見解が詳しく説明されています。

さて、このような状況は、昭和30年10月の最高裁判例によって180度変わり、娼妓稼業契約、芸妓稼業契約は、典型的な「公序良俗違反の契約」として無効であることになりました。売春防止法の成立が昭和31年5月ですので、その少し前です。

民法
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/M29/M29HO089.htm …
(公序良俗)
第九十条  公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする。

判例 (最判 昭和30年10月07日)
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_i …
要旨「酌婦としての稼働契約が公序良俗に反し無効である場合には、これに伴い消費賃借名義で交付された金員の返還請求は許されない」

「酌婦」という言葉が出てきました。

<広辞苑より>
酌婦
(1) 略
(2) 下級の料理屋などで、客の相手をする淫売婦。

すなわち、先の内務省警保局の資料「公娼と私娼」で『私娼』と呼ばれている人たちです。娼妓と芸妓は、いずれも警察に届出を行い、所定の登録料を支払って「娼妓鑑札」「芸妓鑑札」を得て娼妓、芸妓として働くのですが、それをしていない「私娼=酌婦」は「警察のお目こぼしの下で売春を行う」人たちであり、酌婦を置く下級の料理屋 (『私娼窟』と警察が呼ぶ地域に所在) には、時には警察による「手入れ」があったようです。

酌婦についての説明はこのくらいにしておきますが、上述のように昭和30年に「前借金の授受を伴う酌婦契約は民法90条に反し無効である」とする最高裁の判例が出たため、「前借金の授受を伴う娼妓契約、芸妓契約」も同時に民法90条の適用で無効となり、昭和30年10月以降の日本で「人身売買」は完全に違法となりました。

現在の民法の教科書には、上記のような歴史的経緯までは書かれておらず、民法90条の解説では
「芸妓契約、娼妓契約、妾契約などは民法90条に抵触し無効となる」
としか書かれておりません。
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No.6の質問者さんのコメントについてコメントです。


>「郭」と芸妓さん達自身が言うことを恥じていなかったのですね

ですが当時は芸妓さんのいるところも娼妓さんのいるところも
関西では「くるわ」と呼ばれていたのですから・・・
自分たちの存在そのもの(芸妓であるということ)に対しては
素人さんにたいして一歩控える、というところが昔の芸妓さん
(特に関西の)は今以上に強かったみたいですが「くるわ」と
言う言葉を使うことに抵抗はなかったはず。

ただ、娼妓さん達にたいして芸妓さん達は多少優位意識を
持ってはいたようですね。当時のお話を読んでみるとわかります。
ただ、島原は太夫が一番偉い!ことは江戸当時より
ずっと変わらないみたいですけど。
その他娼妓さんの数が芸妓さんより多い街も、芸妓さんは多少娼妓さんに遠慮していたみたいです。
これは娼妓さん目当てのお客の座敷に
呼ばれることも多かったからのようです。
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現在拝見できる嶋原に関する


サイトです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B6%8B%E5%8E%9F
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E5%B6%8B% …
http://web.archive.org/web/20041208192406/http:/ …
http://www.mk-group.co.jp/np/back/interview/05/6 …
http://www.so-dan.net/hp/bessatsu/ishida_021.html
http://www.geocities.jp/kurenai93jp/shimabara/in …
http://www.kyoto-np.co.jp/kp/koto/gekijyou/part3 …
http://www.nikkei.co.jp/weekend/cha/20080404t1b4 …
http://www.bunshun.co.jp/pickup/asadaban/wachiga …
http://www.php.co.jp/bookstore/detail.php?isbn=9 …


芸妓のなかでも異色の存在?吉原の芸者さんや花魁について
知るには
「吉原はこんな所でございました」「華より花」 または
斉藤真一さんや近藤富枝さんの著書のなかに情報があると
思います。
youtubeには

http://www.youtube.com/watch?v=86EEGLiHJXE&featu …

嶋原を過去から現在まで体系的に扱った本は残念ながらありません・・
小野武雄著『吉原と島原』は少しだけ詳しい気がしますが
やはり吉原からの類推で書かれている本が多い気がします。
角屋の展示等をまめに見るとか
こちら
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B6%8B%E5%8E%9F
に掲載の資料で断片的に知ることはできると思います。
明田鉄男氏の「日本花街史」には一部過去の参考文献が
掲載されてるようです。
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この回答へのお礼

多くのサイトURLを載せての解説を、ありがとうございます。
小野武雄著『吉原と島原』は吉原のことが多く書かれてあるとはいえ、興味があるので一度読んでみようと思います。
サイトURLも一度見てみます。

お礼日時:2009/07/13 17:23

ナンバー6の続きです。



遊郭の言葉の定義も江戸時代と明治時代以降では
多少違います。
もともと遊郭 とは江戸時代には
「幕府によって公認された男性方の遊び場」でした。
ここには「遊女」がいましたが、公認の遊び場=上流の方々が
堂々と来られる格式高いところ という意味でもあり、
ここの遊女達は春も売りはしましたが、様々な歌舞音曲はもとより
文学・文芸、茶道書道香道華道などの教養に長けた遊女達です。
その中でも特にうわつ方のお相手として「えらばれしもの」が
太夫 です。
特に江戸初期の京都は公家・町方の文化人・大名が
文化を通して交流が盛んだったので嶋原の前身・六条三筋町などは
文化的サロンとしての色合いが強かったようです。文化人や皇族と
のロマンスが花開いた太夫の逸話もいくつか存在します。
また吉原は嶋原をまねて主に江戸の大名相手の場所として始まった
ところです。初期の吉原の花魁のなかにも「太夫」と呼ばれる女性
達がいましたがこの人達は奉行所のお役人の休憩時間に「奉仕」する
ことが当初義務づけられていました(吉原 が公認のくるわになるための条件の一つでした)。
といっても奉行所での酒宴や売春を強要されたのではなく、くるわでの勤めとは別に当番制で
指名された太夫が奉行所に出向き、お役人の休憩時間に「お箏や三味線」を奏でたり、お茶を点てて差し上げた、ということだそうです。
また、この頃の吉原の「太夫」は大名から身請けされることも
多かったようです。最も有名なのは姫路の殿様や仙台の殿様に身請けされた歴代「高尾」太夫でしょうか・・・。

もちろんこうしたところにも庶民相手の遊女は存在していましたが
ほかに非合法な売春地帯も存在していてそうしたところは
「岡場所」「島」と呼ばれていたとか。

しかし、江戸時代も後半になると「嶋原」「吉原」の
遊女はだんだん芸のできないものが増え、また多芸多才を売りに
する高価な太夫を相手にするものがあまりいなくなったことも
あり、遊女の勤めが寝所を主にするものに変わっていきます。
このあたりで明治以降のNo.4さんのおっしゃるような「貸座敷業の遊郭」のもとがつくられたのではないでしょうか
一方で、芸をもっぱらとする女性 の専業化も始まっていきます。
↑の「岡場所」「島」と呼ばれるところにも芸を売りにした明治以降
「芸妓の街」として有名なところもできてきます。
嶋原・吉原は明治以降も「遊郭」といわれながら吉原芸者は
東京一の芸達者を誇り、他の「遊郭」にないお大尽遊びができたのも
嶋原には昭和末期まで歌舞練場があったのはこの時代の流れでしょうか・・ちなみに吉原花魁が娼婦だったのはたしかですが、嶋原太夫が
どこまで「娼婦」であったのか・・は資料で調査するには不足していて
難しい部分もあります。江戸時代後期、幕末の嶋原太夫のなかにも
相当教養があった妓がいることはたしかなのですが・・「輪違屋糸里」では高級芸妓のように描かれていますし。
ちなみに嶋原は現在も存在しますが、現代の太夫さんは芸教養は
いにしえの太夫さんを目標にしていますが、春は売りません。

最後、脱線ですが・・
芸妓がどこまで娼婦であったか・・これは地域・置屋の方針にも
よるものであって調べるのは難しいですね。ただ、水揚げ
という通過儀礼(半玉etcがお客によって「女」にしてもらい、一人前の芸妓になること・・戦前唯一吉原芸者だけは水揚げがなかったそうです)
は戦前はどこの地域も行うのが「しきたり」でしたが、これは必ず
金銭づくで行われるので「売春」といえなくもないです。
また戦前の芸妓は「旦那」を取ることが普通でしたし、旦那を
持つ一方で他の男性と恋に落ちること もあったとか、結構奔放です。
それから、売春防止法施行以前は「性病に関する教育」や「性病検査」は
芸妓に対しても行われていた記録があるので、多くの芸妓に
とって「色」はまったく無縁とは 言えなかったようですね。

ただ、芸妓が日本の古典文化の継承を過酷な稽古とともに
続けてきたことも一方で事実です。
今の花柳界はこれを守るため、また広く一般の方に芸妓の世界を認めてもらうため
「くるわ」という言葉を
公的には捨てたのかなぁ と 個人的には思っています。
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この回答へのお礼

「はたして芸妓が娼婦だったのか?」と問われれば、答えに困りますね……。今はきちんとした芸を売る人たちですが、昔は色事との関係があったのですね。
吉原の花魁も最初は芸ができたりする花魁がいたのですね!時が経つにつれて失われたということに、少し残念な気がします。
大変詳しい解説をありがとうございます。

お礼日時:2009/07/14 21:56

実は、戦前まで京都や大阪、北陸等一部地域では


芸妓の街も娼妓の街も「遊郭」「廓」と呼ばれていたのです・・。
京都では「嶋原(遊)郭」「五番町(遊)郭」「祇園甲部新地(遊)郭」
「宮川町(遊)郭」・・ というふうに戦前に巷で発行された
文献には記載されていますし、今でも年配の芸妓さんのなかには
「花街」(かがい と読みます・・戦後一般的な名称・・はなまち は歌謡曲の影響で出てきた比較的新しい読み方)
ではなく
「くるわ」と自分たちの住む街を呼ぶ人もいらっしゃいます。

これには関西など西日本には
同じ街のなかに「芸妓」と「娼妓」の店(または派遣する店)があった
同じ置屋さんのなかで「芸妓」と「娼妓」を抱えている という
ところも多かった
等の理由もあったのでしょうか・・
東京のように比較的芸妓 と娼妓 の住む地域がはっきり分かれていた
ところとはまた仕組みが違うようです。
また、「くるわ」とはもと城郭のように壁にくるっと囲まれた地域を
意味しました。祇園etcには本来の意味での「郭」はなかったでしょうが、生活習慣etcによって街の人との間に「郭」が存在していると
考えたのかもしれませんね・・。

参考URL:http://koito.kyoto-tales.net/
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この回答へのお礼

大変ためになる解説を、ありがとうございます。
戦前までは「娼妓」の街と「芸妓」の街との差は、あまり無かったのですね。
また自分の住む街を「郭」と呼ぶことに驚きました!昔は「遊女の居る街だから」といって恥じたりすることが、無かったのですね。
関西と東京との仕組の違いも初めて知りました。

お礼日時:2009/07/13 17:13

こんばんわ。


NO3.です。

このサイトなどはいかがでしょうか。
http://www.kyoto-np.co.jp/kp/koto/kyotoaruku/kyo …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B6%8B%E5%8E%9F
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こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

まず、回答から先に書くと「遊郭」でした。

歴史について、
京都では:
(1)京都の現在の丹波口駅の近くに「島原」・・・昔は「嶋原」とも書物には出てくる。に「遊郭」の地帯があり、「大門」を構えていました。(これは、NO1.さんの写真です)。

(2)豊臣秀吉が、京都の再興をするにあたり、花街を「二条柳馬場」に「柳町」と呼ばれる一角に「遊女屋」などを集めました。

(3)やがて、六条坊門(現:東本願寺の北側)へ移され、「六条三筋町」として栄えました。

(4)さらに、江戸時代に入って、京の街も人口が急増したため、寛永18年(1641)に市街地の西の「朱雀野」へ移転をさせました。

(5)そして、廓の一帯を、正式には「西新屋敷」と呼ばせましたが、この移転は突然の「移転命令」でしたので、ちょうど「島原の乱」が終結した時期でもあり、この慌しさをひねて、通称「島原」と呼ぶようになりました。

(6)島原には、「揚屋(あげや)」と「置屋(おきや)」がありましたが、「揚屋」は、現代で言うと「高級料亭」で、「宿泊施設」はありませんでした。

(7)そこで、お大尽になると、まず「揚屋」に腰をすえ、そこから使いを出し「置屋」の「太夫」を呼び寄せて「高級料亭」での酒食を共にし、太夫に気に入ってもらえれば、「置屋」へ案内をしてもらい夜を共にしました。

(8)この時行われたのが「太夫道中」でした。
しかし、江戸の吉原の「花魁道中」のように10人近くを従えるほどではなく、せいぜい5~6人にお供をさせました。

大坂では:
(1)京に見世を構えていた「扇屋」という「置屋」が寛文年間(1661~)か延宝年間(1673~)頃に、大坂の新町へ移転をしたのが始まりとされています。

(2)この時、その見世の看板遊女であった「夕霧太夫」も一緒に大坂へ移り、大坂では大変有名になった、と、言われています。

(3)現在でも、11月第2日曜日に「清涼寺」で「夕霧供養祭」が行われています。

(4)大坂の新町も、京都を真似て「揚屋」と「置屋」形式でしたので、やはり、「置屋」から「揚屋」までを「太夫道中」を行いました。

(よもやま話)
(1)京都の「輪違屋」という「置屋」は、元禄年間(1688~)の建物で、再建や増改築をされてはいますが、現在でも建物は残っているそうです。現在も「置屋」をしており「花琴太夫」「春日太夫」などを抱えているそうです。ただし、今は「芸妓」さんとしてお座敷に呼ばれての唄や踊りを披露するだけで、昔のような「春を売る商売」はしていません。また、一般公開もされていません。
ただし、現在でも「お大尽」に呼ばれ、それ相応の「金」を出すと、「太夫道中」をしてくれる、とも言われています。

(2)「太夫」の由来は、慶長年間(1596~)に京都の四条河原で六条三筋町の「遊女」が宣伝も兼ねて「女歌舞伎」を催したとき、すぐれた「遊女」に「太夫」という称号?を与えたのが始まりです。

(3)江戸吉原の「太夫」は、容姿はもちろんのこと、三代集などを「レ(かえり点)」なしで読めたり、書や囲碁、将棋の相手もできるほどの教養を必要としました。吉原の「超エリート」でした。
これは、吉原ができた頃は、主に「武士」や「大名」を相手にしていたからです。
その後、金持ち商人などの相手もするようになりましたが、一晩抱くには、余りにも知識が邪魔をして窮屈過ぎたことから、宝暦年間頃より、江戸では「太夫」は消滅し、そこそこの容姿で、そこそこの客の相手がてきる「花魁」へと代わりました。
「花魁」の由来としては、「おいらの姉ご」「おいらんの」から「おいらん」と呼ばれるようになり「花魁」の漢字があてはめられました。
京都や大阪では「太夫」の名称が続きました。ただし、江戸の「太夫」のように「超エリート」ではなく、そこそこの「芸」を披露できる程度でした。

(4)京都、大坂、江戸でも「太夫(江戸では、後に花魁)」は「本名」を名乗らず、通称「源氏名」でよばれました。
この由来は、ずばり「源氏物語」に出てくる多くの女性たちから名前を借りましたので「源氏名」と呼ばれるようになりました。
「小太夫(こだゆう)」とか「薄雲太夫」「如月太夫」「桜木太夫」などなど・・・。

(5)太夫道中や花魁道中では、内八文字で練って歩きますが、これを「お練り」といい、お坊さんが境内を練って歩く(お供を連れて歩く)ことからきています。

(6)履物は三枚歯の黒塗りの下駄。「三つ足」と呼び、舞妓さんの「おこぼ(下駄)」より高くて、古くて磨り減っても16センチから17センチくらいあります。

(7)衣装は「頭の飾り」だけで3キロくらい。「三つ足」は片方が2キロあります。それから着物が20キロ。合わせて27キロ位です。

(8)現代では、観光用として、「芸妓」に関係ない市町村などでも「太夫道中」や「花魁道中」を行って客寄せに一役買っているところも多いようです。
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この回答へのお礼

大変詳しく解説して頂き、ありがとうございます!疑問が解け、胸のしこりが無くなったようなすっきりとした気分になりました。
京都・島原遊郭のことだけでなく、大阪の遊郭(名前は忘れましたが;)、吉原との違い、さらに花魁道中などについても解説して頂き、感謝の思いで胸がいっぱいです!
豊臣秀吉が遊女を集めて遊女屋を作ったのも、なんだか納得できます。項目が分かれてあって大変見やすかったです。
詳しい解説を、本当にありがとうございます。

お礼日時:2009/07/12 10:07

研究者によると


遊郭→歌や舞、宴会もしない歓楽のみの街
花街→歌や舞を伴う遊宴の街
ということでした。
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この回答へのお礼

なるほど……。これが「遊郭」と「花街」の違いなんですね!
参考意見とはいえ、研究者の貴重なご意見を提供して頂き、ありがとうございます。

お礼日時:2009/07/12 09:57

>京都の島原遊郭は花街であって遊郭ではないのでしょうか?



島原は、京都唯一の「幕府公認遊郭」でした。

江戸の幕府公認遊郭吉原でも、花魁になると三味線・舞踊・和歌など教養を持っていました。
島原遊郭でも、同様です。

ただ、京都では他の花町と同様に「枕芸者」「芸者」が存在していました。
芸者は、鳴り物・舞踊などの「芸」を見せる事が仕事で、枕芸者は「その名の通り、春を売る事」が仕事です。

>島原遊郭についての詳細が載っているサイトがあれば教えてください。

ヤフー・グーグルで検索して下さい。
新撰組で検索しても、面白いですよ。
「島原遊郭 京都 遊郭 風俗」の回答画像1
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この回答へのお礼

なるほど~!やはり島原遊郭は「遊郭」なんですね。島原遊郭に「枕芸者」というものが存在していたとは、全く知りませんでした。
大変ためになりました。詳しい画像付きの解説を、ありがとうございます!

お礼日時:2009/07/12 00:41

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