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京都の島原遊郭は花街であって遊郭ではないのでしょうか?さまざまな資料を見ていると「島原遊郭は花街であって遊郭ではない」といった文章を目にします。しかし、遊郭は女性が体を売る場所ですよね?もし芸だけを売るのなら「島原遊郭」ではなくて「島原花町」ではないのだろうか、と思い質問させていただきました。また島原遊郭についての詳細が載っているサイトがあれば教えてください。返答、宜しくお願いいたします。

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A 回答 (10件)

「遊郭」も「花街」もほとんど同じものです。

どちらも法律用語ではありませんので、これらの言葉を使う人も厳密に区別して使っているわけではありません。

一応、広辞苑の定義を示しますと

遊郭:多数の遊女屋が集まっている一定の地域。いろざと。いろまち。くるわ。遊里。明治以後、貸座敷営業が許可された地域。

花街:料理屋・芸者屋・遊女屋などが多く軒を並べている町。色町。色里。

上記のように、いずれの説明の中にも「色町(いろまち)」「色里(いろざと)」という言葉が入っているように、両者は同じものを言い換えただけに過ぎない場合が多いです。

ただ、「遊郭」の定義の中に「明治以後、貸座敷営業が許可された地域」と入っていますが、強いて言えばこれが「遊郭」と単なる「花街」の違いとなります。

「貸座敷」という現在では死語になっている言葉ですが、過去の質問
「江戸時代と明治の吉原」
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3639209.html
のNo.1で私が回答していますので参照して下さい。
明治時代になって、形式的にですが
「文明国であることを示すために人身売買を禁じた」
ため、「娼妓解放令」が出され、従来の遊女屋が「貸座敷」という別な名称になり、ほぼ同じ営業を継続したものです。
上記の回答の中で、 「公娼と私娼」という、内務省警保局 (現在の警察庁に概ね相当)が昭和6年に作成した資料を引いて説明していますが、「遊郭=明治以後、貸座敷営業が許可された地域」で営業する「貸座敷」で売春する娼妓は「公娼」と警察署から呼ばれ、それ以外の「私娼窟」で売春する娼妓は「私娼」と呼ばれて区別されました。

さて、上記の史料「公娼と私娼」がWeb上で閲覧できますが、「23 / 218」(史料の表記では32ページ)に
「主たる遊郭の所在地、営業者数、娼妓数…」という表があります。
この表の「京都府」の項目を見ますと、
『京都市下京區島原』
があります。(貸座敷)営業者数は146、娼妓数は483となっています。

ご質問への直接の答として、戦前の内務省警保局という監督官庁の公式見解によれば
「京都市の島原は『遊郭』である」
ということになります。

また、ここまでの回答で「芸者には芸だけを売る芸者と体を売る枕芸者の区別があった」と言った意見もありますが、売春防止法以前の日本で「芸だけを売る芸者」というのは実際は存在しなかったと考えた方が良いです。芸者というのはそのような甘い仕事ではありませんでした。

芸者(戦前の法律用語では芸妓)は、多額の前借金を背負って芸者屋に年季奉公していました。
芸妓になる際の年季奉公契約書には、「抱え主から売春の指示があればそれに従い、借金返済のため努力する」旨の条項があり、警察から芸妓鑑札を受けていました。戦前について書いた本を読むと「芸者を揚げて遊ぶ」という言葉が出てきますが、これは「芸者と酒を飲み、その後でセックスを楽しむ」ことを意味しました。

芸妓というのがいかなる存在であったかについては、過去の質問
「舞妓さんの人生」
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1960390.html
のNo2の私の回答で詳細に述べていますのでご覧下さい。

また、上記の回答でも触れていますが、実際に芸妓であった人が書き残した貴重な手記が出版されています。

芸者―苦闘の半生涯 (平凡社ライブラリー)
増田 小夜 (著)
http://www.amazon.co.jp/dp/4582761224/
サブタイトルの通り、芸者というのがいかに過酷な稼業であったか、「芸者は芸を売るもの」というのがタテマエに過ぎなかったことが良く分かります。

簡単に言うと、娼妓と芸妓は大して違うものではなかったということでです。ちなみに、昭和の初めに農村が貧困に喘いでいた頃、娘を身売り(前借金を親が受け取って、貸座敷や芸妓屋と年季奉公契約を結ぶ)させると
娼妓 1000円
芸妓 700円
が相場ということで、より過酷な境遇に置かれる娼妓の方が「娘を売って得られるお金」が多少は多かったようです。

また、当時は芸妓屋で抱えている芸妓の稼ぎが悪いと、抱え主が「女郎屋に売り飛ばすよ!」と芸妓を脅す (客に一生懸命サービスして稼げ!) ことが普通に行われ、実際に、芸妓として身売りした女性が貸座敷に娼妓として「転売される」(前借金と女性の身柄が芸妓屋から貸座敷に移転する)ことが珍しくなかったようです。

猟奇事件を起こしたことで有名な「阿部定」という女性がいます。この人は、「娼妓と芸妓と酌婦の間を行ったり来たりしていた女性」であるようです。

阿部定についてはこういう本が出ています。

阿部定正伝 堀ノ内雅一 (著)
http://www.amazon.co.jp/dp/4795826722/
かつての日本に存在した「芸妓」と「娼妓」というのがいかなるものであったのかを知るには好適な文献でしょう。絶版ですが、アマゾンのマーケットプレイスで容易に購入できます。

下記のウィキペディアの記述は非常に詳細ですが、この本を下敷きにしていると思われます。
阿部定
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%83%A8% …
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この回答へのお礼

な、なるほど……。結局「遊郭」と「花街」の違いはすごく曖昧で、ほとんど同じようなものだ、ということですね。
芸妓は今だからこそ「芸だけを売る」というのは通用して、昔は通用しなかったのですね……。昔は芸も身も売っていたようなものだったんですね……。歴史小説などでは描かれない、過酷な状況を知ったような感じです。
やはり昔は借金を返すためという名目の上での人身売買は、当然のことだったのでしょうか?

お礼日時:2009/07/14 21:46

No.4です。


「やはり昔は借金を返すためという名目の上での人身売買は、当然のことだったのでしょうか?」

これについては、「民法90条についての昭和30年の判例変更」が分水嶺となっております。昭和30年より前の日本では
「人身売買は当然のこと」
でした。

それまでは、大審院 (戦後の最高裁判所に相当) の判例により
「娼妓が公認の業である以上、その稼業所得をもって前借金の返済に充てる旨の契約をしても、民法第九十条にいう『公の秩序または善良の風俗に反する無効の法律行為』にはならない」
となっておりました。

戦前も、人身売買契約はタテマエとしては無効とされておりましたが、上記の大審院の判例がある以上、前借金を実質的に「人身売買の対価」とする「娼妓稼業契約」「芸妓稼業契約」は有効でした。

即ち、娼妓や芸妓がいったん身売り (通常は娼妓または芸妓になる女性は未成年者であるので、法定代理人である父親が前借金を受け取って、貸座敷業者または芸者屋と娼妓稼業契約または芸妓稼業契約を結ぶ) をした場合、前借金を利子をつけて返済しない限り自由の身になることは出来ませんでした。

これについては、先の回答で言及した、

国立公文書館 アジア歴史史料センター
http://www.jacar.go.jp/
ここで、キーワードを 「公娼 私娼」として検索すると出てくる、
【 レファレンスコード 】 A05020127200 「公娼と私娼」
という、内務省警保局 (現在の警察庁に概ね相当) が昭和6年に作成した資料

の 45 / 218 (資料のページでは91ページから)に「12 娼妓稼業契約」として、当時の娼妓契約を巡る警察の見解が詳しく説明されています。

さて、このような状況は、昭和30年10月の最高裁判例によって180度変わり、娼妓稼業契約、芸妓稼業契約は、典型的な「公序良俗違反の契約」として無効であることになりました。売春防止法の成立が昭和31年5月ですので、その少し前です。

民法
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/M29/M29HO089.htm …
(公序良俗)
第九十条  公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする。

判例 (最判 昭和30年10月07日)
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_i …
要旨「酌婦としての稼働契約が公序良俗に反し無効である場合には、これに伴い消費賃借名義で交付された金員の返還請求は許されない」

「酌婦」という言葉が出てきました。

<広辞苑より>
酌婦
(1) 略
(2) 下級の料理屋などで、客の相手をする淫売婦。

すなわち、先の内務省警保局の資料「公娼と私娼」で『私娼』と呼ばれている人たちです。娼妓と芸妓は、いずれも警察に届出を行い、所定の登録料を支払って「娼妓鑑札」「芸妓鑑札」を得て娼妓、芸妓として働くのですが、それをしていない「私娼=酌婦」は「警察のお目こぼしの下で売春を行う」人たちであり、酌婦を置く下級の料理屋 (『私娼窟』と警察が呼ぶ地域に所在) には、時には警察による「手入れ」があったようです。

酌婦についての説明はこのくらいにしておきますが、上述のように昭和30年に「前借金の授受を伴う酌婦契約は民法90条に反し無効である」とする最高裁の判例が出たため、「前借金の授受を伴う娼妓契約、芸妓契約」も同時に民法90条の適用で無効となり、昭和30年10月以降の日本で「人身売買」は完全に違法となりました。

現在の民法の教科書には、上記のような歴史的経緯までは書かれておらず、民法90条の解説では
「芸妓契約、娼妓契約、妾契約などは民法90条に抵触し無効となる」
としか書かれておりません。
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No.6の質問者さんのコメントについてコメントです。


>「郭」と芸妓さん達自身が言うことを恥じていなかったのですね

ですが当時は芸妓さんのいるところも娼妓さんのいるところも
関西では「くるわ」と呼ばれていたのですから・・・
自分たちの存在そのもの(芸妓であるということ)に対しては
素人さんにたいして一歩控える、というところが昔の芸妓さん
(特に関西の)は今以上に強かったみたいですが「くるわ」と
言う言葉を使うことに抵抗はなかったはず。

ただ、娼妓さん達にたいして芸妓さん達は多少優位意識を
持ってはいたようですね。当時のお話を読んでみるとわかります。
ただ、島原は太夫が一番偉い!ことは江戸当時より
ずっと変わらないみたいですけど。
その他娼妓さんの数が芸妓さんより多い街も、芸妓さんは多少娼妓さんに遠慮していたみたいです。
これは娼妓さん目当てのお客の座敷に
呼ばれることも多かったからのようです。
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現在拝見できる嶋原に関する


サイトです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B6%8B%E5%8E%9F
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E5%B6%8B% …
http://web.archive.org/web/20041208192406/http:/ …
http://www.mk-group.co.jp/np/back/interview/05/6 …
http://www.so-dan.net/hp/bessatsu/ishida_021.html
http://www.geocities.jp/kurenai93jp/shimabara/in …
http://www.kyoto-np.co.jp/kp/koto/gekijyou/part3 …
http://www.nikkei.co.jp/weekend/cha/20080404t1b4 …
http://www.bunshun.co.jp/pickup/asadaban/wachiga …
http://www.php.co.jp/bookstore/detail.php?isbn=9 …


芸妓のなかでも異色の存在?吉原の芸者さんや花魁について
知るには
「吉原はこんな所でございました」「華より花」 または
斉藤真一さんや近藤富枝さんの著書のなかに情報があると
思います。
youtubeには

http://www.youtube.com/watch?v=86EEGLiHJXE&featu …

嶋原を過去から現在まで体系的に扱った本は残念ながらありません・・
小野武雄著『吉原と島原』は少しだけ詳しい気がしますが
やはり吉原からの類推で書かれている本が多い気がします。
角屋の展示等をまめに見るとか
こちら
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B6%8B%E5%8E%9F
に掲載の資料で断片的に知ることはできると思います。
明田鉄男氏の「日本花街史」には一部過去の参考文献が
掲載されてるようです。
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この回答へのお礼

多くのサイトURLを載せての解説を、ありがとうございます。
小野武雄著『吉原と島原』は吉原のことが多く書かれてあるとはいえ、興味があるので一度読んでみようと思います。
サイトURLも一度見てみます。

お礼日時:2009/07/13 17:23

ナンバー6の続きです。



遊郭の言葉の定義も江戸時代と明治時代以降では
多少違います。
もともと遊郭 とは江戸時代には
「幕府によって公認された男性方の遊び場」でした。
ここには「遊女」がいましたが、公認の遊び場=上流の方々が
堂々と来られる格式高いところ という意味でもあり、
ここの遊女達は春も売りはしましたが、様々な歌舞音曲はもとより
文学・文芸、茶道書道香道華道などの教養に長けた遊女達です。
その中でも特にうわつ方のお相手として「えらばれしもの」が
太夫 です。
特に江戸初期の京都は公家・町方の文化人・大名が
文化を通して交流が盛んだったので嶋原の前身・六条三筋町などは
文化的サロンとしての色合いが強かったようです。文化人や皇族と
のロマンスが花開いた太夫の逸話もいくつか存在します。
また吉原は嶋原をまねて主に江戸の大名相手の場所として始まった
ところです。初期の吉原の花魁のなかにも「太夫」と呼ばれる女性
達がいましたがこの人達は奉行所のお役人の休憩時間に「奉仕」する
ことが当初義務づけられていました(吉原 が公認のくるわになるための条件の一つでした)。
といっても奉行所での酒宴や売春を強要されたのではなく、くるわでの勤めとは別に当番制で
指名された太夫が奉行所に出向き、お役人の休憩時間に「お箏や三味線」を奏でたり、お茶を点てて差し上げた、ということだそうです。
また、この頃の吉原の「太夫」は大名から身請けされることも
多かったようです。最も有名なのは姫路の殿様や仙台の殿様に身請けされた歴代「高尾」太夫でしょうか・・・。

もちろんこうしたところにも庶民相手の遊女は存在していましたが
ほかに非合法な売春地帯も存在していてそうしたところは
「岡場所」「島」と呼ばれていたとか。

しかし、江戸時代も後半になると「嶋原」「吉原」の
遊女はだんだん芸のできないものが増え、また多芸多才を売りに
する高価な太夫を相手にするものがあまりいなくなったことも
あり、遊女の勤めが寝所を主にするものに変わっていきます。
このあたりで明治以降のNo.4さんのおっしゃるような「貸座敷業の遊郭」のもとがつくられたのではないでしょうか
一方で、芸をもっぱらとする女性 の専業化も始まっていきます。
↑の「岡場所」「島」と呼ばれるところにも芸を売りにした明治以降
「芸妓の街」として有名なところもできてきます。
嶋原・吉原は明治以降も「遊郭」といわれながら吉原芸者は
東京一の芸達者を誇り、他の「遊郭」にないお大尽遊びができたのも
嶋原には昭和末期まで歌舞練場があったのはこの時代の流れでしょうか・・ちなみに吉原花魁が娼婦だったのはたしかですが、嶋原太夫が
どこまで「娼婦」であったのか・・は資料で調査するには不足していて
難しい部分もあります。江戸時代後期、幕末の嶋原太夫のなかにも
相当教養があった妓がいることはたしかなのですが・・「輪違屋糸里」では高級芸妓のように描かれていますし。
ちなみに嶋原は現在も存在しますが、現代の太夫さんは芸教養は
いにしえの太夫さんを目標にしていますが、春は売りません。

最後、脱線ですが・・
芸妓がどこまで娼婦であったか・・これは地域・置屋の方針にも
よるものであって調べるのは難しいですね。ただ、水揚げ
という通過儀礼(半玉etcがお客によって「女」にしてもらい、一人前の芸妓になること・・戦前唯一吉原芸者だけは水揚げがなかったそうです)
は戦前はどこの地域も行うのが「しきたり」でしたが、これは必ず
金銭づくで行われるので「売春」といえなくもないです。
また戦前の芸妓は「旦那」を取ることが普通でしたし、旦那を
持つ一方で他の男性と恋に落ちること もあったとか、結構奔放です。
それから、売春防止法施行以前は「性病に関する教育」や「性病検査」は
芸妓に対しても行われていた記録があるので、多くの芸妓に
とって「色」はまったく無縁とは 言えなかったようですね。

ただ、芸妓が日本の古典文化の継承を過酷な稽古とともに
続けてきたことも一方で事実です。
今の花柳界はこれを守るため、また広く一般の方に芸妓の世界を認めてもらうため
「くるわ」という言葉を
公的には捨てたのかなぁ と 個人的には思っています。
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この回答へのお礼

「はたして芸妓が娼婦だったのか?」と問われれば、答えに困りますね……。今はきちんとした芸を売る人たちですが、昔は色事との関係があったのですね。
吉原の花魁も最初は芸ができたりする花魁がいたのですね!時が経つにつれて失われたということに、少し残念な気がします。
大変詳しい解説をありがとうございます。

お礼日時:2009/07/14 21:56

実は、戦前まで京都や大阪、北陸等一部地域では


芸妓の街も娼妓の街も「遊郭」「廓」と呼ばれていたのです・・。
京都では「嶋原(遊)郭」「五番町(遊)郭」「祇園甲部新地(遊)郭」
「宮川町(遊)郭」・・ というふうに戦前に巷で発行された
文献には記載されていますし、今でも年配の芸妓さんのなかには
「花街」(かがい と読みます・・戦後一般的な名称・・はなまち は歌謡曲の影響で出てきた比較的新しい読み方)
ではなく
「くるわ」と自分たちの住む街を呼ぶ人もいらっしゃいます。

これには関西など西日本には
同じ街のなかに「芸妓」と「娼妓」の店(または派遣する店)があった
同じ置屋さんのなかで「芸妓」と「娼妓」を抱えている という
ところも多かった
等の理由もあったのでしょうか・・
東京のように比較的芸妓 と娼妓 の住む地域がはっきり分かれていた
ところとはまた仕組みが違うようです。
また、「くるわ」とはもと城郭のように壁にくるっと囲まれた地域を
意味しました。祇園etcには本来の意味での「郭」はなかったでしょうが、生活習慣etcによって街の人との間に「郭」が存在していると
考えたのかもしれませんね・・。

参考URL:http://koito.kyoto-tales.net/
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この回答へのお礼

大変ためになる解説を、ありがとうございます。
戦前までは「娼妓」の街と「芸妓」の街との差は、あまり無かったのですね。
また自分の住む街を「郭」と呼ぶことに驚きました!昔は「遊女の居る街だから」といって恥じたりすることが、無かったのですね。
関西と東京との仕組の違いも初めて知りました。

お礼日時:2009/07/13 17:13

こんばんわ。


NO3.です。

このサイトなどはいかがでしょうか。
http://www.kyoto-np.co.jp/kp/koto/kyotoaruku/kyo …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B6%8B%E5%8E%9F
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こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

まず、回答から先に書くと「遊郭」でした。

歴史について、
京都では:
(1)京都の現在の丹波口駅の近くに「島原」・・・昔は「嶋原」とも書物には出てくる。に「遊郭」の地帯があり、「大門」を構えていました。(これは、NO1.さんの写真です)。

(2)豊臣秀吉が、京都の再興をするにあたり、花街を「二条柳馬場」に「柳町」と呼ばれる一角に「遊女屋」などを集めました。

(3)やがて、六条坊門(現:東本願寺の北側)へ移され、「六条三筋町」として栄えました。

(4)さらに、江戸時代に入って、京の街も人口が急増したため、寛永18年(1641)に市街地の西の「朱雀野」へ移転をさせました。

(5)そして、廓の一帯を、正式には「西新屋敷」と呼ばせましたが、この移転は突然の「移転命令」でしたので、ちょうど「島原の乱」が終結した時期でもあり、この慌しさをひねて、通称「島原」と呼ぶようになりました。

(6)島原には、「揚屋(あげや)」と「置屋(おきや)」がありましたが、「揚屋」は、現代で言うと「高級料亭」で、「宿泊施設」はありませんでした。

(7)そこで、お大尽になると、まず「揚屋」に腰をすえ、そこから使いを出し「置屋」の「太夫」を呼び寄せて「高級料亭」での酒食を共にし、太夫に気に入ってもらえれば、「置屋」へ案内をしてもらい夜を共にしました。

(8)この時行われたのが「太夫道中」でした。
しかし、江戸の吉原の「花魁道中」のように10人近くを従えるほどではなく、せいぜい5~6人にお供をさせました。

大坂では:
(1)京に見世を構えていた「扇屋」という「置屋」が寛文年間(1661~)か延宝年間(1673~)頃に、大坂の新町へ移転をしたのが始まりとされています。

(2)この時、その見世の看板遊女であった「夕霧太夫」も一緒に大坂へ移り、大坂では大変有名になった、と、言われています。

(3)現在でも、11月第2日曜日に「清涼寺」で「夕霧供養祭」が行われています。

(4)大坂の新町も、京都を真似て「揚屋」と「置屋」形式でしたので、やはり、「置屋」から「揚屋」までを「太夫道中」を行いました。

(よもやま話)
(1)京都の「輪違屋」という「置屋」は、元禄年間(1688~)の建物で、再建や増改築をされてはいますが、現在でも建物は残っているそうです。現在も「置屋」をしており「花琴太夫」「春日太夫」などを抱えているそうです。ただし、今は「芸妓」さんとしてお座敷に呼ばれての唄や踊りを披露するだけで、昔のような「春を売る商売」はしていません。また、一般公開もされていません。
ただし、現在でも「お大尽」に呼ばれ、それ相応の「金」を出すと、「太夫道中」をしてくれる、とも言われています。

(2)「太夫」の由来は、慶長年間(1596~)に京都の四条河原で六条三筋町の「遊女」が宣伝も兼ねて「女歌舞伎」を催したとき、すぐれた「遊女」に「太夫」という称号?を与えたのが始まりです。

(3)江戸吉原の「太夫」は、容姿はもちろんのこと、三代集などを「レ(かえり点)」なしで読めたり、書や囲碁、将棋の相手もできるほどの教養を必要としました。吉原の「超エリート」でした。
これは、吉原ができた頃は、主に「武士」や「大名」を相手にしていたからです。
その後、金持ち商人などの相手もするようになりましたが、一晩抱くには、余りにも知識が邪魔をして窮屈過ぎたことから、宝暦年間頃より、江戸では「太夫」は消滅し、そこそこの容姿で、そこそこの客の相手がてきる「花魁」へと代わりました。
「花魁」の由来としては、「おいらの姉ご」「おいらんの」から「おいらん」と呼ばれるようになり「花魁」の漢字があてはめられました。
京都や大阪では「太夫」の名称が続きました。ただし、江戸の「太夫」のように「超エリート」ではなく、そこそこの「芸」を披露できる程度でした。

(4)京都、大坂、江戸でも「太夫(江戸では、後に花魁)」は「本名」を名乗らず、通称「源氏名」でよばれました。
この由来は、ずばり「源氏物語」に出てくる多くの女性たちから名前を借りましたので「源氏名」と呼ばれるようになりました。
「小太夫(こだゆう)」とか「薄雲太夫」「如月太夫」「桜木太夫」などなど・・・。

(5)太夫道中や花魁道中では、内八文字で練って歩きますが、これを「お練り」といい、お坊さんが境内を練って歩く(お供を連れて歩く)ことからきています。

(6)履物は三枚歯の黒塗りの下駄。「三つ足」と呼び、舞妓さんの「おこぼ(下駄)」より高くて、古くて磨り減っても16センチから17センチくらいあります。

(7)衣装は「頭の飾り」だけで3キロくらい。「三つ足」は片方が2キロあります。それから着物が20キロ。合わせて27キロ位です。

(8)現代では、観光用として、「芸妓」に関係ない市町村などでも「太夫道中」や「花魁道中」を行って客寄せに一役買っているところも多いようです。
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この回答へのお礼

大変詳しく解説して頂き、ありがとうございます!疑問が解け、胸のしこりが無くなったようなすっきりとした気分になりました。
京都・島原遊郭のことだけでなく、大阪の遊郭(名前は忘れましたが;)、吉原との違い、さらに花魁道中などについても解説して頂き、感謝の思いで胸がいっぱいです!
豊臣秀吉が遊女を集めて遊女屋を作ったのも、なんだか納得できます。項目が分かれてあって大変見やすかったです。
詳しい解説を、本当にありがとうございます。

お礼日時:2009/07/12 10:07

研究者によると


遊郭→歌や舞、宴会もしない歓楽のみの街
花街→歌や舞を伴う遊宴の街
ということでした。
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この回答へのお礼

なるほど……。これが「遊郭」と「花街」の違いなんですね!
参考意見とはいえ、研究者の貴重なご意見を提供して頂き、ありがとうございます。

お礼日時:2009/07/12 09:57

>京都の島原遊郭は花街であって遊郭ではないのでしょうか?



島原は、京都唯一の「幕府公認遊郭」でした。

江戸の幕府公認遊郭吉原でも、花魁になると三味線・舞踊・和歌など教養を持っていました。
島原遊郭でも、同様です。

ただ、京都では他の花町と同様に「枕芸者」「芸者」が存在していました。
芸者は、鳴り物・舞踊などの「芸」を見せる事が仕事で、枕芸者は「その名の通り、春を売る事」が仕事です。

>島原遊郭についての詳細が載っているサイトがあれば教えてください。

ヤフー・グーグルで検索して下さい。
新撰組で検索しても、面白いですよ。
「島原遊郭 京都 遊郭 風俗」の回答画像1
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この回答へのお礼

なるほど~!やはり島原遊郭は「遊郭」なんですね。島原遊郭に「枕芸者」というものが存在していたとは、全く知りませんでした。
大変ためになりました。詳しい画像付きの解説を、ありがとうございます!

お礼日時:2009/07/12 00:41

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Q舞妓さんの人生

 テレビドラマの「小早川伸木の恋」を見ていて登場人物の元舞妓さんの人生が語られていて、疑問がありました。
 舞妓さんとして幼い頃から育てられたのだが、それが肌に合わずお座敷で体にタッチされたりするのに異常に拒否反応があったために、舞妓である母親から勘当されそうになった所をお客として来ていた金持ちが引き取らせて欲しいと申し立てて、その後の人生をその金持ちの家で使用人として生きたという内容でした。
 実の子をお座敷での立ち振る舞いが悪いからといって、まだ幼いのに他人へ渡してしまうなんて、舞妓さんの世界は大変だな~と思いましたが、実際もそんなにプロ意識が滅茶苦茶高い職業なんでしょうか?。

Aベストアンサー

舞妓とは、京都特有の呼び方で「芸妓(芸者)見習いの女性」のことです。以下、芸者について説明します。

芸者と言うのは現在は「伝統文化の継承者」「宴会で芸を見せるのが仕事」という美化されたイメージですが、日本が豊かになるまでの芸者とは、貧しい家の娘が10歳くらいで身売り(前借金を受け取っての年季奉公)し、16歳くらいで「お金持ちの男性に処女を買われ」、その後は売春もするホステスとして働き、お金持ちの男性の妾になれれば幸せ、と言った存在だったようです。当時は性病の治療手段が乏しいため、芸者の多くが性病に感染しており、特に梅毒で悲惨な最期を迎える女性も珍しくなかったようです。

芸者になる際の年季奉公契約書には、「抱え主から売春の指示があればそれに従い、借金返済のため努力する」旨の条項があり、警察から芸妓鑑札を受けていました。当時の法制度は良く分かりませんが、娼妓鑑札または芸妓鑑札を持たない者の売春は違法であり、警察の取締対象であったそうです。現在、ソープランドでの売春は「公認」だが、他の風俗店での売春は時々警察に摘発されるのと同じ発想でしょう。

かつての芸者の実態については、下記URLの解説が参考になるでしょう。
http://www.geocities.jp/showahistory/history5/33b.html

現在は知りませんが、売春防止法以前の時代は、料亭や待合に客が芸者と寝るための部屋が準備されており、布団が備えてあったそうです。芸者は、夕方に料亭に出勤して宴会の席で「お酒の酌、芸の披露」などをし、宴会の後は小部屋に移ってお客とセックスして深夜に戻る、というパターンで、寝る暇がない苦しい生活であったそうです。

収入の半分は抱え主の取り分で、その半分から借金を返済し、衣装代や食費や諸経費を天引きされるとほとんどお金は残らず、実際は永久に借金を返せない(自由になれない)芸者が多かったそうです。借金を返せないうちに歳を取れば、ホステスとしての価値もセックス相手としての価値も下がっていき、収入が減ってますます苦しくなると言う悪循環です。

また、売春を含めて芸者としての稼ぎが悪いと、抱え主の一方的な判断で遊郭に女郎として転売されることもあったようです。芸者と女郎は、ほとんど同じものとされていたことが分かります。

絶版書ですが、戦前から戦後にかけて芸者として辛酸を甞めた女性自身による手記が存在します。上記URLの内容が真実であったことが分かります。

芸者―苦闘の半生涯 平凡社ライブラリー (著者)増田小夜
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4582761224/

舞妓を描いた有名な絵があり、それについて下記ブログで解説されています。
http://yosukenaito.blog40.fc2.com/index.php?q=%C9%F1%B5%B8

絵のモデルになるような12歳の美しい舞妓さんが、その後「祇園花柳界で名声を博し」、女性の盛りを過ぎた42歳で歌舞伎役者の「妻」になって、舞妓出身者の成功者として名を伝えられていると言うのが、戦前の舞妓・芸妓の悲しい運命を伝えています。

ここでは触れられていませんが、件の舞妓さんが貧しい生まれで身売りして舞妓・芸妓になったのは確実でしょう。

舞妓とは、京都特有の呼び方で「芸妓(芸者)見習いの女性」のことです。以下、芸者について説明します。

芸者と言うのは現在は「伝統文化の継承者」「宴会で芸を見せるのが仕事」という美化されたイメージですが、日本が豊かになるまでの芸者とは、貧しい家の娘が10歳くらいで身売り(前借金を受け取っての年季奉公)し、16歳くらいで「お金持ちの男性に処女を買われ」、その後は売春もするホステスとして働き、お金持ちの男性の妾になれれば幸せ、と言った存在だったようです。当時は性病の治療手段が乏しいため...続きを読む

Q江戸時代と明治の吉原

先日放送されたドラマ「吉原炎上」を観ました。
その中で登場する吉原では私の知識にある吉原と相違点があったのでいくつか質問させていただきます。

1、遊女は置屋に所属していて、そこから客の待つ揚屋に派遣されるの が遊里のシステム(現代の出張風俗のように)なのにドラマでは、
  遊女が所属しているのも客にサービスをするのも同じ妓楼でなされ ているようだった。

2、花魁とは、座敷持ち以上つまりトップクラスの遊女の呼び名のはず なのに妓楼の遊女全てを「花魁」と呼んでいた。

3、花魁道中は、遊女が客の待つ仲ノ町の揚屋へ出向くのを遊女が旅に 出るという演出にしした廓の一大イベントであるのに、ドラマでは
 単なるパレードのように描かれていた。

以上がドラマを観て疑問に思った点です。ドラマは明治四十年代の吉原舞台となっていたので、上記で挙げた吉原の習慣は江戸時代までで、明治期になると吉原も様変わりしたのでしょうか?
わかる範囲で教えて下さい。

Aベストアンサー

結論としては、明治時代の吉原では、「女が所属しているのも客にサービスをするのも同じ妓楼でなされているようだった」で正しいようです。

明治時代になり、「人身売買」「奴隷制度」という欧米の批判(不平等条約の根拠『日本は野蛮国』という主張を正当化)に対して、政府は娼
妓解放令を出しました。

しかし、遊郭の実体は変わりませんでした。
遊郭の妓楼(後述する「茶屋」)の所有者兼経営者は「貸し座敷」の主人に変わりました。
妓楼の主人に前借金をして、年季奉公人として妓楼に住み込んで春をひさいでいた女郎は、妓楼の主人から前借金をチャラにしてもらい、改めて「貸し座敷」の主人に前借金をして、貸し座敷の中に部屋を借りて春を鬻ぐ女郎に変わりました。
要するに、実体は何も変わっておりません。

インターネットで国立公文書館の所蔵史料を閲覧できます。
国立公文書館 アジア歴史史料センター
http://www.jacar.go.jp/

ここで、キーワードを 「公娼 私娼」として検索すると、

【 レファレンスコード 】 A05020127200 「公娼と私娼」という、内務省警保局 (現在の警察庁に概ね相当)が昭和6年に作成した資料

が閲覧できますが、遊郭を構成する店は「貸座敷」、女郎は「貸座敷」経営者に前借金を負い、貸座敷経営者と「娼妓稼業契約」を結ぶ仕組みであったことが見て取れます。

この史料(218ページ)で12/218~13/218とした時に、「貸座敷営業者で全く娼妓を置いていないのは石川県、京都府、滋賀県に約300あり、これらは貸座敷営業者とはいうもののそ東京地方の待合と同じ」旨の記載があります。これこそが、質問者様の言われる「出張型風俗」を示していると思われます。

23/218では、一覧表形式で「東京市浅草区新吉原 娼妓 2,557人 (貸座敷)営業者 295」と記載があります。
この218ページの資料の中で、「東京市浅草区新吉原の娼妓は貸座敷営業者とは独立している」旨の記載はありません。
78/218では、「吉原遊郭においては遊興費の7割5分を営業者が取り、2割5分を娼妓の所得とする」旨の記載があります。これは、娼妓が営業者=貸座敷と契約を結んで営業していることを示すと思われます。

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2888233.html
での回答で

* 「揚屋」で宴会をし、床入りも「揚屋」でです。なので「花魁道中」のとき、遊女は「マイおふとん」を置屋の男に持たせて行くのです。
* ところで「揚屋」は江戸前半期に流行った、ゼイタクな作りのエッチ用ホテル兼宴会場ですが、あまりにお金がかかるので、「揚屋」ほどの高級感はありませんがリーズナブルなおねだんで使える「茶屋」が江戸半ばからはやり始めました。「茶屋」は、自前でも遊女を抱えています

と言う記述がありますが、この「茶屋」が、娼妓解放令により「貸座敷」に転業したのが、明治以降の吉原であるようです。

http://www.ippusai.com/hp_home/edo_tokyo/edo150.htm
「明治5(1872)年10月2日(太陽暦11月2日)、明治政府は人身売買を一切禁ずる布告を行なった。いわゆる「娼妓解放令」である。
当時、吉原には、妓楼が189軒、娼妓が3448名いた。
楼主たちは「娼妓解放令」を骨抜きにするため、妓楼を「貸座敷」という名目にし、娼妓には鑑札を渡し、客と座敷を借りて遊ぶ、という営業形態をとることにした。したがって、明治の遊廓は、実態は江戸時代と変わらないが、名目上は「貸座敷」だったのである。
この明治の吉原を、最も情緒抜きに描いたのは、フランス人作家P・ロティであろう。明治18(1885)年に日本を訪れた彼は、『秋の日本』の中で、次のように描いている。
それは無数の身動きをしない蝋細工の陳列だろうか? 素晴しい人形のコレクションであろうか? あらゆる偶像の展覧会であろうか? そこには女たちが、反射灯の光を浴びながら、例の細格子のうしろの、張店や台の上に居並んでいる。街の外れから向うの外れまで、何百人という女たちがずらりと居並んでいる。プロシャ兵のような端正さで、そうして一人残らず同じポーズをとりながら。
ロティが書いているように、細い格子の後ろに遊女が座っているのである。格子越しに何人もの男たちが、遊女の品定めをしている。
これと対照的に、夢の仙境として吉原を歌ったのが、福地桜痴作るところの大門の聨である。「春夢正に濃し、満街の桜雲 秋信先ず通る、両行の燈影」

この絵で描かれた妓楼は、すべて日本建築であるが、中には洋風を取り入れた文明開化調の建築もあったことが、当時の写真からうかがえる。
この絵の描かれた3年後、明治44(1911)年4月9日、江戸町2丁目美華登楼から出火、折からの激しい南風に煽られ、吉原は炎上することになる。
有名な「吉原大火」である。この火事によって、明治の吉原は終焉を迎えた」

三階建ての巨大な「妓楼」(貸座敷)の一階の道に面した「顔見世」に、女郎がズラリと並んでいる様子は、多くの写真に残っています。このような巨大建築の妓楼は、売春の場と女郎の住居を兼ねていたと判断するのが妥当なようです。

なお、明治時代の吉原では、吉原大門からすぐに入った所に「妓楼紹介所」のような店「引手茶屋」があり、一流の妓楼を利用するにはまずここに入って仲立ちをしてもらう必要があった、ドラマでも明治末の吉原大火でそういうシステムが消滅したという話もあります。

http://www.0105.jp/~mizuki/yosiwara3.html
に、「江戸時代の吉原の変遷」について詳しい記述があります。分かりにくい記述ですので引用は控えますが。

結論としては、明治時代の吉原では、「女が所属しているのも客にサービスをするのも同じ妓楼でなされているようだった」で正しいようです。

明治時代になり、「人身売買」「奴隷制度」という欧米の批判(不平等条約の根拠『日本は野蛮国』という主張を正当化)に対して、政府は娼
妓解放令を出しました。

しかし、遊郭の実体は変わりませんでした。
遊郭の妓楼(後述する「茶屋」)の所有者兼経営者は「貸し座敷」の主人に変わりました。
妓楼の主人に前借金をして、年季奉公人として妓楼に住み込んで春をひ...続きを読む

Q「~してはる」は敬語?それとも京都弁?

以前、友達と話をしていて少しバトルになった話です。
大阪ッ子の主張は(私もですが)「~してはる」は敬語なので
例えば、「先生が作りはってん。」みたいに話してます。
けど、京都ッ子は「お父さんが作らはってん。」と言うんです。
私からすると身内に尊敬語をつかってるようで、
すごい違和感を感じるんですが、
私だけではなく大阪の友達は敬語だと言う人は多いです。実際どうなんですか?
私のなかで「~はる」をつけるときはかなり尊敬語なんですが・・・
他にも「髪の毛が伸びはんねん。」と言う人もいました。おかしくないですか?
これが京都弁なんでしょうか?

Aベストアンサー

 「~はる」という表現方法は大阪、京都でともに敬意を表す尊敬表現として使われているようです。ただ、両者の間には使用法における若干のニュアンスの違いのようなものがあるようです。
 大阪では「~はる」は基本的に尊敬表現であり、相手への敬意を示す最も一般的な言い方です。
 一方、京都でも「~はる」は基本的に尊敬表現ではありますが、その使われ方が大阪に比べるとやや複雑なようです。京都で最も敬意の程度が高いとされている表現方法は、現実に日常生活の中で使うか使わないかは別としても、「おいでやす」、「おくれやす」などに見られる「お~やす」で、これは純粋に相手への敬意を表した尊敬表現です。「~はる」は「お~やす」に比べると敬意度が低く、また、京都では自分の側、つまり自分の身内に対して「~はる」を付ける言い方も存在し、この場合はその身内に対して敬意を表していると言うよりも、話し手が聞き手に対して自分とその身内との親密さ、親近感を伝えている表現という方が適切なようです。ただ、話している本人としてはあまりそういったことを意識せずに使っている場合が多いようです。また、tawdaさんがおっしゃっているように第3者に関することを話し手が聞き手に意見を求めているような場合に使われる「~はる」は、やや皮肉混じりの意味合いで使われることが多いようです。また、人間以外の物や動物などに使われることもあり、その場合も話し手が聞き手に対してその物への愛着を示したり、あるいは意見を求める、その物への注意を促す時などに使われるようです。
 このことは恐らく大阪と京都が歩んできたそれぞれの歴史や文化の成立過程の差で現れてきた違いだろうと思います。大阪と京都のことばに共通していることは、相手に対する「気配り」の表現方法が豊富であり、全体的にYES、NOをはっきりさせるような言い方を好まず、曖昧にぼかしたり、単刀直入に表現することを避けたりして、相手を傷つけないでおこうとする柔らかさがあります。その一方、ことばの中に多くの意味が含まれていて、後でゆっくりじんわりとこたえてくるというところがあります。肝心なところをぼかしながらも、実は事の本質をついているのです。大阪のことばは歴史的、文化的に商人気質の色が強い庶民的な言葉なので、相手に細かく対応して、相手の機嫌を損ねないように微妙に使い分けをしながらも、相手に対して分かりやすいことばが好まれてきたために、「~はる」の使い方もほぼ尊敬表現の一本で通されているものと思われます。一方、京都では一口に京都のことばと言っても、もともと御所ことばと町方ことばの差別化があり、また町方ことばも室町商家のことば、西陣の職人ことば、祇園花街のことばなどの複雑な区別があったため、「~はる」の使い方も大阪に比べるとより複雑な人間関係の中で多様性を持つに至ったと思われます。

 「~はる」という表現方法は大阪、京都でともに敬意を表す尊敬表現として使われているようです。ただ、両者の間には使用法における若干のニュアンスの違いのようなものがあるようです。
 大阪では「~はる」は基本的に尊敬表現であり、相手への敬意を示す最も一般的な言い方です。
 一方、京都でも「~はる」は基本的に尊敬表現ではありますが、その使われ方が大阪に比べるとやや複雑なようです。京都で最も敬意の程度が高いとされている表現方法は、現実に日常生活の中で使うか使わないかは別としても、「...続きを読む

Q一見さんお断りの「一力亭」で食事をするには?

私の人生の恩師である方が今年還暦を迎えます。
そこで、恩師が一度は行ってみたいと話していた
京都祇園の一力亭に招待したいと考えています。
しかし、恩師を含め、私も一力亭には行ったことがなく、
いわゆる一見さんは受け入れられないと聞いていて
どうしていいものか悩んでいます。

そこで質問なのですが、
一見さんお断りの一力亭で食事をするには
どうすればよろしいでしょうか?
アドバイスをよろしくお願いします。

Aベストアンサー

ひとつ、補足です

一力さんに行くと言う事は
場所代
料理仕出代
舞妓さんたちのお花代
と掛かりますので

一人頭¥20000~40000前後必要かもしれません。

Q昔の遊女の呼び名を教えて下さい

昔の吉原とかの遊女の呼び名を教えて下さい。
「~太夫」とか「~之丞」とか「花魁」とかって色々ありますよね?あれって出世すると呼び名が変わるんですか?
最初に貰った呼び名のようなものなのでしょうか?
とても知りたいので詳しいことを教えてください。
出来れば階級順に教えていただけたら嬉しいです。
(一番えらいのが~で、どういう位置付けか・・・。とか)
宜しくお願いいたします。

Aベストアンサー

ここがぴったしだと

参考URL:http://bijou.cool.ne.jp/yoshino/kuruwa.htm

Q土日眠りっぱなし、これは病気なんでしょうか?

 週休2日制(土日休み)の仕事をしており、金曜日が来ると「よし、この2日はこんなことしよう!」と色々計画を立てるのですが、何一つ実行できません。
 まず、朝、起きることができません。昼、なんとか起きて食事を作るものの食べたら、次の行動を起こせないんです。例えば、友達と約束をしていても外出することができません。着替えたり、髪型を整えるのが“大きなハードル”となり、『もう10分ゴロゴロしたら着替えよう。休みなんだから無理しない』と考えて、ベットに横たわると、夜になっています。
 つまり、土日はまるまる2日、ほとんど寝ているんです。熱はないし、食欲がない、いくらでも眠れる・・・という感じで、とにかく衰弱してるんです。今日も20時間ほど、トイレもいかずに寝ていました。
 月曜日になると、朝6時に起きて、始業時刻の1時間前には出勤し、12時間以上働いて帰宅します。平日はこの調子で金曜まで元気いっぱいです。でも、この土日になると、とたんに無気力になり何にもできないんです。この症状は、ここ数ヶ月続いており、夜に“見舞い”に来る友達は“1人暮らしゆえの甘え”だと言い呆れています。
 世間には、私のような人はいらっしゃらないでしょうか?ほんとに怖いくらい無気力になってしまうんですが、これって、病気ではないでしょうか?

 週休2日制(土日休み)の仕事をしており、金曜日が来ると「よし、この2日はこんなことしよう!」と色々計画を立てるのですが、何一つ実行できません。
 まず、朝、起きることができません。昼、なんとか起きて食事を作るものの食べたら、次の行動を起こせないんです。例えば、友達と約束をしていても外出することができません。着替えたり、髪型を整えるのが“大きなハードル”となり、『もう10分ゴロゴロしたら着替えよう。休みなんだから無理しない』と考えて、ベットに横たわると、夜になっています。
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Aベストアンサー

私は病気でした。
同じように月曜から金曜までは仕事に行くのですが
土日は寝たきりでした。
結局、うつ病による過眠とわかりました。
当時は精神的落ち込みなど感じませんでしたが。
一度、受診なさることをお勧めします。お大事に。

Q神戸で近寄らないほうがいい場所は?

私の息子が来春より神戸に住むことになりました。
先ごろアパート探しに私も一緒に行ってきたのですが、不動産屋さんの話では「神戸ははっきり言ってガラは良くないです。」という事でした。
確かに某組の本部があるところですし、それは想像してはいたのですが。
三宮や元町には行ってみましたがとてもおしゃれな街という感じで好印象はありましたが、陰の面もあるかと思います。
念のためですが、「○○には行かないほうがいいよ。」とか「○時以降は変な人がいるよ。」とか教えていただけたら嬉しいのですが。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

こんにちは。
「神戸」と言っても広いですよ^^;
その不動産屋さんの言ってる通り「ガラの悪い地域」は神戸市内のあちこちにあります。
高級住宅街近辺なら、まぁ大丈夫でしょうが賃貸物件も少ないですし、見つかっても家賃、高いですよ^_^;

>息子のアパートが長田区付近にあるのです。
先日行って見た時には静かな街中で商店街もありとても住みやすそうな所だったので安心していましたが。
長田区といっても広いのでそのアパートは住むのに問題は無さそうですが。
もしよろしければ長田区のどの辺りか大雑把で構いませんので教えていただければ嬉しいです。
◎長田付近・・・ですか^^;
具体的な地域を出すと、そこに住んでいる人が見てたら怒りそうなので(当然ですが)書けません。ご理解を^^;
震災後にほぼ長田区全域が様変わりしていますし、新しい建物も増え、商店街も新しく再興していますので、見た目的には「静かな街中で商店街もありとても住みやすそうな所だったので安心して・・・」と感じたのだと思います。
ただ、長田区は神戸市内でも「特殊な地域」です。地元民でも避ける場所(出来るだけ近寄らない)はあります。
取り合えず、長田付近でしたら・・・
長田駅~三ノ宮駅(JR、私鉄含めて)周辺には、夜(特に深夜)には近付かない事ですね^_^;
また、全ての商店街は「メイン通り」以外には入って行かない事。
「路地裏」「裏道」のような場所へは行かない事。
「生田神社」(特に北側)には近付かない事。
夜、新開地の商店街を歩かない事。
湊川公園にも近付かない事。(特に夜間)

震災後は、かなり治安は良くなっていますが、まだまだ危険な場所は残っています。
キャッチもありますし、変な客引き(禁止されていますが)も未だにいます。
また、夜間の駅周辺には「訳の解らない若者達」がたむろしています。
中には、トンでもない奴等もいます。

おしゃれなイメージの神戸市ですが、治安の悪い所はありますし、震災前のように「ここには近付くな」といったものではなく、どこへ行っても「ガラの悪い連中」がいる、といったように「ガラの悪い地域」の特定が出来なくなっています。
震災後は、広範囲に亘ってしまっています。
昼の顔と、夜の顔は全然違いますから・・・

・・・といった事が、地元民としての参考意見です(~_~;)

こんにちは。
「神戸」と言っても広いですよ^^;
その不動産屋さんの言ってる通り「ガラの悪い地域」は神戸市内のあちこちにあります。
高級住宅街近辺なら、まぁ大丈夫でしょうが賃貸物件も少ないですし、見つかっても家賃、高いですよ^_^;

>息子のアパートが長田区付近にあるのです。
先日行って見た時には静かな街中で商店街もありとても住みやすそうな所だったので安心していましたが。
長田区といっても広いのでそのアパートは住むのに問題は無さそうですが。
もしよろしければ長田区のどの辺りか大...続きを読む

Qリベラルとは?

・左派、革新、社会主義
・右派、保守
という分類ができると思うのですが、
リベラルや自由主義は、どう考えたらいいのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共和党政策が旧保守主義(右派リバタリアン)で、それ以後を新保守主義(ネオコン)といい保守と名乗っていますが、実態は左派リバタリアン(左派が保守に転換し、現状を保守する為に革新的手法(戦争など過激な改革を許容する)を執ると言う主義)です。

 自由主義の反対となる統制主義も左派だと共産主義や社会主義、比べると右派に成るイギリスの「ゆりかごから墓場まで(高福祉政策)」などが有ります。

 簡単に言うと、積極的に変えようとするのが左派で、変わらないように規制するのが右派です。そして変える方向(変えない方向)が自由か統制かで分類できます。

 日本には明確に保守を謳う政党が無いので、イメージがわき難いのかも知れませんが…。
 (自民・民主党は中道で、共産党は左派統制主義ですから…。)

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共...続きを読む

Q三味線は猫の皮を使うと聞いていますが、では、この猫はどこで調達するので

三味線は猫の皮を使うと聞いていますが、では、この猫はどこで調達するのでしょうか?その辺にいる野良猫でも捕獲するのでしょうか。それとも猫のブリーダーのような人がいて皮の状態の良い猫を使うのでしょうか? 動物愛護保護法に抵触することも無いのでしょうか?

Aベストアンサー

さすがに最近は合成皮などが多くなっているでしょうが、高級品は猫の皮も使います。
しかも、若くて妊娠経験のない雌猫が最高級品と聞いています。
野生の猫では品質に問題も有りそうです。

「動物愛護保護法に抵触」
これは、他の動物に対する偏見に成りませんか。
牛や豚だって当然動物です。
鰐皮やダチョウ皮など、他の動物の皮も利用されています。
ミンクなどは、毛皮を取るだけに飼育されています。
可愛いモルモットも、医薬品開発のために命を投げ出してくれています。

昔は、鯨の頭の中にある油を取るだけのために、アメリカなどは鯨を絶滅に追い込むほど乱獲し、その肉や骨などは海に放置していました。
アホウドリだって、羽布団の中身にするために沢山命を落とし絶滅の危機に至っています。
その不幸な経験を生かして、動物の保護や命を無駄にしないための「動物愛護保護法」が制定されました。
しかし、それはあくまでも動物を虐待したり無駄に命を奪うことを禁止する物であって、人間のために利用することを禁止する物ではありません。

人間が快適に生活し、健康に生きて行く上で生物の命の恩恵を受けないわけには行きません。
すべての食料品や生活用品は、必ず他の生き物の恩恵を受けていることを理解し、その生き物に報いるために無駄な消費をしないように心がけ、常に感謝する気持ちを忘れないようにしたい物です。

さすがに最近は合成皮などが多くなっているでしょうが、高級品は猫の皮も使います。
しかも、若くて妊娠経験のない雌猫が最高級品と聞いています。
野生の猫では品質に問題も有りそうです。

「動物愛護保護法に抵触」
これは、他の動物に対する偏見に成りませんか。
牛や豚だって当然動物です。
鰐皮やダチョウ皮など、他の動物の皮も利用されています。
ミンクなどは、毛皮を取るだけに飼育されています。
可愛いモルモットも、医薬品開発のために命を投げ出してくれています。

昔は、鯨の頭の中にある油を取る...続きを読む

Q60歳で定年退職になった主人の就職先

よろしくお願いします。
4月で60歳定年になり主人が会社を退職しました。
業績がよくない会社でしたので、退職金は出ませんでした。


主人は失業保険をもらいながら仕事を探すと言っていますが、パソコンに不慣れで
私が探したり、あればエントリーシートを打ち込んでいます。
でも、なかなかよい仕事がありません。

60歳以上の仕事のサイトというのはありますでしょうか?


うちはローンが月々9万あり、しかも75歳までです。
健康保険が3万近く、税金も3万近く、生命保険も3万近くです。
貯金は約500万しかありません。

貯金を切り崩すにはあまりにも少ない金額でどうしていいのか困っています。

今の家は2度買い換えて最初2回はマンション、そして一戸建てに買い換えました。
その、一戸建てが52歳の時です。

私は52歳から新たにローンを組むのは反対をしたのですが、マンションは価値が
なくなるし、ローンが終わっても管理費、修繕積立金、駐車場代がかかると言い
、それを信じて買い換えることにしました。

そして、今は会社がこんなことになるとは思わなかったと言っています。
危機管理が甘かったのではと思います。

私は、月10万働いています。多い時で20万くらいです。
でも、あと2年ぐらいで私も定年になります。


主人の仕事は会社の法務関係で顧問弁護士さんと動いたり、コンプライアンス(社員教育)をしていました。

司法書士の資格は持ってはいませんが業務は出来ていました。

そんな主人を見て信じて一戸建てに買い替えたのに、こんなことになるなんてという思いです。


ハローワークでも探していますが、60歳以上はなかなかありません。

どこかパソコンで見つけられるサイトをご存じの方、何卒よろしくお願いいたします。

よろしくお願いします。
4月で60歳定年になり主人が会社を退職しました。
業績がよくない会社でしたので、退職金は出ませんでした。


主人は失業保険をもらいながら仕事を探すと言っていますが、パソコンに不慣れで
私が探したり、あればエントリーシートを打ち込んでいます。
でも、なかなかよい仕事がありません。

60歳以上の仕事のサイトというのはありますでしょうか?


うちはローンが月々9万あり、しかも75歳までです。
健康保険が3万近く、税金も3万近く、生命保険も3万近くです。
貯金は約...続きを読む

Aベストアンサー

 諦めることはない
1)とにかくハローワークで相談。最近では職業訓練も受けられる(中には司法書士もある)。自治体と国にそれぞれあるので、パソコンで検索のこと。基本として職業訓練は3段階に考えられているので、2から3段階目に入れるとちょっと一息つけるかも。
 キーワード「ポリテク、訓練基金、職業訓練、労働局」詳細はハローワークと、自治体の労働局。
2)シルバー人材センターにとりあえず登録しておく。当てにできないが、ときどき小さな仕事が来る。あれこれ選べない。
3)起業する。別に法人化しなくても、家の前に「…できます」のようなカンバンを出しておく。あるいは、資格がないので堂々とできないが、知り合いのもめ事を法律の知識を使ってアドバイス。もちろん再勉強はしておく必要がある。資格が取れたら、ネットでサイトを作るのも手。
4)飛び込みのように、いろいろな法律関連の事務所へ履歴書を送りつける。法律関連そのものはこれからも需要は伸びていくので、事務でもできる人は重宝される。だから法律関連の事務所の傘の下で手伝うようなカタチ。ただ最近は金のない所も多いから…
5)ネットの古本販売や、古物のオークションを試す。資格とか権利とかではないので、危険が少ない。自分が売る方なら、あまり気を使わなくてもいい。お客さんに誠実に対応していれば大丈夫。コツが飲み込めてきたら拡大策へ移る。さらに趣味などの目利きを活用できれば可能性は低くない。大した金にはならないが、とにかく見てみること。

 とにかく世間の先入観にとらわれないこと、自分自身のあらゆるモノに値段がついていると思えば、現金に替わるもの(身体なら肉体労働、知識なら、アドバイザー・コンサルタント、趣味ならネットに店を出す。)はどこにでもある。仕事をもらうのではなく、自ら創ってみるつもりで。

 諦めることはない
1)とにかくハローワークで相談。最近では職業訓練も受けられる(中には司法書士もある)。自治体と国にそれぞれあるので、パソコンで検索のこと。基本として職業訓練は3段階に考えられているので、2から3段階目に入れるとちょっと一息つけるかも。
 キーワード「ポリテク、訓練基金、職業訓練、労働局」詳細はハローワークと、自治体の労働局。
2)シルバー人材センターにとりあえず登録しておく。当てにできないが、ときどき小さな仕事が来る。あれこれ選べない。
3)起業する。別に法人化...続きを読む


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