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小さな頃に習字をされた方なら馴染みの言葉だと思いますが、「手本」というものは、この現代にまだ通用するだけの役割を持っているのでしょうか。そして、手本の対義語とはいったい何でしょうか。

A 回答 (26件中1~10件)

「手本」でググると106,000,000 件ヒットしますので


多少、レトロの香りはしますが、
まだ、死語の世界に送るほどの言葉ではなさそうです。
すこし前には「見本ではあっても手本ではない」などというフレーズが
よく聞かれましたね。
対義語としてぴったりくる言葉は思い浮かびませんが
「反面教師」あたりはいかがでしょう?

参考までね
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この回答へのお礼

 むう。106,000,000件ですか、あれっ僕がやったら9,090,000件でした。ちなみに、infomationと打って検索すると8,440,000件、近そうですね。でも、ちゃんとinformationと打って検索すると、2,590,000,000件と出ます。むう。エラーの数が多過ぎますよ。

 「見本ではあっても手本ではない」とは、案外、的を射ているのかも。反面教師と言われると、なんだか同義語みたいに思えてきました。でも、参考になるご回答でした。ありがとうございます。

お礼日時:2009/07/30 22:18

蛇足ですが、反面教師は「悪い見本/手本」なので、


同義語より やはり対義語に近い感じがするかと……。
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この回答へのお礼

 再度のご回答ありがとうございます。

 そうですね。まず、そもそもどうしてこんな質問を思い付いたのか、という点から書くべきではないかと思いました。文学カテゴリーですし。その線でお話したほうが早そうです。
 直接的なきっかけは、2004年に村上陽一郎さんが『あらためて教養とは』という著作をお出しになったことです。ついで、2006年には藤原正彦さんの『国家の品格』という著作が売れた。
 そして2008年には、水村美苗さんが『日本語が亡びるとき』という本を書いた。

 どれか一冊でもお読みになったことはあるでしょうか。
 僕は、どれもが同じ事を言っているような気がするんですね。村上さんの本は、大江健三郎さん(要するにひと世代前の日本を作った人たち)への批判から始まる。藤原さんになると、どうも僕らの年代を相手にしているらしい語り口になった。ところが、水村さんの本を読んだとき、あれっ、どうやらもっと若い世代へ行過ぎちゃった――という感じを受けました。
 そしてどの作品も、論題は「日本語」についてです。彼らの頭の中には、何か古い時代の日本語があるようです。語りのなかにその像のようなものがあって、僕はそれを手本と呼びました。
 そこで、冒頭の質問をしてみたというわけです。

お礼日時:2009/07/31 09:35

 こんにちは。



 いやはや――No.2お礼欄での趣旨説明を読みましたが―― 洞窟のほんの入り口を示して簡単にうさぎでも誘い出せると見せかけて とんでもない龍なんかでもかこっているのですね。

 それでしたら
 ○ 答え:手本の対義語は 手本です。
 ☆ というような禅問答になるかと思います。

 水村美苗は読んでいません。新聞文化欄での随筆を読んだかも。橋爪大三郎は ほとんど全部を読むようにしていました。最近のものは全部とは行きません。まぁ 配偶者だから同じ思想だとは言えません。《言語一元論》は 或る程度おもしろいです。
 村上陽一郎は いくらか読んでいますが 畑がちがうのであまり批判の対象としては捉えていません。そこにおけるこれこれの主題を煮詰めていこうといったことはなかったわけです。
 藤原正彦『国家の品格』を図書館から借りて半分ほど読んだはずです。〔ちなみに 筈(弓の両端の弦をかけるところ)は はづではなく はずでした〕。たしか論旨が紋切型になってきたと感じたから止めたかと思います。

 ★ 手本
 ☆ といえば 《道徳規範は愚の骨頂》を連想させますし じっさいつながりもあるのではないですか? 昔に なんと言いましたか 
 ○ 期待される人間像
 ☆ といった手本が 政府からでしたか出されたのではないですか? わたしの周りは はなはだ醒めていました。その内容についてももう覚えていないほどです。
 あるいは 学級ごとに一人か二人(男女ひと組) 模範生徒がおもに教師たちの側から指定され持ち上げられていたと記憶します。記憶しますとあいまいにしか言えないのは ほとんどそんな《物指し》については どこ吹く風だったからです。
 誰がどう言ったから醒めていたというでもなく そういうひな型を 生徒たちのあいだに 雛人形よろしく飾っておくという仕組みには 耳も貸さなかったですね。
 ぎゃくに言えば そういう教師側の意向に沿って おとなしい――しかもそういう場合には 学習の習熟度が高い者でないとまづいわけですが――優秀な生徒が 時には出てきたようにも記憶していますが 具体的にどうだったかは もう忘れ川の底に沈んでいます。

 こういう思い出話とともに 現代の情況をも合わせて考えるに 
 ○ 手本は みづからの中に 手本となるには似つかわしくない要素を持つ。
 ☆ のではないかと思いました。 
 ○ 総理大臣は 手本であると同時に その対義語でもある。
 ☆ というふうな意味合いです。

 《大臣》という用語は今では 《委員》とか《係》とか言えばいいではないかと言ったら それでは値打ちが下がると言われてしまったことがありました( petite bisou さんの回答)ので かろうじてまだ 《手本》という言葉も生きながらえているかに思われます。

 あれっ 文学カテゴリでしたか。どうしましょう。
 龍の鳴き声が聞こえたら また何か考えましょう。

この回答への補足

 期待に応えていただいて、ご回答どうもありがとうございます。

 そんな難儀な裏などありません。――すっかり、しだらがなくなって。こう書くと、それは「だらしがない」の間違いだろうと、断じて譲らない国語の先生に宛てつけたところはあります。すっかり、「だらしがなくなった」日本語を、あるべきかたちに戻すのが急務でしょうと、お三方は仰っているんですね。だから、小学校での英語教育はもっての外だと――こういうことだそうです。

 ここにいうあるべき「かたち」というのは、こういうことです。
 ご存知だとは思いますが、例えばフランスではある階級を境にして「computer」なる言葉は、決して言わないし綴ったりしない。彼らの辞書には「ordinateur」という言葉しかないからです。すなわち、外来語を迂闊に国語化しない風習が守られている。もちろん、一般人は日常的にコンピュータと口にする。
けれども、仏語としてのあるべき「かたち」は、「ordinateur」なんですね。
 彼らの日常には、今でもこのような「かたち」と、そうではない「かたち」が同居しています。言語は二重化しているんですね。まるで古い時代の、ラテン語と俗語のように。この二重化は、言語だけの世界でいうと煩わしさや葛藤、ときには矛盾を伴います。けれども、その矛盾はもうひとつ大きな体系、つまり社会の階級制度を決定付けるために存在しています。
 階級を前提にしたとき、言語の二重化は初めて無矛盾になる。下の階級の言語は、いかに多様化しようとも、上の属性によって仕分けられる。だとすれば、「手本」となる上の言語が対義するのは、下の言語ではなく「論理」ではないかと思うんですね。

 理屈ではなく、「かたち」が押し通されてゆく世界です。手本には、理屈など要らない。理屈は手本の下について来るのです。そのような世界に対して、まず理屈があり、その理屈のもとに規範が作られる世界がある。けれども、その規範は理屈が作っている以上、矛盾を許容できない。たとえ言語という小さな体系のなかであっても、いや小さな世界だからこそ矛盾があってはならないという規範が生きているわけです。近頃の日本語は、かたちではなく、理屈に支配されているのではないか――というのが、三人の著作を読んだ僕の感想でして、したがって、手本の対義語は論理だと言いたい訳ですね。

 さて、日本語は論理表現が可能か。ちょっと待て、僕らは論理表現を望んでいるのか? という問題を取り残しているじゃないかというのが、ここでの主題といえば主題になります。

補足日時:2009/07/31 16:00
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この回答へのお礼

(続)
 お三方のなかでは藤原さんの文章がいちばんつまらん(あの人、数学者ですから)と思ったので、途中で放り出してしまう気持ちはわかりますが、《道徳規範は愚の骨頂》のように「手本」もまた、愚の骨頂とおっしゃるでしょうか。ポイっと放り出す? 
 それとも、手本は規矩だといって突っ張る? 

 ☆ そういう教師側の意向に沿って おとなしい――しかもそういう場合には 学習の習熟度が高い者でないとまづいわけですが――優秀な生徒が 時には出てきたようにも記憶していますが 具体的にどうだったかは もう忘れ川の底に沈んでいます。

 ○ 川底をさらう仕事が必要だと思うんですけど。

お礼日時:2009/07/31 16:03

 No.3です。



 ○ 水村美苗=岩井克人
 ☆ を――あぁ―― =橋爪大三郎と勘違いしてしまいました。
 岩井氏は 資本主義から市民主義へ だそうです。
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この回答へのお礼

 言語一元論とはいっても(あながち間違いではないと思いますよ)、些か楽観的に捉えられない気がするんですよね。確かに水村美苗さんの結論は、

 ――日本が必要としているのは、世界に向かって、一人の日本人として、英語で意味のある発言ができる人材である。必ずしも日本の利益を代表する必要はなく、場合によっては日本の批判さえすべきだが、一人の日本人として、英語で意味のある発言ができる人材である。

 こうなっているけれど、それは英語が普遍言語になった場合といういわばSFの話であって、むしろ漱石やら鴎外やら一部の特権的な明治の先人の――翻訳機械というその装置としての――役割が日本語を守る上では大事だというのを、ここでは取り上げたいと思います。

お礼日時:2009/07/31 16:04

 ううううううううううーーーーん。

No.3&4です。

 まづは 質問の趣旨説明がまったく足りません。そして文学カテゴリでいいのでしょうか? 
 このふたつの物言いをきちんとつづっておいた上でですが 同じくまづは 日本語の慣行が 散逸構造の理論よろしく慣行じたいの中で渦を巻いて来ている。これは けっして自己組織化だけに任せておける性格の問題ではない。なんとかせい。――こういう主題でしょうか?

 1. 武道なり茶道なりのごとく まづは《かたち》から入れ。
 2. 日本語の慣習にも あるべきかたちがあるはずだ。
 3. 理屈による説明は あとからついて来るし つければよい。

 4. 言語慣習の中で文法規則は 現代に到っては もうあまり変化しないと思われるゆえ それとしての《しかるべきかたち》があるはずだ。
 5. 音韻変化やそれに伴なう語形変化などが見られるが その変化じたいに或る種の法則も見出され 一定のかたちがある。
 6. もし慣行が乱気流をおこしているとすれば あるべきかたちを確定し共有するという道も 採られてよいはずだ。
 7. 日本語使用にかんする問題をめぐって 万機公論に決すべしだ。《日本語のあるべき自由なかたちとは委員会》。

 それにしても 概念・用語・視点などが 行き交っているように思います。
 a)   《かたち》は変わり得る柔軟なものを思い描けばいいでしょうが 《手本》は もともと習字の模範としてのかたちでしょう? 書聖が何人かいるでしょうから 形もいくつかあるでしょうが それぞれは言わば確定していますね。《手本》は 動きという要素を含むと言えるか。
 b)  《かたち》を疎かにして 《理屈なり論理なりで規範をつくる》ときにも 一定の論理は有効です。《かたち》のほうにも あと付けとして一定の論理が当てられます。おそらく 後者は 《境地》もしくは《人間論理》であり 前者は《知識の水準》もしくは《線形論理》が問題になっている。

 c)  ここから三項目は みみっちい議論です。《「だらしがない」には 〈かたち〉がない》と言うのなら 《けしからん←怪しからぬ=つまり怪しからず》の使い方も駄目だし 《留守←留守居=つまり家を空ける人の代わりに家に居る人》も成っていないとなる。
 d)  《 ordinateur 》には品位があって 《 computer 》が品位に欠けると言っても 《 compteur や comptoir 》という語も使っている。この使い分けは 偶有的なものだと思われる。それに階級構成による秩序が 人間にとって品位あるかたちかとなれば 一概にそうは言えないのではないか。
 e)  ▲ 小学校での英語教育はもっての外だ。
 ☆ たぶん 小さいときから 母語のほかにも言語があるのを知ること自体は 《品位あるかたち》を成すと思われる。そういう意味で英語教育にも開かれていてもよいのではないか?

 f)  外来語・借用語を 日本語のかたちに合ったように翻訳しておくべきだ。――賛成。
 g)  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 さて、日本語は論理表現が可能か。ちょっと待て、僕らは論理表現を望んでいるのか? という問題を取り残しているじゃないかというのが、ここでの主題といえば主題になります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですから 境地としての非線形の人間論理であれば 論理表現を迎えに行ってもよいはず。しかも 日本語は それには――世界の中で韓国語とともに一番――ふさわしいと考えられる。

 h)  ★  ○ 川底をさらう仕事が必要だと思うんですけど。
 ☆ ですから川底には 《教師仕立ての〈かたち〉ではなく むしろ人びとの生活に根ざしたことば》が押しやられて眠っているかも知れないのでその中から 品位あるものを見直して使うようにするとよいのではないか。

 i)  この《日本語の自由なうつくしい発展のために委員会》の活動とともに 同時並行して必要な活動は いまの日本では やはり思想のあいまいさを放っておかないことではないか。哲学の物指しを一度当てておいた上で 両義性や多義性を楽しむという情況を望みたい。

 j)  余話ですが ジャワ語は 上層と下層との言語が おもに語彙の問題として きわめて違いを持っているようです。こんなに違うのかと 互いに方言であると受けとめざるを得ないような。

 * 哲学カテゴリだったはずなのに。遅いかぁ。
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この回答へのお礼

 ご回答、ありがとうございます。

☆ まづは 質問の趣旨説明がまったく足りません。
★ じつは狙って書いたのです。

☆ そして文学カテゴリでいいのでしょうか?
★ 心優しい文学カテゴリーは、何でもアリなんですよ。ここは静かで良いところです。哲学カテのように、あるときいきなり、イナゴの大群がやってくるという事もない。実にさわやかです。

 主題はまさにそうであり、だからこそ文学カテゴリーに残すべきだと思った次第です。おかげさまで、問い求めの良いランドマークになった気がします。どうも僕たちはこのカテゴリーの新参者ですから、先生方のご意見をしばらく待つといたしましょうか。
 ところで何ですねぇ、c)はちょっと手厳しい。とうぜん、成っていないという姿勢を持つべきです。しかも、d)に至っては問題のすり替えです。例えば、《ムジュン》という表記を《矛循》とか《矛順》と書く場合と、《無純》というふうに決められた場合の衝撃の度合いを僕は問題にしているのです。

 いずれ補足を付すとは思いますが、こんな感想を持ちました。

お礼日時:2009/07/31 20:01

 No.3&4&5です。



 おおむね了解しておりますので 余滴のような投稿です。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ところで何ですねぇ、c)はちょっと手厳しい。とうぜん、成っていないという姿勢を持つべきです。しかも、d)に至っては問題のすり替えです。例えば、《ムジュン》という表記を《矛循》とか《矛順》と書く場合と、《無純》というふうに決められた場合の衝撃の度合いを僕は問題にしているのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ( d )のほうは 国内向けか国際向けかで見解が分かれると考えます。イロシマでもよいし むしろそのほうが或る種の仕方で《かたち》を表わすでしょうし ヒロシマと言うべきだというのも《かたち》を持つと見なければならないと思われるからです。
 ( c )は 大問題です。
 こういう事例を挙げます。
 ○ 《行く》なる動詞について その否定形は 三様あります。
 1. 行かづ < 行か‐に(否定法)‐す
 1a. 行かん < 行か‐ぬ(連体形が文の終わりに来て 終止形化)
 2. 行かへん < * 行き‐は‐せぬ
  〔/ s / > / h / :
   おまえさま>おまえさん>おまえはん>おまはん〕
 3. 行かない < 行か‐なふ
  ・ な : 否定法の《ぬ・に》の活用形
  ・ な‐ふ : 《な》の動詞化
    cf. 取る > 〔未然形活用=〕取ら‐
          > 〔その動詞化=〕取ら‐ふ > 捕らふ
    cf. 咲く > 咲か‐ > 咲か‐ふ=栄える

 ☆ つまり(3)が問題です。東国のことばだったようですが 動詞つまりこの場合助動詞の《なふ》が 形容詞の《無い》と混同して 後者だと思いこんだ結果 動詞の否定形は 形容詞によって担われている。という状態です。
 ★ しだらない∽だらしない
 ☆ どころの話ではないですよ。
 条件法活用(已然形・仮定形)は
   行か‐なへ〔ば〕
 であったはずが
   行か‐なけれ〔ば〕
 という形容詞の活用に従っています。

 投稿は来るでしょうか。と挑発したりして。
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この回答へのお礼

 回答はきましたが、No.7の回答を見てくださいよ。あんまりだと思いませんか?
 これというのも、ブラジュロンヌさんの教育が悪い。

 どうして、あんなふうになってしまったのか。

お礼日時:2009/08/03 09:59

こんばんは、ri_rongさん。




Q.手本の対義語とはいったい何でしょうか。

A.清書



清書からもじって…清・少・納・言と、くりゃ…色見本

【日本の伝統色100色一覧】
http://www.wanogakkou.com/life/00100/00100_003_0 …
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございます。
 
 相変わらず解読が難しいご回答で
 (おそらくCIAでも無理なのではないかと思うのですが)、要するに「洒落」ってことでしょうか。

 手本の対義語とはいったい何でしょうか――清書。

 この答えを理解する、いや感じ取る、いや空耳程度に聞いたとしても、
 しばらく胸の動悸がおさまりませんでした。それで? 

 清少納言ですか。思わず、気絶しそうになりました。
 で、けっきょく「色見本」だと?

 手本と見本――これが、妥当な書き方です。No.1さんをみてください。あれが平穏な回答というものです。
 安全、信頼、親切、これが日本の政治のあり方です。

 ところがどうですか、「清書」っていったい何?

お礼日時:2009/08/03 09:53

 No.6のお礼欄に反応します。



 ラテン語との格闘を終えてここに来たみたら わたしがやり玉に挙がっていて《教育》のもんだいにまでされてしまいましたが わたしの感覚では こう思いました。
 ○ 手本と清書 これらは 或る種の仕方で《客観》とそしてその客観に対して向きあいつつ堂々と胸を張る《主観》とである。
 ☆ のではないでしょうか?
 アマテラス人格語とスサノヲ人間語と。
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この回答へのお礼

 無意味だと申し上げているわけではないのです。
 ★ アマテラス人格語とスサノヲ人間語
 ☆ かどうかが、判然といたしません。このような書き置きがありました。

 ===========================
“ 清書 と 書いて 何と 解く???って?
“ 清書 ”と 書いて “ 百人一首 ”と 解く――――― そのこころは?
ANS.“ なぞ ...
 ===========================

 ★ ラテン語との格闘を終えてここに来たみたら 
 ☆ どうやら解読は、サポートの方が成されている様子。《主観》も《客観》もひっくるめてです。見守るしかないのですが、こう思いました。

 ○ すべては《なぞ》であると。

お礼日時:2009/08/03 18:54

こんにちは、ri_rongさん。




●…「清書」っていったい何?


何って?

“ 清書 と 書いて 何と 解く???って?

“ 清書 ”と 書いて “ 百人一首 ”と 解く――――― そのこころは?

ANS.“ なぞ ”

(-"-)しかるに…

「織田正吉氏の発見による連鎖」
  (『絢爛たる暗号』より)
http://homepage2.nifty.com/100-1/teika/HYAKUNIN/ …

【織田 正吉】
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/search-handl …

家の近くの古本屋さんから本屋さんと、三軒まわってみたけれど…

「入手不可のため注文できません。」って、

なんで置いてないんだろう?ブツブツ
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この回答へのお礼

 おおっ、完璧に解読されていますね。ご回答ありがとうございました。そして、サポート管理の方々、お手数をおかけしました。こうして無事、回答を読ませていただけるのは、昨夜遅くまでがんばっていただいた、ひとえにあなたのおかげだと僕は思っています。お礼を申し上げます。

 さて、いくつか教えていただいたことがあるのですが、

 ☆ 百首の歌は言葉によって連鎖する

 という概要の文章に深く説かれました。同語同句の使い方には正連鎖、逆連鎖、主題連鎖という三法則があるそうです。とすれば、対義語もそれぞれに応じたものが用意されそうですね。
 ところで、本が売ってない? とすれば、「絢爛たる暗号」というこの情報から、百人一首はどんなアルゴリズムで暗号化されているか、推定するしかないですね。主題連鎖というのは、公開鍵方式に近いのではないでしょうか。ひと組の鍵で、公開鍵を得る事のできる多数の人に暗号を伝えることができる。言わば、非対称の連鎖方式です。
 対して、正連鎖と逆連鎖は、共通鍵方式といった感じでしょうか。裏と表、いずれにせよ一対一の連鎖方式です。とすれば、ここではブロック化とストリーム化だろうと思いました。前者は、同一語句をひとつのブロックと考えて連鎖させる。後者は、あらかじめブロックする単位を決めてその取り決めた長さごとに連鎖させるという方法です。例えば、

 ○ めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月影

 という、紫式部の歌の「夜半の月影」 を連鎖させる場合、全部をひとつのブロックにする方法と、「夜半」「の」「月影」というふうに分けてブロック化する方法とがある。つまり、「夜半の星空」かもしれないし「暁の月影」かもしれないということです。ふむふむ。はて、どうやら、ご回答自体が公開鍵になっているのか、と思うに至りました。
 
 ★ 清書
 ☆ というのは、ひょっとして僕が「習字」って書いたから?

 ○すまん。自分の質問をいま読み返して気付いた。

お礼日時:2009/08/04 17:45

 bragelonne の幕間劇です。



 昭和59年出版という旧い本ですが そこからヂャワ゛語における《敬語》事情を引用して紹介します。
 ▲ 石井和子:ジャワ語の基礎 

 1. 普通体:ンゴコ( Ngoko )語としてのヂャワ゛語
 2. 丁寧体:ンゴコ語と共通の語彙のほかに クロモ( Krama )丁寧語を用いる。
 3. 尊敬・謙譲語:一部の語彙として クロモ・インギル( Krama Inggil )語群がある。
 4. ンゴコ体とクロモ体の中間=マディヨ語:数としてごく一部。
 
 5. 文例  Ngoko 体・・・・・・・・・・・Krama 体
 (1) Gedhang iki tak-pangan.・・・Pisang punika kula tedha.
   バナナ-この ぼく-食べる。・・バナナ-この 私-食べます。
 (2) Radhione tak-dandani.・・・・Radhionipun kula dandosi.
   ラヂオはぼくが修理する。・・ラヂオは私が修理します。
 (3) Gedhange ko-pangan.・・Pisangipun panjenengan dhahar.
    バナナは君が食べる。・・バナナはあなたが召し上がられます。
 (4)Radhione ko-dandani.・・Radhionipun panjenengan dandosi.
   ラヂオは君が修理する。・・ラヂオはあなたが修理します。

 6.語例  Ngoko 体・・・・Krama 体・・・・・Krama Inggil 体
_________________________________________________________________
 ・ ある: ana・・・・・・・・wonten・・・・・ ―
 ・出かける:budhal・・・・・bidhal・・・・・ tindak
 ・起きる: tangi ・・・・・・ tangi・・・・・ ・・ wungu
 ・ 買う: tuku ・・・・・・・tumbas ・・・・・ mundhut
________________________________________________________________
  
 ☆ 言語習慣として複雑であればあるほど 人びとの心は広がると言えるのかも知れないですが 必要以上に複雑である場合もあるとすれば どうなるでしょうか。
 《貴様》だとか《御前》という尊敬語が 俗語に変わり果てたように言語事情は 動態的な過程にあることも重要ではないでしょうか。
 
 現代ヂャワ゛語事情に明るくないままにてごめんなさい。
 ラテン語は 言語としての可塑性を謳歌したのでしょうか?
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この回答へのお礼

>言語習慣として複雑であればあるほど 人びとの心は広がると言えるのかも知れないですが
 
 なるほど。脈絡なく変わるというのも、何がなんだかわからなくなりますね。むしろ、英語のwouldのように便利なものがあれば間違いが少ない。ただ、この例をみると、先に挙げていただいた3.の事例がいかに邪悪なことかというのが、わかったような気がしました。

 《貴様》とか《御前》――これが、貴様君とか御前様とかのようになると大変です。あるとき、その辺に転がっていた、ただの男が、御前になった(これだけでも、重大なことだと思いますが)。それが今では、様付けで呼ばれる(なんたることか)。
 様やら君を適当にくっつけてゆくと、動態的なところはうまく表現できている気がするんですが、なんだか違うなという気がします。例えば、ある天使が堕落して悪魔になる。その悪魔はめっぽう悪い奴で、めちゃんこ悪魔と呼ばれるようになった。ところが今では、めちゃんこ悪魔君と呼ばれる――という感じでしょうか。

 つまり、ものの善悪が逆転している。
 ラテン語ならeroの活用になると思いますが、本来、活用に任せるべきことだと思うんですよ。あるところに、ないがあった――という表現は、無用な混乱を招くだけです。

 ところで、百人一首がどうして《なぞ》なんだろうと考えていますが、わかりません。それに、なんだか怪しい気がする。むかし、なんとかの暗号とかって本がありましたよね、確か。

お礼日時:2009/08/04 13:57

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