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最近になって哲学に関心を持ち始めました。
哲学者あるいはそれぞれの時代によって、「何もそこまで」と極端に偏った考えがあったり(ま、そういう説だから残るのでしょうが)、と思えば、それぞれの主張の違いが微妙で誰がどんな主張をしたのか混乱したりと、流れやポイントをつかむことさえままならない状態です。
ところで、「言葉」ってどれほど重要なのでしょうか?
哲学の世界でも、認識と言葉は非常に重要な関係であることが多くの学者によって論ぜられてきましたよね。納得できますし、例えば「記号論」などには非常に関心があります。
しかし最近考えるようになったのですが・・・
あまりに言葉ばかりに重点を置くのはどうなのだろうかと。「言葉」そのものというより「会話」についてなので、哲学とは離れてしまうかもしれませんが、
例えば「言葉のあや」や「言い間違え」などで、相手に誤解を与えたり。
例えば「そんなつもりで言ったのではなかった」ことで、相手に責められたり。
例えば「頑張って」と善意を込めて言ったことで相手を傷つけたり。

しかしそういった場合、発言した側だけが責められるのは間違っていないでしょうか?
人間は言葉だけではなく感性を持っています。大切なのは、聞き手が発言者の言葉をそのまま受け止めるのではなく、その言葉にこもった感情(例えば「悪意がこもっていたか」)をも含めて理解するということではないでしょうか。
つまり、
あなたのちょっとした冗談で相手に不快感を与えてしまった。
この場合あなたは全く悩む必要はない。
冗談を読み取れない相手の能力に問題があるのだ。
というようなことでしょうか・・・。

もちろん相手をいたわる気持ちは大切ですが、
あえてここでは「言葉に重きをおくなっ」って立場にさせていただきます。
皆さんはどうお考えですか?
また、こんな感じの主張をした歴史上の人っているんですか?

A 回答 (15件中1~10件)

例えば初対面の人(ゆきずりの相手等)と


トラブルになったような場合、
相手の第一声から感情までは汲めないでしょう。

すると、必然的に言葉の意味を重視するものです。

当然、物事には優先順位がありまして、
常に「言葉」が最優先とは限りませんが、
重きを置かねばならない状況も、あります。
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言葉でしか、思っていることは伝わらないのだから


言葉が重要になるのではないでしょうか。
「会話」も言葉の連なりでしかないのですから...

「傷つける発言」は、発言した人が相手の状態を正確に認識
していなかったことが原因と思いますので、責められるのは
仕方の無いことだとも言えます。

感情に関しては心理学的な部分もあると思いますので、
そちらの方面に近い哲学者の方は言葉は重きを置かない
考えになっていたはずですが...
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> あなたのちょっとした冗談で相手に不快感を与えてしまった。


> この場合あなたは全く悩む必要はない。
> 冗談を読み取れない相手の能力に問題があるのだ。
> というようなことでしょうか・・・。

これはちょっと視点が違うと思います。
言葉は、異なる人間が意志の疎通を図るための道具です。
その結果生まれる交流というものは、
お互いの共有物であり、お互いに分かち合っているのです。

Sneさんが言いたいことを僕なりに解釈すると、
言葉は、その内容ではなく、誰が、何を、誰に対して語ったのかというように包括的に捉えるべきではないか、ということです。

簡単な例をあげると、友達が自分の性格で悩んでいた。
友達に対して「君の性格は確かに悪い」と言うことは、事実として正しいことかもしれないけれど、
そうではなくて、「いや、そんなに気にすることはないよ」と言ってあげる。
このように、行為として発言を捉えることで、言葉に心がこもるのだと思います。
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>冗談を読み取れない相手の能力に問題があるのだ。



相手の能力に問題はありません。
問題があるのはうまく冗談を伝えられない
(受け取ってもらえない)側の能力にあります。
発した言葉を受け止めるのはあくまでも
相手ですから、相手の受け止め方で「冗談」が
「冗談でない」場合があります。

言葉を聞く側の「その時点の心境、心情」が大きく
左右します。
一連の流れの中で、その言葉を発する事が適当か
どうかを見極めるのは、発する側の責任です。

肉体的な傷は治ることが多いですが
言葉は心で受け止めますので時として
深く残る事もあります。

生きていくための「励ましの言葉」であったり
一生忘れられない「傷としての言葉で」あったり・・。
発する言葉は、やはり慎重でなければなりません、
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>こんな感じの主張をした歴史上の人って


>いるんですか?

どうですかね。Sneさんが言おうとしてらっしゃることは、言葉が発話者の意思とは異なって、相手に伝わった場合、それは発話者だけが責められるのはおかしい、ということだと僕は理解しました(正しいですか?)。この前半までの議論(発話者の意思とは異なって言葉が伝わる)なら、哲学や社会心理学、コミュニケーション論なんかの領域で腐るほどされていると思いますが、後半の「悪いのは発話者だけじゃない」ってのは…。子ども同士の喧嘩でなら聞きますけど(僕もしょっちゅうやってました、「聞き間違えた、お前が悪いんだろ!」みたいの)。

意思の疎通の問題で面白かったのは、以前、清水哲郎編『岩波 新・哲学講義 1 ロゴスその死と再生』(岩波書店,1998)で読んだのですが、ドゥンス・スコトゥスとかトマス・アクィナスなど中世の哲学を中心に研究してらっしゃる新潟大学(だったと思う)の山内志朗さんという方が、書いてらした「天使の言語」という文章です。今、その本が手元に無いので、非常に危なっかしいのですが、思い出せる限りで内容を書くと、こんな感じでした。

以心伝心みたいに思ったことが直接に伝わる(言葉という媒介物を持たない)「天使のコミュニケーション」を人は求めているように思えます。でも、とりあえず、今、そんなことはできません。これからもどうか分かりませんが、もし、できたとしたら、「思っていても言葉に出さない」とか「心に秘める」ということができないわけで、円滑なコミュニケーションとか言ってる場合でないくらいとんでもないことになってしまいます。心の中で、バーカと言ったら、すべての人にバーカと伝わるわけで…。コミュニケーションって、それを行う二者の間に身体という障害があり、その障害が「言葉」という物理的なものを媒介にして「伝える」、「伝えない」、あるいは「誰に伝える」、「誰に伝えない」ということを調節すること全体を言うのであって、単に「伝える」という面だけを強調するのは間違っている…。

と、そんな調子だったと思います。(かなり歪んだ解釈になってると思います、哲学にご興味があるのであれば、前掲の本を読まれることを強くおすすめします)

「コミュニケーションする」ということは、「川に橋を架ける」ということに喩えることができると思います。あるいは「壁にドアをつける」ということに喩えてもいいかも知れません(橋と扉については、哲学者で社会学者のゲオルク・ジンメルの議論にあります)。それはいったいどういうことかというと、あらかじめ何かによって隔てられた二つの場所に通路を設け、「交通」を発生させるということです(この「交通」という考え方は、あのカール・マルクスの議論からです)。そうしなければ、そこに「交通」は生じないということでもあります。「交通」は、言葉の問題に戻るなら、「コミュニケーション」ということです。つまり他者とのコミュニケーションとは、あらかじめ隔てられた人と人の間に架橋し、そこに交通を生じさせるということに他なりません。交通が生じれば、おのずと経済が生まれます。経済とは交換のことであり(「交換」は文化人類学において非常に重要な概念です)、その交換の中で、生活を育んできました。

人間は、他者との絶対的な隔たりを言葉によって架橋することで交通し、経済生活を営んできたのです。というわけで、僕は、言葉を重きを置きます。
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 会話としての言語は共通の言語を持つことによって成り立ちます。

「あなたのちょっとした冗談で相手に不快感を与えてしまった」ということは共通の言語で話していないということです。ジョークとしての言語がジョークとして伝わらなかった、というのはその言語に対して別個の解釈をしている、別個の文化にいるということです。言語とは文化の遺伝子ですから生きている世界観が微妙に異なっている(同じであるほうが気持ち悪いのですが)場合には発言者の意図と異なる反応があって当然です。
 それでも、言語こそがもっとも相手に自分の考えを伝えられる道具であるのですから、相手を理解して相手に伝わるように話すこと、相手の意図を理解して誤解のないように解釈することは一般の会話では重要なことでしょう。言語を共有するということは文化を共有するということです。文化を感性とか生き方とかと言い換えても同じことです。したがって言語は全てを伝えられないのですから伝えられる範囲で伝えるか、自分の文化そのものを言語を尽くして理解して貰うかでしょう。
 「言葉に重きをおく」なということが言語の限界を理解するということであれば、言語系の哲学であれば多くの方がいっていると思います。
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あ~、そうやな。


百聞は一見にしかず、百見は、一行にしかず、百行は一あり方にしかず、無数のあり方も、在る、に如かず。これ以降は数の無い世界だ。だから、今はゆわない。
 
人の言葉は、聞く、というものです。
億の言葉を、幾度募らせても、見るということにはかなわない。言葉は、見たことを伝えるからです。
幾つの場面を見ても、行うということにはかなわない。なぜなら、見えるのは、行いがあるから見えるのです。
幾ら長い時間、様々なことを行おうと、あり方という事にはかなわない。行いとは、生き様とは、あり方の表出だから。

無数のあり方があっても、只在る、には敵わない。
これも、無数のあり方の、その背景が、在る、だからです。
 
在るの、由来は、あらゆるです。
あらゆるの由来は、あらしめるです。
あらしめるの由来は、ありません。
 
同時に、すべてです。

この三元は、数えの通用しない世界です。

人の言葉は、あらしめるというところと、つながっています。それは、聞く言葉ではなく、その人の、意思というものです。言う、言葉です。
また、人の見るということも、あらしめるというところにつながっています。
行いも、あり方も、在るも、すべて、あらしめるというところにつながっています。
つながっていないものは、「無い」
すべて、つながっています。
 
だから、言葉に、重きもおかず、軽んじもせず、自由にしとけゆうことやな(笑。
見ることも、自由に見る!
行い、生き様も、自由を刻め。
あり方も、自由であれ。
在るは、既に自由です。
 
以降三元も、既に自由です。
 
自由は、形而上なので、その本質に形はありません。
ゆえに、形、表出ということを超えています。
 
人の言葉によって形成されるものは、社会や、自分の思い込み、書物、人の文言などです。
それらは自由ですか?
現実を見ると、自由でないことが満開です。
多くの人は、人の言葉に振り回されているのが、現状です。
そういう場合は、言葉を軽んじるという手もある。
重きを置かないのではなく、軽んじます。
そのことで、「見る」や、「行う」といった、ことが、その人に起こってきます。
その効果を期待して、言葉を軽んじるということです。最もよいのは、言葉を自由にしておくこと。

行うということは、できているということです。
できた人というのは、上等な、できた生き様を、持っている人です。
その人は、生きています。
よくできているということは、あり方、自分というあり方を、しているというです。
 
それ以降には、自分はありません。
 
生き様は、そのた言葉によって定義できません。人の生き様をとやかく言うのも無理です。
自分の生き様を、意識しなおすということは、できます。
 
以降三元と、在るから聞くまで、すべて、今という人の生きている場に、あります。
総体的に、意識できます。
  
(普通に生きる、今、人類が求めているのは、自分というあり方を、各々が、意識できる環境に、現にあれているかどうかです。
そういう環境、社会なり、自然環境なり、そういうものを、あり方という観点に立ってみれば、現代人としての自分の状態が、俯瞰でき、また、他の事象について推測できます。人の思いやりや、闘争心、諸々の輝きは、普通に生きれば発揮されるのです。)
 
上等だぜ!
笑笑。

 
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大事なこといい忘れた。


前回答での、あり方。俺らの在り方というのは、生命体のあり方。
自然です。
マジの話。
自然以降の形而上には、自分というものが無いから。
俺ら、といえるところのあり方は、
自然しかありません。人の文明は、百聞です。一見、一行、一あり方、で、自然というあり方から、三次元分、存在の濃度が薄いです。ゆーれいみたいなもんかな?(笑。幽霊みたいな人、いっぱいおるけどな。でも、心や体があるから甦るだろ(笑。)
150億年の生き様を生み出し、それによって季節を超え続ける、自然というあり方です。
この自然は、かなっています。
上等だけでは、全然、すまんぜ?(笑。
 
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目に見えない、例えば気持ちや思想などを伝えるのに


一番簡単で解りやすいのは「言葉」ですからね。
(正確にとは言えませんが)f(^^;)

ところで「言い間違えなどで相手に誤解を与えたり責められたり」
「善意を込めて言ったことで相手を傷つけたり」
とおっしゃっておりましたが、
それと同様に、「気休めに言った励ましの言葉でその人のやる気となる」
「何気ない一言がある人の救いなる」事もあるとお気付きですか?

言葉というものは当人相手双方の関係、気持ち。
ちょっとした言い回しやニュアンス。
時と場所、つまり状況によって
たとえ同じ言葉でも無限の意味を持ちます。

必要大事というのも昔からよく問われる疑題ですが
私はそれ以上にこの「言葉の持つ無限の可能性」の方に惹かれていますね。

あれ?応えになってないですかね。(笑)
ただまあご参考程度に。
これから哲学、哲学的思考について学んでいかれるおつもりでしたら
是非頭の隅っこにでも漂わせておいてください。
長々と失礼いたしました。
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言葉ではなく「文書」だけどさ


イエスも仏陀も、自分では「文書」を残していないじゃない。

ちゃんと「文書」を残していない思想家も結構いると思う。
後期ヴィトゲンシュタインはちゃんとした論文を残していないし
ベルグソンも本人はあまりちゃんとした論文を残していない。
ラカンもネームバリューほどの論文はない筈だ。

まあ、言葉にすると嘘になる、ということと
言葉にすると解釈を限定する、ということかしら。
でも、記号論というのは「言葉が大事」と言った訳ではなく
言葉には限界がある、ってコトを言ってた訳でしょ?
デリダなんかは、それを遊び心をもって証明?しようとしている訳だ。

現代哲学の主張は
Sneさんの仰るコトとほとんど同じ問題意識を扱っていると思う。
ただし「じゃあ、どうすればいいの?」って質問に対しては
現代哲学もSneさんも私も、有効な答を導き出せていない訳ですよね。
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