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藤原京は676年(天武5)にはすでに着工しており、
694年(持統8)飛鳥浄御原宮から藤原京に遷都しました。
完成は704年(景雲元)とされています。

これだけ時間をかけてつくったにもかかわらず
藤原京はたった16年で見捨てられ
710年に平城京に遷都しています。

その理由について、藤原京が手狭だったためではないかとも言われていたようですが
最近の調査では平城京よりも広かった可能性もあるとされています。

藤原京はなぜたった16年で見捨てられたのか?
ちょっと調べてみましたが、これといった定説はないようです。

あなたはなぜだと思いますか。
意見を聞かせていただければ幸いです。

A 回答 (8件)

持論ですが、天智(+弘文)・天武の争いが原因ではないでしょうか?



平城京遷都時の権力者、藤原不比等はご存知の通り藤原(中臣)鎌足の子供です。ただ、壬申の乱で中臣一族は近江朝廷側として要職から締め出されます。ただ、藤原不比等は708年には右大臣にまで上り詰めます。42代文武天皇の夫人が藤原不比等の娘であったことも理由とされます。

その上で、天武天皇の造った都は藤原家にとって不都合だったのではないでしょうか?


その他の考え付く理由として、初代神武天皇ゆかりの橿原に都が有るのは望ましくないと思う勢力があったのかもしれません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

藤原氏は天智天皇と関係が深く、壬申の乱においても天智・大友皇子側についていた。
そのため天武が作った都である藤原京は具合が悪かったと。
もしそうだとすると、不比等・天智天皇後胤説がなんだか気になってきますね。

>初代神武天皇ゆかりの橿原に都が有るのは望ましくないと思う勢力
とは具体的にはどういった人々のことで、またなぜ神武ゆかりの地に都があってはいけないと考えたのでしょうか?

よろしければ教えて下さい。

大変、参考になりました。感謝します。

お礼日時:2009/08/27 20:25

もっとプリミティブな理由として、水の問題があったと思います。



藤原京の場所は基本的に水が得にくく、かつ排水もあまりよくない場所
です。上下水道が完備しない時代、きれいな水が無く排水が悪いと疫病
が頻繁に発生します。また、その当時の「大量・高速運搬手段」は水運
ですが、藤原京には水運が可能な川がありません。

平城宮はともかく平安宮が長く続いた最大の理由は、水が得やすかった
ことと、水運に有利だったことが挙げられると思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

ちょっと調べたところ、藤原京跡から水洗トイレが発掘されているようですね。
道路脇に水を流す側溝が作られていて、それを敷地内にひきこんで
○○○を流していたとありました。
それが京の町中を流れるのですから、相当不衛生であったことでしょう。

なるほど、川の問題はあるかもしれませんね。
飛鳥川の水量はたいしたことないですからね。
たしかに、水運には不便だったと思われます。

その点、平安京の東の鴨川は水量が多いですね。

大変参考になりました。感謝いたします。

お礼日時:2009/08/27 20:36

私もNO1の方と同じように


藤原不比等陰謀説に一票ですね。

天智-鎌足 のラインに呼応するように

持統-不比等 のラインによって、

天武 系の勢力の排除を狙ったのではないか。
という説の本を最近読んだばかりなのですが、

天智-天武の対立はともかく、

天武-持統の対立勢力と言うのはありうるのか。という気はするのですが、

そうでもなければ、この急激な遷都は説明が付きません。


藤原氏-藤原京と側近の名が都の名になったのかどちらが先なのかも
わかりませんが、その辺もからんでいるような気もします。

家屋資材などはそのまま移設したということでよろしいんでしょうけど。

例えば、この遷都は持統天皇の意志であり、反対する一族は
排除する。そんなセリフの一つもあったのかもしれません。
みんな我先にそそくさと都が移っていったという印象さえあります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

>天智-鎌足 のラインに呼応するように
持統-不比等 のラインによって、
天武 系の勢力の排除を狙ったのではないか。
という説の本を最近読んだばかりなのですが

私も読みたいですっ!
本のタイトルを教えていただけないでしょうか。

天武系天皇の血筋は称徳天皇でたえ、
称徳天皇の次には天智天皇の孫にあたる光仁天皇が即位していますもんね

あと、天智天皇の皇子で、光仁天皇の父君である
志貴皇子に正当な皇位継承権があったのではないかという説の本を
以前によみました。(本のタイトル忘れてしまいましたが)

大変参考になりました。感謝いたします。

お礼日時:2009/08/27 20:45

伊沢元彦氏の見解では、



平城京以前は1代1都の理由は怨霊(その都で執務した天皇の死穢)だそうです。

怨霊封じのために仏教が国教化されたそうです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

藤原京はそのスケールから考えてたった一代の天皇のために
つくられた都ではなかったと考えます。

しかし、怨霊説はありえると思います。

平城京から長岡京に遷都したのも
長岡京から平安京に遷都したのも
怨霊からのがれるため、だといいますので。

ふむ、すると藤原宮は持統天皇の怨霊が住む都?
それとも怨霊は別にいるんでしょうか。
大変、興味深いです。

大変参考になりました。ありがとうございます。

お礼日時:2009/08/27 20:51

>藤原京はなぜたった16年で見捨てられたのですか?



現実的な原因としては、生活必需品である「水」が不足していた事です。

サスペンス的な原因としては、天皇家と藤原家の対立ですね。
渡来人である天皇家に対して、藤原家は在地豪族です。
同様に、天皇家よりも古い物部家・卜部家との確執ですね。

オカルト的な原因としては、歴代天皇は即位すると都を移す事が一般的でした。怨霊・祟りなどカルト的な要因でしよ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

そうですね、いろんな原因が絡んでの遷都であったことでしょう。

やはり水の不足がありますか。

天皇家と藤原家の対立
物部家・卜部家との確執
というのは、やはり、天武天皇が作った藤原京が都ではいかん、
ということでしょうか。

物部氏との確執というのは興味深いですね。
平城京遷都後、称徳天皇が寵愛した道鏡は弓削氏で
弓削氏は物部氏の一派でしたから。

大変参考になりました。ありがとうございます。

お礼日時:2009/08/27 20:58

他の方の水運説は説得力がありますね。



自分の知っている説は、藤原京の構造が問題だった、というもの。
藤原京完成後、自信満々で中国へ向かった朝廷使節は中国の都の構造が藤原京とは違い、コンプレックスに感じたとのこと。

藤原京は、中心に宮廷がありますが、その構造はすでに時代遅れで、当時の中国の都は、天子南面ス、の構造で宮廷が一番北辺の中心にあった。都市自体が身分を表しており、律令国家に生まれ変わったつもりの使節はショックをうけ、中国にならった平城京を急ぎ作った、と。

後に聖徳天皇が大仏に北面した際に、大騒ぎになったことからも、この天子南面スは、かなり根深い思想だったのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!
おっしゃられている説は、今日ググっていて知りました。

聖徳天皇が大仏に北面した際に、大騒ぎになったのですか、
なるほど、「天子南面ス」は重大なことだったと思われますね。

どうも昔は北の方向を神聖視するような思想があったように思われます。
天皇という称号自体が北極星を意味していますし。

藤原京の、真ん中に宮廷がある都市構造。
また宮廷は大和三山の中央に位置しているともいえますね。

なんだか呪術的なしかけがあってそういう構造にしたようにも見えるのですが
時代遅れになってしまった、というところでしょうか。

大変参考になりました。ありがとうございます。

お礼日時:2009/08/27 21:06

NO3です。



>本のタイトルを教えていただけないでしょうか。

「なぜ『日本書紀』は古代史を偽装したのか」 関裕二著
http://www.amazon.co.jp/%E3%81%AA%E3%81%9C%E3%80 …

日本書紀は天武天皇の指示で天武王朝の正当性を示すために書かれたと
される定説に異を唱え、実際の中身は、途中から徐々に内容がすり替えられ、
そのため日本の古代史に至るまで矛盾を解消するため、
事実と異なるような記述がなされたために
日本の古代史はおかしなことになっている。
というような内容のものです。

首謀者は・・・・・読んでからのお楽しみのほうがいいですかね。


水運説、呪術説、構造説など説得力のある説がかなり出揃いましたね。
皆さんよくご存じでいろいろ勉強になります。


そういえば、もう1ヶ月もしたら藤原京がコスモスの花で
埋め尽くされる時期ですから、古代のロマンに思いをはせながら
散策というのにもいい季節がやってきます。
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この回答へのお礼

何度もありがとうございます。
明日早速図書館に探しに行きます。
わくわく、楽しみです~♪

ほんとにここの皆さんは詳しい方が多くて
勉強になりますね。

藤原京は大変奥の深い問題だと思いました。

で、藤原京がコスモスで埋め尽くされるなんて素敵すぎです。
そろそろ本薬師寺のホテイアオイが見頃かな、と思ってたんですが
コスモスも見に行かなくちゃ、ですね。
(写真が趣味なので♪)

お礼日時:2009/08/28 00:09

#1です。

皆さんの回答が素晴らしいので補足しないでおこうかとも思いましたが、一応トンでもな推測をします。

まず、神武天皇は記紀において100年以上生きていることになるので現代では何代もの権力者の業績を神武天皇としてまとめたと考えられています。
その上で神武天皇がヤマト王朝初代おおきみ(大王)として即位されたとしている橿原宮(現:橿原神宮)の近くに都を作ったと言うことは必ず何か意図があったと思います。

この先はヤマト王朝の謎や出雲氏族と天孫族の係わり合いなど神話の世界の解釈になってくるでしょうからここでの回答はやめます。神話の解釈は議論になってしまうでしょうから。

その上で、例えば出雲氏族である三輪氏(例えばです)など、神武天皇に対して快く思っていなかった氏族が居たかもしれないなぁという想像です。

記紀については誰が何の意図で編纂したのかが古代史を紐解く鍵になると思います。
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この回答へのお礼

何度も回答をありがとうございます!

>皆さんの回答が素晴らしいので
いやー、ほんとにそう思います。
ものすごく勉強になりました。皆さん、ありがとうございます。

トンデモ、といいますが
いろいろ推理するのは大切なことだと私は考えます。

なるほど、神武天皇は初期大和朝廷の象徴であり、
それを意識して藤原宮が作られたということはありえますね。

天智~持統間の歴史って、初期大和朝廷の歴史をなぞっているようなところもありますものね。

三輪氏など、神武天皇に対して快く思っていなかった氏族がいた、
というのは私もそうだと思います。

>記紀については誰が何の意図で編纂したのかが古代史を紐解く鍵になると思います。

全くそのとおりですね。
藤原宮がわずか16年の都であったことにも深く関ってくることでしょう。

貴重な推論をお聞かせいただいてありがとうございます。
筋道の通った、面白い推論で、楽しく読ませていただきました。

大変勉強になりました。
ありがとうございました。

お礼日時:2009/08/29 11:25

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