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誰がこのような無謀を思いついたのでしょうか?
沖縄に着くまでに一昼夜まるまるかかるわけですから、
米軍に見つかり、航空攻撃の餌食になるのは目に見えているはずです。
どう考えてみても大和が沖縄に到着して、
46センチ砲をぶっ放すことは無理ではないでしょうか?
犠牲になった人達がかわいそうです。
それに草鹿参謀長の「一億特攻の魁になれ!」は
非情すぎませんか?

A 回答 (11件中1~10件)

当時(S.20 春)、の大和以下の水上部隊は決定的な苦境に立たされていました。


レイテ沖海戦から始まった飛行機による神風特攻が、次第に全軍特攻からついには一億総特攻にまでエスカレートしていった時代でした。
政府や軍部は「一億玉砕」などとたわけた事を言い始め、航空機部隊からは「我々、飛行機乗りが全軍特攻で沖縄に突っ込もうとしているのに、なぜ水上部隊は、大和は、瀬戸内海あたりに引っ込んでいて生をむさぼっているのか」という非難があがっていた。

もはや、燃料の極端な欠乏によって、行動の自由も束縛され、しかも飛行機のカサを持たぬ水上艦艇は無力に等しく、その価値はいっそう低下していた。

四月一日、米軍四個師団か゜沖縄本島に上陸。
四月四日、連合艦隊参謀で水上部隊作戦を担当する三上作夫中佐は、連合艦隊先任参謀の神重徳大佐から緊急電話を受ける。

「今日、軍令部総長(及川古志郎大将)が、陛下に作戦奏上のとき、海上部隊作戦能力についてご下問があった。総長は恐懼して御前を退下し、ただいま軍令部と連合艦隊と作戦について打合せ中だが、大和部隊の沖縄突入作戦が計画されることになるだろう。あらかじめ連絡しておく」

三上参謀は仰天した。水上部隊の作戦担当者である彼自身、思ってもみない作戦が、彼の知らないところで纏め上げられ、発令されようとしている。
三上参謀は、すぐさま草鹿参謀長に報告したが参謀長は黙ったままだった。

「海上部隊の作戦能力についてのご下問」について宇垣・五航艦長官は、その「戦藻録」に

「主因は軍令部総長奏上の際、航空部隊だけの総攻撃なるやのご下問に対し、海軍の全兵力を使用致すと奉答せるに在りと伝ふ・・・云々」
おそらく、「菊水一号作戦」の奏上で、それが航空部隊だけの作戦計画であったため、ふと思い付かれてそのように質問されたのだろうが、その質問に対する総長の答えが、瓢箪から駒が出たような大和の突然の出撃の主因だったようである。と言うことです。

>草鹿参謀長の「一億特攻の魁になれ!」は非情すぎませんか?
政府、軍部、国民全体がそういうふうな雰囲気になっていたので、草鹿参謀長だけを責めるわけにもいかないでしょうね。
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漫談です。



あの当時、海軍の一部に、戦艦長門以下残った艦船の一部をソ連に譲渡して、航空機とガソリンを入手しようと言う計画をしていたグループは、確かにいました。

「海岸に乗り上げて砲台になる」と言うのは冷静に考えれば無茶な話しで(水平に座礁出来れば良し、下手な場所に乗り上げて船体が傾いたら主砲の旋回や照準に支障をきたします)、だから、もし本気で乗り上げて砲台になるつもりなら乗り上げる場所や時間は重用で(潮の満ち引きで水位が違いますから)威勢はいいのですが実施には綿密な計画がいると思います。(少なくとも大和が水平に座礁出来る海岸線の選定は必要です)
だから、それなりに事前調査や行動計画がないと実施出来ない筈なんです。「海岸に乗り上げて」という表現は具体的な作戦を指すのではなく、他の作戦時(マリアナ奪回計画で大和作戦の当事者である神参謀の発言あり)にも見られる、当時の軍令部内での突入作戦に際しての決まり文句の一つの様に思います。

様々に伝えられるドラマチックな逸話はあるにせよ、天一号作戦計画には大和の砲台的な用法を指す言葉は無く、単に「航空作戦(菊水作戦)有利なる場合、第一遊撃部隊は特令により出撃し、敵攻略部隊を撃滅す」とあるようで、この方針がそのまま、最大の航空攻撃であった菊水一号作戦に呼応して実施されたと解釈するのが自然な気がします。

それともう一つ。もし奇跡が起こって大和が本島の嘉手納海岸までたどり着き上陸地点へ砲撃をしたとしても、32軍は首里の複閣陣地で戦略持久をとる作戦を実行していたので、呼応して何らかの行動を採る余地はありません。

で、これらのことはみな、わかっていたことです。
日本軍は太平洋戦争で、官僚組織の悪癖を見事にさらしたわけですが、この大和の使用も、個人個人は反対でも、組織として賛成、という異常事態がおきていたと言えます。実際、当時世界最大の戦艦なのだから、講和の一要素としてつかえるのではないか(実際、ソ連は異常に戦艦と言う装備にこだわり、英米に貸与を求めています)、という意見もありました。それらをすべて押しつぶす組織至上主義の恐ろしさの象徴として、この一件は考え、後世に生かすべきでしょう。
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私もだいぶいいかげんなこといいますが、、、、



戦前の朝日新聞のどこが左なのでしょうか^^

左の将校というのは具体的にだれなのでしょうか?

私の知る限り、小沢治三郎は左の本を平気で読んでいたという事実を知っていますが。彼が左とは誰も言わないとおもいますが。

それは数が多いからいたかもしれないが、政策、戦略に実際に影響を及ぼすような将校がいたならば、向学のため是非、おせてくれませんか。
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質問者様が考えているよりかは可能性があったと思います。



多数の航空機により撃沈された大和ですが、逆にいえば多数の航空機をアメリカが用意できなければ、大和を撃沈させられません。

航空機は天気が悪ければ大和を発見できなかったり、発見が遅れて出撃が遅れる可能性があり、うまく攻撃が出来ない可能性があります。
雨が降ったり、夜に近くなっても出撃や攻撃が難しくなり、質問者様が思われているより航空機による攻撃が難しくなる条件があります。

大和の対空砲火は強化されてあり、天気が悪ければ攻撃が遅れたり弱まり、夜は航空による攻撃は不可能に近いため、夜の内に沖縄にたどりつく可能性がありました。

また、数百機の特攻隊が大和と同時に攻撃できる状態で、アメリカの航空機が特攻隊の相手をしている間に沖縄へ行けば可能性が高まります。

実際には、早期に発見され天気にめぐまれず、昼に攻撃されて、特攻隊との同時攻撃もずれました。

一日で沖縄へ行くというのは可能性は低いものの、条件があえば絶対に不可能といえないと思います。

また、海軍は必死の特攻隊で攻撃をさせているのに、生き残る可能性がある大和や艦隊があるのに出撃をしないというのは納得できない心情であると思います。

そのような心情で神参謀から圧力があり、豊田長官も流されたのだと思います。

草鹿参謀長のことについては、伊藤長官は軍令部次長として特攻を指導していて息子も特攻により戦死しているため当時の心情の影響があると思います。
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瀬島龍三(著)「幾山河」によりますと、日本海軍の沖縄作戦は連合艦隊司令部の神先任参謀の提案を司令部内で検討し、豊田長官の決断により敢行されたとあります。

戦艦大和の特攻作戦も同じ経過で決定され、実施されたのではないでしょうか。

当時は太平洋戦争の末期で、日本の勝ち目はゼロという戦況でした。軍部の中枢には日本の「敗戦革命(レーニンの言葉。共産主義革命のこと)」を目指す赤い将校(左翼の将校)が、民間の左翼勢力(朝日新聞など)と手を組んで「本土決戦」、「一億玉砕」を叫んでおりました。

共産革命を成功させるためには国民を立ち上がらせる必要がありました。国民に立ち上がらせるためには、国民の間に、天皇や政府に対する不満を蓄積する必要がありました。親兄弟が戦争の犠牲になり、犠牲者がどんどん増加し、経済は破綻し、毎日の食糧にも事欠く状況を創り出す必要がありました。だから「本土決戦」、「一億玉砕」を叫んだのです。

日本の国をできるだけ悲惨な敗戦へ導き、怒り狂った国民が立ち上がって皇室を打倒し、資本家階級を倒して労働者と農民の国家にしようとしたのです(以前のソ連や中国や北朝鮮や東ドイツと同じ)。

ですから大和と一緒に海中に沈んだ将兵たちだけが可哀そうなのではありません。全戦没者の鎮魂を祈りましょう。

日本の共産化は昭和天皇が食止めて下さいました。彼らが日本を共産化するためには、昭和天皇は邪魔な存在だったのですが、ということは、言い替えれば、昭和天皇が日本の共産化を食い止めたということです。
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No.6です。

補足します。

「菊水1号作戦」この作戦名についてです。この名前を誰が命名し、その意味がなんなのかは知りません。おそらく命名者は神大佐だと思いますが。

「菊水」というと、真っ先に頭に浮かぶのは楠正成の紋だったということです。

楠正成といえば、九州から再起して京に攻め上る足利尊氏軍にたいして後醍醐帝に「京よりいったん撤退し、反攻すべし」と建策を行うも、帝が認めず、結果、負けることがわかっている戦いに臨み、湊川で自決します。

当時の大楠公の人気からして、この知識は常識問題です。頭脳の明晰さだけなら人後に落ちない神が、このことを知らないはずはありません。犠牲のための作戦、もっと穿って考えれば、バカな帝に対する当てつけの作戦名ともとれます。

以上の考えは、私が勝手に考えてるだけで、誰かが同じようなことを言ってるかどうかは知りません。聞き流してください^^;
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菊水1号作戦は、草鹿参謀長が不在のときの連合艦隊作戦会議で先任参謀の神重徳大佐が突然主張したもので、決裁したのは豊田連合艦隊司令長官です。



当然、会議では無謀という反対意見があったようですが、神大佐は「大和にほかにどんな使い道があるというのです。」と逆切れしてます。背景には前の方々が言うように、天皇のお言葉が微妙に影響していたのでしょう。

1945年に入ると、陸海軍の作戦計画は意味不明のものが多くなります。しかし、それは冷静な軍事判断としての話で、もう軍事の専門家としての軍人であれば理解したくなくとも大局的には負けという答え意外が出せない状況であり、体系だった作戦を行う戦力がない状態での判断は「破れかぶれ」にみえて当然なのだと思います。

神にしろ、成功するなんて思っていなかったんじゃないでしょうか(個人的にはそうであって欲しいと思っています。でないと、そんなバカ野郎の作戦で死んだ兵がうかばれません)。結局、海軍の象徴が内地にいるまま負けるわけにはいかない。大和が沈むために立案した作戦が「菊水1号」作戦だったのでしょう。

豊田司令長官の戦後の回想によれば「うまくいったら奇跡だが、多少でも成功の算があれば、なんでもやらなければならぬという気持」だったということです。

軍人は与えられた状況で最善をつくすべきですので、いたしかたないでしょう。政治(天皇を含む)がもっと早くに戦争遂行不能を判断して実施しなかったことが問題です。特攻の鹿屋基地の宇垣司令官は「死んでこい。これは、もう命令の域を越えている」と述べています。同感です。
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自分たちの存在を支えている象徴的兵器の出番がなくなったということも当時の指導者にとっては堪えられなかったこともあったのではないでしょうか。

軍縮条約を破棄したところから始まっているので、今から考えればおかしなことを実行しても当然だったとも言えると思います。大和の巨砲が戦後某ホテルの回転展望台のかたちでよみがえったという話は技術面から見た日本人の長所を示していると思いますが、もともと日本人は戦争が好きではないのだと思います。太平洋戦争を指導した人たちの多くは日露戦争の体験者だったと思いますが、黒船以来無理やり戦争好きのような振る舞いをさせられた日本人がかわいそうにも思えます。大和の悲劇は今でも教訓として生き続けています。
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直接の動機は、昭和天皇が御前会議で「海軍にはもう船(軍艦)はないのか?」と言った一言だそうですが、実際にやってることは、後先考えないギャンブル好きが、帰りの電車賃を大穴に突っ込むようなものです。

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訂正「戦士」→「戦死」m(_ _)m

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