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法華経における二乗作仏と諸法実相の関係を教えてください。

できるだけ詳しく教えてください。
できたら、どの宗派ではどのように考える、などの情報もいただければありがたいです。

もちろん、仏法に造詣の深い方のご意見であれば、
宗派にはこだわりません。

よろしくお願いいたします。

A 回答 (2件)

事物の収束への発言ですよね?


諸>法>実>相
です。
プライオリティーは、相にあると思います。

個人的には、
visnu-pada-utpattiのlaksanamと解釈します。
「経体-蓮台-作佛」の「相」の意味のほうが強いような…という気持ちです。

端的にいうと
経・戒・行・自
の収束=個人信仰(人言=信) ということです。
credo ergo sumです。

問題として、
釈迦むに佛の説く教えは、
コンテンプレーション(厭世=コスモロリタン)の教えです。しかし、自分・自信としては、あるべき仏教の姿は、考え実践していくべきことでしょう。

あと、出遭った宗教者としては、理論に詳しい奴ほど変な野郎(無戒スケベじじい)でした。

WIKIぺのあほさ加減を補う為にも、 まずはNo1さまのように実体的+実態的解釈は必要かもしれません。

諸法実相は、一般教義としても、作佛の「理論的背景」と見るべきでしょう。
「誰でも仏になる可能性がある」ということを眼目として、大枠は、それが可能かどうかの議論です。そういう理論を一言で表した「公理」です。

全部がヒトツの相として現れる。そしてその逆も然り

(時と場所のしがらみは、行動・発言・作意をなくしては、
解きえませんので、これは各自のとりかたによる)

ということで。

ムキーと叫ぶ御猿さんも、「波動としての」その雄たけびは、宇宙の隅々までこだまし、(微笑みの)波紋を投げかけます。DIDIコングの知恵です。「まけないぞ!」です。

滅相が万物に統一平等であるという事実も可能性としてその根拠です。
ありがとうございました。
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声聞・縁覚が菩薩になれるかということですね。


声聞・縁覚は修行して阿羅漢になり実践行を通じて菩薩になる。
というのが正しい理解ですが、声聞・縁覚が出家修行せずに菩薩になれるというのが法華経における二乗作仏でしょうね。
突き詰めれば在家でも菩薩になれるというのが二乗作仏でしょう。
まず正しくは菩薩は同時に阿羅漢ですので、阿羅漢果にならない限り菩薩にはなれないのですね。多くの宗派は菩薩を成仏と勘違いしていますが、成仏を菩薩の悟りとよいように解釈すれば、声聞・縁覚が成仏できるかといえばそれはほぼ無理でしょうね。
声聞・縁覚は仏陀に対しての呼び名ですからね。だから、仏陀再誕の時代に仏陀の声聞・縁覚になれば在家でも阿羅漢になることは可能ですね。それ以外はほぼ無理ということですね。
阿羅漢の条件は諸法実相を知識的あるいは体験的に知ることですので、まず正しい知識が必要なのですね。第一義諦(あの世)、世俗諦(この世)の正しい知識を持ち、どちらにも執着せず(中諦)両方を認めてこの世を生き抜くことが諸法実相を見抜く鍵ですね。ここでの諸法は全ての存在という意味ですね。全ての存在の真実の姿というぐらいの意味ですね。
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