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聖徳太子の本を読んでいて、実は聖徳太子は存在していないと仮説を
立てた「逆説の日本史」という本からの質問です。聖徳太子は、中国から来た渡来人の神様だったのではないかと思っています。その訳は
日出ずる天子→宗教権威がある人に対して使われる言葉だからです。
その他、聖徳太子の像があるお寺と、法隆寺のお寺の違いは何なのか?
という事に疑問を感じました。豪族蘇我氏の祖先が聖徳太子だったので、蘇我氏のお墓がある明日香村に聖徳太子の像が、祭られている。(蘇我氏の氏寺と考えていいのでは?)蘇我氏というのは渡来人で中国人であったのではないかと思います。法隆寺は、聖徳太子の怨霊を弔う為であったとすれば、やはり、存在しなかったということになるのでしょうか?

A 回答 (5件)

 天皇暗殺についてはしばしば伺うお話ですが、ご回答の中に説得性と整合性のあるお話を拝読しまいた。


 そもそも日本書紀編纂の指示の命令から、奏上、公開までどのくらいの年月が経過しているのか、不審を抱くお話も伺ったところです。
 関係者や事情を知る人の、地上をでていく年月が必要ではなかったのでしょうか?
 そんなお話なんですが。今後のご回答を更にお待ちしたいものです。
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「逆説の日本史」で井沢氏は聖徳太子はいなかったとは、言ってないとおもいますが?歴史上の言われているような存在ではないと言ってるにすぎません。



この考えは大山誠一氏も「聖徳太子と日本人」で詳細に証明しています。こちらのほうが詳しいと私は思います。

個人的には、あのへんから天武天皇のはじめあたりの「日本書紀」の記述は相当に脚色されていると思うんですよ。

推古女帝が死ぬまで皇位にあったというのを信用してないんです。おそらく聖徳太子は即位しており、暗殺(?)されたのが実相ではないかと思います。
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こんばんは。



聖徳太子はいなかった、という説を何人かの研究者が説いているようですね。

私も一冊読みました。〈著者名は忘れました・・・スイマセン)

それによると、憲法十七条や官位十二階・三経義疏など
どれも中国の模倣である、よって聖徳太子は存在しなかったとしてありました。

それはそのとおりでありましょう。
しかし、それが聖徳太子のオリジナルでなくても
聖徳太子が実在しなかった証拠にはならないと思います。

怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を遂げた人のことです。
その怨霊を弔うために、
「あなたは立派な人だ」と持ち上げた結果、
憲法十七条や官位十二階・三経義疏などを聖徳太子が作った、
とされたのではないかと思います。

「日出ずる処の天子」とは国書に記されていた言葉で、
天子というのは為政者(つまり大王)のことでしょう。

ご存知と思いますが、かつての日本では怨霊と神は同義語で
さらに仏教の神々と習合されていました。

たとえば怨霊で有名な菅原道真は北野天満宮にまつられていますが
その境内に「東向観音寺」があり、『天満宮御本地仏 十一面観音』
と記されています。

『天満宮御本地仏 十一面観音』の
天満宮とは菅原道真のことです。
つまり、菅原道真という実在した人物は、十一面観音の化身であると信仰されていたのです。

法隆寺夢殿の救世観音は「聖徳太子等身大の像」であると伝わっています。
つまり、聖徳太子は救世観音の化身だと考えられたのでしょう。

この像は長い間絶対秘仏とされていましたが
フェノロサによって夢殿の扉が開かれたとき
布でぐるぐる巻きにされたフランケンシュタインのような状態ででてきました。

http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic36.html

また光背が頭に直接釘で打ち付けられています。
普通はこういうことはせず、足元から棒をたてて光背をとりつけています。
梅原猛さんによれば、これは怨霊が復活しないようにするための呪いでないか、ということです。

ちょっと前に法隆寺金堂展を見にいきました。
金堂の四天王像が360度見れるように展示してありましたが
この四天王像も光背が直接頭に打ち付けられていました。

>聖徳太子の像があるお寺と、法隆寺のお寺の違いは何なのか?

また法隆寺にも聖徳太子像があります。
http://www.horyuji.or.jp/syoryoin.htm

聖徳太子像のほうが、新しい信仰形態だといえるかもしれません。

>蘇我氏というのは渡来人で中国人であったのではないかと思います。

私も蘇我氏は渡来人だと思います。
でも、中国ではなく高句麗人だと考えています。

蘇我氏には蘇我高麗という人物がおり、高麗とは高句麗のことでした。
そのため蘇我氏は高句麗からの渡来人ではないかと言う説があります。
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 ジーザス・クライストも厩のかいば桶がベッドでしたか。


 実は私達が精進しているインド思想の一番最高の方も、牢獄で生まれています。
 父上はむろんんマハラジャ、王様です。
 伯父が策略で、マハラジャ一家を牢に繋ぎました。
 そしてお父様は、生まれたバガヴァン・クリシュナをそっと牢からだして、牛飼いに預けて育ててもらいました。
 これは事実であり、またいろんな比喩にも引用されています。
 非常に示唆的なことですからね。
 私たちはバガヴァン・クリシュナの実在をその通りと存じております。
 イエスについても同様にそのとおりだと存じます。
 厩の聖徳太子のことは、学究たちのいろんな論述があるのでしょうが、粉飾はあるが実在したと存じます。
 厩でうまれたということは、或いは事実無根かもしれません。
 イエスやバガヴァン・クリシュナのようにそうでなければならない理由があるとは存じませんので。
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あなたが最後に書かれているように、法隆寺が聖徳太子一族の怨霊を鎮めるために建てたものならば、存在したという事ではないですか?



本名厩皇子といい推古女帝の甥で政治・経済・軍事・外交などすべてを担当していたのは、当時の中国で女性は相手にされないからです。
ただこれほど偉大な人物が天皇になる前に死んだので多大の同情を招き怨霊信仰の対象になったと思われる。

聖徳太子の聖徳は、謚で死後付けられた名前です。
徳の付く謚を持つ天皇・皇族は、仁徳、安徳、顕徳、順徳、崇徳、文徳といますが、不幸な死に方をした人達ばかりで怨霊になる恐れがあります。  「徳」の字は、それを鎮める意味があると思います。
なお、怨霊思想は、仏教には死に方に区別なく本人の信仰だけで、神道のみの思想です。

したがって、聖徳太子は、日本人で存在したと考えられます。
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