プロが教えるわが家の防犯対策術!

いいっすかぁ!?
目を見開いて、よーく質問を読んでくださいよ!
本質的なことを書きますからね。
あまりに本質的過ぎるので、面食らうかもしれませんが、そこをもう一段掘り下げるととんでもなく人間存在の不思議について突き当たります。

なぜ人は、自分の性を隠したがるのか?

人が存続していくためには実に大切な本能欲求です。
それを、エロ本をもっているのを隠すとは、なんと矛盾した行動なのでしょうか?

そろそろ読むのもいやになってきたかもしれないので、ここからは蛇足です。

小学生のとき20代のおじの家に行って、そのときおじの棚にいろいろ面白いものがあったので、借りてみていたのですが、その中にまぁちょっとエロっぽいものがあった。それをみられたとわかったおじは、いつも機嫌がいいのに急に険しい雰囲気になったのです。「そんなにエロなものってもっていちゃいけないの?」と小学生ながら根本的な疑問を感じて、恐怖というか嫌悪と言うか、大人社会の中でのエロと言う物がそんなに忌避すべきものなんかという戦慄を味わいました。そういうトラウマって誰にでも多かれ少なかれありますよね。

なぜ、こういうときに「ああ、こんなにエロなんだ!立派!」というような感覚に一般人一般社会はなれないのでしょうかね。そんなにも「隠す」ものでしょうか?

A 回答 (21件中11~20件)

こんばんは、疑問はつきませんね。



さてご質問の件ですが、本能だから隠すんですw

人間は、文化的になろうと努力を重ねてきました。動物と人間が異なるのは、文化を持っているからだと思うとしてきました。その結果、人間は「本能」をいかに隠すかと言うことを考えてきました。その結果、体を隠す我々の服装ができ、下着ができ、好きだと直接言う代わりに音楽ができ、好きという言葉を直接言わないで、別な表現にして異性の気を惹こうとしてきました。

まさしく、本能を隠すために文化が発達したんです。人間は本能を隠す生き物なのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
文化と本能が逆向きであるということ、なんと複雑でこまやかなんでしょうかね。はっきりいって面倒くさい。

お礼日時:2010/01/11 21:51

>目を見開いて、よーく質問を読んでくださいよ!


>本質的なことを書きますからね。

「よーく質問を読んで」みましたが、どこにも「本質的なこと」なんか書いてありませんよ。
たとえば、「エロは生存本能」だとおっしゃいますが、何を根拠にこんなデタラメが言えるのか、私には不思議で不思議でなりませんでした。

この命題が成立するには、まず「「エロ(ティシズム)」が何であるかについて、さらにはそれが人間の「生存本能」である証拠なり、理由なりを明示する必要があるのではないでしょうか。
ところが、質問者さんを含めた男性のエロティックな欲求といったところで、家庭での親の躾、学校・社会等の性的環境条件等によって後天的に形成された、あくまでも社会的、文化的、心理的な欲求でしかないことはすでに明らかにされていることだと思いますよ。

たとえば、多くの男性は女性の乳房や性器に性的好奇心を示したがりますが、それは女性が性器、乳房の順により厳しく男性の視線を遮断してきたからとしか説明しようがないのではないでしょうか。
だって、普段から素っ裸で過ごしている他の動物の場合、やはり「生存本能」があるはずですが、動物のオスがメスの乳房や性器を見て発情したなんて話は聞いたことがないですよね。

一方、男性のエロティックな欲求は、女性の乳房や性器のみならず、髪の毛、うなじ、脚や足、下着、靴、手袋等々に平気で発情したがるフェティッシュな傾向を見せたり、成熟した女性のみならず、幼女や妊婦、さらには同性さえ平気で性的欲望対象と見なす倒錯性を帯びたりするのではないでしょうか。

もし、犬や猫に口が利けたなら、人間のこういう倒錯的な欲求に驚き、呆れ、これをほとんどキチガイじみた妄想に他ならないと言い張るでしょうね。
「人間の変態的な欲求とオレたちの生存本能をゴッチャにして欲しくないよな」とも。

>なぜ人は、自分の性を隠したがるのか?

う~ん、質問者さんは、次のいずれの女性に対して最もエロティックな感情を覚えますか?

(1)知り合ってから現在に至るまで、ずっと素裸で生活している女性。
(2)身に着けている衣装を脱ぎ、今まさに裸になろうとしている女性。
(3)男性の視線を意識し、羞恥心に抗いながら裸になりつつある女性。
(4)男性の暴力により、無理矢理衣装を剥奪されようとしている女性。

女性の乳房や性器が性的価値を持つのは、衣装(下着を含む)によって男性の視線を遮断しつつ、同時にその存在をアピールしてきたからと説明するしかないと思いませんか。
言い換えますと、人間の性的価値は、男と女との性的駆け引きの《間》にしか存し得ないということです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

最もエロに感じるのは1ですかね。恥じらいがないという状況が1番エロに思いますね。

お礼日時:2010/01/12 15:35

高い社会的地位にある者もどんな美人でも、やることやってるわけで極端に言えば、犬猫と変わらないということになります。



逆の表現をすれば、犬猫と変わらないのに幻想のベールを纏い御高くとまり疲れながら社会の序列を維持しているとも言えます。

そういう意味では、エロには社会の秩序を破壊する力があるのかもしれません。

エロ全開では社会は破壊されますので隠されなければなりませんが、欲情や脱糞の事実を見ないことにし社会を維持する為の幻想と自己を同一視することは精神を病むことにつながると思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
社会を壊滅させるのが本能であると言う事実もありますね。

お礼日時:2010/01/12 15:36

↓あんだだって隠したがってるんでないだべが?


http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5284025.html
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隠すことが「文化」でありかつ「快楽」を大きくする効果がある。


ということは多くの回答者が述べられている事なのできっとそうだとも思うのですが、それでは質問者様の「本質的」な態度に答えたものにはならないと思いますので、蛇足として私の体験を述べたいと思います。

私が子供のころ(65年前)ようやく日本人の「都会の」女性がパンツをはくようになりました。それでもその当時老齢の方は頑固にパンツなしで(こしまきを着けていましたが)頑張っていたのを覚えています。
私が思春期の頃(55年前)電車の中で乳房を丸出しにして赤ちゃんにお乳をのませていたのが次第になくなりました。

なぜそうなったかということは、私もはっきり覚えていますが、西欧ではやっていないことだから野蛮なことだというキャンペ-ンが張られたからです。

私の小児期の刷り込みでは女性はパンツをはかないもの、ブラジャ-なんかほとんどなかったのでノ-ブラだったことが当たり前でした。
従ってパンツをはいている女性にエロ・・以下質問者さんの云う意味で・・を感じ、ブラジャ-をしている女性にむしろエロを感じたのです。

もう一例、正規のAVではモザイクがかかっていますがモザイクのかからない方に普通の人は刺激を感じるから規制するのでしょうか?
多分性器を直接見せてはならないという「規制」は上記と同じ一般的に西欧で許可されていないからだということになるでしょう。
これには性行為がキリスト教やユダヤ教で原罪との関係で厳しく律せられているためだと考えます。日本の神社のご神体の中に男性器、女性器をかたどったものが多くあることは周知の事実です。
日本ではあのモザイクはむしろある方が刺激が強く(想像力が勝手に働いて)ない方がむしろ刺激は少ないと思います。しかしモザイクの廃止を許可すれば→の資金源を立つことになり絶対に立法化されないでしょう。(私も危ないかも・・)

エロが隠される最大の要因は実は「非合法な商売がもうからなくなる事を防ぐ」という泥臭いところへ落ち着くのではないかと考えます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
究極的には大きな陰謀によると言うことらしいですね

お礼日時:2010/01/12 15:38

動物は裸ですが、行動を本能に強く支配されていて、


発情期以外は欲情しないので、生活に支障はありません。
しかし人類は、自我意識によって本能をコントロールし、
ある時は衝動を抑制するが、逆にある時は、裸を見たら
年がら年中欲情するようになってしまった。
だから、パンツをはいて隠さなければならなくなったのです。
(伝統的生活により強力なモラルが確立されている原住民は、
裸でも大丈夫)

つまり「裸の原住民がいやらしい」のではなく、「パンツを
はかねば四六時中発情してしまう“文明人”が変態」なのです。
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この回答へのお礼

発情を押さえなけれなならないという強制があるわけですね。

お礼日時:2010/01/12 15:39

「淫行は配偶者間ではok」というタイトルの質問を書いていた方ですね^^。



私は普段は いろいろ忙しくてなかなかこちらの回答とか質問が出来ないでいる者なのですが、 三日間だけなんとかこちらにもこれる時間がとれる日が訪れましたので それで先に上のタイトルの方に回答を入れておきました。

おそらく回答内容は どちらにも通じる内容となっているかと思います。

是非読まれてみてください。

エロ本や ポルノは あまりお勧めは出来ません。

本当に健康で成熟した男女のセックスは とてもすばらしいものです。エロ本やポルノは そのすばらしさを反映したり表現した文や映像の世界とはなっていないからです。

ほんとうに深く感じることのできるセックスならば何も隠すことはありません。

そこにはいやらしさとか 下品とかいう要素が1つも無いからです。

が、それは もう1つの方にすこしだけですが、きちっとしたその理由を書きましたので、それを読んでください。 

隠す心境になるのは、むしろ あちらにも書きましたように、いままでの資本主義の必要からの所有欲の醜さの後ろめたさからのものだと私は思っています。

それは ほんとうに全身で感じる挿入とは別な地点を知る事が出来れば 深く感じればコントロールが可能なので、むしろ人間は生殖とは別に セックスを明るく楽しく味わい楽しめるのです。

また、これからは人間はそうすべきだとも思ってもいます。

ただし、そのためには、おそらく今の今は プロの技術が必要です。

経絡の理解や 喉の奥の性感帯(全身の快感の根元)の活用が出来る しかもそれをコントロールして実地に教えることのできる人たちが必要なのです。

興味がありましたら、質問は、 どこからでもしてください^^。

文章での記述ならば いくらでも無料で書きますので。

ただし、 誤解されないような書き方とかも、ここでは必要ですけどね^^。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
本来隠すものではないのが、西洋的な倫理基準の浸透によってあたかも正当なようになってしまったようですね。

お礼日時:2010/01/12 15:40

なぜ隠すか。


何であれ、隠すということの理由において誰でも真っ先に思い当たるであろうことは、「恥ずかしさ」あるいは「不利さ」です。
なぜ恥ずかしいか。不利であるか。
自分の弱みを晒すことだからです。
自分自身を防御しなければならないとする意識が、ふだんから強い人ほど、弱みを見せることを当然、厭います。
こういう人ほど、その弱みを受け入れ、共有し得た相手に、特別な仲間意識を抱くのは自然なことでしょう。
女性が多く、自ら望んで自分の肉体を自由にさせた相手に、以後よりいっそう情を深めがちなのは、このへんに関係しそうです。
いっぽう、
隠されているものを暴くということには、冒す者の支配欲求が絡んでいそうです。これは、所有欲とも関わりが深いでしょう。科学などの学問分野とも密接に繋がっているはずです。多く、男性が関わる分野でもありますね。
そして、安心して支配しつつ所有が叶う対象となったあかつきには俄然、興味を失う傾向も、よく見られることです。
逆に、全く支配・所有が叶わない対象という結論が明らかになった場合も、これはこれで、その結論に落ち着いた、ということで、一種の安心感とも言える諦念と共に、関心を失うのでしょう。

さて、
自分があずかれない悦びを、傍の他者が味わっているのを見るのは、多くの者にとって、ねたみの感情への刺激となります。
しかも、自分にも手が届きそうな、あるいは、自分こそが手中にできるはずと思う対象ほど、他者が易々と手に入れているのを見ることは、所有欲が強い者、言い換えれば、自分の弱みを強く意識せざるを得ない者ほど、激しいねたみを感じることでしょう。

特に、恋愛や性的な方面における問題について、独身であるとか、安定して交渉できる相手に根深い不自由を感じている男性などは、そうした悦びを満喫している同輩への嫉妬は、なかなかのものがあるように見受けます。

日本でも、昔は、夜這いですとかあったそうですが、正面から堂々と交渉するに恵まれない者であるほど、背後から狙うというような搦め手的手段に訴えざるを得なかったことでしょうし、それは、やがて犯罪的行為にも繋がっていきます。
犯罪行為ということになれば、当然、社会規範に繋がってきます。


他人からの嫉妬の視線、これは、実は非常に恐ろしい障害をもたらすことになるのは、古代から人はよく知っていたようで、これを避ける方策は、おまじないの類から社会規範に至るあらゆる分野に影響を及ぼしているのが古今東西に見てとれます。


ねたみや不自由は、犯罪行為へと発展しやすいですし、ですから、それを誘発するであろうことへの意識が希薄であること自体、危険性が高いわけです。
そういうことからも、高度に発達してきた人類の社会において、隠すという行為が発達してきたという面は指摘できると思います。

しかし、ここで翻って、
実際の、わが身に及ぶ危険性の低さを確信しながらも、つまり捻じれた優越意識のもとに、他者のねたみや不自由を誘発し続けることには、いわゆるサディズムに繋がる快楽感もあるようです。

多く、女性に見られる露出度の高い衣装などが、男性の視線を強烈に奪いつつ同時に、多分に被害意識的な強い反感を招きがちなこととも関連していそうです。
そうした反感をもたらした対象を蹂躙することは、一転、今度は自分が支配側にまわったという勝者の意識を、たとえ一時的にせよ、もたらすでしょうから、それが叶わないうちは、悶々と被害意識を募らせ続けることになりますので、それが、やがて世に「異常性欲」ですとか「ヘンタイ」と呼ばれるような犯罪行為に繋がっていくのかと思われます。


なぜ隠さなければならないか。
隠さざるを得ないことの弱み。それを晒すことが、なぜ危険に繋がり、それを冒すことが、なぜ快楽や、やがて犯罪にも繋がっていくのか。

どうやら、
隠さなければ<ならない>
という地点にまで遡って、考察しなければならないようですね。


アラブのほうの女性の被り物ですとか、日本でも、宗教上の場所などで、いまだに女性の出入りを忌む習慣ですとか、その根本にある、恐らくは男性ならではの弱さ、ということも考え合わせてごらんになると、なかなか深いものが見えてくると思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
やはり、人間の高度に錯綜した思考内容、思考方法、情動の多方向性というようなものが、このような「隠す」という行動傾向に行く元だと思います。

お礼日時:2010/01/12 15:33

養老氏の「唯脳論」が、疑問に対する答えを与えてくれるかも知れません。


参考図書:「カミとヒトの解剖学 」
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480086 …

哲学の本質であろうところの「知を愛する」の「愛する」に対する「知」の(幻想的な)優位性が(質問に対する答えの)本質になろうかと思います。これは、「大脳皮質」の優位性そのものに相当するでしょう。

身体側・自然側は、情動と密接に関連しており、脳(大脳皮質側)・知的思考側の意志・意図・思索の支配下に身体側・自然側を対置し、隠したいと思っているという図式が「唯脳論」の本質です。

脳(大脳皮質・知)は「予測性・統合・論理的」な思索を好むゆえ、身体側・自然側での「予測不可能性・自律性・非論理的」な情動の発動を制御しようとし、制御不可能な場合隠したいと思うわけです。

情動を知的優位性の配下において、理性的なレベルで会話の対象に為し得ることができたなら、あまり羞恥心を抱かずに「扱うこと」ができます。

情に対する知の優位性を暗黙裏に共有しうるということが、「隠す」という行為を正当化するとともに、「正々堂々と話すことのできる理性的な情況を生み出しうる」ということも同時に成立させているのでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
本能を隠したいと思うようになった人間は、以下に社会的になったのか理解できます。

お礼日時:2010/01/12 15:32

性淘汰…………そのような男が、女に好まれた。

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