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はじめまして、私の家族の事でご相談させてください。

私は、4人家族の長男なのですが、弟が潔癖症です。
弟が病気で苦しんでいるのであれば、
家族で協力していこうと話をしているのですが
弟が自己中心的な考えをしていて悩んでいます。

例えば、弟を含めた家族で病気について話しているときに
「自分が病気なのだから家族が協力するのは当たり前だ。」
と、発言したり、
汚いものを触った事によってストレスを感じた弟が
家のリビングの壁を殴って壊していた事がわかったので、
何か家族に話すことはないのと聞くと
「自分がムカついたから壁を殴った」
などです。

上記の二点について言うのであれば、私としては
「自分が病気で家族に迷惑をかけて申し訳ないけれども協力してほしい」
「ストレスが溜まって壁を壊してしまった、ごめんなさい」
と話してくれれば気持ちが楽なのですが、
そのような発言や行動ばかりだと精神的に疲れてしまいます。

ただ、その性格が
病気に内包するものなのか
本人の性格的なものなのか
が判らずどうしてよいものか悩んでいます。

(病気であれば受け入れるべきもので、性格的なものであれば叱って注意すべきものだと考えています)

ご助言いただければ幸いです、よろしくお願いいたします。


弟について
・10年程前から潔癖症です。(以前、お医者さんには、脅迫性神経症と診断されています。)
・現在大学生4年生で、4月から社会人です。
・自己中心的な性格は、家の中や家族に対してだけで
外では、潔癖症のことを隠しており、他人(家族以外)を気遣う。
・自分の病気の要因の一つとして家族の関係(頑固な父や強引にきめてしまう兄)があると主張している。

A 回答 (2件)

病気に内包するものなのか,人の性格的なものなのか?という事に付いて感じた事を書いてみます。

この事はどちらにしても本人の考え方の結果と思います。ストレスが多くて心が病気になる、という事と、ストレスを溜めやすい性格のせいでという言い方も同じ事を言っています。

つまり本人の考え方には(我儘が在り)何事も自分の嫌な事に対しては受け取ろうとしない、という心の癖(分別)というもので判断してしまうという事が問題になっています。良いものは好きだから心に受け入れる。嫌な事は嫌だから受け取りたくない。という事です。

心を病むという事は原因がストレスに在るという言い方をします。処が同じ環境に在っても、ストレスにしないで何事も無かったように平然として、安楽にしていられる人がいます。その違いはその人の考え方や、世の中の見方に在ります。

簡単に言うならば、その人が受け入れられるものが多い人はストレス源が少ないという事になります。心を病む人とはストレスとして感じてしまう事が多くある、或いは強く感じてしまうという事になります。

それはその人の生き方の誤り、或いは世の中の認識の仕方に誤りがあるという事になります。言い方を変えたならその認識の間違いを「本人」が一番知っていて、本人の心の「本心」がその人の自我意識を苦しめているという事になります。

分かり難い書き方をしていますが、人間は誰でもが自我意識としての意識と、「本心としての意識」が在ります。自分の心を観察して分かると思いますが、心の中で二つの意識が戦っている経験はあると思います。その心同士の戦いが強い場合が「心を病んでいる」という事になります。

その詳しい事を書いてみます。貴方の弟さんは、今までそうとう我儘に育てられています、その事が今の状態を作り出しています。如何言う事かと言いますと、「何事も自分の好きに出来た」とい言う過去が在ります。処が大人の脳になってきました。ここの事が関係しています。

家の中では今まで通りに「我儘が通っています」処が本人の頭の中では「このままにはならないかも知れない」という恐れが生じています。いわゆる漠然とした不安というものが頭いっぱいに広がっている、という事です。この不安感が「心の病の」正体です。

この不安が勝ってしまって、誰の言う事もきけなくなっています。つまり自分自身の不安を打ち消すのに必死になっているという事になります。多分誰の言う事もきかないと思います。それほど自分の心は不安が占めているという事です。

この事の解決は本人の認識が変わらない限りは好転しません。本人が目の前の出来事を、自我意識というフェルターを通して見ているせいです。そのフェルターは好きは受け入れる、嫌いは拒んで受け入れようとしない。という働きをしています。

弟さんの心の中では二つの意識が戦っています。自我意識は先に書いたフェルターが在ります。処がもう一つの意識には全てを肯定していて全てを受け取っています。心の中では否定する心と、肯定する心が戦っています。その事が潔癖症という強迫観念を生み出しています。自我意識は否定する心という事になります。つまり現実を肯定出来ないという否定的な心になっているはずです。

自我意識ともう一つの意識との葛藤が「神経症」の全ての元となっています。この解決は大変難しい事になります。ですが神経症になったという事は逆な見方をするなら、本人のためには仕方がなかっと事とも言えます。何故ならば生きている者は全て現実を受け入れてゆく事が必要と言えるからです。

自我意識は現実を受けれられない、或いは受け入れたくないという思いが在ります、ですが本人の中には受け入れて働いている者が存在しています。この心の矛盾を症状として受け取っています。本人は四六時中苦しんでいます。周りの人には分かりません、ですから身内の人には我儘が出ています。

これからの対処方法は出来る限り「本人の意思に任せる」事が良いと思います。良い事も悪い事も本人の意思で決定するという事が本人のためになると思います。神経症は本人が治ろうと意識しない限りは治る事は難しいと思います。只気をつけないといけない事は、神経症の治りとは症状の改善ではありません。症状を受け入れる事が完治となります。症状とは「内なる声」という意味が在ります。

内なる声とは、仏性と言っても神と言っても良いものです。自我意識の暴走を内側から攻めている者が存在しています。この事に気が付く事が「人生においての救い」という事になります。脅迫性神経症とは内なる声が(我儘な)自我意識に対してそのままでは何時か困るかも知れないという声を症状として与えている事に相当します。

人生は良い事も悪い事も誰にでも平等に差別なしで振り掛かってきます。良い事ばかりを望んでいて、悪い事を嫌っている心が返って不安を呼んでいます。悪い事(症状)を受け入れた時に神経症は治ります。自分自身の声が聞こえたという事は、繊細で敏感な心を持っているとも言えます。嫌なことも受け入れる時にはストレスがない人生を歩む事が出来ます。今は反対に何事もストレスにしてしまう考え方になっているという事になります。参考になるものとしては森田療法というものが在りますが、この療法を学ぶのは本人しか出来ません。従って本人が治そうという意思が強くある事が必要不可欠な条件となります。いずれにしても本人のこれからの生き方が大事な事になります。

弟さんが安楽に生きてゆけるようにするためには、何事も受け入れてゆくような考え方になる必要があるといえます。嫌なことも受け入れてゆく生き方の事です。この事を周りから強制するのではなくて、あくまでも、本人の自覚からが全ての出発点となります。その事を本人が分かるまで周りの人は見守ってゆく以外にはないかも知れません。我儘で誰の言う事もきけなくなっています、自分の声に気が付くまで待つ以外にはないような気がします。
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この回答へのお礼

まずは、ご返答に感謝いたします。
ありがとうございます。

精神的な病気は、本人の考え方が密接に関係しているものなのですね。
まず、二つは切り分けて考えるものではない事が良くわかりました。

なので私が書いた
>(病気であれば受け入れるべきもので、性格的なものであれば叱って注意すべきものだと考えています)
というのは、安易な考えでしたね。

「本人の意識に任せる」という事は、これから心に留めていきたいと思います。
正しい事だったとしても、意見を押し付ける事によって、弟の考える機会と病気を治す機会を奪ってしまっていたのかと思うと複雑です。

あれから家族と、弟の意思を尊重しながらやっていこうと言う話をしました。

ただ、現実的な話になった時に、
「汚いから2日程家から出て行って欲しい」
と言ったりする事に関して、どこまで対応すべきなのかは正直図りかねています。
(今のところは、実現が難しいですし、出来ないと言っています。)
これは、本人の意思ではなく、我侭なのでそれでいいのか?と漠然と考えています。
このあたりに関しては、正答というものは無く難しいものなのかなと思っているところです。

大変参考になりました。どうもありがとうございます。

お礼日時:2010/01/14 23:12

人間関係の問題の中に相手が変わってくれたら良くなるのにと


思う気持ちがあると思います。
でもそれは自分は何も変わらずに相手だけが変わればいいと言っている
ことになるとのではないでしょうか。

上手くいっていない人間関係を良くするには誰かが変わるのを待って
いてはいつまでもそのままです。
まずは,自分が変わりましょう。
変えることは,自分の考え方や物事の捉え方です。
それはすぐに変えられませんが,時間をかければ少しずつ変えられる
はずです。
そして自分が育ってくるはずです。

自分の育て方がわかると、他人の育て方がわかるようになります。
誰かを変えたいのなら自分を育て自分を変えることです。
それが他の人に良い影響を与えると思います。

問題を起こしている人への対応は,始末をつけさせてあげることです。
元通りにすることは全て本人に任せてあげましょう。
誰かが片付けていては,いつも誰かがどうにかしてくれると勘違いします。
でも,協力を求められた時には相手が成長できるような協力をしても
いいと思います。
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この回答へのお礼

ご返答ありがとうございます。

弟が病気と言う事で、
私が正しく、弟が異常であるという認識が
私に出来てしまっていたと感じました。

そのため、自分の考えを押し付けてしまっていた部分があったのだなと思います。
自分自身は変わろうとしていなかったのだと思いました。

これからは、自分の意見が必ずしも正しい(社会的に、弟的に)
とは限らないと心に留めて自分も弟も変われる様にしたいと思います。

どうもありがとうございます。

お礼日時:2010/01/14 23:51

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