プロが教えるわが家の防犯対策術!

このカテでいいのか迷いますが。
個人としての人生論しては部分的には良い線いっているのかもしれませんが。
近代の会社の経営や教育にそのままとり入れるには害が大きすぎると思っています。

・芸は身を滅ぼすという考えが日本の産業デザインが発達しない元凶
・皆が岡目八目なら誰が碁を打つのだろうか。理念を示さない人間こそが卑怯ではないだろうか。
・仕事に建設的な創意工夫をしたりまたは建設的なアイデアを上げることを否定していたら何も改善されないのではないだろうか。
・他の人間のすることばかりを、探偵の様な油断のならない眼で良い悪いと心の中で判断している様な人間は、本質が何かを見ようとしていない。

いづれも変化を阻み経済の成長を低迷させるものと思えてしまいます。本来の伝統とは日々変化してきたものだと思っています。

A 回答 (45件中1~10件)

よく意味がわかりませんでした。


極右というのはたいへん愛国的な人でちょっとついていけないほど過激な思想の持ち主です。極右を間違えて解釈していませんか?
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

愛国心という面では、リベラルも保守も愛国心のための思想だと個人的には思っています。

立て方があいまいだったみたいでごめんなさい。
今回の極右は、武士道を核にした軍事政権が底流にある思想と思ってください。

お礼日時:2010/01/22 09:17

 こんにちは。



 背景事情をあつかって回答に代える仕儀をおゆるしください。

 わたしは この日本の国の成り立ちについての江上波夫による征服王朝説にはくみし難いと考えていますが 騎馬民族に特有の社会形成に関する思想については 歴史や日本の社会についての性格を考える上で有益な情報を明らかにしたと思っています。 

 日本の社会は スサノヲ市民圏とアマテラス公民圏との二階建て構造から成っているとわたしは考えていますが そのアマテラス公民の《統治》の仕方に関して 江上学説はおしえるものがあると考えます。
 自分では何もしないが 全体をまとめる政治力に長けているという統治の能力でありその形式に関してなどなどです。君臨すれども統治せずという象徴ないし権威の存在の問題もあるかと思います。
 この思想傾向が スサノヲ市民圏の企業や組織にも影響をおよぼしていると考えます。

 つぎに挙げられる思想や生活態度の特徴は もっぱら遊牧民族の独占するところだとは思いませんが おそらくそれらと農耕民族との交通や融合という場において 両者の考えも練りあげられて行ったと見られるのではないでしょうか。
 ちなみに 中央アジアのチュルク系の諸民族だけではなく アラブ民族や 一般に北方のゲルマンなどを中心としてヨーロッパ民族も 遊牧騎馬民族だと捉えられています。

 ▲ (『江上波夫の日本古代史――騎馬民族説四十五年』)~~~~~~
 騎馬民族の社会〔は〕
 1.民主主義的 
 2.主知主義的 
 3.機能主義的 
 4.国際主義的
といったような 共通な特徴をもち 
 5.優れて人間中心で 
 6.すべての民族に解放的な 自由な性格の
 7.実力優先の社会であった・・・。

 このような古代遊牧民族の社会は 《有形な文明》は持たなかったが 《頭脳の文化》《無形の支配者文明》を持っていたので それがあってこそ彼らは農耕都市文明地帯に征服王朝を建て 多民族の世界国家を建設することができたので またそこにおいては東西の文化を交流させ 地方的な土着の文明 宗教の権威を打ち砕き それらの物質文明を人間中心の理念によって再編成し 様々な世界文明――古代ペルシャ文明 ヘレニズム文明 キリスト教文明 仏教=クシャン文明 アラブ=イスラム文明 ゲルマン=西欧文明などを生成する契機をつくった・・・。
 すなわちそれらの文明は ユーラシア大陸の古代遊牧騎馬民族の《頭脳の文明》 眼には見えない《無形の支配者文明》を共通の根源としてもってお・・・ったのである。・・・(1992 p.347)

 ▲ (同上) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 征服王朝が征服している場合は武力による場合ももちろんありますが むしろ軍事力によってではなく 文化的に同化したり 政治・経済的に合作したり 結婚や買収や 盟約や談合や 外交手段などで 戦争による場合と同様な成果をあげて 相手を服属させたり 仲間に入れたりする無血征服の場合が多い・・・。(p.289)

 ▲ (江上波夫vs佐原真:『騎馬民族は来た!?来ない?!』)~~~~~
 近代を特徴づける
 1.民主主義・
 2.個人主義・
 3&4.植民地活動・ 
 2.実用的な学問・実験の発達
は 本来 遊牧騎馬民族の間にあったものだと思うんです。・・・

 8.核家族制
 9.契約制 
 5.土地よりも人間を問題にする人間主義 
 7.能力主義 
 1&5.平等主義 
 6.恋愛の謳歌 
 3&4.開拓・植民 
 2&3&7.知識・情報の愛好など
は 早くから騎馬民族を特徴づけたものです。・・・
 動かざる 農耕的な古代的文明をつくったものと それから 動く 一つ一つは滅びて消えていったけれども それぞれが常にその時代におうじた騎馬民族的な役割を持ったものと その両者によって世界ができているんだと私は思うわけです。(1990 p.115f.)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうして これらの考え方が うまく機能するか 裏目に出るかなどによっても分かれてくるのではないかと考えます。

 たとえばこの日本は島国ですから たとえ自由で開放的な進取の気風が一たんは吹いても そう長くは続かなかったという場合も考えられます。または土着の縄文人を受け継ぐ農耕日本人の中から これらの進取の精神はむしろ出て来ているのかもわかりません。

 いづれにせよ 悪循環を引きずる場合が見られるのではないでしょうか。いちばんの短所は 植民地主義ないし帝国主義という考え方でしょう。二階から一階を見おろしてよきにはからえというやり方です。そこにメンツがかかっていると思い込んでいるとしたら どうしようもないでしょうと言うほどの悪循環に陥って行きます。
 具体論でなくてすみません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>君臨すれども統治せずという象徴ないし権威の存在の問題もあるかと思います。

なるほど、君臨のスペシャリストということですね。リーダーシップという行動力の面で、ある意味、必要な職業なのでしょう。’餅は餅や’ですね。しかし、その人の近くに慎重に問題を分析する分析屋さんもいたらなおいいかもしれませんね。

遊牧民族と農耕民族の関係は確かに根底ではつながっていると思いますが、それぞれの違いを認識することも必要だと思います。
無血征服は日本人が得意な玉虫色の解決策ですね。

>たとえばこの日本は島国ですから たとえ自由で開放的な進取の気風が一たんは吹いても そう長くは続かなかったという場合も考えられます。
>または土着の縄文人を受け継ぐ農耕日本人の中から これらの進取の精神はむしろ出て来ているのかもわかりません。
>いづれにせよ 悪循環を引きずる場合が見られるのではないでしょうか。

この辺の分析をできれば深めていただければ、うれしいのですが。
土着民族の側からは見えない視点もあると思いますので。

お礼日時:2010/01/22 09:35

>芸は身を滅ぼすという考えが日本の産業デザインが発達しない元凶



 そうだろうか?芸は身を助く と言う言葉もあるし、それに独創的なアイディアがないのはむしろ 和を持って尊しとなす という思想や、みんな対等、みんなおんなじ♪ とか 「我は無い」という思想によるものだと思いますが。腐母性社会が原因ではないでしょうか。

 なんでもよしよし ではダメなんじゃないの。

>理念を示さない人間こそが卑怯ではないだろうか。

 理念 とは何でしょうか。質問者さんの定義でよいので教えてください。

>他の人間のすることばかりを、探偵の様な油断のならない眼で良い悪いと心の中で判断している様な人間は、本質が何かを見ようとしていない。
>いづれも変化を阻み経済の成長を低迷させるものと思えてしまいます。

 アイデア、独創ばかりがよいわけでもないでしょう。ふるいにかけるべきものはふるいにかけてこそ 独創的なものが生まれる土台がしっかりするとも考えられるしね。
 変化を拒むのは、自分の主張ばかりして新しい芽を摘もうとする人ではないでしょうか。妄想や屁理屈やわがままは アイデアでもないし変化成長を促進させるものではないでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
理念とはとっても平たくいうと「自分はこう思うのだけどどうかな」ということです。

ご回答の内容は総じて表と裏があるのだからそれでいいのではないかという意見と推察しました。

それはもっともだと思いますが、現代における社会の問題を探求する為に立てましたので、もし本当のところ何が原因というご自身の根っこの部分の考えがありましたらご意見のほどお聞かせください。

お礼日時:2010/01/22 09:43

 こんばんは、Hidocchiです。



 まず、誠に恐縮ではございますが、“極右”とはどういうものかご教示いただければ幸いです。

 愚生の知る限り、確かに“右寄り”の人たちは見受けられますが、現在では、敵対する“左翼”の衰退化、そして会社法の改正により、“右翼”(組織としてのです)は資金難に落ちているといわれています。そして、組織自体も弱体化しているとも聞きます。確かに“ネット右翼”なるものが出没しているようでございますが。

> ・ 芸は身を滅ぼすという考えが日本の産業デザインが発達しない元凶

 愚生の記憶では、「芸は身を滅ぼす」とは、為政者等(昔では、武士)に対して指し示す言葉だったかと記憶しています。日本の産業デザイン(モデル)が弱体化しているのは、(国際)ルールなるものを、日本人が打ち出せないということかと考えていますがいかがでしょうか。例えば、銀行のBIS規制の導入にしましても、明らかに日本に対するアテツケだったかと思っています。

> ・ 皆が岡目八目なら誰が碁を打つのだろうか。理念を示さない人間こそが卑怯ではないだろうか。

 意見を等しく致します。高みの見物で、好き勝手に言っている人がいます。「もちろん、自分が当初予想していたことが、外れれば人の責任。一方当たれば、自分の成果。」かような人は時々ですが、見かけます。

> ・ 仕事に建設的な創意工夫をしたりまたは建設的なアイデアを上げることを否定していたら何も改善されないのではないだろうか。

 原則、同意見でございます。全面的に賛成しかねますのは、“イケイケドンドン”で進めてしまうのを防ぐ人も、仕事上の組織論としましては、若干数は必要であるとの理由からでございます。ですが、建設的な意見・アイデアを元から封じてしまうというのは、確かに“改善される結果を導かない”と考えております。

> ・ 他の人間のすることばかりを、探偵の様な油断のならない眼で良い悪いと心の中で判断している様な人間は、本質が何かを見ようとしていない。

 意見を等しく致します。本質論から離れ、まるで重箱の隅をつつくような人は散見されるのも事実と思われます。原則、ひとなるのが、何の権限でもって、善・悪を定義しうるのか、そしてまたその定義でもって、人を裁けるのかという考えは、当人にはないのだと考えております(私法による制裁は、憲法の硬く戒めるものかと)。「だったら、自分で手本を見せてください!」といってみたくもなります。

 ですが、かような人たちと“極右”との関連性は、愚生には分かりません。

 お手数をおかけいたしますが、ご返答いただければ幸いでございます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
一通り意見を拝見すると、「極右」という言葉は適切ではなかったかもしれません。「日本人に潜在的に根付く保守的発想」ぐらいでしょうか。
あとは同意見です。

極右的な発想は、行動力という面では優れていると思います。
しかし、間違いなくジェンダーの問題は残ります。

そしてもっとも気をつけなければならないのが、ミスリードしやすいということだと思います。自戒というのはあくまでも自戒にとどめておかなくてはならないわけで、「他に自戒させる」のはもはやミスリードだと思うのです。人間とは弱いものでどんなに注意を払っても、「スタンフォード監獄実験」の例にもあるように、自分に甘く他人に厳しくなってしまうと思うのです。
都合のいいように良いとこどりしては良くないと思うのですね。

例えば「潔くないことは潔いことだ」というのも、それを上っ面をなでて終わらずに。
「潔くないことは潔いことだ」であるが「潔いことも潔いことだ」
だから「潔くないことが潔いことなのだ」と帰結しなければと思うのですね。

しかし、私自身、問題が今だ見えてきません。

お礼日時:2010/01/22 10:06

 No.2です。


 お応えをいただきました。
 その中から次の主題について 投稿をつなげます。

 その前におぎないをひとつしますが
 ☆☆ (回答No.2) 江上波夫による征服王朝説にはくみし難いと考えていますが
 ☆ については 思想としての征服があったと捉えられる節があるという意味です。

 さて
 ★ (No.2お礼欄) 遊牧民族と農耕民族の関係は確かに根底ではつながっていると思いますが、それぞれの違いを認識することも必要だと思います。
 ☆ 平屋建ての市民社会――ムラムラのマツリを中心にして共生していた頃――から二階建ての構造を持つようになるそのいきさつについて 遊牧民と農耕民との思考形式のちがいをつぎのように推理します。

 まづ遊牧民族ですが これは――江上波夫によりますが――早い話が他人のモノをかっさらうというかたちです。ですから すでに他人たちがその国づくりとして いわゆる王を立てて二階建ての構造に作り上げていたなら そのモノをかっさらうというかたちです。
 ただし説かれるように 民主主義で実力主義ですから 取締執行役員(CEOですか)や各分野の専門家をどこからでもいいから(よその国の人間でもいいから)連れて来てどしどし起用する。そういうかたちで国という二階建ての家を経営すると言います。また自分たちは その土地の人びとと同化してしまうと言います。

 農耕民たちが 国をわざわざ二階建ての家にする場合というのは 考えたのですが つぎのような場合ではないでしょうか?
 上に触れた《王を立てる》というのは けっきょくムラのおさ(長)を立てるという発想ですから 平屋建てとの違いが 必ずしも明確ではありません。
 そこには 人びとを寄せて束ねるという発想が加わる必要があると考えました。(ヨリ・イリ・ヨセという心性ないし歴史知性のあり方の問題だと思います)。

 マツリの神(神々)が いわば観念となるかたちを持つ。ここに始まりがあるのではないか。いちいち神の概念を問わないで非思考において信仰していた人びとの間に これを観念において我が物とする動きがあった。
 この観念をもとにして その神々を――あくまでも新しい動きにおいては 観念として――共同化することによって国づくりを一段と行きわたらせる。いわば神々の代理 つまりその代理としての人間の登場ということではないかと考えます。
 この志向性のもとに現われたのはもともとは 《王の徳をあまねく行きわたらせるという感化政策》というかたちではないでしょうか。ただしすでにそれは 二階からのはたらきかけというかたちを採らざるを得なかった。一階つまり平屋建ての社会にあっては 徳性はおのづと人びとに伝わります。観念化をせず観念化を拒むようなかたちで。

 つまりは こうです。
 或る日或る時どうしても我れは 神のごとくに如何なるものの下にも立つまいと決意した人間がいたわけで かれはそれはそれは人間的になるよう努力します。もうこれ以上は人間的になれないと思って周りを見渡すと 誰もそのような人間性というものに関心がない。
 そこでかれは最初の誓いを保持したまま 人間や社会に《イリ(入り)》するのを方向転換して 人びとを《ヨセ(寄せ)》することに専念しようとする。その手段が 《王化の徳・王の徳の感化》であり そのような《観念のあまねわり》(あまねく行きわたらせる)だと見ます。武力は第二の手段だと見ます。


 あとは おまけです。
 この観念の繭という核の傘政策は 人間論からすれば 忌まわしき事態です。人間の自由の違反です。――ただし 社会という視点をとれば 《ヨセ》つまり通俗的に言って《依らしむべし 知らしむべからず》の政策は 自然やひとに《ヨリ》つく傾向を持った人びとを導くための短兵急なやり方であって ふつうの歴史知性である《イリ》としても その導き方を時間をかけておこなうはずだと考えれば 五十歩百歩だとも言えます。
 特に 外国が攻めてくるといった非常時には 《ヨセ》の行き方が用いられる場合があります。それでも人殺しはしないという非戦論を採る《イリ》思想の一系譜というのは どうでしょう あるでしょうか? ありえないでしょうか?

 ということで 社会という視点に立てば 人間の自由論からして忌まわしきことでも これをただちに元に戻すということが どうも出来なかったようですということを添えておこうとしました。
 国家は存続しました。観念の共同は 一般にアマテラシテ(象徴であり 権威のことです)のもとに 一定の期間において 確固たる地盤を築いたのではないでしょうか。
 そこで忘れてならない基本的な歴史事例は のちにアマテラス二階族を形成する人びとに対して かれらが《おれたちに任せてくれ。このくにの人びとを寄せさせてくれ》と拝みに拝んで ふつうのイリ知性たちに話を持ち込んだとき 後者の人間たちは前者の人たちに《くにゆづり》をしたということです。根負けしました。一方では《もううるさいからということで神だなに据えた》のでしょうが 他方では《思う存分好きなように経営能力を発揮したまえ》と言ったかたちで任せることになりました。
 その後月日は経って いえいえ千五百年経ったのでしょうか 《くにゆづり》した側は――つまり一般スサノヲ市民らは―― 総じておとなしくして来ました。《ゆづった》のですから そうそうは《返せ》とも言えません。そういういきさつで 現在に到っていると見ます。

 締めのひとこととしては この農耕民の国づくり方式に遊牧民の統治形式が混ざり合っていると思える。これです。どうでしょうか?
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>この農耕民の国づくり方式に遊牧民の統治形式が混ざり合っていると思える。これです。どうでしょうか?

そう言えなくもないとは思います。しかし私は現代の問題の焦点がブロジェロンヌさんの言っているところにあるとは思えません。
しかし参考になりました。ありがとうございました。

お礼日時:2010/01/30 11:31

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

Hidocchiです。

> 「極右」=「日本人に潜在的に根付く保守的発想」ぐらいでしょうか。

 例えば、以下のような、オルテガの「大衆の反逆」に見られる特徴が見られるということでしょうか。これは、1930年にスペインにて刊行されたものですが、現在の国々(諸外国も含みます)でも、当てはまると言ってよいかと思われます。しかし、これらは現在の日本に特に当てはまるとも感ぜられます。

・何事においても他律的で、他人や世論に同調し、あるいは自分に同調を求める「烏合の衆」。→ 井戸端会議(単にヴァラエティ番組で見た内容)で得られた結論を、社会(他人)にまで押し付けようとする。
・文明の恩恵が自動的に享受できるのを当たり前と思っており、文明や伝統に対する畏敬や感謝の念、 また、未来に対する責任感を欠いた「忘恩の徒」。 → 現在の日本の快適さ、利便性を当然のものと勘違いしている。これらは、過去の諸先輩方たちの希望・努力の所産である。しかも、将来に対しての責任感を持っていない。

 では、なぜかような状況が諸外国よりも強く感じられるのでしょうか?

 愚見ではございますが、以下の2点が大きな要因となっていると思われます。heartmind様とは幾分理由が異なるかと存じますが.......

1.戦後民主主義の悪平等
日本は資本主義の社会であり、また資本主義である以上は、競争社会ともいえると思われます。ですが、競争社会といいましても、ある程度のルールが存在すると思うのです。確かに人は完全には平等(身体脳力、外見等)とはいえない部分があろうとは分かってはおります。ですが、ある一定の“チャンス(機会)”というものは保障されなくてはならないとも思っています。ですが、某県(市)の教員採用試験に見られるような、コネクションによる決定(見かけは、一般公募という体裁は整えてはいるのですが)、さらにまた、競争、競争!と謳っていながら、実はその政治家は二世 or 三世議員であること 等でございます。そして、かようなねじれた競争が“悪いのは私じゃない症候群”(香山リカ著「悪いのは私じゃない症候群」ベストセラーズからです。愚生は立ち読みしかしていないのですが)を生み出してしまったと考えております。

2.“失われた20年”ともいわれる不況
穀物の収穫が減少すれば、魔女狩りの件数が増加するという相関関係が見られるとのことです(浜本隆志著「魔女とカルトのドイツ史」講談社からです)。つまり、不況が続くと、必然的に人の心理は閉塞感に覆われてしまうのかもしれません。
 この閉塞感が、人様にまでをも非難の的にしてまっているのかもしれません。

> 人間とは弱いものでどんなに注意を払っても、「スタンフォード監獄実験」の例にもあるように、自分に甘く他人に厳しくなってしまうと思うのです。

 もし、この実験を現在の日本で実施すれば、どんな結果になるでしょうか?この閉塞感に満ちた日本では、米国よりももっと悲惨な結果になるかもしれませんが、どうでしょうか。

 とても憂鬱な結果となってしまいましたが(とても、くらーい内容となってしまい、申し訳ございません)、ご意見等賜れば、幸いでございます。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。オルデガの「大衆の反逆」について、調べてみました。とても勉強になりました。ありがとうございます。

しかし、私はハッチさんと少し違う見解になりました。
現在、日本は閉塞感、疲弊感を感じて、今一歩、踏み出せない状態が続いている。ここまでは、同意見ではないでしょうか。

その疲弊感は半端なものではなく、想像以上のかなりのものではないかと思うのです。

例えば派遣労働者の場合、いつ首を切られてもしょうがない労働のしかたを繰り返して行くうちにそこから這い上がることさえ怖くなってしまう。這い上がれたとしても、またどん底に落とされるのかもしれない。
それはマリッジブルーの時の感覚と似ています。こんな幸せ信じられない、どうせいつかは捨てられる。こんなに苦しい思いをするならいっそ結婚しない方がましという、不決断という決断、前言撤回という断言を選択する心理です。

愛情に恵まれない経験をしてきた人がなかなか愛情をうけいれられない
当然の人間の防衛本能が働いているだけではないでしょうか。

屈強にたたされたホームレスの内面は貴族のように誇り高くなっていることでかろうじて人間性を保とうとしている。

社会が悪いという社会のせいにしているという見方はあまりにも単純で、自分がだめだから、どうにかしたくて社会をどうにかしたいというのが、本当のところではないかと思うのです。

気がついたら、全ての人間が手も足も出ないほどに、ころころとまんまるくなっていた。

学生のモラトリアム化はある意味、賢明な選択ともいえるかも知れません。社会は人間を疲弊させて使い物にならなくなるところという潜在的な社会からの情報をキャッチしているのかもしれません。

お礼日時:2010/01/30 12:00

>根っこの部分の考え



 確かにこれを顕すことが出来れば、それが理念と言えますね。

>もし本当のところ何が原因というご自身の根っこの部分の考えがありましたらご意見のほどお聞かせください。

 宗教や神話と、それにたいていの解釈が元になっての普段日頃の人々の在り方と世界観がもたらす影響が 根本原因でしょうね。

 生めよ増やせよ とか 犠牲になるものが居てこそこの社会は成り立つ とか 和を以って尊しとなす とかでしょうね。

 「根っこの部分」ということですので...
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>宗教や神話と、それにたいていの解釈が元になっての普段日頃の人々の在り方と世界観がもたらす影響が 根本原因でしょうね。

すいません、私自身あまりにもこの件に関しては実感がないために、何ともいうことができません。何かこういう原因の具体的な例があるとありがたいのですが。

>生めよ増やせよ とか 犠牲になるものが居てこそこの社会は成り立つ とか 和を以って尊しとなす とかでしょうね。

「生めよ増やせよ」は現代の少子化に対する問題ですね。確かに、生めと言われて、そう都合よく生めるわけがないので、生めない原因を考えることが必要ですね。単純に経済だけの問題でもなさそうだし。

「和を以って尊しとなす」の弊害は私も現代の病の根源的な部分だと思います。

お礼日時:2010/01/30 12:13

訂正



 それにたいていの解釈が~

⇒それにたいしての解釈が~
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2010/01/30 12:17

まず、失礼ながら、私も、おっしゃりたいことの意味が、よく分かりません。

「産業デザイン」と「芸」が、どのように関係しているというのか、など、ご質問本文全体および各ご回答に対するご返答も含め、私には些か呑み込みにくいタイプの御文章ですので、恐らく、質問者さまのお求めなさるところも、あまり分かっていないのだろうとは思いますことを最初に申し上げておきまして、

「芸」なる言葉も、その指すところは範囲が広いですね。
遠くもない昔でも、芸をしてみせる者は、蔑みの対象でしたそうな。こんにちでも、年配の人なら、そういう気分を残しているかもしれません。
「芸は身を助ける」とも「芸は身を滅ぼす」とも言われるようですが、「芸は身を助ける」のほうならば、動物園の象さんでも、わきまえているようではないかと思われます。
単に、なぞるだけなら楽ですが、一からつくりあげるのは大変なものですね。
生きるはりあいになるのなら「助ける」でいいのでしょうが、芸に身を縛られるまでになると、どんなものなのでしょうか。
往々、孤高の芸術家、とか、天才は孤立しやすいとか聞きます。破滅型の天才肌、とも聞きますし。こうなってくると、「助ける」よりは、「滅ぼす」ほうに傾きがちかな、とも思います。
しかし、自分一身を省みず、後に残すに足るものを残すのならば、「助ける」のか「滅ぼすのか」、さて、どう違うのだろうか。

理念を示さない人間こそが卑怯、と言うなら、自ら理念を提示しておきながら、また自ら反古にしてしまうのも、いかがなものなのか。

>他の人間のすることばかりを、探偵の様な油断のならない眼で良い悪いと心の中で判断している様な人間は、本質が何かを見ようとしていない。

そんな感じの人も見てきておりますが(実際、探偵職だったりして?!)ご本人にしてみれば、ぬかりなく、油断のならない眼で他の人間のすることばかりを監視し、常に、それらを良い悪いと心の中で判断しているくらいでなければ、本質の何たるかを考えてもおらぬ者には本質の何たるかを分かるまい、と思っているのではないですか。
監視される側の者としては、監視する者に監視し返す、ということにならざるを得ないことになっているのではないかと思われます。(ボードリヤールあたりが、近いことを言ってたような。)

>理念とはとっても平たくいうと「自分はこう思うのだけどどうかな」ということ

それが言いづらくて言いづらくて、どうにも…と言う人だっているのですし。

実際に碁を打つ人に、示すべき理念がなくて通るものなのでしょうか?

>仕事に建設的な創意工夫をしたりまたは建設的なアイデアを上げることを否定

そんなことしていて通るような企業では、いずれ生き残れないはずと思います。実際に、殆どの企業は、全ての社員に対して、日々要求しているはずです。

もしかしたら、そもそも、何が「建設的」であるのか、それすら見えないでいるのかもしれないし、
あくまで他人には「自戒」を要請しておいて、自分には暴走することを許しているかもしれないし。

>「潔くないことが潔いことなのだ」と帰結しなければ

これは、つまり、「汚れ役」も敢えて引き受けるというような潔さですか?

「スタンフォード監獄実験」などというものは、今現在にも、大のおとなから子どもたちまでが日常のそこかしこで直面していることではなかろうかと思います。


余談ですが、どこかで聞いた話。
都会から、ある農村地帯へ移り住んだ人の話だったと思います。
村内で、何かの問題が起きたとき、移り住んできた人が、その問題のことについて何度、話題を持ちかけても、土地の農民たちは、「そうかね」の一言しか決して口にしなかった、というのでした。一種、賢い処し方には違いないのだろうとも言っておられました。

責任を負うのが厭で、われ関せずのその裏は、無責任でいられるならという条件付きの関与の快楽ではないのでしょうか。
日本人の一般に、好むところなのでしょうか。


日本の伝統と言えば思い出す一つが和服ですが、これとて時代の変遷につれ、大いに変化してきて、こんにちの様式美の極に至ったわけですが、この頃になりますと、滅多に出番もなくなったという皮肉さが漂います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
産業デザインと芸についてですが、デザインという芸術性をいかに産業化するかということにつながります。モノづくりの産業にデザイン性をとりいれるという発想です。アマガッパさんがイギリスの産業デザインの歴史と日本の発達との違いについて述べてくれました。

やはり、総じて裏があって面があるのだからいいのではないかという意見だと思います。

しかし、現代の問題の探求すべくたてましたので、本当のところどう思ってらっしゃるのかをうかがいたかかったのですが、、、、。

ここから無理やり結論づけをするとしたら、何事も表裏あるのだから、塞翁が馬でいいではないかという、流れに乗りましょうという心理が、そも人間の進むべき道を立ち止まらせている。相手がどう出るかをお互いが待っているという停滞の状態ということでしょうか。

お礼日時:2010/01/30 12:39

失礼ながら他回答は読んでおりません。

駆け足で述べますが、
この際、極右と極左はどちらも同じように問題から外れるでしょう。
すぐれた産業デザインから遠く、傍目八目の根性で、理念を目的と履き違え、
創意工夫の通気性に乏しく、他人のすることを視界に入れてばかりの近眼視である、
といった愚昧さに、日本はなぜ陥るのか? という問いとみてよろしいですか。

そうですね、芸は身を滅ぼすの芸は遊びであり、日本では江戸までの社会には存在した心だと思います。
もう一歩譲ると、地主の廃止と財閥解体までであろうと思います。
ヨーロッパの産業革命後も、職人を失ったせいでデザインの荒廃が訪れますが、
それまでのデザインというものが産業工芸品のためのものではなかったので、
その旧式の職人的概念のものをコピー生産すると悲惨な乖離を生むのですね。
イギリスは国を挙げて教育機関や研究誌を作り、工業のための新しいデザインを確立します。
ヨーロッパでも材質と用途と予算とスピードに合ったデザインが生まれます。これが19世紀末から20世紀初めまでに成し遂げられるわけです。
この動きを支えた財力というのは、旧時代のような王侯貴族ではなく資本家です。社会権力が資本家に移ったのですね。
日本は、大名や皇族や大商人が芸事やお道具に財力を注いだほどには、
その役割とりわけ進取の気風を、結局は近代資本家にシフトすることができなかったと思います。
世界恐慌と関東大震災の近さや、第二次大戦の疲弊も一因かもしれませんが、経済成長の方法がたぶん違うのだろうと思います。
また、工業立国としては、条件に応じて構造的に求められたものである欧米のデザインを、輸入コピーしていじりまわすことになるので、
材料と手法から作り出して模索してきた本家とは、その後の発達力において差が出ざるをえないでしょう。
つまり、伝統をもってこういう発達力のあるところが、遊びの心の強さ、しなやかさだと思うのですが、
この発達には、現場のアールと同じくらい批評も欠かせないはずです。
傍目八目は、言語化していく批評たりえないところに、日本の脆弱さがあるといえそうです。
さきほど、イギリスが学校と雑誌を作ったことを書きましたが、
現場が職人の親方から離れて工場主の手に渡ったときに、遠いところから固め始めたイギリスという国の神経の太さ、手強さが垣間見えます。
あと、そうですね、
創意工夫の通気性の悪さ、横目使いの近眼視ですが、
わたしは、この島国でも江戸までの治世には、上下を通す通気性や大局視や彗眼の生かし方があったのではないかと思うのです。
ずっと以前の大阪府知事さん曰く、東京と何が違うって
一般人が簡単に知事に会って思いつきを話せるし良いアイデアなら実現するということで、
気風の違いなのだけれど、それだけに地方であって中央ではないということでもあるとのこと。
ということは、緩みのない中央集権制では何が起きてしまうのかというのが、考えどころのような気がします。
持ち場の歯車と化したつまらない人間を作り出して、横の人間のすることばかりを気にする神経症者を作り出すのでしょうかね。
暮らしに余裕がない、ゆるみがない、遊びがない。
やはり何か、日本の実際に使える財力の底の浅さというか、少ないお金を取り合って時間を削っている民衆のありかたというか、
拝金主義や効率主義のコンパクトかつコンビニエンスな方向性が浮かび上がってきますね。
時間的に非効率でも人間の営みが関わる形態として無駄がない、というような美学は生きてこない社会ですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
イギリスの工業デザインの発展の歴史についてとても勉強になりました。

>持ち場の歯車と化したつまらない人間を作り出して、横の人間のすることばかりを気にする神経症者を作り出すのでしょうかね。
暮らしに余裕がない、ゆるみがない、遊びがない。

そうですね。こういうところ確かにありますね。

>時間的に非効率でも人間の営みが関わる形態として無駄がない、というような美学は生きてこない社会ですね。

この考え方は必要ですね。人間をすさまじい疲弊感から救うためにも。

お礼日時:2010/01/30 12:26
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