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世界中が平和であって欲しいと願う気持ちはエゴでしょうか?

僕は、人間に欲と想像力がある以上、世界平和は現実的に実現不可能な理想論、
つまり、間接的に自分の心の痛みを和らげようとするだけの、自己中心的な考え(エゴ)だと思います。
仮に200年先に自分の子孫がいなくても、200年先の世界平和を願えますか?結局は子孫への愛ですか?

みなさん、どちらだと思うかと、その理由も教えてください。

gooドクター

A 回答 (14件中1~10件)

No7のshoujin24tです。

書き方が悪かったですね。申し訳ありません。

>例えば依存症で、熱心な宗教活動をしている人に対して、宗教に頼らない宗教のない世界にいけるよう努力させることも、強要であり、押し付けでしょうか?
(その人の熱心な活動が原因でその家族と親戚に不協和押し付けだと思います。音が発生しているとして)

私は、どんなことであれ、人に命令し、その通りに行動しろというのは、強要であり、押し付けだと思います。

以下の内容があいまいでした。
 人は、みんな自由に生きていますが、自由故に周りが苦しんだり、迷惑を感じることはあります。
 自由というものは、素晴らしいものかもしれませんが、自由とは、自分の意志、判断で決定し、行動するものです。自分の判断が悪ければ人を苦しめる結果に繋がるかもしれません。
 そういった時に、ベストな考えを強要することによって人を苦しめる結果にならなくなるかもしれません。もし、人を苦しめる結果にならないとすれば頭が良くて良心を持つ人なら、感謝すると思います。
 ですが、もたない人なら、文句を垂れるでしょう。そういう人から見れば、「自分の考えを押し付けやがって、自己中心的なやつだ」と思うと思います。
 これが人間です。人間の中にはこういうやつもいます。

人間の中にこういうやつもいるから、世の中、平和も、みんなが気持ちよく暮らせる社会も実現しません。(もちろん、人間だけが問題ではありません)

そういった人間にはそれは駄目、こうしないと言いたくなるのが人間の本心だと思います。(言っても無駄だとか、自分は言うのが嫌だから言わないとかありますけど)
 もし、それは駄目、こうしなさいと言って、本当にしたら、その人のためにもなり、平和実現の1歩となるのでしたら、押し付ける、強要する行為はエゴ(自己中心的)かもしれないけど、結果的には、愛になると思います。

書いていて自分の中ではっきりしてきました。
結果、気持ちあっての自己中心的か、愛かということだと思います。

強要して

結果が上手く行けば愛、結果が失敗すれば思い込みによる過ち

人のことを思ってすれば愛、自分のことだけ考えればエゴ

人のことを思ってしても、失敗すれば傲慢。

書いていてこっちが勉強になりました。たぶん、この考えもあいまいな気がします。最後の結論は________syu
さんにお願いします。
参考になるか解りませんが、以上です。
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この回答へのお礼

とても参考になりました。
僕は読んでいて違うことを考えました(★より下)。

ただ、宗教に入ることを進めてくる人は、他人のことを思っているのですか?この場合はどうなのでしょう?仮に僕が入ることで進めてくる人は何が得するのですか?完全に洗脳状態なのでしょうか?


★>頭が良くて良心を持つ人なら

ということですが、やはり、頭が良く、良識を持ち、精神状態が極めて正常で、自分を客観視でき、感性が豊かで自然を尊重し、他人に対して思いやりの心があり、人生の目的を若くから探し求め、明確な目的を見つけて変な欲が無く、その過程で形成されてきた独自の価値観で生きられる人、


でないと平和にはならないんでしょうか。
というより、そういう人たちが多いことが現代における“平和”なんでしょうね。

でもそうなると、無理ですね。。。

お礼日時:2006/07/05 19:24

> 例えば、植林、緑地活動、もエゴでしょうか?



それはエコです♪なんでいきなりそんな話が出てくるのかさっぱりわかりませんが、それはとても良いことです。私はWangari Maathaiのファンですよ。エゴだろうがエコだろうがその活動には賛成します。

人間が地球環境を保護しようとするのは、人間がそこで生きていけるようにするためです。今まで人間の都合で森を壊して、他の動物を殺し、縄張りを広げてきました。それが原因で困ったことになったのでまた人間の都合で元に戻そうとしています。少ない動物は保護し増えすぎる動物は殺して環境を調整します。人間というのは(他の動物もそうかもしれませんが)自分の都合でしかものを考える事ができないのです。

現在の植林活動が未来の世界にどんな影響を与えるか、それはわかりません。いつか酸素が増えすぎたら今度は伐採しなければなりませんよね。それも人間が生きていくためです。植物も動物も人間の都合で増やされたり減らされたりするのです。

私達には現状から推測できる未来までしか想像できません。それはもしかするとエゴがあるからで、エゴがなければ遠い未来のことも目の前のことのようにわかるのかもしれません。そうなるともう神ですけどね。

> いつの時代であれ誰しもに感謝され、誰にも迷惑をかけない

それはあなたや私が決めることではなく、その時代の人が決めることです。いつかそう思ってほしいと祈る(エゴですよね)ことはできます。そう思うはずだ、と考えるのもやはりエゴ(=間接的に自分の心の痛みを和らげようとする)だと思いますよ。


今度は「自然環境問題」のカテで会いましょう♪

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=345084
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この回答へのお礼

僕は緑地化も世界平和と同じだと思うのですがなぜ別々で考えられるのでしょうか。。。
酸素が多くなりすぎる可能性は、地球が10個できる可能性より低いと思いますし;

>それが原因で困ったことになったのでまた人間の都合で元に戻そうとしています。

じゃあ例えば、イヌイットの人たちは、自分達が動物を狩りすぎたから今でこそあれほどまで感謝して利用しているのでしょうか。違うと思います。感性がとても重要だと思います。


ここは議論してはいけないそうなのでいったん閉じます。また近い内容の際はぜひご回答ください。

ありがとうございました。

お礼日時:2006/07/08 01:24

#11です。

再度お礼(?)を頂きありがとうございます。

> (それが前提にできる時点で、『200年どころか2000年先の人類の事、もっと何億年も先の太陽系の事だって考えますよ。』というのが嘘だと分かります。嘘だったり、本心以外のことを言われると分からなくなるので、あるがままでお願いします。)

参りましたね(笑)、いいかげんな事を書いたつもりはないんですけどね。

私は考えますよ、200年先の人はどんなPCを使っているのか、とか、2000年先の人類はもう地球にはいないだろうな、とか。でもその時代の文化や生活は私の想像を超えているはずです。だから「わからない」のです。200年後の子孫の顔は思い浮かびません。

嘘つき呼ばわりは予想外でしたが(笑)、別に構いません。私のことはどうでもいいんです。私は最初に言ったようにあなたを否定してるわけではありません、アドバイスしているのです。

私はあなたの言う、願うだけで何もしないのはただのエゴであり実現に向けて少しでも何かするのがよい、というような考え方が

> 将来の人類に感謝されることができます

という考えを導き出す事をはじめから想定して、それは思い上がりだ、とアドバイスしているのです。

エゴに罪はありません。しかしエゴによる行動には罪があります。
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この回答へのお礼

例えば、植林、緑地活動、もエゴでしょうか?
酸素がないと生きていけない上、酸素が薄くなると(結果的に)さまざまな合併症が起こるという地球の性質上、植林などの緑地活動だけは絶対的であり、いつの時代であれ誰しもに感謝され、誰にも迷惑をかけないと思うのですが、これは思い上がりでしょうか?

お礼日時:2006/07/06 16:01

11番です。

お礼を頂きありがとうございます。

> たしかにそうなのですが、そういう結果論的な不安定な要素で未来が作られるのが恐いのです。

そう言うだろうと思ってました・・・。その恐怖心こそがエゴの本質だと知るべきです。

> 僕は200年先の人のことも考えるのですが、それは僕が異常なのでしょうか?

自分で異常だと思うのならそうなのかもしれませんね。でも私だって200年どころか2000年先の人類の事、もっと何億年も先の太陽系の事だって考えますよ。そうじゃなくて私が言いたかったのは「想像はできない」ということです。

> 200年先の人間のためになることは、今の周りの人のためになることよりもたやすく、誰にでもできるはずなのですが、なぜそれをしようとしないのか、と思うわけです。

あなたは200年後の人の気持ちを理解していると思っているのですか?神様みたいに?

私が思うのは、今あなたが思っている「200年先の人間のためになること」は、あなたのエゴが造り出した想像にすぎない、という事です。

あなたはエゴイズムそのものに否定的な感じですが、生きている限りそれから逃れられません。もっと向き合って考えるべきです。
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この回答へのお礼

>その恐怖心こそがエゴの本質だと知るべきです。

その通りです。

>あなたは200年後の人の気持ちを理解していると思っているのですか?神様みたいに?

それは人が人としての営みをしていることが前提となっていますね。

(それが前提にできる時点で、『200年どころか2000年先の人類の事、もっと何億年も先の太陽系の事だって考えますよ。』というのが嘘だと分かります。嘘だったり、本心以外のことを言われると分からなくなるので、あるがままでお願いします。)

今のままでは、200年先の人類なんてそれが不可能なのが明確です。200年先も500年先も、今も、500年前も、人間に必要なものは同じです。だから守っていかないといけないものは守っていかないといけません。そのための努力は誰にでもでき、誰もがその行いを成功させ、将来の人類に感謝されることができます。そういう意味でした。

お礼日時:2006/07/06 01:09

> 僕は、人間に欲と想像力がある以上、世界平和は現実的に実現不可能な理想論、つまり、間接的に自分の心の痛みを和らげようとするだけの、自己中心的な考え(エゴ)だと思います。



とてもわかりやすい説明で、私もそう思います。

問題はその後です。

> 仮に200年先に自分の子孫がいなくても、200年先の世界平和を願えますか?結局は子孫への愛ですか?

この問いはよくありません。本当は誰も未来の子孫の事など考えていない、というか考えられないのです。せめて20年にしてください(笑)

200年先の人というのは、たとえ自分の子孫であっても他人のようなものです。なぜなら200年先のあなたの子孫があなたのことを考えることはできても、あなたが200年後の自分の子孫の姿を想像をすることは不可能だからです。

言うまでもありませんが、私達は未来へ向かってしか生きることができません。それなのにちょっと先の未来(20年位?)までしか想像できません。200年先のような遠い未来のことは全く想像できないのです。なぜでしょう?そんなの当たり前のことだと思いますか?私はとても不思議だと思います。

だから現実的に実現不可能な理想論も200年後にはどうなっているかわからないんです。自分の心の痛みを和らげようとしただけなのに、結果的にそれが人の為になってしまったりする、そんな世の中ですから。

”エゴ”というのは案外、私達の思考を現在に留めておく役割をしているのかもしれません。
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この回答へのお礼

>自分の心の痛みを和らげようとしただけなのに、結果的にそれが人の為になってしまったりする、そんな世の中ですから。


たしかにそうなのですが、そういう結果論的な不安定な要素で未来が作られるのが恐いのです。

僕は200年先の人のことも考えるのですが、それは僕が異常なのでしょうか?

200年先の人間のためになることは、今の周りの人のためになることよりもたやすく、誰にでもできるはずなのですが、なぜそれをしようとしないのか、と思うわけです。
地球の歴史を終わらせていいほど価値のある人間だとでも思っているのか、と。。。
みんな、主役にでもなりたがっているのかと。。。。


話はズれましたが、
”エゴ”が現在の思考に固執する原因になっているのは確かだと思います。

お礼日時:2006/07/05 20:51

エゴです。

                                                ボランティアや募金なども一種のエゴになりますが無ければやはり困る人や国が有りますよねそれと同じなんじゃないかな
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 平和な世界とは--争いごとも揉めごともなく、嫉まず妬まず恨まず憎まない、神に生贄を捧げることも糧を供えることもなく手を合わせる必要もない、赦さないことより赦すことが選ばれ、人のモノや労力を盗むことも掠め取ることもなく、不幸な人が一人でもいるのなら、その全体も幸福ではないと感じる--そんな世界のことだと思います。



 しかし、どんなに平和な世界になったとしても、快晴の空のように満点の世界あり続けることはないでしょう。人間という生物が、エゴを排除するのではなく、抑制できるときもある、という程度の下等な脳しか持っていないからです。また、人間は他の生き物と同じく個体差のある生物です。恒久的に100%であることを願うこと自体、そもそもないものねだりで、不可能なことであるに違いありません。

 そうであるならば、ある程度、犯罪者も少しおり、宗教に頼る人も少しおり、というような世界が平和という状態なのだと思います。それが限界でもあるし、そういう柔構造である世界でなければならないのだとも感じます。

 完璧な世界、純粋な世界は不自然です。説得も教育も啓蒙も、絶えず続けていかなければならないことなのでしょうが、強要は、断種法と同じ種類のものといえるでしょう。やはりエゴなのだと思います。でもそれは、罪を犯すエゴ、排他的になることが判っていても自分(たち)の神だけを信仰するというエゴ、人を嫉み、妬み、恨み、憎み、争うエゴとは、同一の分類で比べられるものではないエゴだと思います。
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この回答へのお礼

すみません。。。漢字が苦手なので、分かり易い文字でお願いします。。。。。

お礼日時:2006/07/05 20:59

私はエゴだと思います。



望まない人間に自分の考えを押し付けること自体がエゴです。

ただ、人は、自分が体感した境地を知ってもらいたいと思う気持ちがあり、それが良いものであるならば、一人でも多くのに体験してもらたいと思います。
 それは、相手もそのような体感をした時、きっと、自分が相手を思う気持ちを相手は理解してくれると思います。それが愛だと思います。それがあれば200年先の平和を願えます。

ただ、自分が体感した境地ではなく、自分の弱さ、虚しさ、恐怖、不安、絶望、寂しさから逃れたい故に自分が変らず、現実が変れば良いと思い、平和を願う者がいます。
 それは、自分にとって都合が良い世界になればいいだけなので、平和など実現しないと思います。これは、共感ではなく、押し付けですから。

以上、参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

無知な僕に参考になるご意見、ありがとうございました。

例えば依存症で、熱心な宗教活動をしている人に対して、宗教に頼らない宗教のない世界にいけるよう努力させることも、強要であり、押し付けでしょうか?
(その人の熱心な活動が原因でその家族と親戚に不協和音が発生しているとして)

お礼日時:2006/07/04 01:57

  「平和」とか「エゴ」といふ抽象的な概念は、發言者によつて、意味づけや具體的な姿が異なるので、誤解を招きやすい議論になり勝ちです。

質問者は、假に、世界中の國家が、全て互ひに「平和条約を締結し、それを遵守すると、公言」したら、それは世界平和そのものであるなどと言ふのではないでせう。また、「人類全てが痴呆状態になり、征服欲も、進歩への意欲も、競争心もなく、全員がほかほかと日向ぼっこをして、のんびりと暮らし、明日のことも心配しないことが「平和」だと言ふのでもないでせう。
  人の意欲、希望、などは、生命體としての、「生存欲、自己擴張欲、子孫保存欲」などが基礎にあると思ひます。群れを成して生活する「人」としての我々は、永い社會生活の經驗の中から、「剥き出しの動物的な欲」を「道徳」とか「倫理」とか「美意識」とか「理想」とかでくるんだ、一種の「糖衣錠」を創り、「自分自身だけ良ければそれで良い、といふエゴ」を抑へる工夫を積み重ねてきました。その中で、「自分だけではなく、家族一同が」、「我が家族だけでなく、町中が」、「我が町だけではなく、國中が」、「我が國を超えて世界中が」、そして「人類すべてがしあはせに」といふ願ひも生まれてきたのだと思ひます。また、「自分がゐない世界なら、どうなつても知らない」とか、「自分の子孫がゐない二百年先なら、何とでもなれ」とか「自分の知らない人のことなど、どうなつてもよい」などといふ考へは、人の社會を危ふくする思想として、「ひとりよがり」、「わがまま」、「自分勝手」などとして否定してきました。その否定を裏付けるものとして、佛教の因縁の考へや、キリスト教の「神の審判」の考へが用ゐられてもきました。また佛教では、「大きな自我」といふやうな概念を用ゐ、「小さな一つの生命體としての自分は、大きな宇宙という生命と同一である」との考へ方もします。
  私達それぞれの考へる「世界平和」が、本當に望ましいものであると考へるなら、それは、「エゴ」であらうと、実現不可能なことであらうと、「青臭い理想論」であらうと、「子孫大切の身内愛」であらうと、「世界平和を考へるのは正しいことであり、望ましいことであり、推奨すべきことである」と思ひます。
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この回答へのお礼

確かに抽象的過ぎて質問としてふさわしくないレベルでした…


文字が読みにくいとストレスが溜まるためあとは読めません。。すみません。。。

お礼日時:2006/07/04 01:48

願うことはエゴだとは思いません。


それは時間と言う概念を飛び越えてそう思います。
自分の子孫がとかそんなことではなく。
自分とはまったく関係のない国の人の平和を願うことが、人間にはできると思います。
それこそ、遠い異郷で人が何百人も殺されたことを聞いて、自分の家族と重ねあわせなどして、わずかばかり胸が痛むのと同様に。

世界中の誰もが幸せになる方法を誰も知りません。
けれど、誰も殺されず、誰も悲しまない世界を望むこと、願うことはエゴではないと思います。

しかし、平和を歌ったり、平和のために行動したりすることはエゴだと思います。
前文のとおり、誰かの幸せのためにできることなんか、本当にわずかです。そして、相手の望みが分かる人なんかいない。
相手が幸せを望んでいないことだってある。
そして誰かの幸せが誰かの不幸を生むことも。

それを理解せず、簡単に平和を叫ぶ人たちはおごっているとおもう。
それが大義名分と思っていることが。
巨大なムーブメントになって世論を、政治を動かしたところで、それがなんだというのでしょう。
そんなもので平和が実現すると思うことすらおこがましい。
そして、何が平和なのか、本当にわかっている人はいないと思います。

「平和」のためにできることなど、願い、祈る以外にあるのでしょうか。

偉そうですが、私なりに考えたことを書いてみました。
参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

>「平和」のためにできることなど、願い、祈る以外にあるのでしょうか。

知ろうと努力し、いつ果たされるか分からないとわかっていても地道な行動をつみかさねることではないでしょうか。

お礼日時:2006/07/04 01:46

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