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 ここで《神》とは 自分や人間の力の及ばないものというほどの意味です。

 (α) ひとに何と言われようと 言葉は事の端だとばかりにどうでもよいと見なして 何とも感じないのでしょうか? つまり互いにそれぞれ神であるから どんなに罵られようが何ともないということなのでしょうか?

 (β) 罵ることは別としても 話し合いをしていて自分の発言内容について説明を求められても 知らぬ顔でいられるのは 神であると思っているからなのでしょうか? 知らぬ顔でなければ 論旨のすり替えという手もあるようです。

 (γ) このごろ《他人を見下す若者たち》が増え 《自分以外はバカ》の時代に入ったという見方が出されています。(速水敏彦)。そういう人たちは 《仮想的有能感》を持っているのだと言います。でもこれも ひょっとしたら 自分が神であるのだからだし 相手も同じように神であるからバカ呼ばわりしてもだいじょうぶだと見なしているということなのでしょうか?

 (δ) どうもこのように考えると 少しは理解が届くかなという感じがしないでもありません。ただしだからと言ってその理解は どこにみちびいて行くのだろう? 神と神とが話し合い 仕事をし 社会と国家を営んでいくという事態は いったいどういう現実なのでしょう?

A 回答 (12件中1~10件)

> どういう意志行為があったのか


 (......) 
> その本人が どういうきっかけでどう決断してそうするか。これを知りたい

それは、本人と面会して本人の言葉を聞いてなおその言葉の深淵から探られるものでしかないと思うのですが。
心理学が人の行動原理や精神現象を説明していると思い込んでいるひとも少なからずいて、19世紀末の幻想をひきずっているようです。bragelonneさんはわかっておいでかもしれませんが、心理学を、あくまで標準を描き出すというその務めから乖離させることはできません。この仮想的な標準は、任意の社会的な基準と対応していなければなりません。いま、社会にどれだけの基準を抽出して、スタンダード・モデルを描き出すことができるのか、心理学をかじろうとする人はその困難を知らなければなりません。生理学の延長で心理学が成功したようには、社会学の延長では心理学は成功しないのですね。

bragelonneさんにじゃれている人物の一人を初めてお見かけしたのは、「蜘蛛の糸」に六道についての投稿を寄せてもらったときです。わたしは少し返答に窮したのを覚えています。宣伝のあったホームページまで行ってみて、言語の調子を見ようとしたのですが、レイアウトが見づらかったのとスピリチュアル色があったのですぐ退出してしまいました。正直を言えば、少年ジャンプを読んでいるとしても不思議のない、ノンポリといった印象です。論理への偏執も、ルイス・キャロル並みなら見栄えがあるのですが、不健康に字面に偏執して読むくらいではないですか。〈意思行為〉なんてあるのでしょうか。たまにナナさんの関心を惹く意思はあるように見えますが。

そう言えば、近ごろ少年ジャンプを手に取る機会が幾度かあって驚きました。というのは異界ファンタジーが多すぎる気がするのです。先の、修験者の真似ごとをするうちに怪しい対人スキル---霊験を信じさせることは霊験を信じることと同一ではないのですが---の世界に入ってしまう若者の話をしましたけれど、わりと似た問題でつながると思っています。柳田国男のフィールドワークの意味など通じない時代かもしれませんね。地に着いた生の営みのなかに、からくりのように一体となっている物語が、それ自体で浮遊してしまうことの弊害。この一体性は、虚と実なのであって、真偽ではないのですが、なかなかそういう理解には届かない文化的枠組みが出来上がってしまっています。宗教にもいえることですが、このことは、いずれ考えてみたい気がします。

> 意志行為を問題にするということは 端的には 答責性を持つかどうか・果たすかどうかに収れんするように思います。
> これは 趣旨説明に明確に書けていなかったのですが そういう観点から何か言えることがありますでしょうか? 
> あるいはそもそもこの方法論からあらためて質問を起こすべきでしょうか?

どうでしょう。答責性は言葉が通じてから生じると思いますが、わたしなどは、このサイトで一名にだけ「失礼なあなたの質問には答えません」と宣言したことがあり、その代償に、宣言と同時にわたしをめぐる妄想を許可したくらいで、そのとおりにしていますが、この意思行為についてのみ、答責性は、生じうるでしょうね。そしてその答責性はあらかじめ封じられているので、果たされることはないでしょう。こんなところです。

bragelonneさんの言を砕いてみるに、わかって行っているなら答えられるだろう、自分でやっていることなのだから、
また、わからずに行っているなら答えられないだろう、ということならば、そう簡単にはいかないかもしれません。
自分でやっていることをわかって行っているとき、それを通じる言葉にするには、間主観的な視点が必要です。

この回答への補足

 amaguappa さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 対話の座礁。という現実。 
 これは――たぶん直接にはわたしの中ではわたしが《方法》の問題を連想したときからですが―― 世界があらためて目の前にあたらしい姿を現わしたといったところでしょうか。おおげさに申せばです。

 ただ今回ぎゃくに 方法の手立てはそんなにむつかしいものではないとも感じました。手立ては 簡便法であっても ある。中身が 世界の更新のごときかたちで あたらしく映るごとに深くなっていく――その問い求めがむつかしいのみである。
 手立てとは すでにそのまま amaguappa さんに書いていてもらっています。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 異界〔は〕・・・地に着いた生の営みのなかに、からくりのように一体となっている物語〔なり〕。
 この一体性は、虚と実なのであって、真偽ではないのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これを《方法》の実践過程にも応用します。これが手立てです。
 どういうことかと言いますと つぎの場合にも応用するということになります。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   > どういう意志行為があったのか
   (......) 
   > その本人が どういうきっかけでどう決断してそうするか。これを知りたい

 それは、本人と面会して本人の言葉を聞いてなおその言葉の深淵から探られるものでしかないと思うのですが。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《異界》とまでは行かないでしょうが ひとことで言って《虚と実》との弁証法過程というのが その手立てでありすでに実践のあり方だと思うのですが どうでしょう?
 つまり 《すめろきのまねび》という天皇幻想なる《虚》を わたしだからでしょうがポンと無根拠で提出するということだと思うのですが 違いますでしょうか?
 つまり 虚であってもぶつけて行ってやり取りをしていけばよいのだと考えます。対話とはそもそも そうであるしかないのではないでしょうか。
 ★ 〔実の実は・つまり 本当のところは〕本人の言葉を聞いてなおその言葉の深淵から探られるものでしかない
 ☆ のですが 《どういう意志行為があったか》は 行為事実に属しますから特定できるはずです。ほとんど何もなかったという事例は 《どうせどうにもならないのだから どうでもいいや》という決断です。これも意志行為なのです。

 しかもついでにと言ってはいけませんが こういうことも考えられます。《いったいわたしは何を欲していて何をしようとしているのか。自分の意志はどこにあるのか。これは他者と呼ばれる相手の人間について分からないだけではなく 自分自身についても誰も分からない部分があるのではないか》。
 もしそうだとすれば やはり《虚と実との仮説‐批判‐新たな仮説と進められる弁証法過程》にしか 人間の生きる道はない。
 そういう意味での――つまり やり取りを絶やさないという最小限の意味での――答責性でいいのではないでしょうか。
 ただし話を続けると言っても 一方的に自分の言いたいことだけを話し続けたり またそのために論旨をすり替え続けたりするのでも 説明責任を果たすことにはならないわけですが。そしてこれは《虚》ではなく空虚であるでしょうし もはや蝉の抜け殻が壊れた蓄音器のごとく声を出し続けているという状態です。ここには
 ★ 間主観的な視点
 ☆ もなければ そこでは関係性じたいがなくなっているように思います。骸(むくろ)に向かって話をしているような情況になっています。

 * 《六道輪廻》の投稿やそれにかかわる質問のほうも見てみましたが――そして わたしに対する発言とほかの人びとに対するそれの性格がいくぶん違っているのも ほんとうなのですが―― 発展し得ませんでした。

 * ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 〔《虚と実とがからくりのごとく一体となった構造を呈する現実》について〕 なかなかそういう理解には届かない文化的枠組みが出来上がってしまっています。宗教にもいえることですが、このことは、いずれ考えてみたい気がします。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですから したがって 両面作戦になりましょうか。つまり 実際にひとを相手とする対話の場では 仮説を出して答えを引き出しながら軌道修正をもしつつ その《からくり現実》を共に生きる。そして理論は理論で この弁証法過程を阻むものは何か――なぜこのふつうの共生過程を歩むのを阻むかたちの《文化的枠組みが出来上がった》のか――を考えていくのだと思います。

補足日時:2010/01/31 09:57
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 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

Hidocchiです。

> ☆ これは いまなお分かりません。まづ一番目に 親が怒るでしょう。友人が気づくでしょう。会社ならば上司が叱責するはずです。
 いまだにあれで社会人をやっていられるとは想像がつきません。
 
 仰らますように、学生ならともかく、社会人では、愚生も考えにくいと思いました。そこで本日、情報集めのため、本屋さんにいき、以下の本を見つけました(愚生は、購入はしなかったのですが、また何か問題が起こりそうな場合には、購入しようと思っております)。

香山リカ著「キレる大人はなぜ増えた」朝日新書

 最近、キレるおとなが増えているようなのだそうです。そして、かようなひとの共通点・問題点としまして、「”正義”をよく振りかざす」、「”キレるということ”に対して、自分は悪いこと・恥ずかしいこと、とは全く思っていない」ようなのです。従いまして、自省を促してみても余り意味が、ないようなのです。

 そこで、アマゾンのレヴューを見ますと、レヴュアーの皆さんの評価は辛口でした。こういう人達が増えた現象はみられるが、対策法が曖昧・欠けるといったものでした(実際の所、香山女史1人に、解決策は求められないのでしょうが)。

> 警察国家やスパイ社会は いやです。

 愚生も全くもって、否定致します。自由がない社会なんて.........

> ほかに三つも質問してしまいました。

 どうも、ありがとうございます。外交につきましては、愚生も多少はご意見できるかとうぬぼれております。

 ご参考になれば、幸いでございます。
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この回答へのお礼

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 香山リカに対して 辛口の批評が多いようですね。《日本人の劣化》のほうもレヰ゛ューを見てみましたが 評価はよくないようです。 
 朝まで生テレビに出演して そこそこの発言をしているようですが かなり著書の評価はわるいようですね。

 わたしも 最終的に切れるということを決断しましたから 何も言えません。《究極の悪》だという規定を まるでひとを《さばく》かのようにしてしまいました。
 その前までは たしか Hidocchi さんもご回答を寄せてくださったと思いますが 【Q:去る者は追わずうんぬん】で言うように 《相手が実質的に去ったと認識したなら――なおまだ何かを言い続けていたとしても―― 応答しない》というものでした。変化がないかぎり もう放っておくということでした。
 今回は 対応のしようがないとあきらめ いわばこちらから去ったというかたちを採りました。ほかの人たちにおまかせするというかたちを採りました。

 * 昨夜の朝まで生テレビは 小沢一郎論一色でした。

お礼日時:2010/01/30 22:17

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

Hidocchiです。

 “最近の若者論”と勘違いしてしまい、回答を寄せてしまいました。誠に申し訳ございませんでした。
 ご質問内容は、「《ゾンビ》がまねびの結果習得した似非アマテラスの方たち」のことでしょうか。誠に早とちりしてしまいました。深くお詫び申し上げます。

> 文章責任などという言葉じたいがないのではないかと思える場合 これは 明らかに人間の問題だと思います。

 意見を等しく致します。

[Question] では、答責性があるのでしょうか?

 少なくとも、このOKWaveでは、「ある」と解します。理由は以下のとおりでございます。
「投稿する時は、その内容に責任をもって投稿しましょう。」
http://help.okwave.jp/okwave/beginner/netiquette … ネチケット からです

 確かに、ここは哲学のカテゴリーのため、自由な意見がなされるのは当然かと思います。例えば、非常に極端な例かと存じますが、「上記、ネチケットなるものの不要論」、「OKWaveの存在の意義もしくは不要論」につきましても、意見してもいいと考えております。ですが、上記ネチケットの文言が改正されるまでは、そのルールに従って(答責性を持って)、質疑・応答し合う、というのが原則だからでございます。

[対義語の無答責につきまして]

 「国家無答責の法理(こっかむとうせきのほうり)とは、国家無答責の原理ともいわれ、大日本帝国憲法のもとで、官吏は天皇に対してのみ責任を負い、公権力の行使に当たる行為によって市民に損害を加えても国家は損害賠償責任を負わないとする法理をいう」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%B6% … 

 つまり、戦前の影響を引きずっている。さらに具体的に申しますと、「科学万能主義を謳いつつ」、また「神の不在論等を持ち出し」、さらには、「潔い」ことは全くないのだけれども、思想の根本部分は、“戦前”に根付いているようなケースも散見されるかと存じます。

 つまり、かような“お方”たちは、ぐらい的には、以下の特徴がみられるように見受けられます。

・自分のことは、とにかく棚上げ。そして、他人の瑕疵を見つけようものなら、鬼の首でも取ったように冷笑する
・自分に都合のよい情報を選び、それでもって、人に押し付ける
・これでもって、不必要にも、“和”なるものを求めようとする
・生活水準には関係なく、プライドが異様に高い

 発生原因の詳細は不明でございますが、おそらく、小さいときに“お山の大将”かそれに順ずる“ご身分”に属した経験があったのかと考えています。ただ、一般的には、「人こそ人の鏡」等の諺を知り、失敗し、また反省しながらも、年齢を重ねていくのだと思うのです。つまり、組織(会社、クラブ活動等でも当てはまると思われます)として、それなりの任についた経験があるならば、こんなことは言ってはいられないと思い、自省していくのだと思うのです。ですが、上記の”お方”達は、かような経験をせずにうまくやってこれた“お方”達なのかもしれません。

 おそらく、愚生ことHidocchiに対しましても、「Hidocchiなる輩は、他人には信頼されず、“和”を営めない。あるのは単に学歴だけ、応用もできなければ、しようともしない、世間知らず」と言って、喜んでいる“お方”も何人かはいます(幾つかは当たっているのも事実なのですが)。理由は、単にその人にとって、「都合がいい」ただそれだけかと思っておりますが……..

> (β) 罵ることは別としても 話し合いをしていて自分の発言内容について説明を求められても 知らぬ顔でいられるのは 神であると思っているからなのでしょうか? 知らぬ顔でなければ 論旨のすり替えという手もあるようです。

 “神”と思っているかどうかは、分かりかねますが、“神”的存在として、崇められたい、少なくとも、自分がいる集団内では、そう思われたいと願っていると推察しております。

> (δ) どうもこのように考えると 少しは理解が届くかなという感じがしないでもありません。ただしだからと言ってその理解は どこにみちびいて行くのだろう? 神と神とが話し合い 仕事をし 社会と国家を営んでいくという事態は いったいどういう現実なのでしょう?

 「金持ちけんかせず」の通り、お互い抜け目なく、うまくやっていているのかと想像しております。おそらく、導きたいのは、(自分好みのルールのみで支配された)「警察国家」ではないかと推察しております。

 駄文ご一読賜りまして、厚くお礼申し上げます。

この回答への補足

 あぁ Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。《かような“お方”たちの特徴》をお聞きしますと 《すめろきのまねび Imitatio amaterasae 》あるいは《天皇幻想》に実際に首を突っ込まなくとも それらしき実態はいくらかあるかのようにも感じました。

 ▲ (OKWaveはじめてガイド:ネチケットについて) ~~~~~~
 ○ 自分の投稿には責任を持ちましょう

 質問に対する回答ではないものや、指摘やからかいのためだけの投稿を続けることは、あなたが信頼されなくなることに繋がります。投稿する時は、その内容に責任をもって投稿しましょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これですね。《指摘やからかい》なら勝手にやってくれとでも言っていられますが ちょっこり質疑応答を始めたと思ったら 話(話し合い)にならない。しかも自分の主張は通ったとよろこんでいる。ってなところでしょうか。

 ★ 国家無答責の法理
 ☆ こういう名前で呼んでいたのですね。中身は或る程度は知っていたとしても。神聖不可侵のもとにありましたからね。
 でも 軍隊では二等兵は天皇の赤子であったのに びんたを永遠にくらわされていたそうですね。その上等兵らは 責任を天皇に対して負うのではないかと思われます。
 これは 冗談というところでしょうね。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ただ、一般的には、「人こそ人の鏡」等の諺を知り、失敗し、また反省しながらも、年齢を重ねていくのだと思うのです。
 つまり、組織(会社、クラブ活動等でも当てはまると思われます)として、それなりの任についた経験があるならば、こんなことは言ってはいられないと思い、自省していくのだと思うのです。
 ですが、上記の”お方”達は、かような経験をせずにうまくやってこれた“お方”達なのかもしれません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは いまなお分かりません。まづ一番目に 親が怒るでしょう。友人が気づくでしょう。会社ならば上司が叱責するはずです。
 いまだにあれで社会人をやっていられるとは想像がつきません。
 幸か不幸か 優遇された地位にありつづけているのでしょうか。
 警察国家やスパイ社会は いやです。

 ほかに三つも質問してしまいました。

補足日時:2010/01/29 20:28
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天皇、とは。

。。意外なところにスイッチが入ったという感想を持ちますけれど、

>《ゾンビ》がまねびの結果習得した似非アマテラス語は 《われは侵すべからざる存在なり》という姿勢から表出する《とにかく相手を下に見る》という表現のかたちである

というのが、bragelonneさんにじゃれてばかりの、どこから見てもお尻に殻がついている投稿者のことを念頭に言うのでしたら、
わたしが思うに素がああいう人物なのであって、背景にファミリーマターか成長過程以外、引っ張り出すようなものがないような気がするなあという印象です。

ところで最近、修験道や密教の行に熱中する若者が不思議と増えて、法力で悪鬼が飛んでいくと教えられれば本当に法力の「スペック」などを高められるものと思うようです。
自分自身が強くなって邪気を祓うことだよと諭されると、なんだ最初からそう言えばいいのに、といった具合。
他人の憑き物を落としたり病気を治したりするという、そういうところ目がけて頑張っている。
強く、高く、心澄み、と励む一方で、独特の対人スキルの世界に入り込む。頑張っているうちに怪しい人間が出来上がるわけですね。

まず、表現としてオブラートにくるまれている物語の状態に、まじないのすべてが詰まっているものですが、
こういう手合いは言葉を即物的にしか解釈できないことが多く、事実か比喩かのどちらかに二分してしまいます。
物語的表現の発現にそなわる対人力というのは、考え出すと面倒な問題ですが、対人センスと言語センスが結びついていない人には、受け入れがたいものでしょうね。
発達障害児童の教育に配慮される内容のひとつです。

もうひとつ。「特別」になるために人は〈聖痕持ち〉の幻想にむかうことがあります。
聖痕幻想は、負の要素、アウトサイドの身分に自己をくるみ、これを正の要素、高貴さへと転化する手続きを踏むのです。異端の系譜へ自らを連ねる願望です。
自分に〈聖痕〉がなければ、親や親戚でもいいのですが、異端な親・親戚というとなんでしょうね。いろいろありますね。

天皇のお話に反応しなくてすみませんけれども。

この回答への補足

 amaguappa さん おはようございます。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 やはりどうも 思惟および行為にかんする根本的な扱い方としての方法の問題に帰着しますでしょうか。という感じをけさは色濃く持ちました。

 すめらぎのまねびはどうでもいいとして どういうきっかけでどう考えどう行動することにしたのか これを突き止めたいとわたしは思います。ザビーヌ事件の問題ではありませんが どういう意志行為があったのか この問い求めです。

 《背景に》ということなのですが いわゆる因縁として《ファミリーマターか成長過程》に問題の所在をみるというとき 本人はいつどんなふうにそうなったかです。
 まったく気づかずにそうなってしまったというのであっても いづれはそれではだめだと社会の中では気づかされるはずです。それでも もう今までの行き方を変えないというふうに決めたというのなら そういうことになるはずです。つまり意志行為があると思うのです。

 ★ 言葉を即物的にしか解釈できないことが多く、事実か比喩かのどちらかに二分してしまいます。
 ☆ このような結果が どういう直接・間接の原因で現われたのかも然ることながら その過程のどこかで それでもいいとか これで行くしかないとか決めたはずです。このような最低限の意志行為にしろがあったはずです。
 もしそう捉えるならば 《事実か比喩かの二者択一しか出来ない》ことについても そのとおりに問答として声をかけてやることができます。そうすれば何らかの対応を返してくるはずです。

 (わたしは 《人間ではない。ゾンビだ》という規定をするまでして 問いかけている。つまりは ほかのわたしに代わる人びとにバトンタッチをするかたちなのですが。ひとりのにんげんがすべての人を説得できるわけではないと思います)。

 ★ 「特別」になるために人は〈聖痕持ち〉の幻想にむかうことがあります。
 ☆ これはピンと来ないのですが 悪者で強い人物像というようなことでしょうか? 手っ取り早い連想としては 無法者の集団が受け皿になるといったところですが その手前でとどまると言いますか あるいは思弁的に処理してその幻想を身につけるということなのでしょうか?
 ですから これもその本人が どういうきっかけでどう決断してそうするか。これを知りたいように思います。

 amaguappa さんがそうだと言うのではありませんが(いえ 実際のところを知らないということですが) やはり構造主義が問題だと考えます。初めに触れた方法論についてですが やはり社会とその歴史を《無主体の過程》と見るのは いただけません。一人ひとりの意志行為があって その社会的な相互錯綜関係の行方がいわば《無主体の過程》として推移するとは言えてもです。

 そしてこの意志行為を問題にするということは 端的には 答責性を持つかどうか・果たすかどうかに収れんするように思います。これは 趣旨説明に明確に書けていなかったのですが そういう観点から何か言えることがありますでしょうか? あるいはそもそもこの方法論からあらためて質問を起こすべきでしょうか?

 * 昨夜 Hidocchi さんとのやり取りでは わたしの反応は薄かったのですが 今朝はこういういささかの反発を持ったようです。
 
 * 意志行為としてたとえば仮りに《天皇幻想》が介在したといった説明を持たないことには むしろ正統派の人間および社会に関する分析では そのほうが《潜水力》を要求されるように思うのですが どうでしょう?

補足日時:2010/01/29 08:26
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 こんばんは、Hidocchiです。



 amaguappa様のご意見と、幾分共通するところがあるのですが、

 以下の2点の特徴が、愚生には見受けられます。

1. 現代の若者たちは概して“ナイーブ”。
2. 自分の身分(上下関係)は、他人との比較(実に曖昧)の僅かな差でもって、決定しがちであること。

 愚生も、職場上、大学生(院生)と接する機会が多いのですが、上記2点につきましては、大体当てはまっているように見受けられます。

 ですが、理系のラボであるという特異性からでしょうか、“上下関係”は体育会系の序列と、ほとんど大差がないように思われます。つまり、上記“2”の差異も見られますが、研究室という“徒弟制度”の中では、もっと明確な形で上下関係が現れます(1学年違っただけでも、かなりの違いがあります)。
 では、ラボに最初に入ってきた当初から明確なのか? と申しますと、もちろんこれは上記“2”の方が適用されると思われます。つまり、ラボという特殊な環境で初めて確固とした身分制度が築かれるということでございます。

 上記観察結果から、ご回答をお寄せしたいと思います。

> (α) ひとに何と言われようと 言葉は事の端だとばかりにどうでもよいと見なして 何とも感じないのでしょうか? つまり互いにそれぞれ神であるから どんなに罵られようが何ともないということなのでしょうか?

 愚生が知る限りにおきましては、皆さんは“ナイーブ”ですので、確固とした身分関係が存在していても、敏感に感じ取っているように察せられます。
 つまり、「自分はいたって“凡人”」と思っているひとが多いようにも見受けられます。また、さらに申しますと、他人も自分と同様、“凡人”であると思っている(みなしたいたい)のではないか と考えております。

> (β) 罵ることは別としても 話し合いをしていて自分の発言内容について説明を求められても 知らぬ顔でいられるのは 神であると思っているからなのでしょうか? 知らぬ顔でなければ 論旨のすり替えという手もあるようです。

 ラボという特殊な場所では、絶対者は別におりますので(プロフェッサーです)、高学年のひとが低学年の人に対しても、自分のことを“神”などとは思っていないと見受けられます。もちろん、低学年のものが、上のひとに対し“論理のすり替え”等は、絶対にありえません。

> (γ) このごろ《他人を見下す若者たち》が増え 《自分以外はバカ》の時代に入ったという見方が出されています。(速水敏彦)。そういう人たちは 《仮想的有能感》を持っているのだと言います。でもこれも ひょっとしたら 自分が神であるのだからだし 相手も同じように神であるからバカ呼ばわりしてもだいじょうぶだと見なしているということなのでしょうか?

 これもラボに入ってからは、変化しますが、入るまでは、《仮想的有能感》を持っている というよりも、付き合い方・接し方を知らないという方が近いように感ぜられます(愚生が今いる大学は、共通テストで失敗したような人たち、つまり滑り止め、もしくはとにかく受かったのだから来た。という人が多いようでございます)。従いまして、《仮想的有能感》は学生さんからはほとんど感じられません。むしろ、自分が“凡人”なのだから、他人も“凡人”に違いない と勝手に判断してはいると思いますが…..
 つまり、一種の“”凡人化“の押し付け”のようなものかもしれません。逆に申しますと、将来の日本の科学の発展に寄与できるとは、悲しいかな、思っていないようでございます。
さらに申しますと、冒頭に挙げました“2”の微妙な違い(所持している服装や、アクセサリー等です)で、身分関係を作っているように察せられます。

 おそらく、お役に立つ内容とはないと存じますが、ご参考になるところがございましたら、幸いでございます。
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この回答へのお礼

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ううーん。やっぱり現実は複雑でしたね。
 あまがっぱさんとのやり取りでは ジグソーパズルがきれいに仕上がったと感じたのですが なかなかどうして 人間という現実は そうやすやすと捉えられるものでもないようです。

 《ナイーヴ》だが《凡人》ですか。
 《凡人》ゆえに 社会の或る意味で天辺にいる天皇のことに 或る時 興味を持った。いろいろ観察してみた結果 これはひとつまねしてみるという手もあるんぢゃないかと考えた。というような具合いでしたが ぬかよろこびのようなものでしたね。

 中間の結論は なんもわからん です。

 * ひとつはっきりと問題にしていることはあります。答責性を持つか否かです。文章責任などという言葉じたいがないのではないかと思える場合 これは 明らかに人間の問題だと思います。
 ありがとうございました。

お礼日時:2010/01/28 22:20

神ではなく、同じ神の子、すなわち魂の兄弟であるという潜在意識的が働いている日本人は多いかもしれないね。

それが真実なんだしね。おかしな日本人が多く」なっているのも事実だがね。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 同じ神の子、すなわち魂の兄弟であるという潜在意識的が働いている日本人は多いかもしれないね。それが真実なんだしね。
 ☆ 理屈では分かるのですが まさか義兄弟といった仲のことではないでしょうし。これだけでは いまひとつはっきりしたお応えをお返しできずにいます。
 
 それにたぶんそのように兄弟愛や姉妹愛 つまりはいわゆる博愛となると むしろ日本人は反対をする気はないのに違和感を感じたりするのではないでしょうか? そんな気がしていますが。
 それにこの問いでは 話の中身がめちゃくちゃなままにその話をやり取りすることが永遠につづくという情況を取り上げているんです。
 どうも違うように思うのですが どうでしょうかねぇ。
 もう一歩踏み込んでもらえたならよかったと思うのですが。ありがとうございました。

お礼日時:2010/01/24 22:26

そうですね、何なんでしょう。


前置きになりますが、わたしは言葉にならないと黙ってしまいますし、bragelonneさんの問いには底無しに潜水力---問題を分析して深めたり広げたりする思考の持久力---が要ることが多々ありますから、話を預けて大丈夫そうだという勝手な思いもあって、中途退席してしまうことがあるのですが、
ご質問に応じていると、わりと、集合的な類型論やユングの神秘心理学が必要になってくる領域だなと思われることがあります。そうなると不毛だなという、これはわたし自身の嗜好の問題ですが、また、他の真摯な回答者さんたちの立ち位置や問題意識から地層が大きくずれてくるような気もして、余計黙りこむという感じはあります。

そんな状態でわたしはわたしの沈黙もろともbragelonneさんにアースされるよう願うわけなのです。
さて、最近思うところあってもっぱら哲学カテゴリで遊んでみて、また哲学カフェなどが現実に増えているという現象から考えることもあり(行ったことはないですが)、ここがウェブサイトといえども非現実というわけではない側面を重視するのですが、
とくに言葉の扱いが自己中心的なのをたびたびみると、結局いま、人間や文明に何が起きているのかなと、これまた沈黙して考え込んでしまうわけです。
〈不可侵〉なまでにナイーヴな人たちは---このサイトでつまらない毒舌家がどこかで人をナイーヴと言ったのを恨まれているようですが---増えているというのが実態なのは間違いのないところだと思います。
まるで〈不可侵〉どうしを前提にという一種のオタク・コミュニケーションですね。秋葉原的なオタクという意味ではないかもしれませんが、〈私という聖域〉〈私は汚れなき者〉〈私は守られし者〉〈私は選ばれし者〉の保存条件として---つまり条件がないとそう在れないという突き抜けなさのためにむしろ社会性があるわけですが---、目上・同等・目下に対する〈自己幻想〉の発動が細かく分けられている気がします。
ことは“仮想的有能感”よりも根深く複雑ではないかと思います。ひらたく言うと幼児~小児期の協調性の獲得の問題でしょうが、言語も含むさまざまな情報がツール化して自己認識の方法が多様なのですが、他者と関わってそのツールを使うスキルが多様化せず、核家族や似たような消費生活様式の浸透でむしろ減少しているところに、〈自己幻想〉つまり〈自分探し〉や〈自分というものがあるか〉〈自己実現〉が遊離しているという所見になるでしょうか。
〈自己実現〉願望に裏打ちされた対人応答力ゆえに、相手も自己実現する他者であろうという認識があって、叩くとなるとまずそれを阻むような方向へ走ることになります。“自分以外はバカ”という速水氏の見方についてそれはそれとしても、他人を貶めるための方法が、自己実現の度合いを見積もる、聖域度に高低を付ける、ということになっているということは指摘できます。
時代をさかのぼれば、もちろん目上・同等・目下と社会の関わりはあるけれども、そういう相関の中に自分というものはたいしてなくたって困らないですから、言葉の表出というものの根本が違ってきているのではないかということは考えられるのです。

この回答への補足

 雨合羽さん 分かりました。ひらめきました。ご回答に接して ピンと来ました。ありがとうございます。

 むろん唯一の正解というのではありませんが けっきょくのところ
 ○ 天皇のまねをしているのではないか?
 ☆ これです。ただちに言っておかねばならないことは 天皇や天皇家の人たちが やりたい放題であったりののしりあったりしているという意味ではありません。皇位継承に近いほど――と推し測って言うのですが―― 人為のなし得る限りの人間的な人間であろうとしているようです。
 しかも――しかもです しかも――人びとのうちの或る範囲の者たちにとっては 天皇の存在は《自分や人間のちからが及ばないもの》として映っているし捉えられているのではないか?

 すなわちこの結果です。
 ★ 〈不可侵〉なまでにナイーヴな人たち〔が〕・・・増えている
 ☆ 《天皇や皇太子》に倣おうとすると その人たちにとっては そういう結果になるのだと見ていいのではないでしょうか? 《不可侵》は言うまでもなく たしかにこの場合――見て倣おうとする側にとっては――《ナイーヴ》なのです。世の中の波やしがらみを知らないというふうに映るのだと思います。すなわち:
 ★ 〈私という聖域〉〈私は汚れなき者〉〈私は守られし者〉〈私は選ばれし者〉

 ☆ ここから発展して――つまりここから 《他者》の扱い方にもそのまま図式を移すかたちで――
 ★ まるで〈不可侵〉どうしを前提にという一種のオタク・コミュニケーションですね。
 ☆ が現われて来ます。その意味で
 ★ ことは“仮想的有能感”よりも根深く複雑ではないかと思います。
 ☆ とわたしも思いました。
 
 この筋での次のご指摘つまり
 ★ ひらたく言うと幼児~小児期の協調性の獲得の問題でしょうが、言語も含むさまざまな情報がツール化して自己認識の方法が多様なのですが、うんぬん
 ☆ と続くご指摘には 今後の探究と展開に待ちたいと思います。

 不用意に発言するとしますと 上に述べたきた見方によるとすれば
 ★ 〈自己幻想〉つまり〈自分探し〉や〈自分というものがあるか〉〈自己実現〉が遊離しているという所見になるでしょうか。
 ☆ この遊離した結果 幸か不幸か 《天皇のまねび》という道(?)に答えを見出したというものかも知れません。
 はじめは そこに単なる避けどころを見つけたといった消極的なものだったかも知れません。しかもそこに居心地の良さを感じたからなのか その拡大再生産に活路(?)を見出したのでしょうか?
 ★ “自分以外はバカ”
 ☆ というエートスを実践する《彼岸》(!!??)にまで到りました。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 時代をさかのぼれば、もちろん目上・同等・目下と社会の関わりはあるけれども、(ε)≫そういう相関の中に自分というものはたいしてなくたって困らない≪ですから、(ζ)≫言葉の表出というものの根本が違ってきている≪のではないかということは考えられるのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (ε)は 《いてもいなくても構わない》の意味が 一段と高いところに揚棄されているようです。世の中からは超然的な生活態度・超越的な存在という意味を帯びています。その意味に深く絡み合って(ζ)の命題が来ます。
 アマテラス人格語とその方言というそのもんだいは もう触れませんが。そして 《ゾンビ》がまねびの結果習得した似非アマテラス語は 《われは侵すべからざる存在なり》という姿勢から表出する《とにかく相手を下に見る》という表現のかたちであるようです。

 ううーむ。および ふうーう。
 ここから如何になりましょうか?
 哲学の醍醐味でもありますね。手を挙げて参加して来ない哲学の徒は いないはずだと思うんですけれどねぇ。

補足日時:2010/01/24 10:59
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この回答へのお礼

 この場をお借りして 
 ○ 生体電気信号
 ☆ の情報です。人体どうしでの電磁波の察知に迫るもので その器官は《体毛または内耳》ではないかと。

 ▲ (人の気配の正体は?) ~~~~~~~~~~~~~~~~

 東京大学生産技術研究所の滝口清昭特任准教授は 人体の周囲を包むように存在する弱い電界が関係していると考える。これは生体電位と言われる体内の電気的な状態から生じるもので 準電界と呼ばれる。

 《人間を含め生物の体はこうした電界に包まれたアンテナのようなもの》(滝口氏)。準電界の状態は人間が体を動かすと変化する。歩く場合には足の裏の接地面積が変化したり 地面との間で電荷のやりとりが起こったりすることで電界の状態が変わる。

 こうした変化が数m離れた場所にいる別の人間の生体電位に影響を与えることを 滝口氏らは実験で確認している。人体を包む準電界は個人ごとにパターンが異なる。

 
 一方 広林茂樹富山大学教授らは 人間の歩行による電界の変化がどう伝わるかを植物を使って調べている。

 *  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  これは Hidocchi さんより得られた情報です。
  ▼ (ヒトから植物への電気信号の影響実験)
  http://www.hindawi.com/journals/js/2009/917437.h …
 またこれを扱ったのは 
 【Q:電波系について】回答No.5およびNo.2の補足欄
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5526799.html
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 人の気配が生体電位によって発せられているとして これを察知する能力は 人間の場合はどこにあるのだろうか。

 滝口氏はそうした未知のセンサー役の候補として 体毛と内耳の二つをあげる。皮膚にある細かい産毛のような体毛の先端は小さな電気刺激に対してもきわめて敏感で ぞくっとするような感覚を引き起こす。

 内耳は《内部にある有毛細胞が振動することによって 電気的な成分が増幅されている可能性がある》(滝口氏)という。五感を超えた感覚に少しづつ科学のメスが入れられようとしている。

 (日本経済新聞 2010年1月24日朝刊 11面=サイエンス 《ナゾ 謎 科学》の欄 編集委員 吉川和輝)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2010/01/24 14:30

オコリザルです。


ヤプーへの鎮魂歌(供養)です。
我とは疑う事を知らず。
したがってその求めには答えるすべを知らない。

神と随伴しない自由はミラーニューロンの機能により虚無に誘われるでしょう。
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この回答へのお礼

 ううーん。今回のご回答は わかりにくいです。

 ★ ヤプーへの鎮魂歌(供養)です。
 ☆ きびしいことを言うようですが 供養はしません。供養しなくてもいいというまでの対話をとことんおこなっているという意味です。
 たとえば 《火をくぐり抜けてのごとくすくわれる》ばあいがあると その種の人びとだとわたしが思った人に対しては すでに前もって 言っているという意味です。
 その前には 《古い人を脱ぎ 新しい人を着ることができるように ほろびなさい》と言っています。
 これら二つの見方も成り立たない場合が 今回の質問の内容です。

 ★ 虚無
 ☆ という場合には 虚無という認識を持つその人間がまだ存在しているはずです。まだ 人間であるはずです。生きているはずです。
 生きていないとこちらが見た場合が 今回の問いです。

お礼日時:2010/01/23 23:52

オコリザルです。


延々と無意味な対話が続く最近の困った現象については、一方が何かを求めそれが充足しない故でしょう。
現象そのものは別に大袈裟にとらえるでもないのですが、その一方たる他者に「渇愛」の哲学を突き付けて、動物実験してみることになるでしょう。
私はそのように対応していまして、「家畜人ヤプー」扱いです。
愛で満ち足りることの大切さは他者より授かることではない。
そのようにヤプーたる正体不明に刻みつけることになりましょう。
刻みつけるのです。
教える事が出来るなんて考えては高慢です。
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この回答へのお礼

 そうですね。
 ★ 教える事が出来るなんて考えては高慢です。
 ☆ わたしの考えは おしえるまでもなく そうではなく とうぜん身につけている話し合いの仕方があるはずだというものなのです。つまり 直前のやり取りで出しました《表現の自由にともなう答責性》の問題だと思っているところです。

 いづれにしても 話の中身があればいいのですが。
 ないと見ているわけです。わたしは。
 それがゆるされるのは だったら 誰もが神であると思い込んでいるのだろうか? と尋ねるところなのです。どうでしょう。

お礼日時:2010/01/23 23:43

A2から発展させて、「我はある」を考察してみます。


私自身の課題です。
インド哲学を初源とする仏教の考察で行きつくのは、「我はある」「我は無い」そのように相反する不完全な神の姿でした。
「我は無し」よって「神のみぞある」。
これは無神論の心境です。
そのような極限状態において見出した光明は、まさに光そのものであり、言葉にして伝えるならばアマテラスと、引用することになります。
日本人の原初の信仰の姿と仏教徒の一致点に関して課題としています。
それを、今回の質問趣旨に当てはめると、人間存在の享受する「自由」(思考の伸び)とは神よりもたらされた恩恵なのではないか?
このような感じと解釈しております。
取り組みとしていかがでしょうか。
あくまでも「我はある」に徹すれば、神への感謝により、このような自由とは自発性により生まれたが神が人間をはぐくんでくれたからであり、神への感謝の最もたるは、自由を謳歌する事にある。
このような自由にはあくまでも神と戯れることである。
こうなりましょうか。
精霊の判るポケモンマニアの見解です。

この回答への補足

 ご回答をありがとうございます。

 わたしなりに交通整理してみます。

 1. 神を立てる場合それは なぞであると言っておくと分かりやすいのではないでしょうか。
 2. なぞをいろんなふうに表現することを人びとは行なってきた。
 3. 見えるものでたとえて言う場合 太陽が多かったでしょうね。または 火でしょうか。その系譜に アマテラスオホミ神があります。神話では その子孫が 人間となってアマクダリしてきます。
 4. 《我=アートマン》は 人間存在について言っているはずです。その《たましい》を言うとしてもです。宇宙のほうの霊魂は ブラフマンですから。
 5. 《我=アートマンは無い》という説は ブラフマンと一体でもはや何ものからも影響を受けず独立して存在するという場合の《我》は無いと言うのだと思います。
 6. 《我は有る》というのは そのように《何によっても影響を受けずひとり存在するもの》は無いと見ている《わたし》という存在は――限りあるものながら――有る。と言っているものと思われます。
 7. 同じことで言いかえると 《諸法無我=すべての現象も存在も 自存する実体としての我は無い》と見ている人間つまりわたしは いま・ここにいる。というとき ブッダが言ったことは《無我》ではなく《非我》だという説です。

 8. これらすべてなぞの何ものかのもとに そして人間としては非思考という状態のもとに 世界として起きていることだと知る存在は 人間でありわたしであり そこには自由があるらしい。そこには束縛はないとひとは思っている。非思考ということが 信教の自由を意味すると思われます。
 9. 同時にこの自由をそのなぞの何者かからのめぐみとして受け取る人間は そこに心の明けもしくは伸びとして 良心をもつと思っているらしい。
 10. そうして この信教・良心の自由から発して 一般に表現行為の自由を 人間は――けっきょく何の根拠もなく=つまり なぞとしての無根拠によって――公理として主張しうたっている。
 11. この自由のもとに共生するものと思っている
 12. 自由のもとに共生するということは その自由に 答責性をともなうということを意味する。説明責任を最後まで果たさなければならない。
 ★ このような自由とは自発性により生まれたが神が人間をはぐくんでくれたからであり、神への感謝の最たるものは、自由を謳歌する事にある。
 ☆ の《自由の謳歌》は 表現の自由および答責性の遂行をその内容とするものと考えます。ならばそこには
 ★ 神と戯れる
 ☆ 自由もめぐまれているかも分かりません。

補足日時:2010/01/23 23:37
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