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ここ最近、この時期になると必ず教師の「国歌不起立」が報道されますが、彼らの意図が全く理解できません。しかし、今年、来年と子の卒業を控える親としては、実際遭遇する可能性すらありますので、事前に彼らの思惑が知りたいと思っています。

何故、ここ最近になって、この動きが活発化したのでしょうか?
また、この行動の意味・目的は?お分かりの方がいれば教えて頂きたいです。

(正直、君が代斉唱など卒業セレモニーの一環としか思えず、現段階では、「誰が蛍の光が終了の時の歌と決めたんだ!オレは認めんゾ!」と言ってるクレーマーと同列にしか思えません。また集団行動を教える教師として明らかに不適格ではないか?とも思ってしまいます。)

A 回答 (41件中11~20件)

いずれにせよ、善意をまとった狂気を隠し持つ愚劣な人間の集合体が、戦争を生みテロリズムを生み、人を殺すのです。



幻想を語る (岸田秀コレクション)
P264
 誰かも言っていましたが、戦争というものはすべて、本質的には宗教戦争じゃないんですかね。経済的要因で戦争が起こるとは考えられません。経済的問題だけなら、戦争以外の解決手段のほうがはるかに有効なんですから。一見、経済的理由のように見えても、それは口実です。大日本帝国の旧満州への侵略とその経営に関しても、注ぎ込んだ資本のほうがあげた利益よりも大きく、経済的には赤字でした。「満州は日本の生命線」なんて言っていましたが、大きな嘘でした。太平洋戦争だって、アメリカの生産力と日本の生産力の比率から言っても、経済的には自滅だということは、はじめからわかっていました。それでも戦争をやらない理由にはならなかった。
 
 戦争というものは本質的にはすべて宗教戦争だと言う場合、宗教とは何かということが問題となりますが、僕の考えでは、宗教とは、結局、自我の安定のためのものです。自我が安定した居場所が見出せるような世界のイメージを提示するのが、宗教です。戦争は、自分の自我を安定させてくれる宗教に対して行われるわけです。あるいは、自分の宗教を他の人びと、他民族に押しつけ、それをより普遍的なものにし、ひいては自我をより広い安定した基盤にのせるために行われます。

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国家を大事と思う貴方の自我の安定のために(それはそれで確か自分が大事にする分には尊重されるべきです)、様々な人生を歩んでこられた他人様に「君が代を歌うフリくらいはしろ、ボケぇ」という感情を持たれる貴方は、それこそ危険だという自覚を持つ方が宜しいのではないでしょうか。

オウムとの違いは、たまたま自我の安定のための道具の内容が、「国家を歌う」ことだったのか「オウムの教義」だったのかの違いなだけで、盲目に衝動的に他人に押しつけを強要する点については、全く同じなのではないでしょうか。
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日本は主権在民の国なので、天皇を主権者のように歌っている歌を国歌にするのには問題があります。


また戦時中に天皇を旗印にして悲惨な戦争に突き進んだということがあるので、その時代を礼賛した人が制定した国歌ならば、国歌と認められないと考える人もいます。

他方、天皇を礼賛して歌を歌いたい人もいます。

>また、この行動の意味・目的は?
天皇礼賛を通して、もう一度戦争の出来る日本に戻るのが「美しいことだ。良いことだ」というイメージを広めようとしている勢力に、対抗することではないでしょうか。


>当日ごちゃごちゃ言うなら事前に解決しとけ、
「事前に解決」とは「事前に法律を変えて、国歌を別のものにすること」です。
一年や二年で出来ることではありません。
「一年で解決できなかったことは、たとえ誤っていても従わなければならない」ということはないですよね。


>式の進行を妨げないため、立ち上がり、歌う「フリ」くらいはしろ、それすら嫌なら休んだら?と言っています。

「白人は~黒人より上~」という歌詞を国歌にもっている国の人が、それを変えたいと思い、しかしまだ適わないうちは、それを国歌として扱うことに従うべきでしょうか。
「扱わない自分」を隠蔽し、歌う振りをして、「日本人は全員歌うことに賛成しているてい」が出現することに協力をしなければならないのでしょうか。

彼らは本来の良心に従うなら、国歌斉唱のあいだ別の歌を大声で歌うべきなのです。
国歌を歌わないで欲しい理由を生徒たちに説明し、また国歌を歌って欲しい人たちは人たちで歌って欲しい理由を説明し、生徒自身がどちらを選ぶか当日までに決めるべきです。

それすらせず、ただ「黙っている」「なぜ今の国歌がよくないと思うのかの説明もしないで黙っている」という状態は、まさに
>時と場所を選べ、
という言葉に従っているのです。

左:他人にも歌わないことを強要したい
右:他人にも歌うことを強要したい

真ん中の人:
自分が歌う場合も、他人に歌うこと(歌う振りをすること)を強制しない。
自分が歌わない場合も、他人に歌わないこと(歌わない振りをすること)を強制しない。

「歌う振りを強要する」ことは「歌わない振りを強要する」ことと対の概念です。
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頭いい加減悪いのはネット右翼の典型ですね。



そういうことを私に話しても無意味ですよね。

そもそも、私に、あいつら歌え、歌うふりくらいしろ、というのが、自分の価値観の押しつけに過ぎないという点に気がつかない点に、非常な危惧を覚えるのです。

校則を守るには一定の合理性がありますが、国歌を歌うことには別に合理性はありません。

良いですか?

この国は、全国民から税金を取って成り立っているのです。

創価学会なりエホバの会なりなんなりかんなり、そういう人からも税金を取って、高校を作っているのです。

だから、エホバの商人の信者は、その信仰に従って、学校の体育の授業などで戦う類のスポーツ(剣道とか柔道とか)は一切しないししなくて良いことになっています。最高裁で決まっているのです。
http://dai18ken.at.infoseek.co.jp/kenpou/99/5-eh …

自分が正しいと思っている。だから他人にも押し付けたい。そのための道具づけに校則、法律を持ってくるのがおかしいのです。

自分が正しいと信じている、だから他人に押しつても良いという発想はオウムの麻原もナチスドイツも金正日も同じ発想だと仮にします。

「当日ごちゃごちゃ言うなら事前に解決しとけ、それが出来ずに当日になったなら、式の進行を妨げないため、立ち上がり、歌う「フリ」くらいはしろ、それすら嫌なら休んだら?と言っています。」

これは、国歌を歌うことが正しいと信じているから、その多数の声に従わない者は悪だとする決めつけと考えて良いかと思います。その点で、自分が正しいと信じている国歌斉唱しない教師に、押しつけをしている点で、オウムの麻原、ナチスドイツ、金正日と同じだと言っているのです。

人間は多様な考えをする生き物だ、ということから同意しスタートしないと、結局は戦前の日本やオウムやナチスドイツと一緒になるという理路はご理解いただけましたでしょうか。

ヒトラーの「わが闘争」
「大衆の理解力は小さいが、忘却力は大きい。彼らは熟慮よりも感情で考え方や行動を決める。その感情も単純であり、彼らが望むのは「肯定か否定か、愛か憎か、正か不正か、真か偽か」のわかりやすさだ。民衆はどんな時代でも、敵に対する容赦のない攻撃を加えることの中に自分の正義の証明を見出す。肝要なのは、敵をひとつに絞り、それに向けて憎悪をかきたてることだ。言葉は短く、断定と繰り返しが必要だともいう。大衆は愚鈍だから「小さなうそより大きなうそにだまされやすい」

良く考えてみたらどうでしょうか?
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「憲法とは何か」長谷部恭男著


P8
2 立憲主義の成立
(中略)
 価値観・世界観は単に多元化しただけではない。それらは、相互に比較不能である。つまり、異なる価値観・世界観を比較して優劣をつける共通の物差しは存在しない。ミラン・クンデルの小説「存在の耐えられない軽さ」の冒頭部分で、主人公のトーマが、田舎町でたまたま出会ったテレサと結婚すべきか、それとも独身のプレイボーイとしての生活を続けるべきかを迷う部分がある。トーマは考える。

 どちらがより善い生き方かを知るすべはない。比べる基準が欠けているからだ。

 トーマが実際に選んだのはテレサと結婚する道であり、そして、それは物語の結末が示すように、二人にとっては致命的な選択だった。しかし、それより善い選択があったわけではない。異なる生き方は比較不能である。
 異なる価値観・世界観は、宗教が典型的にそうであるように、互いに比較不能である。しかも、各人にとっての自分の宗教は、自らの生きる意味、宇宙の存在する意味を与えてくれる、かけがえのないものである。かけがえのないものを信奉する人が対立すれば、ことは深刻な争いとなる。人生の意味、宇宙の意味がかかわっている以上、ヨーロッパの宗教戦争がそうであったように、簡単に譲歩するわけにはいかず、対立は血なまぐさいものとなりがちである。
 こうした比較不能な価値観の対立による紛争は、二十一世紀初頭の今も、いまだに世界各地で発生している。

 しかし、人間らしい生活を送るためには、各自が大切だと思う価値観・世界観の相違にもかかわらず、それでもお互いの存在を認め合い、社会生活の便宜とコストを公平に分かち合う、そうした枠組みが必要である。立憲主義は、こうした社会生活の枠組みとして、近代のヨーロッパに生まれた。(引用者注ここでの「立憲主義」の意味は、通常憲法学で言うところの「立憲主語」とはかなり意味合いが異なる。通常の立憲主義とは「国家権力を制限する、拘束する」というところに主眼を当てて定義される。しかし、長谷部教授は幅広くかつ深い近代の歴史洞察の元、新たに「立憲主義」について新たな意味づけを与えている)
 そのために立憲主義がまず用意する手立ては、人々の生活領域を私的な領域と公的な領域とに区分することである。私的な生活領域では、各自がそれぞれの信奉する価値観・世界観に沿って生きる自由が保障される。他方、公的な領域では、そうした考えの違いにかかわらず、社会のすべてのメンバーに共通する利益を発見し、それを実現する方法を冷静に話し合い、決定することが必要となる。
 このように、立憲主義は、多様な考え方を抱く人々の公平な共存をはかるために、公と私の二つに区分する。これは、人々に無理を強いる枠組みである。自分にとって本当に大切な価値観・世界観であれば、自分や仲間だけではなく、社会全体にそれを押し及ぼそうと考えるのが、むしろ自然であろう。しかし、それを認めると血みどろの紛争を再現することになる。多元化した世界で、自分が本当に大事だと思うことを、政治の仕組みや国家の独占する物理的な力を使って社会全体に押し及ぼそうとすることは大きな危険を伴う。(引用者注、典型的には安倍晋三著「美しい国へ」)
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自分が君が代を歌って良くても、それとは別に、嫌な人も日本には存在するのです。(ちなみに、私は歌いますが、歌えと強要する人はオウムの麻原とか金正日と同じ次元の下劣な人間と感じます、あなたのような人間です)。想像力が今の日本には欠如しています。所詮は愚劣なネット右翼ですな。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

私はちゃんと歌えなどと強要していませんよ。
当日ごちゃごちゃ言うなら事前に解決しとけ、それが出来ずに当日になったなら、式の進行を妨げないため、立ち上がり、歌う「フリ」くらいはしろ、それすら嫌なら休んだら?と言っています。

彼らは本当に卒業生は心から送り出したいのでしょうか?
それが一番大切と思うなら、起立くらいは出来るでしょう?生徒より自分が大事なら休んだらよろしい。

だ・か・ら、だったら、校則を強要する教師は?社則を強要する会社は?悪ですか?オウムですか?
強要されねば出来ない事を問題とは思いませんか?嫌なら何故事前に解決しないのでしょう。1年は365日ありますが・・・。

時と場所を弁える。私は当たり前だと思います。

誹謗中傷も結構なのですが、申し訳ありませんが、いちいちオウムや金正日を引き合いに出す話しの次元のほうが余程下劣では?と思えますが・・・・。
卒業式の話ししてるんですよね?

是非、質問に対するご意見をお願いします。
コメントありがとうございました。

お礼日時:2010/04/02 20:37

以下は注目されている憲法学者長谷部恭男著「憲法学のフロンティア」岩波書店からの抜粋です。





P3~  宗教はしばしば生の究極の意義を提供すると主張する。異なる宗教は、それぞれ異なる価値が生の究極の価値であると主張する。この対立は、しばしば激烈な抗争へいたる。宗教改革後のヨーロッパにおける宗派間の世界観闘争が、その典型である。理想の生とは、各人がそれぞれの究極的な価値を目指し、それに忠実に生きることであろう。しかし、それを各人が完璧に実現しようとすれば、現世内の激烈な闘争が起こる。そこでは万人は万人に対して狼であり、そこでの生は血腥く、野蛮で短い。宗教に限らず、ある生き方が「善い生き方」だと決まれば、それ以外の生き方は「邪悪な生き方」である。異なる価値観を奉ずる人々は互いに他の生き方を「邪悪な生き方」と考えるはずであり、それに対して「聖戦」を遂行することが「善く生きる者」の義務だと考えるのが自然である。 



リベラル・デモクラシーは、異なる世界観の間で優劣を決めることはできないと考える。多様な世界観が互いに殲滅戦を遂行するより、それらは比較不能であることを正面から認め、その共存をはかるべきだと考える。異なる価値観を奉ずる人々は、それでもなお共に社会生活を営み、その便宜を分かち合うべきである。「理想の世界」を実現するための血みどろの闘争よりは、両立しがたい神々に帰依する人々が共存しうる、それほど高邁ではないが平和な社会を実現すべきである。 



「この世の平和」を実現するために、いかに生きるべきかに関する各自の根底の道徳を括弧に入れ、あえて他の人々と共存することは、容易な決断ではない。それは不自然な選択である。リベラル・デモクラシーは不自然な選択に支えられた人為的な体制であり、放っておけば自然に発生する体制ではない。



また、岩田靖夫著「いま哲学とはなにか」岩波新書P187~には以下のようにある。 



生きるとは、基本的に自分の存在を保有し、維持し、拡張することである。すなわち、スピノザが「存在欲求」と言ったあの自己保存の働きである。あらゆる存在者は自己であり続けようとする。それは、自己同一者として一定の時間と空間を占めつづけようとする力の発言である。従って、存在者と存在者がひしめき合う存在の世界は、必然的に力と力のせめぎ合いの場になるのである。動物、特に人間は自覚的に自己の存在を維持しよう活動する存在者であるから、人間においてはこの力と力のせめぎ合いは一層激しくなる。 



このせめぎ合いによって、生存競争が起こり、弱者が脱落し、強者がますます存在を拡張する。それが、ホッブスが「人間は人間に対して狼である」と言った状況であり、ダーウィンが「適者生存」と言った状況であり、カントでさえ「(法のない自然状態では)人間の隣に人間がいるという状況が、潜在的に戦争状態である、ということだ」(「永遠平和のために」第2章)、と言っている状態なのである。 



それゆえ、人間は、生きるために、食物を獲得し、衣服を着用し、住居を持ち、一定の土地を占有せねばならないが、それらが乏しくなれば、必然的にそれらの必要物資を奪い合わねばならず、そのために、いつでも戦争を起こすのであり、この意味で、戦争は存在欲求の必然的結果だ、と言わねばならないであろう。アリストテレスでさえ、人間が生きるための財貨獲得の一つの術として、戦争がある、と言っている(「政治学」)。 



そうであれば、人間の存在欲求をあるがままに放置すれば、戦争は永久になくならないだろう。そして、人間は、文明の発展とともに、技術力を拡大し、それに伴って経済活動を再現もなく増大し、その結果、富を無目的的に集積し、それによって欲望を限りなく肥大化し、その結果、惹起された環境破壊と人類殲滅戦争の可能性によって、自分自身と地球の殲滅に近づきつつある。 



それでは、どうすればよいか。戦争をなくすためには、人間各自が自分の存在欲求を制御する他はない。しかし、生きるためには、最低限の存在欲求を実現せねばならないのだから、生きるために必要な欲求より以上の欲求を抑制する、ということである。これが、昔から論じられつづけてきた正義の問題なのである。
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http://plaza.rakuten.co.jp/hahiro/diary/20100304 …

日本辺境論 (新潮新書)
P110~
君が代と日の丸の根拠

 少し前に、TVの討論番組である政治家が、「国家を斉唱したくない人間は日本から出て行け」と怒鳴り声を上げていたのを聴きました。国旗と国歌は法律で決まったのだから、それを順守せよと言うのです。私はびっくりしました。というのは、この政治家が属している政党は、党是として「改憲」を掲げていたからです。
 憲法は国の最高法規です。「国務大臣、国会議員、裁判官その他公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と九九条の公務員の憲法尊重擁護義務には明記してある。ですから、公務員である彼はその職に就くときに、「この憲法を尊重し擁護する義務を負う」という誓約書に署名しているはずなのです。国家を斉唱したくないという人に向って「法律を守れないなら日本から出て行け」と言う彼のロジックにもし理があるとするなら、彼はそのロジックを自分自身にも適用して、「公務員でありながら、最高法規を尊重し擁護する義務を忌避している人間として自分自身に日本追放を宣告しなければならない。
 国の最高法規を「尊重し擁護する」気がないと揚言している人間がどうして自分は国を代表する権限を負託されていると信じ込めるのでしょうか。私にはそのことの方が不思議でした。彼がそう信じられるのは、そして、そう公言する人を「この人、変だよ」とまわりの人間もテレビを見ている人間も誰も思わないでいられるのは、「国とは何か、国民とは何か」について最終的に答えを出すのは私たちひとりひとり個人の資格においてであるという考え方が私たちの中には定着していないからです。


コメント欄にて

違うでしょう abcdさん

改憲を主張することが

>国の最高法規を「尊重し擁護する」気がないと揚言している人間

になるわけではありません。
尊重しないというなら、改憲も何もせずに憲法に従わなければいいのです。
国歌を斉唱しない教師のように。
むしろ憲法を尊重しなければならないから改憲というプロセスを経る必要があるのです。
何か勘違いしてませんか。(2010.03.04 21:12:56)

回答
内田先生の文章の切り貼りなので、単独で読まれると誤解されますが、理屈はこうです。

1.自民党国会議員の中に、国歌斉唱や国旗掲揚をしたくない人に、法律で決まったのだから、それを守れ、守りたくないなら、日本から出て行けと言う人がいる。

2.日本国憲法は、第19条で「思想及び良心の自由は、これは侵してはならない。」と規定している。

3.第19条の思想良心の自由には「沈黙の自由」も含まれる。
具体的には国家権力には以下の縛りが科せられる。
a.ある思想及び良心をもつことを強制することは許されない(強制の自由)
b.ある思想及び良心を有すること、または有しなことを理由として、不利益を受けることはない。(不利益扱いの禁止)
c.自己の思想及び良心を告白することを強制されない。(沈黙の自由)

4.21条では「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」と規定されている。これには「表現しない自由」も当然に含まれる。

5.従って、国歌を歌わない人間は日本から出て行けと、国会議員が命令するのは、憲法19条、21条で保障された人権を無視した行為である。

6.ところで、国民に保有される19条、21条の人権は国権の最高法規たる憲法に規定されている。

7.従って、当該国会議員は憲法99条の観点から、明白な憲法違反をしている。明白に抵触している以上、まず、憲法>法律の優先順位があるのだから、自己が先に日本追放されなければならないはずだが、その論理が、この国会議員には理解できない。この国会議員のダブルスタンダード(矛盾)が、この自民党国会議員には認識出来ていない。

となるかと思います(2010.03.04 22:29:16)
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 大学の教育が悪いのです。



 東大、京大、早稲田、慶応の卒業式(学位授与式)の式次第を調べましたが、どこも国歌抜きでした。それどころか、慶応義塾創立150年式典には、天皇皇后両陛下がご臨席されましたが、ここも国歌はありませんでした。慶応義塾には、小学校から大学まで含まれます。
 こうした大学の卒業生が、官僚や政治家になるので、世の中が変わってくるのでしょうか。

 また、質問者は上司の命にそむくことを厳しくとがめていますが、B.C級戦犯のうち、上司の命により捕虜を虐待したという理由で、約1000名が死刑に処されたことをどうお考えですか。上司の命令と、自己の良心(神)のどちらが優先するかという問題です。

 また、学校と刑務所の違いについても、よく分からないところがあります。学校教育は、自立した市民を育てることが目標ではないでしょうか。お言葉通りだと、北朝鮮の学校が理想なのかなとも思えます。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

「時と場所を選べ、戦争論争をしたいなら、すべき場所でやってくれ、大人が若者に迷惑をかけるな!」・・・北朝鮮ってこんな国でしたっけ?成人式で騒ぐ若者じゃないんだから、大人なら、時と場所を選ぶのが当然だと思うのですが・・・。


これ、君が代を立って歌う(フリをする)ことと、上司の命令で捕虜を虐待することを同列に扱へ!と言う事ですか?
戦争に参加して無い私が語ることではないですが、個人的な考えを言えば、他人に迷惑をかけたかどうかが重要なのだと思います。
例え、脅された、自分の命の危機を感じたからだとしても、虐待という行為は罰されて当然だとは思います。戦争に負けた以上、その刑の重さは、勝った国々の意向が反映されるものでしょう・・・。
一方、起立斉唱(のフリ)はそれをする事によって、他の誰に迷惑が掛かるのでしょう?自分一人だけですよね?
ここに、学校の考えかたには相違がありますね。
どんなに他人に迷惑を掛けても自分のやりたい事はやる・・・・これが自立した市民の姿であれば、わが子にだけは、そういう大人になって頂きたくないのです。

社会に出れば、すべてが自分の思い通りにはなりません。ならない事の方が多いでしょう。それでも、自分を抑え、他人を労わり、金を稼ぎ、家族を養う。だれもがやっている事ではないですか?私としてはその社会勉強を学ぶ為の校則、共同生活であると考えています。

もし、私が学校の方針に納得が行かないのであれば、授業が終わってから行きます。間違っても授業中には行きません。我が子のためだけに他の子供達に迷惑をかける訳にはいかないからです。
blackhillさんは、構わず授業を中断させますか?他の子供達を無視して?時と場所を選ぶ、当然の事だと思うのですが・・・。

平和ボケした平成の世になってまで、そこまで君が代を嫌う人たちの方が、余程日本人っぽくないと私は思います・・・・。

お礼日時:2010/03/23 10:55

一言で言うとアレルギー症状なのです。



極端な思想があってそのアレルギーで逆方向の思想になっているのです。両極端な人はその人なりに理由はあるかもしれませんが、建設的に将来の社会を担う子供の教育はどうあるべきか、純粋に立ち返り、お互いに意見をすり合わせることにより解決できる問題だと思います。

この回答への補足

卒業式は、無事一人の進行妨害も無く終わりました。

自身の信念はあったのかもしれませんが、子供の事を第一に考え、堪えて頂いた教師の皆様に感謝です。

補足日時:2010/03/22 00:00
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。
返答が遅くなり申し訳ありません。

大人同士の意見の対立や、歴史観の対立、大いにやって頂いて結構なんです。但し、「大人なら場所をわきまえて下さい。」と心から思います。
卒業式以外の残り364日で徹底した議論を行い、それで解決しないなら、所属する機関のルールに従う。企業に勤める大人なら誰もが当然している事です。また次の364日で成果を出すべく行動すれば良いことではないですか。
この一般常識から逸脱した大人が、教育者ではこまるのです。

お礼日時:2010/03/21 23:52

今の総理大臣のように口先だけで反省してますとか


半分笑ったような顔で言われても白々しいし
真面目な顔して鎮魂とかいって慰霊してるようでも
人が手を下すことができないからといって
国民に対して何らかの形としての責任をとろうともしないのはどうなんでしょうね。
そういう精神性ならいない方がまだまともな国家を創造できるとも考えられる。
今の総理をみてれば見掛けだけで地位や金があれば育ちはいいなんて嘘だってのが判るというもんだろう。
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国内的には戦争の責任をとるという形で天皇は京都にでも遷都して平民と同じような生活をしていくのがいいのではないでしょうか。


たぶん本人もそういうのを望んでいるとも考えられます。
そういった生活形態をしたからといって古来より受け継がれてきたものが失われるということはないと考えられますし、むしろ皇統の継続に関しての環境を整えやすいということになるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。
返答が遅くなり申し訳ありません。

亀井さん近いことをもおっしゃっていましたね。
歴史認識やその訂正は政治レベルや法廷レベルでやって頂きたいんです。
卒業式で若者に迷惑を掛けてすべきことではない、と思うのです。

お礼日時:2010/03/21 23:45

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