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江戸時代に武士が名前『実名(諱)』に通字を使っていたようですが、本家(長男)以外次男以降の者も通字を使ったのでしょうか?

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A 回答 (3件)

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>本家(長男)以外次男以降の者も通字を使ったのでしょうか?

回答から先に述べますと、
「次男」までが一般的でした。

長男は、世継ぎですので、当然、大事にされ「諱」がありました。
次男は、長男に「もしも」のことがあれば・・・と、こちらも「まあまあ」大事に育てられましたので、「諱」を与えられました。
三男以降は、他家に養子にいく位しか生き残れる道はありませんでしたので、
はっきり言ってしまえば、「どうでもよい」存在でした。

この回答への補足

通称及び諱があったとの事ですが三男以降はどのようだったんでしょうか?

補足日時:2010/05/08 12:47
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この回答へのお礼

色々とご教授ありがとうございました。またよろしくお願いします。

お礼日時:2010/05/22 21:30

>江戸時代に武士が名前『実名(諱)』に通字を使っていたようですが、本家(長男)以外次男以降の者も通字を使ったのでしょうか?



結論から言えば次男以下も通字を使っていた例が多いです。また、分家でも本家と同じ通字を使う家も多く見られます。
根拠は江戸幕府の公式大名・旗本の系譜集である「寛政重修諸家譜」の記述です。通字を持っていない家もありますが、通字を用いている家の中で、主に系譜の最後の部分にある『実名(諱)』を見ていく方法を取りました。兄弟が少ない(もしくは記述されていない)家以外で、複数の兄弟があり、その兄弟が養子に行っていない者で、『実名(諱)』が記載されている者を見ると通字を使っている例が多いのです。
例えば、大岡直陳と言う旗本には子息が4名いますが、記載順に直春・直茂・直三(なおかず)・直光となっています。また、一族の大岡直孝の子息4名は記載順に直恭・康満・直明・直光です。同じく大岡直利の子息は3名ですが記載順に直近・直好・直住です。
養子に行く前は通字を用い、養子に行くと養家の通字に変更していることが分かる例として、大草公定の子息は3名いますが、記載順に公輝・幸利・常定とありますが、この内の幸利の記述に「初公直。吉三郎。海部新左衛門幸道の養子となり・・・」とあるなどの例が見られます。
なお、系譜の最後の部分を中心に見たのは途中の世代には「某」と書いてあって実名を記載していない者や(番方などに登用されている者も多い)、男子の兄弟が少ない者、養子先の通字を用いている例などが多いためです。系譜の最後の部分は部屋住みも記載しているようで兄弟が多く、実名まで記載されている例が多いので重点的に見てみました。
また、「寛政重修諸家譜」は幕府が編集した系譜集で、「寛永諸家系図伝」と共に江戸幕府が行った二大系譜編纂事業で、寛永譜より充実しています。大きな図書館には置いてありますので、確認されると良いのではないでしょうか。
以上、参考まで。
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NO1.です。



>>通称及び諱があったとの事ですが三男以降はどのようだったんでしょうか?

三男以降でも「通字」を使う例としては、

徳川家斉の子
徳川家慶、敦之助、徳川斉順、虎千代、徳川斉明、徳川斉荘、池田斉衆、松平斉民、徳川斉温、松平斉良、徳川斉彊、松平斉善、蜂須賀斉裕、松平斉省、松平斉宣

三男以降はどうでも良いという例、

井伊直中の子
直清、直亮、中顕、中川久教、内藤政成、松平勝権、直元、内藤政優、直弼、内藤政義
井伊直弼は幼名は鉄之介、字(あざな)は鉄三郎。兄であり12代藩主の直亮の養子となりましたので、初め「直輔」後「直弼」に改名しています。

特に決まりがあったわけではなく、その家の家風や家格で用いられたのではないでしょうか。
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Q昔の名前のつけ方

山田風太郎の小説を読んでいて、江戸時代の男性の登場人物で、采女という名前(苗字ではない)が出てきました

wikipediaで采女を調べてみると、朝廷に使える女官の事だとわかったのですが
それならば何故男の名前として采女という名前が出てくるのでしょうか

また、その他にも江戸時代の名前と言えば、熊五郎だとか、八兵衛、お縫、修理ノ助など、
子供の将来への期待をこめて名前をつける現代の私から見ると何を考えているのかわからない名前がよくありますが
その当時の人々はどういう理由で名前をつけていたのでしょうか

解答お願いします

Aベストアンサー

>大名や地位の高い剣豪などの名前と比べ、安直な名前に思えていましたが

幼名は竹千代、などやはり縁起や長寿を願ったような名前が付いていますよ?
家康はいみなであり、普段使う名前ではありません。
幼名以降の名前も変化しています
高い地位の人はいみな、字、姓や氏などかなり複雑な名前で
時期によっても変化しますので調べてみるとおもしろいですよ

ここで述べると長ったらしい話になるので割愛しますが…。

いずれにしても親が長寿や立身出世、安定した願いをこめてつけたというのは
今の時代と変わらないのではないでしょうか。
今は生きること、食べることへの危機感がないので
愛されるような名前とか、風光明媚だったり人との関係とか自然を入れる人も多いですね。
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昔はそれを病魔や悪鬼を避けるために縁起を担いだというだけで。

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改名したり、普段使いに別の字を使ったりする人もいますから。

>大名や地位の高い剣豪などの名前と比べ、安直な名前に思えていましたが

幼名は竹千代、などやはり縁起や長寿を願ったような名前が付いていますよ?
家康はいみなであり、普段使う名前ではありません。
幼名以降の名前も変化しています
高い地位の人はいみな、字、姓や氏などかなり複雑な名前で
時期によっても変化しますので調べてみるとおもしろいですよ

ここで述べると長ったらしい話になるので割愛しますが…。

いずれにしても親が長寿や立身出世、安定した願いをこめてつけたというのは
今の時代と変わらな...続きを読む

Q侍や忍者でかっこいい和名を教えてください

私は今小説を書いているのですが、キャラクタの名前が中々思い浮かびません。
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Aベストアンサー

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Q字(あざな)と通称の違い

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また前記のページでは「名」が書いてありますが「諱」の記載がありません。この「名」とは「諱」と解釈して良いでしょうか。もし違うのでしたらそこも教えていただきたいです。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>「名を翼・・・字は国南・・・通称 文左衛門」とあって字と通称は異なるものとしています

この場合の「名」は忌み名(諱)です。通称は一般的な通り名で、字は(語弊はありますが)ペンネームとか源氏名に近い感覚のものです。

どういう使い分けをするかというと、諱はその人の本名であり親と本人ぐらいしか知らないものです。これは、ご存知の通り本名を知られると呪いを掛けることができるようになってしまうから、という理由によるものです(呪いといっても死神が本名を呼ぶと本人は魂を取られる、というような感じです)

通称は誰でも呼べる名前です。亀田鵬斎も近所の人とか顔見知りの八百屋さんなどでは「文左衛門さん」で通っていたでしょう。だから通称ということになります。

それに対して「字」はその人の仕事に関する名称と尊称ということになります。亀田鵬斎を例にとれば、儒学者、文人としては国南、公龍などとして知られていたわけで、儒学者としての字と文人としての字を使い分けていたかもしれません(たぶん使い分けていたでしょうが、亀田鵬斎を詳しく知らないのでどれがどれかは分かりません)

日本人の場合ややこしいのは、諱と字がある上に通称があってさらに字も通称も好きなだけ使い分けられた、ということです。この点でペンネーム(たとえば松任谷由実は、楽曲提供者としては、呉田軽穂、という名前で書いている)と使い方は一緒だといえます。

ではなぜ字と通称が別になるかというと、これは日本の階級システムがそうなっているからです。
日本の場合、中国などのように明確な階級制ではなく、農民の出身なのだけど学問で身を立てたから(身分は農民のまま)名字帯刀を許可されたとか、町民なんだけど腕の腕のいい医者だからお城に出入りできた、というようにがちがちの階級社会ではなかったのです。

諱はそもそも他人が呼ぶのは無礼だったことはご存知だと思いますが(これは正しくは、その人の命運を握っている親と主君は別で、呼べたのだけれどもそれは「絶対的な命令(死ねといわれた死ぬ必要があるぐらい絶対的)」が出来る人だから、呼べたわけです。

そういう立場ではない人が諱で呼ぶのが当然に無礼なわけですが、学問や医術・建築などで庶民ながら武士と対等に話せるようになると、回りの庶民が字で呼ぶことも十分失礼なことになってきてしまうわけです。

ですから字と通称を分ける必要が出てきて「名を翼・・・字は国南・・・通称 文左衛門」という風になり、名は親と主君だけ、字は対等な立場で仕事(学問とか文人としてとか)が出来る関係のひとだけ、それ以外の人はどちらも恐れ多いので、通称を使ったということになります。

そもそも文左衛門のように古い日本人によくある左衛門・右衛門は律令時代の官職名であり、江戸時代では有名無実化して、課長・部長のような肩書きだったのです。繁華街を歩くと誰にでも「社長、いいこいますよ」と客引きをするように「肩書き」というのは通称として使いやすかったのです。

ですから、通称は誰でも呼べるその人の(日本語であだなとすると意味が違うので)ニックネームであり、字は通常は通称でいいのですが、文人や学者などになるとペンネームのような一段上(諱と通称の間)で対等な立場の人しか呼べなかったということです。

武士は通常、諱と字=通称(ただし、この通称は農民や町民は呼ぶことが出来ません)しかありませんし、一般的な庶民も諱と字=通称しかないのが普通でした。

このほかに「号」というものもあります。これは自分でつける場合も他人がつける場合も、その人の足跡にふさわしいというものが「号」になります。号は原則としてひとつです。(書画の号と詩の号を分ける人はいた)

昔の日本には階級があったため、誰でも名前を気軽に呼べるわけではなかったのです。ですから一人の人が名前を使い分けていたわけです。

>「名を翼・・・字は国南・・・通称 文左衛門」とあって字と通称は異なるものとしています

この場合の「名」は忌み名(諱)です。通称は一般的な通り名で、字は(語弊はありますが)ペンネームとか源氏名に近い感覚のものです。

どういう使い分けをするかというと、諱はその人の本名であり親と本人ぐらいしか知らないものです。これは、ご存知の通り本名を知られると呪いを掛けることができるようになってしまうから、という理由によるものです(呪いといっても死神が本名を呼ぶと本人は魂を取られる、というよ...続きを読む

Q戦国時代の人々の名前について

司馬遼太郎の国盗り物語を読んだのですが、すこし感覚が掴めなかったので質問させてください。

戦国時代の人々の一般的な名前はどういったものなのでしょうか。
たとえば武将でいえば武田信玄、織田信長、明智光秀の呼び名は有名ですが、これらの名前って現代の人たちが理解しやすいように略した名前ですよね。
武田信玄は徳栄軒信玄
織田信長は織田上総介信長
明智光秀は明智十兵衛光秀
といった感じで、苗字+名前の形式ではなく、ミドルネーム?みたいなものはどういう規則であるのですか?
ある人は御屋形、ある人は信玄公、ある人は信玄様とさまざまな呼び名で統一されなかったのには意味があったのでしょうか。

ある身分の人ならば織田様と呼び、ある身分の人は、弾正忠様と呼び、ある身分の人は信長様と呼んで良いなんていう規則もあったのでしょうか?

また農民とかならば、個人を特定するような名前自体存在しなかったのでしょうか。
小説で読んだ中では志乃とかお清とか名前はみかけたので、名前がないということはあるでしょうが、人々の命名規則等は存在したのでしょうか。
(苗字は名乗ってはいけないとか、こういう名前を使ってはいけないとか言う規則はあると考えています)
(また、将軍の姓を使った織田とかは名乗れなかったと思います)

苗字を名乗れるのは、どういう身分の人たちなのでしょうか。
小説の中で山崎屋とか商人の人々には名前があったと思うのですが、村里の人々での苗字はみかけませんでしたし。

質問がわかりづらいかも知れませんが、
1.身分によって相手を呼ぶときの名前に対し厳しい制約は存在していたのか。
2.庶民(農民、商人等)の人々の名前についてどういう命名規則があったのか。
(農民は名前のみ、商人は苗字(店の名前)のみ、武士は苗字+名前を名乗ることができたなど。)
3.また、命名規則があればどのような名前が多かったのでしょうか。
(農家の男なら五平、六平。女なら志乃、清など)
の3つ教えてください。
よろしくお願いします。

司馬遼太郎の国盗り物語を読んだのですが、すこし感覚が掴めなかったので質問させてください。

戦国時代の人々の一般的な名前はどういったものなのでしょうか。
たとえば武将でいえば武田信玄、織田信長、明智光秀の呼び名は有名ですが、これらの名前って現代の人たちが理解しやすいように略した名前ですよね。
武田信玄は徳栄軒信玄
織田信長は織田上総介信長
明智光秀は明智十兵衛光秀
といった感じで、苗字+名前の形式ではなく、ミドルネーム?みたいなものはどういう規則であるのですか?
ある人は...続きを読む

Aベストアンサー

質問1については、先の回答者さんが答えておられるので、2と3について・・・

時代は少し古くなるのですが、建武の新政が行われた1334年に、若狭の国・太良荘(たらのそう)で、地頭の交代を請求した一揆の起請文には、惣村に属する農民・59名の署名が書かれています。

それを例にあげますと・・・
この一揆のリーダーだったと思われる僧実円・僧禅勝といった僧の名の付く人が6名、大山貞重・中原吉安・物部宗弘といった姓と実名のある人が6名、この内3名は花押も持っていて、グループの中では上層の身分の人たち、名主クラスです。

次に中大夫・平大夫・五郎大夫など大夫が付く人が10名・・・中介・江介・三郎介など介の付く人が6名、「大夫」や「介」は古代の令制の官位の呼び方ですが、すでにこの時代には農民が、一定の年齢に達した時、幼名から改名する際に使用していたようです。

新検校・惣別当・安寿など名の付く人が3名・・・「検校」や「別当」「安寿」などは、ご存知のように本来、寺院や荘園・官庁の役職名ですが、やはりこの時代ではすでに農民のレベルでも名乗っています。

次に、かい丸・牛丸と「丸」の付く人が2名・・・「丸」は本来、幼名に使用する文字ですが、牛飼いなどの運搬業に携わる人は、成人しても使用していたそうです。

平細工・孫太郎細工と「細工」と付く人が2名・・・彼らは手工業の職人だったと思われます。

残り24名は、この時代の農民の一般的な名前と言える物・・・藤内・源内・中江・孫太郎・孫二郎・彦二郎・平二郎・藤二郎・弥二郎・中三郎・惣四郎・孫五郎など、この中の「彦」や「孫」や「弥」は全国的に使用されている最も一般的な文字です。
「平」「源」「藤」「中」は貴族の姓を名前に取り入れています。
その後につく二郎や三郎というのは、お察しの通り、大抵は出生順の「○郎」と付けたようです。
彼らは、小百姓層の人たちです。

以上、先にも書かせていただいたように、これらの名前はすべて、中世の惣村の農民の名前・・・一揆の起請文の署名です。
女性の名がないのは、一揆の場合の署名は、一家の家長が代表して行う事が多かったためだと思われます。

長々と書いてしまいましたが、少しは参考になりますでしょうか?

質問1については、先の回答者さんが答えておられるので、2と3について・・・

時代は少し古くなるのですが、建武の新政が行われた1334年に、若狭の国・太良荘(たらのそう)で、地頭の交代を請求した一揆の起請文には、惣村に属する農民・59名の署名が書かれています。

それを例にあげますと・・・
この一揆のリーダーだったと思われる僧実円・僧禅勝といった僧の名の付く人が6名、大山貞重・中原吉安・物部宗弘といった姓と実名のある人が6名、この内3名は花押も持っていて、グループの中では上層の身分...続きを読む

Q江戸時代の墓について

数年前に江戸時代後半の先祖墓が見つかりとてもびっくりしています。墓石は70個くらいでしょうか。
凄い田舎で百姓をやってたと思うのですが、墓のひとつひとつが貧農ではまずこのような墓を作るのは困難と思われるようなものばかりなのです。
しっかりとした石を使っているためか、かなりの墓石の文字がはっきりわかります。
中には墓石に仏像が彫られ、着物に赤い色が塗られているのも数体あります。女性の墓石ではないかと推察しています。
写真を添付しますので、見ていただければ幸いです。
ネットで同様の墓石を探しても見当たりません。
なぜこのような墓を作ることができたのか?どのような推察でも構わないので教えてください。
また、昔の墓の研究をしているところがあればそれはどのようなところなのか、どうすれば調べられるのかわかれば
それも教えてください。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

江戸時代は土葬が基本です。
同時にお墓は個人単位が基本です。
たくさんの墓石が集団で見つかるのはこのためです。
ただ上質の石材を追加って丁寧に彫られていますことから、相当の名家であったのではないかと思います。
お墓を管理している菩提寺に過去帳は残されていませんでしょうか。
彫られている享年で推定はできます。

生前墓といって死ぬ前から用意することがあります。(長生きができるとされています)
この際に戒名などに朱を入れます。
この朱を入れる習慣の延長かどうかはわかりません。
男女は掘られている戒名等で判別は可能か思います。

いずれにせよ、お近くの博物館などの学芸員の方に一度みてもらってください。
市町村の役場で問い合わせ先を教えてもらえるのと、依頼ができるかと思います。
市町村の図書館で郷土史家の方を教えてもらえますので、その方とも一度話をしてみて下さい。
お住いの地区でどのようなことがあったのかは大よそ見当がつくかと思います。

Q昔の武士の男の子の、○丸という名前

森蘭丸とか牛若丸とか、昔の武士の男の子には「何とか丸」のような名前が多いと思います。
世阿弥が藤若とか鬼夜叉…とか、源義経が遮那王とか牛若丸とか、
その時によって呼び名が変わったと読んだことがあるのですが、
こういう幼名のあった男の子は、武士に多いのでしょうか?
身分の低いお百姓や職人、商人の子には、こうした幼名は付きませんでしたか?

また、この「何とか丸」という名前ですが、今、牛若丸と蘭丸くらいしか思い出せません。
他にどんな「○丸」がありましたか?
有名な人の名前でなくても結構ですので、こうした幼名のバリエーションを教えてください。

Aベストアンサー

昔の子供や船に、何々丸とつけたのは鬼(災い事)にもっていかれないためにです。昔は今ほど栄養状態もよくなく医学も進んでいませんから子供が立派に元服まで成長するのは大変だったのですね。

ではなぜ、「~丸」とつけるのか?
丸とは、おまるのこと、つまりトイレのことです。
鬼は、臭い匂いを嫌い近づいて来ないので、魔除けとしての意味があった、という説があります。

Q壬申戸籍の謄本を入手する方法は?

  我が家の家系図を作成しています。祖先の(戒名ではなく)俗名が必要なため、市役所で戸籍謄本(除籍謄本、原戸籍謄本を含む)を取って世代を遡って調べたのですが、明治19年に編成された戸籍まで遡りました。しかし、明治5年に編成された戸籍(通称、壬申戸籍)は期限切れのため保管していないと言い方でした。
  壬申戸籍はどこで保管しているのか、インターネットで調べたところ、法務省の法務局らしいことが分かりました。で、法務局に問い合せたところ、「期限切れなので・・」という回答なのです。決して「破棄した」とは言わないので、現在もどこかで(法務省管轄下で)保管されているように思えます。昭和43年頃、旧身分制度に関する事柄が社会問題化して(→同和問題?)壬申戸籍が封印されてしまったというのが真相の様です。
  他人の祖先の名前を知りたいのではなく、自分の祖先の俗名を知りたいのです。壬申戸籍の謄本を発行しても身分に関する情報を知るのは子孫である私なのであって他人ではないのだから問題ないのではないでしょうか。壬申戸籍の謄本を入手する方法はないものでしょうか。

Aベストアンサー

入手方法は、現在ではありません。
壬申戸籍は、確かに法務局で保管はされています。それは遠い将来に「歴史資料となりうる」という観点で保管されているようです。
従って「旧身分」が記載されている戸籍を子孫であるとはいえ閲覧させることは現在はできません。

◎ 他人ではないのだから問題ないのではないでしょうか。
これを認めてしまうと「子供の結婚相手であり、身内となる可能性があるのだから(あるいは身内となったのだから)問題ない」と言い出す人もでてくるでしょう。結果として「同和問題」に行き着くことになります。
また子孫は複数・多数にわたりますから....結果的に「広く公開する」ことに繋がっていきます。
現段階ではあきらめるしかありません。

Q江戸時代の侍は、普段何をしていたのでしょうか?

江戸時代は戦もほとんどなっかたと思うのですが、平和時に侍は日常何をしていたのでしょうか?行政や事務方の仕事を兼務していたのでしょうか?

Aベストアンサー

 侍は確かに今で言う公務員ですね。
 藩政に関わる仕事を基本にして、あとは娯楽や稽古など・・・。
 初期と幕末期は様子が違いますが、江戸時代らしいと言えばらしい、まるっきり平和ボケな中期の頃の話をします。
 んで旗本大名クラスじゃなくて、ホントの窓口公務員っぽい人たちの話。

 現代のように週5日で朝9時から夕方5時まで勤める、ということはありません。
 お城の番兵みたいな人は、せいぜい月に数日間しか公用がないこともありました。
 接待係のような人も、御用商人が接待してくれれば遊べるかなくらいで、実際にはやる仕事が全然ないんですよね。
 一応、忙しい人がいないわけでもなく、御算用者という財務会計専門の役職は激務だったみたいです。
 理由は・・・そりゃあねぇ。お察しください。
 きっとストレスでバッタバッタ倒れたでしょうな。

 それに地方大名はやれることが限られてました。幕府がいろいろ禁止してますから。
 たとえばお城の石垣が傷んで直そうとしても、幕府の許可がないとやっちゃいけないんです。

 で、大部分のヒマな侍は何をしてるかと言えば「やることがない」のです。
 しょうがないから芝居見物、博打、酒盛り、釣り、生け花、俳句など、いかにヒマをつぶすかに一生懸命だったでしょうね。
 知行はあるけど、これだけ遊んでればお金も無くなります。
 だから武士の命のはずの刀を質に入れ、金を借りたりしてるのが普通なわけです。
 江戸に行けば生活費もかさみますので、ちょっとくらい手当をもらっても借金がふくれるばかりという人もいました。


 仕えていた藩を取りつぶされたりして、仕官先のない武士は「侍」とは言わず「浪人」と言います。
 今でも残っているこの言葉の通り「仕事も何もすることがない人」だったりします。つまりニートってこと。
 ホントに何もやらないと当然収入がないので、内職したりして日銭を稼いだりしてました。
 時代劇じゃ傘張りとか耳かきの製作とかやってますよね。

 そんなわけで士農工商とは言われてますが、武士も実際には商人に金を借りまくってたりして、あまり偉そうにはできなかったというのは有名な話。
 商人、職人、農民は何かヒット商品で成功すれば豪商や豪農のように成り上がれますが、武士にはそれがないのがつらいところ。
 経済的に豊かな武士というのはおらず、実質的に武士は江戸時代を通じて無職者集団に近かった、とさえ言われてます。

 参考になれば幸いです。

 侍は確かに今で言う公務員ですね。
 藩政に関わる仕事を基本にして、あとは娯楽や稽古など・・・。
 初期と幕末期は様子が違いますが、江戸時代らしいと言えばらしい、まるっきり平和ボケな中期の頃の話をします。
 んで旗本大名クラスじゃなくて、ホントの窓口公務員っぽい人たちの話。

 現代のように週5日で朝9時から夕方5時まで勤める、ということはありません。
 お城の番兵みたいな人は、せいぜい月に数日間しか公用がないこともありました。
 接待係のような人も、御用商人が接待してくれれ...続きを読む

Q明治維新後、武士は平民になったというが

明治維新後、武士は平民になり、一般の会社員になったりしたのでしょうか。いろいろ苦労があったと思いますが、
そのあたりのエピソードを教えてください。

Aベストアンサー

維新により、武士は士族(足軽は卒族)という身分になり、秩禄処分で政府から一時金を貰って、以後は自分の才覚で生きていくことになります。
例として、徳川宗家に使えた旧幕臣を上げますと、彼らは徳川家達に従って、静岡に移ります。
ここで牧の原を開墾し、お茶の生産を始めます。
当初は筆舌に尽くしがたい苦労の連続でしたが、明治末に杉山彦三郎氏が新種の開発に成功し、経営が安定します。
旧幕臣たちは苦しい生活の中にも教育に未来を託したため、彼らの子弟は高い教養を身に付け、官吏となった者も少なくありません。
東北諸藩は北海道に未来を託したものも多く、現在北海道に「伊達市」がありますが、伊達邦成が旧家臣とともに開拓した土地で、旧会津藩の余市、旧徳島藩の静内町など、どちらかと言うと、維新の逆賊に回った藩の士族が開墾した土地が多く残ります。
このように、旧藩主(華族)がある程度の援助をして、家臣たちに農業をやらせる例も多くありますが、完全に没落したものも多く出ます。
樋口一葉などもその例に漏れず、士族としての誇りを持ちながら、貧困にあえいだ生活は涙を誘いますね。
総じて、士族は学がありますから、彼らの子弟は官吏、教員などになる例は多いようです。

維新により、武士は士族(足軽は卒族)という身分になり、秩禄処分で政府から一時金を貰って、以後は自分の才覚で生きていくことになります。
例として、徳川宗家に使えた旧幕臣を上げますと、彼らは徳川家達に従って、静岡に移ります。
ここで牧の原を開墾し、お茶の生産を始めます。
当初は筆舌に尽くしがたい苦労の連続でしたが、明治末に杉山彦三郎氏が新種の開発に成功し、経営が安定します。
旧幕臣たちは苦しい生活の中にも教育に未来を託したため、彼らの子弟は高い教養を身に付け、官吏となった者も...続きを読む

Q江戸時代、武士の次男三男の暮らしぶり(無役の閑人?)

岡本綺堂の「半七捕物帖」で、
「旗本に限らず、御家人に限らず、江戸の侍の次三男などというものは概して無役の閑人であった。彼らの多くは兄の屋敷に厄介になって、大小を横たえた一人前の男がなんの仕事もなしに日を暮らしているという、一面から見ればすこぶる呑気らしい、また一面から見れば、頗る悲惨な境遇に置かれていた」
とあります。

いまのニートそっくりですが、彼らは、
1.就職できなかったのですか?
2.バイトはどうでしょうか?
3.結婚したら兄の屋敷を出て行かなければなりませんか?
4.結婚したら生活費はどうなりますか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

武家というのは、家の論理で動きますから、家という概念で考えないと誤解します。

1.就職できなかったのですか?
役というのは、代々、家に付くものですから家の当主でなければ、役に就くことはできません。分家というのは、新しく一家を立てて、その家の当主となることです。分家を立てれば(別の家ですから)役に就くことはあります。そうでない限り、家としての役に就くことはできません。もちろん、まれに次男が別に召し出されることはありましたが、その場合は将来、一家を立てることが前提です。

2.バイトはどうでしょうか?
バイトはできたようです。具体的には、大名火消しのガエン、歌舞伎・能の囃子方などは旗本・御家人の次男坊、三男坊のアルバイト先だったようです。小説などにある、町人やヤクザの用心棒はあり得ません。ただし、剣術道場の師範などはあったようです。

3.結婚したら兄の屋敷を出て行かなければなりませんか?
一家を立てなければ結婚はできません。従って、結婚するから家を出るのは、養子縁組、婿入りだけです。まず家を立てる(分家)のが先、結婚は家を立てたからできるのです。

4.結婚したら生活費はどうなりますか?
従って、この質問自体が成り立ちません。一家を立てるということは、収入があるということです。

補足をすると、二男・三男は養子、婿入りなどをして、一家の当主とならない限り、生涯独身です。その場合、当主から小遣いをもらい、女中をあてがわれ、身の回りの世話と性処理はその女中の仕事になります。当主(長男)が死亡すると、当主の息子(甥)が跡を継ぎ、いわゆる「厄介叔父」という立場になります。

大名家や大身の旗本で次男などに、分知をして(例えば前田家)一家を立てさせることはありました。この時は、分知ですから当然収入があるわけです。

武家というのは、家の論理で動きますから、家という概念で考えないと誤解します。

1.就職できなかったのですか?
役というのは、代々、家に付くものですから家の当主でなければ、役に就くことはできません。分家というのは、新しく一家を立てて、その家の当主となることです。分家を立てれば(別の家ですから)役に就くことはあります。そうでない限り、家としての役に就くことはできません。もちろん、まれに次男が別に召し出されることはありましたが、その場合は将来、一家を立てることが前提です。

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