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ヤフーのスクロール古地図を見ると、旗本も寄合クラスとなると三千坪を超える屋敷を構える者も少なくなかったようです。
 中には一万坪以上の屋敷を持っている旗本もいるようですが、大身とはいえ数千石程度の旗本がそのように広大な屋敷を財政的に維持できたのでしょうか?

5万石程度の小大名が十万坪近くを与えられていたりと、石高と屋敷の広さはあまり関係ないのは分かりますが、このように過大な江戸屋敷の維持費が藩政を著しく逼迫させたりしなかったのでしょうか。

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A 回答 (2件)

 旗本の家計については、軍役義務のため一定の人数を雇う必要があるため、やりくりが大変であったようです。


http://www.0105.jp/~mizuki/gunekikitei.html
 しかし、三千坪もの広い敷地と広大な建物にかかる費用は大変だと、今日の我々は思ってしまいますが、我々が想像するほどでもないかな、という感じがしています。
 私は以前、今なお三千坪の敷地に長大な長屋門と昔ながらの屋敷を構える郷士のお家を訪ねたことがありますが、ご主人の話ですと、明治以降は住み込みの下男夫婦で、庭の手入れや、建物の維持管理ができたそうです。実質1.5人でなんとかやれたということのようです。
 庭園も人手を食わない庭の造り方というものがあるようです。芝生とか苔やツツジなどの小灌木が多いと夏場の水遣りが大変です。
 井戸から水を汲んでということになりますので、事実上無理ということになりますが、そこのお宅では庭に水をやるということはないそうです。造成地ではないため、樹木は地下の水脈近くまで根を下ろすのでしょうね。
 建物も腐りやすい風呂や便所は別棟ですから、母屋や門長屋は普段からキチンと手入れをしていけば、百年、二百年ともつそうです。

 田舎の郷士は身分は最低クラスですが、軍役義務のための雇い人は必要なく、実際は裕福なお家が多かったようです。
 一方、旗本はその高い格式を保つため、内実は大変ということを聞きますが、建物や庭園の維持管理にかかる費用は、人件費の安い江戸時代であれば、われわれが思うほどではないという感じがします。
 しかし、建物を新築したり庭園を造ったりする費用は高いものにつくでしょうね。全部人力ですから。庭石を一つ運ぶのにも、トラックやクレーン、ユンボなどはありませんので、高い費用がかかります。
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この回答へのお礼

郷士身分で長屋門を許されていたのですか?
私は歴史に詳しくないですが、てっきり長屋門は千石を超える旗本や大名家の家老クラスの家格じゃないと許されていないものと思っていました。

建物もそんなに老朽化するものでもなかったのでしょうね。今の建築と違って50年と持たない安普請じゃないでしょうし、意外と費用はかからなかったのでしょうか。白壁などは屋敷ほどは持たない気もしますが…
 確かに寄合クラスの旗本となると家老・用人以下、何十人と家臣・使用人を使っていましたから庭師を雇ったりと、屋敷の維持の為だけに人件費が発生することはなかったのでしょうね。その辺は現代の感覚で見てはいけないのですね。とても参考になりました。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/02/12 18:45

 維持費、大変だったでしょうね。


 それで、実際、旗本も大名も困窮していっています。
 中にはそういう屋敷の一部を人に貸したり、賭場に貸したりして禁制が出たこともあるようです。
 あと、屋敷には大名や旗本の家族だけではなく、その家臣の家族もいましたのでそれなりにやりくりしていたんでしょう。
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この回答へのお礼

やはり大変だったのでしょうね。

江戸の屋敷事情って結構面白いです。
門1つとっても家格によって長屋門とか冠木門とかと違っていたようですね。
由緒ある大番士が御家人の屋敷に間借りしていたり、五百石を超える堂々たる旗本が本家(寄合)の屋敷の家臣用の長屋に一時的に住んでいたり・・・

ありがとうございました!

お礼日時:2007/02/12 18:38

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Aベストアンサー

千石以上の旗本は、全部で800家ほどしかありませんでした。
千石の旗本であれば長屋門でした。
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Aベストアンサー

大名家の家臣数は時代によりかなり異なります。
戦国期、江戸初期、末期で実態が変わっています。
戦国末期で軍制が定まってきたときは大体一万石につき200名以上の人数、に武器、乗馬、旗などの数が決められていました。
しかし実態は戦闘時、戦闘員の数がものをいうので軍制以上の人数を動員するのが常でしたし陣場借りといってアルバイトのような人員も抱え込みふくらんでいました。

江戸初期にはこの名残で大体一万石につき200名位に落ち着きましたがそれ以上の家臣をかかえる藩もありました。
米沢藩上杉家は謙信以来の家風があり大幅な減封を受けたのですが家臣団のリストラはせず、一律減封で対処したので有名です。
この為米沢藩士の窮乏はひどく、藩財政の建て直しを図った上杉鷹山の事績は有名で、内職が特産になった位です。

太平が続いた江戸中期では経済の発達、実収入の変動も影響しリストラ、給与の削減(借り上げ)などが常態となり軍制は形ばかりで多くは渡り中間など臨時の人数で揃えることが多くなり馬を備える事もままなりませんでした。
従って実数は半分以下位に下がっていたでしょう。
幕末長州攻めなどに動員された時武器鎧も質にいれていたので請け出すのに借金して間に合わせたといいます。
勿論内実の裕福な藩や尚武の念の厚い藩などはこの限りではありません。
それぞれの藩の古文書などに頼るしかないと思います。

大名家の家臣数は時代によりかなり異なります。
戦国期、江戸初期、末期で実態が変わっています。
戦国末期で軍制が定まってきたときは大体一万石につき200名以上の人数、に武器、乗馬、旗などの数が決められていました。
しかし実態は戦闘時、戦闘員の数がものをいうので軍制以上の人数を動員するのが常でしたし陣場借りといってアルバイトのような人員も抱え込みふくらんでいました。

江戸初期にはこの名残で大体一万石につき200名位に落ち着きましたがそれ以上の家臣をかかえる藩もありました。
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