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クリスチャンの方に質問です。その他宗教をお持ちちの方のご意見も聞かせて下さい。
私は約2年前にクリスチャンになったのですが、
付き合う友達が結構変わってきました。
その変化に正直ついていけない事も多く、戸惑う日々が続いています。
自分には3人、一生付き合っていきたいと思う友人がいるのですが、
彼らは宗教に対しての理解もあり、本当の私を知っている子達だったので
特に問題は起こってこなかったのですが、
それ以外の友達といると少しストレスを感じてしまう事が多くなったのです。
神様を中心として話をするとどんな中でも平安があるというか・・・
クリスチャンの仲良しの子達と話しているときは最終地点までたどり着ける気がするのですが、
ノンクリスチャンの友達といると最終的な解決までたどり着かない気がするのです。
正直に言ってしまうと、心からの平安を感じられません。
教会のリーダーに話すと、それは仕方がない変化だと言われますが、何か違和感を感じます。
ひょっとして自分は間違ったスタイルの信仰を持っているのではないかと思うのです。

皆さんもこういった変化を感じられた事ってありますか?
今の自分は好きですし、今までのどんな時より深い付き合いができる友達が沢山できたので
喜ぶべきことだとは思いますが、反面本当の自分ではないような気さえするのです。

もし同じような経験をお持ちの方がいたら教えて下さい。
また、よろしければノンクリスチャンのお友達との付き合い方なども教えて頂けたらうれしいです。

変な質問で申し訳ありません。
どうぞ宜しくお願いいたします。

A 回答 (3件)

どの様な宗教でも、宗教その物を生活の中で強く出すとうまく過ごせません。


一部の狂信的信者は、その生活幅も狭く他宗教の人とは折り合えません。

あくまでも宗教は何かあった時の儀式や心の支えであり、日常まで深く入り込むことがよいとはおもえません。
人を先導する事を仕事にしている専門家でなければ、もっと気楽に考えることが本来の宗教と言えるのではないでしょうか。
当然、他の宗教を信じる人や宗教に興味がない人に深い話をしても、迷惑がられるのが当たりまえです。

逆に、日常まで深く関わって、常に生活の中でお参りや施しお布施を要求するような物で有れば、単なる宗教に名を借りた商売であり、本物の宗教とは言えないと思います。
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私はカトリックですが、聖書がどうのとか平安がどうとか言う話は(聞かれない限り)した事がないです。



百聞は一見にしかず。言葉で唱えるより、自分を見せればイイだけ。自分は幸せなら皆興味を持つでしょう。
逆に聖書や神をひけらかしてウザイと思われれば、キリスト教はウザイ宗教ということになります。

また、聖書やキリストの言葉であっても、それは自分の事として人に話すこと。
「聖書にこう書かれている」とか「キリストはこういった」というのは自分が体験したり、身になっていない証拠。ようするに「又聞き」の話でしかありませんし。
もしそれに反論があった場合も、その責任を聖書やキリストに転嫁する事になります。
自分の口から出た言葉は、自分が全責任を持つ。という意識がなければ、人に教えを説く事など出来ません。

だから、聖書でも何でも実践して結果を得たら自分の言葉で主張する。そして「その考えがどこから来たのか」と聞かれた時、初めて「聖書にこう書かれている」といえばよいのです。
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私は、厳密に言えば、クリスチャンとはいえませんが、多く経験してきていることですから書かせていただきます。



>皆さんもこういった変化を感じられた事ってありますか?

私は、あったのかもしれませんが、忘れてしまいました。そういうことは、いっときの間のような気がします。しかし、人との関係は、宗教がその人に影響を与えていることと、根本的には違う種類のものだと思っています。宗教も、それは人と交流しあうための場の提供であって、人との本質的な関係は、そういうことを越えた部分にあるのだと信じています。また、そうであってほしいと常々思っています。

ノンクリスチャンの間では、
>最終的な解決までたどり着かない気がするのです。

私は、そのご相談されたリーダーさんとは、違った言い方をします。

私は、宗教は絶対的なものとは考えていません。だから、信仰も、それだけでは、人の本質的なものは変えることは出来ないような気がしています。宗教が変えたように思えるのは、そういうキッカケが、そうさせたのだろうと思います。それは、その人が持っている内在的なチカラだと思います。

でも、残念なことに、宗教は、大きく言えばイデオロギーで、人は一緒になったり、離れたりすることが多いと思います。昨日の敵は今日の友のように、卑近な言い方をすれば、利害関係に基づいてしまいます。そういうことは、人として、とても哀しいことなのですが、それが人のサガ(性)なのでしょうね。

キリスト教は、キリスト教としての壁を作ってしまいます。仏教は仏教の壁を作ってしまいます。また、同じクリスチャンでも、右派と左派もあるし、反進化論を唱える原理主義の人もいれば、日本文化に寛容な人もいれば、親米国文化の人もいます。聖書を英語で読めなんていう人さえもいます。異端の人もいれば、まして、違う宗教や今はニューエイジのような人たちもいます。そういう、それぞれの人たちの主張が、ノン信者には、重苦しく、うっとうしく感じられます。

また逆に、ノン信者との人たちの心ない一言が、自分たちの信じているものを傷つけ、それはひいて人間関係を壊してしまいかねません。概ね、相手の人は深い意味でも相手を傷つけるつもりでもない、軽く言った言葉が、宗教では「絶対的な意味」があったりします。

本当は、「宗教という教え」、つまり自分が「教わったこと」が正しいと信じていることが、人の言葉によって自分の人格や人生を否定するのに等しく思えるので、激しく嫌悪するわけです。キリスト教の中では、キリスト教の教団内部で、その教えが違います。

ある所では、「人と争うなかれ、すべての人と調和せよ」と教えている所があります。しかし、自分の教えの正しさを主張するために、人の心をないがしろにしていることに気がつかない、自分は良いことをしていると信じている人には幸せです。しかし、そういう所にはノン信者との本当の人間関係など、構築することなどできないと私は思っています。

そうしたことは、信仰か、それとも人との関係かということが、もう曖昧になってきてしまっているのだろうと思います。そのために、多くの人たちを言葉で傷つけたり、時には、暴力を使ってでも、自分の信仰や立場を守るということに終始する人たちもいるわけです。それは、やっぱり間違っているとしか言いようがないのです。

私は、若い時の遠藤周作さん(狐狸庵先生)の随筆を読み、その後、10年近く経って晩年の遠藤さんの宗教や自分の死に直面した随筆を読み、180度とは言わないまでも、大きく考え方が変わっていることに気がつきました。若い時の遠藤さんの考え方は受けいられなかったものが、病気をし、いろんな経験をした晩年の遠藤さんの著書は、とても考え深いというか、ご本人の言い方では、「醤油味」のキリスト教と言っていたと思います。その後、何十年後かに、この遠藤さんの考えは、彼自身のものではないということを知りましたが、キリスト教はキリスト教自身の中で、それを捨てずに、日本という文化の中で、そうでない人たちと共存し生きていく方法を見出さないといけないのでしょうね。そうしないと、カルトになってしまいます。他人との違いをあげつらうよりも、共有点や共感できる部分でもって社会生活をしなければならないし、それは、同じ教会内でも、別の意味で同じことが言えるような気がします。
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