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「なんだ空襲」という戦時歌謡は、昭和16年に作曲(山田耕作作曲)されています。
私の曖昧な知識では、東京に高射砲陣地構築の計画時、帝都に敵機が襲来することを想定した計画をすることなどもっての他だ、との反論があったように思っています。
それなのに、昭和16年にこのような歌が生まれたのは驚きです。

質問です。
1.東京に高射砲陣地はどの程度、あったのですか。また、成果はありましたか。
2.ドーリットル飛行隊の東京上空飛来は、当時、報道されましたか。
されていたとしたら、「空襲」と表現されたのでしょうか。
よろしくお願いします。

「なんだ空襲」の1番の歌詞の一部です。
警報だ 空襲だ/それがなんだよ備へはできてるぞ/こゝろひとつの隣組

A 回答 (2件)

質問1:時代によってその数は大きく異なります。

高射砲・高射機関砲の推移でみますと、1941年(昭16)7月当時、京浜要地防空隊が約150門。42年ドゥーリトル空襲後に改編増強された東部防空旅団が約250門。この時既に旅団長入江少将は、京浜地区に500門の高射砲が必要と意見具申していました。戦争末期45年当時の高射第1師団が637門(ただし、新潟や水戸、宇都宮などにも展開していた)となっていました。ちなみに、関東地区の防空戦闘機隊は、開戦時陸軍が53機、海軍が24機に過ぎませんでした。

日本本土空襲を担当したアメリカ第20航空軍(第58・第73・第313・第314・第315爆撃航空団)の資料によれば、1944年11月~1945年8月までの破損機数は3027機、うち墜落(全損)は320機で全体の1.2%。破損原因のうち対空砲火によるものが2063機で全体の76.4%を占めました。 

質問2:当日の夕方まずラジオ放送で東部軍司令部発表「本日正午頃より京浜地方に敵機の来襲あり、そのうち九機を撃墜せり、損害その他調査中、なお宮城はご安泰なり」と放送し、ついで夕刊も同内容を掲載しました。しかし、軍部内でも「落としたのは9機じゃなくて空気だろう」と陰口をたたかれたそうで、2日後大本営発表で再び「帝都その他に来襲せるは‥‥」と放送した際には撃墜には触れませんでした。

駐在武官として第一次世界大戦のロンドン空襲を体験した将校らによって大正時代から防空意識の喚起を図る動きもあり、たとえば1933年(昭8)8月9日から実施された関東地方防空大演習が、桐生悠々(信濃毎日新聞論説委員)から「関東防空大演習を嗤ふ」と批判されたことは有名です。「なんだ空襲」は、1941年防衛総司令部の新設を機に、防空選定曲を募集し発売されたレコード「空襲なんぞ恐るべき」(作詞:防衛参謀灘波中佐)の裏面に収められていますが、現コロムビア『軍歌戦時歌謡大全集十一』というCDの解説によると、「空襲なんぞ‥」が精神論的であるのに対し、「なんだ‥」の方は空襲対策を出来るだけわかり易く具体的にという要望を受けて山田耕筰作曲、大木惇夫氏が詩を書いたそうです。

資料:『高射戦史』陸上自衛隊下志津修親会編 、『日本本土の大爆撃 B-29』カール・バーガー サンケイ新聞社出版局 、『大本営発表の真相史』富永謙吾 自由国民社
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この回答へのお礼

明快にご説明くださったので大変よく解りました。
焦土と化した東京の映像・写真ばかりをよく見ているものですから、
こんなに多数の米軍機を撃墜しているとは全く知りませんでした。

桐生悠々の「関東防空大演習を嗤ふ」は、何度かいろんな本で読んでいましたが、
昭和8年の記事だったのですね。
そして当に桐生の指摘どおりになったのですね。
質問して良かったと思っています。
本当にありがとうございました。

お礼日時:2010/06/21 19:59

1。

東京に置ける高射砲の配置は、下記を

 http://www.jyai.net/military/data-02/Division020 …

  その成果については、下記をご覧下さい。

 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question …


2。「東京大空襲」と報道されたようです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
成果については、あったのか、なかったのか、読んでも私には判断できませんでした。
高射第一師団についてはよく解りました。

お礼日時:2010/06/21 13:56

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