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題名のとおりなのですが、たまに、無理して学校に行ったり行かせたりする人を見かけるのですが、学校というのは、そこまで行かないといけないものなのかと思うことがあります。

私は、集団の中でどのように周りと協調しつつ自分を生かすかということの実技訓練をするところだと思いますが、世間一般的にはどのような事をするために行かれるのでしょうか?

A 回答 (12件中1~10件)

ご質問者のrinrinnnohitoriさん(一体どう読めばよろしいのでしょうかnが1つ多いような気がするのですが)はお礼の文などからかなりその経歴および被教育歴が特殊な人であり、かつ年齢がまだお若い方(せいぜい20代前半でしょう)と思いました。

そこで、もう一度私の考え方をお答えさせていただきます。

まずはもともとのご質問についてですが
私も無理して学校に行かせる必要はない、と考えております。もちろん、教育を受ける本人が無理して行く必要もありません。ただし、何らかの別の手段で社会性の涵養ができるならばという留保条件をつけさせていただきますが。言い換えるならば、学校で習う知識に関しては充分に代替手段があるということです。なお、無理に学校に行く必要はありませんが「学校に行きたくない」という思いが生じることはその生徒にとって不幸なこと(注*参照)であり、大半の生徒にとって「学校は楽しいから無理しても行きたい」所であることを忘れてはなりません。

補足すれば、ご質問者は参考書の充実、インターネットによるQ&Aサイトの存在などをあげておられますが、代替手段に関しては現代に限りません。と言うより、教育とは本来マンツーマンなものであり、教える側と教わる側が一対一で向かい合う真剣勝負的なものであったからです。その意味では近現代の学校システムの方が異常であり、これはひとえに社会による教育の効率性を追求した結果です。

さて、私も勉強は自分でやればよい(あるいはもっと強く「勉強は自分でしなければ意味が無い」)と思っています。ただし、ごく少数の人を除きたいていの人間にそういう能力はありません。でも、そのような人間でも練習・訓練すれば自学自習の能力は身に付きます。言い換えると、学校の役割の1つは勉強することだけではなく、勉強する方法を身につけるための訓練をすることです。

分かり易く言えば、例えば中学校で学習する教科は国語・社会・数学・理科・外国語・美術・音楽・技術家庭・体育の9教科ですが、それら全ての上に「教科学習法」とでも言うべきものが隠れて存在しています。このことは表面には出てきにくいものですから、一般の人には(いや、教職にあってすら)理解されにくいことかもしれませんね。蛇足ですが、私の考える良い教員は、自分の教える教科の知識だけではなく上に述べた学習法をも伝える人だと思っていますし、その教科の内容に関して学ぶ側の意欲・好奇心をかきたてることのできる人だと思っています。知識だけを教えているのは2流教員です。

また、教育の本質の1つは学習者が「適切な問いを発することができる」ようにするということだとも私は思っています。

さて、話を変えていくつかの些末な点(ここで話されている質疑応答の本線からは離れるという意味です)について書きます。

まず、rinrinnnohitoriさんのいう「授業のつまらなさ」と他の回答者の方のいう「授業のつまらなさ」とは同じ言葉を使いながら意味が違っているように私には思われます。既知のことを再学習させられるつまらなさと学習内容の理解困難で味わうつまらなさは質が異なります。

二つ目に、学校は「友達と同じ時間を過ごしに行くところ」ではありません。もちろん結果としてそういう形になりますが因果関係は逆で「同じ時間・同じ空間を共有すること」で友達になるのです。学校という空間に強制的に集められ、時間・空間を共有する中から友人となり友情が育っていくのです。ですから、友達がいるから学校に行く、というのは学校というシステムが健全に働いていることの証明です。

3つ目に学校の存在理由やそのシステムと受験競争というものはここでは切り離して考えていただきたいということです。学校教育の有効性(優秀な成績のものが社会での有用な一員となりやすい)およびどの学校で学んだかがその後の社会的地位に関係するということが一般に浸透してきた結果生じてきたのが受験競争です。学校なんて役に立たないと皆が思い、無理に行かなくても良い(明治の学校制度初期ではこうでした)と思うならば、学校制度そのものが崩壊するでしょう。(いや、私は崩壊しても構わないのですが、実際に崩壊した時に困るのはおそらく崩壊させた一般庶民自身でしょうね。)学校と受験競争を不可分のものと考えては本質を見誤ると思います。

このように書いていくと次から次へと書きたいことが出てきてしまうのでこれぐらいにしたいと思います。最後に私の個人的な話を書かせていただくと、私も親の話によると3歳の時には教わったりしないのに仮名文字を読めていたようです。そして自分の記憶では漢字を書くことにつまづいたのは小学3年生の時で、それ以来漢字は努力して覚えることにしました。読みの方で苦労したことはありません。また、数学も大学受験数学に触れるまで判らなかったことはありませんし、当然に自学自習していました。それでもなおかつ、私は自分が受けた学校教育を非常に役立ったものとして受け止めております。そこがおそらく私とrinrinnnohitoriさんとの感じ方の違いの原点でありましょう。

注*
人間は誰でも社会の一員として社会に所属し、その帰属感が人間の幸福のひとつをなしています。他者から受け入れられているという気持ちは幸福そのものです。ですから、社会に参加したくないとかその社会から拒絶されているとか思うことはすなわち不幸です。

この回答への補足

また1000文字を超えたのでこのまま縦にお読みください。

ririnnnohitori← りりんのひとり と読みます。 んの と打つためには nnno と打つことになりますのでnが3回になりました。そしてaminouchiさんのご推測どうりの年齢です。

>私も無理して学校に行かせる必要はない、と考えております。

私は、これが普通だと思います。しかし、世の中には、そうでない人もいるようで、体が思いっきり拒否反応を起こしていて、なおかつ、学校に行かないことによって症状が緩和される可能性があるにもかかわらず、行かせるという親も多いようなので世間一般的にはそういう人が多いのかなと思ったのです。子供のステータスと自分のものを混同している方がいるんじゃないかなと思うんです。

社会性に対しては難しい面がありますね。代替手段のほうなのですけど、ネットでは似たような人が集まるか、いろいろな世代の方が集まるかのどちらかになりますが、どちらがその人のためになるかわからないし、文字(最近は音声ちゃっとなる物も出来ていますが)での交流と、面と向かっての会話というものは普通は似て非なるものだと感じます。

家から出るとなると、基本的に似たような人しか集まらなくなるために世の中にはいろんな人がいるものだということを感じることができるのかなと思うんです。実生活ではそのうち、似たような人が集まっていく傾向がある気がしますが。だからまだ代替手段というものが確立されていないような気がするのです。

学校に無理していくような状態だと人間関係でこけていることが多いようだし、その人もそれがわかっているので、ある意味トラウマに近いものも感じていることがあるから、それを最初に何とかしないといけないことがこれからの課題かなって思います。学校の勉強というのは何とかなっても、コミュニケーション能力は実習をやりながらじゃないと育ちませんからね。

>「学校に行きたくない」という思いが生じることはその生徒にとって不幸なこと(注*参照)であり…

私もそう思いますが、実際にはどうしてもできてしまいます。みんながみんな同じ風に育つわけではないですからね。そういう人たちには幸せを感じてほしいと思いつつも、私にも幸せというのはどのようなことなのかがわかっていない(不幸というものがわからないと幸せな状態にいても幸せを感じることができないと私は思います)ので、伝えてあげられないと思います。それに、自分達が幸せだという価値観が相手にとって幸せになるのかという疑問もありますのでこのことは思うだけですね。

>教育とは本来マンツーマンなものであり…

私が小学生のころはすでに崩壊しつつありました。みんなが同じ授業を受けている状況でしたので、わからない子というのは、そのずっと前でこけても授業は進んでしまうので、どんどんわからないようになっていきますし、逆にわかる子にとっては、遅いという逆の意味でストレスになっている状況でした。ですので、マンツーマンのその人にあった勉強というのはしいて言うなら、わかる子がわからない子に教えるということぐらいだったでしょうか。

補足日時:2003/07/21 13:35
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この回答へのお礼

>ただし、ごく少数の人を除きたいていの人間にそういう能力はありません。

こういった能力は、知らず、知らずのうちに身に着けることなので、こういうことに関しては見落としがちですね。

>学校は「友達と同じ時間を過ごしに行くところ」ではありません。

私は、最初は、学校に行く前に近所の同年代のことの友好関係が最初だと思うんです。だから、最初は、友達が行くから学校に行くのが目的になり、それからまた友好関係が広がっていくのだと思います。

>3つ目に…

私は、社会は、成績が悪かった人が頑張ってくれているから成り立つんだと思います。確かに、成績がよかった人が、社会的には上に行くかもしれないけど、その人たちはお飾りじゃないかなと思うし、成績がよかった人がやってることは、社会がよりよくなるためのことだと思うのです。

それに、成績が悪かった人もよかった人も社会の足を引っ張っているような気がするので、本当のところはどちらがいいのかわかりません。成績がいい方が選択性は広まりますが、最終的にどちらの方が社会に貢献できているかはわからないと思います。

それに、受験の方に気をとられると、本来、その年代に経験すべきことができないんじゃないかなと思います。特に、恋愛とかがそうですよね。

受験とかに気を取られるから、本来経験するはずの恋などを経験できずに、ずるずると大人になるから、どうしたらいいかわからなくなるんじゃないかなと思います。それに、異性に現を抜かすのも必要なことだと思うし、人格形成や、その後の社会性というのにも関係するんじゃないかなと思います。

だから、進学校とかは、普通に経験する事を、普通にできているのかなと思うし、必要な存在なのかなと思うのです。だから、ある意味、学校の存在理由にも少し関係するのかなと思うのです。

最後に、私が3歳のころは有名な脱走犯だったようです。その後、生き物に興味を持ち始め、いつの間にか字が読めるようになり、現在に至るという感じです。漢字と数学でこけたのは小学6年生のころに飛ばしに飛ばして本を読んでいたらつまずきました。さすがに小学生の知識では、微積と、聞いたこともない言葉及び漢字には手も足も出ませんでした。logがかろうじてわかるぐらいでした(pHの意味で使うので)。これが未だにトラウマになって現在苦労しています。

お礼日時:2003/07/21 15:18

ご機嫌いかがですか?neterukunです



こういう回答しますと嫌われるかもしれませんが、
私の思ったことを書きます。

私ね、塾の先生やってましてこの質問はやたらあったんです。ですけどね、
私論で言わせていただければ、
学校は「友達と同じ時間を過ごしに行くところ」と思います.友達を作り、一生の友、理解できる仲間、そういう
かけがえのない友達を作りに行くところではないか、
そう思います。
だってね、友達いなかったら学校いってないんじゃないかな?私はね。普通に考えたら1日6時間も勉強しに行くんですよ、でも、家で1日2時間勉強するのもしんどいのに
そういう場所に金払ってもいくのは、
友達がいるからいくんじゃないかな。
まぁそのための受験戦争はちょっとかわいそうなかんじもしますけどね。
如何なものでしょうか?⌒(*^∇゜)v
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この回答へのお礼

>学校は「友達と同じ時間を過ごしに行くところ」

私もそう思います。でもこういう事を思うのは少数派かもしれませんね。ここでの友達というのは、一生付き合っていくことが出来るし、ほとんどの場合自分とは別の業種に行きますよね。ということは、あわよくば、自分とは違う世界を知るチャンスを得ることになるじゃないですか。それにおっしゃるとおり昔からの自分を知っているし、よく理解してくれているので相談もしやすくなると思うんです。そういった意味でも必要かなと思います。

>だってね、友達いなかったら学校いってないんじゃないかな?

行ってませんね、何が悲しくてこんなつまらない授業受けないといけないのと思っていましたから。それに唯一の楽しみは、学校で普通にしゃべってボケたり、突っ込んだりいろいろなことについて話したり、どの馬が来るかと話し合ったりすることでしたから(ろくなガキじゃないですね)。

>普通に考えたら1日6時間も勉強しに行くんですよ

おお、気づきませんでした、よく持ったもんだなぁ偉い、自分。って普通はみんなそうですよね。確かに家で(学校の)勉強をするのは平均数分でした。2時間も持ちませんね。持ったとしたらテスト前だけじゃないですか?

>そういう場所に金払ってもいくのは、
友達がいるからいくんじゃないかな。

そうですよね。勉強でつまづいても学校に行くのに、友達がいなかったりしたら即行かなくなったりするようですからね。

>まぁそのための受験戦争はちょっとかわいそうなかんじもしますけどね。

私もそう思います。何も小学校からはじめなくてもいいのにと思います。

お礼日時:2003/07/21 02:28

学校は何の為に行くのか。


教育(特に義務教育)とはその社会の新メンバー(子供)に対してその社会を持続発展させていく知識・能力を獲得してもらうものであり、新メンバーを社会の一員として迎え入れるためのものです。近代以前ではその要求されることや教育に対しての認識が浅かったために各家庭や個人の努力にまかされてきたのですが、近代社会ではそれを社会全体の責任として学校を設立して教育するようになったものです。そのことから考えると
1つにはやはり学習・勉強するためにいくのです。
2つ目には、社会性の涵養ということもあります。

さて、1つ目の学習について、ご質問者には大きな勘違いがあるものと思われますので2つ指摘させていただきます。

#3の方へのお礼の中で「私は授業聞かなくても 教科書読めばわかるという人間だった」と書かれておりますが、その教科書を読む能力というのはどこで身につけられたのでしょうか。これが第1点です。小学校に入学した時から例えば高校生向けの教科書を読んでわかったのでしょうか。

そんなはずはないと思います。つまり、ここで第2点が生じます。小学校・中学校~高等学校と定められたカリキュラムがあり、ある程度それに従って学習が進展していくからこそ、教科書を読めば判るようになったのではないでしょうか。つまり、もともと教科書は読めば判るように作られているものですし、その学年の生徒がそれまでに積み上げてきた知識・能力を前提として作られています。そして、当たり前のことですが、学校がなければ教科書はありません。(注*参照)

指摘させていただくことはそれだけですが、2つ目の学校の目的である、社会性の涵養については集団生活の中での基本的な生活ルールや道徳、対人スキルの向上や社会を構成する多種多様な人々の存在を知ることなど教科学習以外のこともありますし、その国の政治の方法や生活一般について、また自分たちの社会の歴史など家庭科や社会科で教科学習として学ぶことも入ります。

別の話に飛びますが、教科内容を学習をする/教育するという意味においては塾と学校は同等の存在です。塾で習うから学校で勉強しなくても良いとはある意味で間違ってはおりませんが、学校という存在がもし無くなってしまえば今度は「どうして塾へ行くのか(勉強するのか)」という疑問が生じるはずです。ここにおいて塾と学校を置き換えてみても無意味であり、究極的に社会における教育の意味を問うことになります。私はすでに冒頭でその問いに答えておりますが、はたしてここまで質問者さんの質問の射程に入っていたでしょうか。

*誰かが何かを教える場合にはかならずその材料(教えること)があります。それは食べられる植物の判別法かもしれませんし、狩りの仕方かもしれません。そこでは教科書は不要でしょう。ただ、近代~現代において社会の中で必要とされる知識・能力は膨大なものとなっていてそれを効率よく体系的に教えようとすれば、教科書を編纂することになります。そしてそれはまず文字を教えることから始まります。

この回答への補足

お礼を書いていたら1000文字超えていたのでこのまま立てにお読みください。

>教育(特に義務教育)とは…

獲得させるではなくて、してもらうというのがポイントですね。そして、社会の一員として加わるためのものですか。そのための学習と社会性の涵養なんですね。

>その教科書を読む能力というのはどこで身につけられたのでしょうか。

私に関してはこれがいまいちよくわからないのです。気づいたときには知っていたという感じだから学校での勉強について結構軽視しているわけです。

>小学校・中学校~高等学校と定められたカリキュラムがあり、ある程度それに従って学習が進展していくからこそ、教科書を読めば判るようになったのではないでしょうか。

普通はそういう風になるかもしれないのですが、小学校の時から生理学を普通に読んで漢字以外は理解できていたので、あまりそういう風なことは感じませんでした。当時は、数学と漢字以外は1章から読み始めて気合があればなんでも理解できると豪語していた気がします(実際そんな感じでした)。そしていつも計算と漢字の前で撃沈していたのを覚えています(未だに撃沈していますが)。多分私が異常なだけですね。大学に入ったときに思ったのがそういえば昔こういうのやったねですから。これはあくまでも生物に関してだから全体的にみると、aminouchiさんがおっしゃるとおりなのかもしれません。多分私が特別コースを通ったから、あまり学校での勉強を重視していないのかもしれません。

>社会性の涵養については…

私はこちら側のほうを重視しています。さすがにこれらは勉強して、はいそうですかとわかるものではないですし、ある程度実技訓練に近いですからね。

>別の話に飛びますが…

実を言うと、私は、勉強したかったら自分でやればいいと思っている人間なので、本当は塾は要らないと思うんですよ。今は、小・中・高(・大学)と各種参考書があるじゃないですか?わからなかったら、今はネットで調べることができるし、いざという時はこういうQ and Aサイトで聞けばある程度の疑問は解決できるから、勉強だけならそう特別な場所は要らないかなと思うんです。それに受身よりも自分から行ったほうがとてつもなく勉強が楽しいし、わかると思うんです。でも、現実的には私みたいな人間は少ないと思うので学校での勉強があるし、これを補充するための塾があると思うんです。で、学校の方の教育はこけそうですから、ますます塾というのが必要になってくるんだろうなと思うんです。でも学校がなくなったら何のために勉強するんだろうという人もいるかもしれませんね。

補足日時:2003/07/21 02:06
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この回答へのお礼

>はたしてここまで質問者さんの質問の射程に入っていたでしょうか。

質問を書いてるときには無理をしてまで学校に行く価値があるのかという趣旨で書いていたつもりですが、読み返すと、そんなこと聞いてないなという文だったので、いまは、何のために学校に行くのかというそのままの問いです。たまに私独特の考え方というのがあるので、世間一般的にはどういう意味で行ってるのかなと知りたくなりました。ですから、aminouchiさんの回答で結構です。

>近代~現代において。。。

普通ではそうかもしれませんが、私は飛び級連発でした。これを書いていると私がかなり異常な存在だったということがわかります。

>文字を教えることから始まります。

最後に私が異常だったということの例を挙げさせてもらうと、字を教わった記憶がありません。親も教えた記憶がないようです。ですが、学校や幼稚園で教わる前に漢字以外はどういうわけか読み書きできていました。さすがに漢字は無理だったようです。

お礼日時:2003/07/21 02:07

年齢のちかい兄弟が家に4人以上いる人は、特に学校に行く必要性はないそうです。



何のために行くのといえば、同世代の人たちとの人間関係を学ぶ場所と考えることができます。今の学校ではクラブ活動などはそんな役目をはたすことになっているように思います。

勉強だけにかぎれば塾とかほかの習い事などのほうが良い場合も多いですね。

あとは色々な意味での素敵な先生が多いかどうかという根本的な問題があります。
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この回答へのお礼

>年齢のちかい兄弟が家に4人以上いる人は、特に学校に行く必要性はないそうです。

そうなんですか?それは知りませんでした。

>何のために行くのといえば…

今の学校ならばそういうことしか思い浮かびませんよね。確かに、部活がこういう役割を果たしているのだと思います(私が行っていたところは、上下関係というものがないに等しかったので、いまいち理解できませんが横に対する人間関係はわかります)。

>勉強だけにかぎれば塾とかほかの習い事などのほうが良い場合も多いですね。

私もそう思いましたが、下の方のを見て、副教科は塾にないということに気づきました。私は、自分で適当に勉強するのが好きだったので塾に行った事はありませんが今の現状を見ると、塾で勉強して学校で遊ぶという形態が出来てきているような気がします。

>あとは色々な意味での素敵な先生が多いかどうかという根本的な問題があります。

先生方にはとても申し訳ないと思いますが、そういう人に当たったことがないので、一度当たってみたかったと思っています。今の学校にはなかなかそういう人に会いませんよね。

お礼日時:2003/07/20 14:42

私も学生時代には煩わしく感じ、疑問を感じていました。



社会に出て様々な仕事をこなして行くうちに、”もっと勉強しておくべき”だったと、そう思っています。

例えば、よく聞く話で”三角関数なんて何の役に立つ。”
ところが先日、地図を検討していて”この距離は?”となった時にtan, sin, cosinの世界が必要になりました。

先日、他国から来た人との雑談でクラシック音楽の話題に発展しました。

例を挙げていけばきりがありません。

やはり、今の世界の文明の基本を好き嫌いに関わらず覚えさせてもらえる機会なのだと思います。

幼年時代より何かの才能が突出しており、その力で生きていける人には必要ないのかもしれません。が、そうでないのであれば、幅広くあたって自分の道を見つけなければなりません。

そうゆう時期なのではと思っています。
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この回答へのお礼

>地図を検討していて”この距離は?”となった時にtan, sin, cosinの世界が必要になりました。

物理(特に力学)と数学以外では使わないと評判の三角関数が役に立ったんですね。私もこれらがこの分野以外に何の役に立つと思っていたのでこういう例があるんだとはじめて知りました。

>先日、他国から来た人との雑談でクラシック音楽の話題に発展しました。

クラシックの話題で盛り上がれるなんてすごいです。私は、クラシックとかの音楽は学校では出てきてもあまり印象がないので話に上がっても、何それとしか言いようがありません。

>やはり、今の世界の文明の基本を好き嫌いに関わらず覚えさせてもらえる機会なのだと思います。

そうですよね。今は覚えていないとはいえ、私にも覚えていた時期があるんですよね。私も俗に言う副教科をもう少しまじめにやっとけばよかったと思います。

>幼年時代より何かの才能が突出しており…

なかなかそういう人はいないですよね。だから、ほとんどの人が幅広く当たって、自分の道を探さないといけないのかもしれません。

お礼日時:2003/07/20 14:30

自分が学校に勤める身でありながらこのようなことを述べるのもおかしな話かもしれませんが、



将来、学校というものが必要とされない世の中が来る可能性は、十分あると私は考えております。

少なくとも、全ての人が義務として(保護者の義務ですが)学校に行く、という世の中が日本で始まって、まだたかだか百数十年です。

世界中に学校はあるので、まだ現在は、学校が、児童生徒にとって大変有効に機能しているといえます。でも将来はわかりません。既に日本では、その予兆が出ているのかもしれませんね。

ちなみに私も、小学校の半ば頃から体が弱かったことをきっかけに、ずいぶん学校を休んだ記憶があります。結構な割合が、精神的だったもののようにおもいます。

でも休んだ日に、家で教育テレビなど見ておりますと、むしろ学校に通っているときよりも学習が進んでしまうということもしばしばでした。幼心に、不思議な矛盾を感じたものでした。

しかし私はこの頃、大きな代償が待っていることに気づいていませんでした。それは、「人の話を聞く力」です。

テレビは、私が何をしていても勝手に話し掛けてくれるし、視聴率確保のためには、絶対に無駄話や、一見興味を引かないような話をしません。

しかし生身の人間はそうではありませんでした。いろいろある話の中から要点を見つけなければならないし、自分の頭の仲で整頓しなければいけない。変な姿勢で聞いていると、相手は怒って、続きを話してくれない…

学ぶことの原点は、聞くこと。苦しんだ結果私が行き着いた、学校での学習の宝は、ここでした。私は、人の話を聞くことを覚えました。なんだかんだいって、やっぱり小さな社会なんですね。社会性が育まれないとしたら、学校の存在意義は、確かになくなっていくでしょう。

同じ目的の人だけ、同じ趣味の人だけの集い、で育まれる社会性は、たかが知れている、ということでしょう。

まだまだあると思いますが、とにかく、「将来はわからないぞ」という考えは、常にもっていないといけません。
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この回答へのお礼

>将来、学校というものが必要とされない世の中が来る可能性は、十分あると私は考えております。

そうなんですか?現場の方がそう感じられるのならば本当に来るかもしれませんね。

>むしろ学校に通っているときよりも学習が進んでしまうということもしばしばでした。

なぜかそうなんですよね。何でだろうと思います。

>しかし私はこの頃、大きな代償が待っていることに気づいていませんでした。それは、「人の話を聞く力」です。

確かにこれは重要ですね。私もあまりないかもしれません。授業まじめに聞いてなかったし、もともとそういう性格じゃないですしね。

>しかし生身の人間はそうではありませんでした。いろいろある話の中から要点を見つけなければならないし、自分の頭の仲で整頓しなければいけない。変な姿勢で聞いていると、相手は怒って、続きを話してくれない…

確かにそうですよね、これもコミュニケーションの一つだと思いますが、学校に行かないとこういう事を身につけるのは難しいですよね。家族でやるとしても家族だと阿吽の呼吸でできてしまうことがありますからね。

>学ぶことの原点は、聞くこと。

今日は久しぶりに心に来る言葉を何度も聞く様な気がします。確かに原点ですよね。私は、いい年していまだにこの能力が欠けてるよう泣きがします。

>社会性が育まれないとしたら、学校の存在意義は、確かになくなっていくでしょう。

そうかもしれませんね。結構言われる勉強のためというものは塾という代わりが台頭しつつありますからね(高いのが難点ですが)。

>同じ目的の人だけ、同じ趣味の人だけの集い、で育まれる社会性は、たかが知れている、ということでしょう。

そうかもしれませんね。よく、~業界は狭いのでほかのことに対する柔軟性がないといわれますがこれが子供のころから続くとなると恐ろしいことになりそうです。

>「将来はわからないぞ」という考えは、常にもっていないといけません。

そうかもしれませんね。常にこういう考えを持ちたいと思います。

お礼日時:2003/07/20 02:19

パラドックスになってしまうかもしれませんが…



「学校に行かなかったことによる後悔をしないため」です。

何に対して後悔するかは人それぞれ。
・もっと勉強すれば良かった
・もっと友達を作れば良かった
・もっと遊んどけば良かった
・ちゃんと体育にでてれば泳げるようになったかも?
・修学旅行に行ってみたかった
etc...

大人になってから取り返せるモノもありますが、無理なものが多い。

でも、結局みんな何か後悔するんですね。
で、親になると「学校へ行け!」と子供に言うわけです。

ここで言う学校にはフリースクールなどを含んでいます。
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この回答へのお礼

>「学校に行かなかったことによる後悔をしないため」です。

こういう風なこともあるのですね。学校に行かなくて後悔するですか。。。こういう人もいますね。

>ちゃんと体育にでてれば泳げるようになったかも?

出てても泳げません(泣)。陸上だと、ほぼ無敵の強さを誇っていたのですけど、水泳だけは苦手でした。

>大人になってから取り返せるモノもありますが、無理なものが多い。

そうですね。特に友人関係は難しいですね。後、遊べない。。。

>でも、結局みんな何か後悔するんですね。

行ってても後悔します。

>で、親になると「学校へ行け!」と子供に言うわけです。

そういう風になるわけですね。

>ここで言う学校にはフリースクールなどを含んでいます

フリースクールの存在をすっかり忘れていました。

お礼日時:2003/07/20 00:10

 夢とか可能性という事が有りますよね。



 その人の可能性なんて、誰もわかんないんですよ。
 その為に、可能性を試すために色んな勉強をするんです。
 結果的に、それが、無駄になっても、それはそれでいいと思います。
 いろんな、学問や人との出会いによって、その人の可能性が広がると思います。
 確固とした信念がある場合は、学校に行く必要はないと思います。
 現に中学出身者でも、立派な仕事をしている人はたくさんいます。
 でも、ほとんどは、そんな確固とした信念がある人はいないんです。
 だから、学校へ行くんです。
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この回答へのお礼

>夢とか可能性という事が有りますよね

まったく予想していない答えが返ってきました。

確かにそうですね。その人の可能性とかは誰にもわかりませんよね、自分でもわからないと思います。

>可能性を試すために色んな勉強をするんです。

こういうために勉強するというのもいいですね。

>確固とした信念がある場合は、学校に行く必要はないと思います。

なかなかこれをもつことが難しいですね。確固たる信念を持って生きている人なんてどれぐらいいるのでしょう?

お礼日時:2003/07/19 23:59

学校は、進路を広く選べるようにいくものだと思います。


今は勉強はすごく嫌いで嫌いでいやだとしても、将来この職業に就きたいと思ったときに、採用条件として大卒以上とか高卒以上という条件があったら、それを満たしていなければ、その仕事をできないということになってしまいます。
 なので、将来への保険として、進むものだと思います。
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この回答へのお礼

>学校は、進路を広く選べるようにいくものだと思います。

そういう考え方もありますよね。

>採用条件として大卒以上とか高卒以上という条件があったら、それを満たしていなければ、その仕事をできないということになってしまいます

これは私も疑問に思っていたことなのですけど、卒業しただけで、本当にそれだけの能力を有しているのかと思ったわけです。

普通は、そのために入社試験とかやるので能力がなければ落とされるだけですけど、それなら、採用条件にこの項目はいらないと思うのです。

>将来への保険として、進むものだと思います。

やはり、いまだ世間では学歴が強いですからね。私はそこまで気にすることはないと思いますけど。

お礼日時:2003/07/19 23:50

勉強も大事ですが人と触れ合いと体を鍛えるのも教育のうちです。


学校は勉強するために行くもんです。
じゃあただ机に向かって先生の言う事を聞いてはいはいと従って、黒板に書かれたことをノートに書くだけで終わりじゃないですよ。

その後人と交流したり行事をこなして心と体も鍛える場なんだと思います。
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この回答へのお礼

>勉強も大事ですが人と触れ合いと体を鍛えるのも教育のうちです。

どちらかというと私は学校にはこっちの目的のために行っていたような気がします。私は授業聞かなくても教科書読めばわかるという人間だったので、勉強はあまり重視してなかったですね。

お礼日時:2003/07/19 23:42

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