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ちょっと教えてください。

与可画竹,起初自己并不看重。四方的人们,带着白绢来请他作画的,在他的门口脚与脚互相碰踩。与可讨厌他们,把白绢丢在地上骂道:“我将用这些白绢做袜子!”文人们传道着他的话,作为话柄。等与可从当洋州太守回来,我正任徐州太守。与可把信寄给我说:“近来告诉文人们说:‘我们画墨竹这一流派的人,已传到近在徐州的苏轼,你们可去求他画。’做袜子的材料会聚集到您那里去了。”信末又写了一首诗,它的大概意思说:“打算用一段鹅溪绢,画出寒竹万尺长。”我对与可说:“竹子长万尺,必须用绢二百五十匹。知道您是懒得动笔,希望得到这些绢罢了。”与可无话可答,就说:“我的话错了,世上哪有万尺长的竹子呢?”

読んでいると途中から意味が
とりづらくなってしまいました。
現代語訳教えてください。
よろしくお願いします。

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A 回答 (2件)

先日も同質問ありましたね。

長文の翻訳絡みは、手間をかけて回答しても放置する人が多いので、避けているのですが...。回答しても見たのか見ないのか、分かったのか分からなかったのか、訳文で意味が分かったら感想の一言もありそうなものですが。一言伝えられない人の何と多いことか。しかしお困りならばと思いつい...、以下のごとしです。
ついでに、質問の表題は一工夫しましょう、これでは回答付きにくいでしょう。
===回答本文===
先ず質問にある文章は蘇軾(蘇東坡)『文与可画筼筜谷偃竹记』の第2段。原文ではなく、原文に対する解釈文ですね。どこから引用されましたか。
念の為中国語資料と対比したら2か所異動があります、
 質問:起初自己并不看重  →資料:起初并不看重自己的画
 質問:带着白绢来请他作画的→資料:带着丝帛来请他作画的

参考:http://baike.baidu.com/view/1003630.htm
   他の数サイトも内容同じ。
意味としては本質的差異なし。
⇒語順違い、絹は伝統的に丝、などを勘案して中国資料を採ります。
注:ここの白絹は、原文で缣素(書画用絹布)。
  後出の白絹は、原文で鹅溪绢(四川産の特定銘柄)。
予備知識:
与可(文与可、苏轼の従弟、文同とも)は蘇軾の従弟で墨竹画の名人。
蘇軾は文与可から画の極意を学び(第一段)、蘇軾自身も画に一家言を持ち名人として知られた。
文与可が洋州太守の任を終え北宋の都汴京に戻った時期、蘇軾は彭城で徐州知事の職にあった。
絹は画材として使ったが高価で礼物・褒賞・賄賂・財産ともなる。
文中にある鹅溪绢:四川省盐亭县鹅溪的绢帛。高級品 唐代为贡品。
文人=文人・官僚→インテリ→暇人 の感覚、揶揄の感もあり。
[以下訳]
与可は竹の画(絵)を画き始めたころ自分の画を大して値打あるものとは思わなかった。あちらこちらの人たちが、礼品に絹地を携え彼に画を描いてくれと頼みに来る、彼の屋敷の門前で脚の踏み場もないほどにひしめいて。与可は彼らを煩がって白絹を庭に投げ捨てて言うには「俺はこの絹で雑巾を作るぞ!」、文人達はこれを話のタネに言いふらした。与可が洋州太守の任から戻った当時、私は徐州太守をしていた。与可が私に手紙をよこして言うには、「私(与可)は最近文人連中に言っているのだが '我々墨竹画の仲間で近頃徐州に居る蘇軾、貴方たちは彼のところへ出かけて画を頼めばよい’ と。さすれば雑巾の材料も貴方の所に集まるでしょう」。その手紙の終わりに詩があり、意味はおよそこんなものであった、「およそ一反の鹅溪绢を使って、寒中の万尺の竹を画くつもり」。私が与可に言ったのは「竹の長さは万尺ならば絹布が二百五十匹要るぞ。貴方の億劫そうな筆の運びが分かるよ。頼むからそんな絹布はやめてくれ」。与可が答えるすべもなく言うのには「私の話は間違いだった、世の中のどこに万尺の長さの竹があるかな?」。.........話はつづきますが、この辺りは冗談話です。
分かりにくかったのは、手紙の中の話者が誰か煩雑な点でしょうか。
話がよく見えない場合は、主題の背景を知ると分かりやすくなるものです。
上記のサイトに原文も解釈文もあるので残りも読んでみませんか。
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この回答へのお礼

わかりやすかったです。
ありがとうございました!

お礼日時:2011/03/25 09:14

このままじゃ現代語なもんよ、古語なら、これです——


与可画竹,初不自贵重,四方之人持缣素而请者,足相蹑于其门。与可厌之,投诸地而骂曰:“吾将以为袜材。”士大夫传之,以为口实。及与可自洋州还,而余为徐州。与可以书遗余曰:“近语士大夫,吾墨竹一派,近在彭城,可往求之。袜材当萃于子矣。”书尾复写一诗,其略云:“拟将一段鹅溪绢,扫取寒梢万尺长。”予谓与可,竹长万尺,当用绢二百五十匹,知公倦于笔砚,愿得此绢而已。与可无以答,则曰:“吾言妄矣,世岂有万尺竹哉!”

でもそんな解釈はとっても読みにくいです、私だって「とりづらい」、古語なんて、中国人はあまり使わないので、習えちゃったって、使うところは多くないです
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この回答へのお礼

ありがとうございます!

お礼日時:2011/03/25 09:13

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Q中国語 ”不可以”と”不能”の違い

中国語で ”不可以”と”不能”はどうちがうのでしょうか?
たとえば、「日本可以 ロ乞 鮮魚片。」の否定文は
「日本不能 ロ乞 鮮魚片。」ですが、
「日本不可以 ロ乞 鮮魚片。」といえるのでしょうか?

Aベストアンサー

こんにちは。私も単なる中国語の“いち学習者”ですが、大変懐かしい疑問でしたのでお答えします。
可以と能、そしてもうひとつ“会”の使い分けは、日本人の中国語学習者なら、必ず一度は通る関門なのですよ。えぇ、私だってこの2つには大混乱しましたとも!(^^)

例えば同じ『食べられない』という事を言う時、日本語であれば どんな場合も『食べられない』という言葉を使い、では何故食べられないのかを説明する時には、先に理由を述べてから表現します。つまり…

(1)この刺身は私のものではないので ←理由を述べて → 食べれない 
 = 中国語は一言 不可以口乞 と表現(食べようと思えば食べられる)

(2)今日は魚を買い忘れたので刺身は ←理由を述べて → 食べれない
 = 中国語は一言 不能口乞 と表現(物理的に食べるのは無理)

…と言うようにです。(1)と(2)の日本語、違うのは前の説明文であって、結局は どちらにも同じ『食べられない』を使っていますね。
ところが中国語では『出来る・出来ない』という表現方法が何種類も用意されているのです。ここでの話ならば、日本には1つしかない『食べられない』が、中国語では3つも4つもあるのですね。この辺はお分かりでしょう。
最初は面倒に感じるでしょうが、慣れてしまえば日本語のように長々と理由を述べなくても、一言で意志を伝え理由を理解出来るのです。その表現方法の代表が可以と能(会)です。


初めて納豆を見た中国の人が あなたに食べられますか?と聞く時も、その方が 能口乞ma? とあなたに聞いたとすれば、それはあなたに『これはそもそも食べる事が出来るものか?』とか『中国人の私にも食べられるものか?』というニュアンスの『食べれるか?』です。

一方、可以口乞ma? と聞いた時、それは単にあなたに食べる許可を求めているという事になります。

…難しいかな? (というか説明も難しいんです)(^_^;)
残念ながら、これは自分で色んな場面を考えて、この場合は可以かな?能かな?と考え、慣れて行くしかないと思います。
今後は さらに会という表現、また~得(不)了とか ~得(不)下 などの出来る出来ない表現も出てくるでしょうから、まずはシッカリ可以と能の使い分けを体得しましょう。
頑張って!!

こんにちは。私も単なる中国語の“いち学習者”ですが、大変懐かしい疑問でしたのでお答えします。
可以と能、そしてもうひとつ“会”の使い分けは、日本人の中国語学習者なら、必ず一度は通る関門なのですよ。えぇ、私だってこの2つには大混乱しましたとも!(^^)

例えば同じ『食べられない』という事を言う時、日本語であれば どんな場合も『食べられない』という言葉を使い、では何故食べられないのかを説明する時には、先に理由を述べてから表現します。つまり…

(1)この刺身は私のものではないので ←理由を...続きを読む

Q中国語の「都」を見たとき、どう訳せばいいですか?

「都」を使うかどうかは、主語の人数の多さではなく、
対象がその母集団で占める比率の大きさに拠ります。
と教えてもらいました。では、下の文を見たとき、

(1)この「都」は、全て日本に行かない。と訳すのか?

(2)比率が多いので、「都」をいれているなら、全員行かない訳ではないと、どう見抜くのですか?

(3)比率が多いので、「都」を使っているとしても、日本語に訳すとき、その「都」は
  とりあえず、ほぼ日本に行かない。と「ほぼ」という言葉にしてしまって訳すのですか?
 「ほぼ」や「大体」なら、別の単語があります。

他们都不去日本。

この彼らの人数しだいで、勝手に厳密には、全員でないので、「全て」と訳さないパターンだろうと、
こちら側で適当に、全員ではない事にしたり、全員にしたりしていいのですか?

仮に、この彼らが、中国人全員のことを言っているとするなら、
厳密には、全員ではないだろうと、勝手に判断して、本当に全員日本に行かない。
と言っているのに、
都合よく「全て」という意味の「都」ではないと判断してもいいのですか?

それに、「全て」という意味でなかったとしても、
この「都」は、無視して訳さないのですか?
それとも、「ほぼ」や「大体」という意味に変えて訳すのですか?

「都」を使うかどうかは、主語の人数の多さではなく、
対象がその母集団で占める比率の大きさに拠ります。
と教えてもらいました。では、下の文を見たとき、

(1)この「都」は、全て日本に行かない。と訳すのか?

(2)比率が多いので、「都」をいれているなら、全員行かない訳ではないと、どう見抜くのですか?

(3)比率が多いので、「都」を使っているとしても、日本語に訳すとき、その「都」は
  とりあえず、ほぼ日本に行かない。と「ほぼ」という言葉にしてしまって訳すのですか?
 「ほぼ」や「大体」なら...続きを読む

Aベストアンサー

> 他们都不去日本。

「ずべて」と訳します。
比率の問題ではなく、「すべて」です。

「彼らはみんな日本には行かない。」と「話者が決めている」のです。
もしかしたら例外がいるかもしれないが、話者の知っている限り全員です。
あるいは実際には行くつもりの人が何人かいたとしても、話者にとってはそんなことはどうでもよいのです。(問題外、あるいは眼中にないのです。)

前回のご質問でお答えしたように、事実を述べている文章や正確さが必要な記事の場合は、「論理的に全部」であり、もしも例外があったとすれば「ほぼ全部」「大多数」という表現をする方が「適切」でしょう。
しかしながら、会話の文章などでは、話者がどう思っているのかということがすべてです。
聞いた側は話者の言うことをすべて信用するとすれば、「全部」であると理解するほかはありません。

> (1)都は、「すべて」「みんな」と言う意味の副詞です。
> 全てと言わないなら、入れてはいけない。まずこれが基本である。

前回のご質問で上記のようにお書きになられた通りです。
どう考えても「すべて」ではないと聞く側がわかっていたとしてもですね。

これは中国語という言語、言葉、文法の規則の問題ではなく、その背後にある文化、考え方の問題と言ってもいいでしょう。
日本語(日本)では、なるべく相手の側に立って話をするという一種の美徳があります。
間違っているかもしれないこと、例外があることに関して、相手が誤解しないように言葉を加えることはごく当たり前に行われます。
しかしながら、外国語(外国)では、自分の意見や主張を表現することが第一であり、他人から見て間違っていようが、自分の意見や主張を表現する場合に遠慮はしません。

まあ、日本でも「みんな(そうしているよ)」などと言い切ってしまうことはありますが。(笑)
このように「みんな(そうだよ)」と言われたことはありますよね?
本当に「みんな」でしょうか?違うこともありますよね。でも、「みんな」と言うのです。
中国語では、特にこの種の言い切りだとか、強調が多いのです。
そういう場合には「都」、「也」、「就」などが頻繁に使われますが、時に日本語には訳しにくくなります。

前回のお答えでは、「都を使っていても、必ずしも論理的に全部を意味しない」ということであって、「都をすべてとは訳さない」とは申しておりません。
ほかには「ほぼ」「大体」については、そのように訳するとも申しておりませんし、回答内に使用しておりません。
似たような語を使っているのは、「都を使うときの気持ち」を説明している部分で、

「ほっとんど、みんな、そうしているんだよ」、「いつでも(どこでも)そうなんだよ」、あるいは「みんな、もうそうしているよ」「とっくだよ」という気持ちで語る場合には、「都」はあるのが当たり前

という部分です。

話者が仮に頭の中で感じているのが「アバウト」であったとしても、ひとたび言葉で「都」と言った時点で「すべて」だと言い切っているのですから、聞いた側は「すべて」と訳すしかありません。

他には人数にこだわっておられるようですが、二人でも三人でも「みんな」であれば「都」は用います。

ということで、前回と今回のお答えが疑問点とずれていて、単純に文法的な回答をお求めの場合は、「都=すべて」とだけご記憶になられて学習を進めていただいた方がよいでしょう。
いつか、中国語の言葉の裏だとか、表現の特性を知りたくなったり、単純に文法規則で解釈できなくなった場合に思い出してください。

> 他们都不去日本。

「ずべて」と訳します。
比率の問題ではなく、「すべて」です。

「彼らはみんな日本には行かない。」と「話者が決めている」のです。
もしかしたら例外がいるかもしれないが、話者の知っている限り全員です。
あるいは実際には行くつもりの人が何人かいたとしても、話者にとってはそんなことはどうでもよいのです。(問題外、あるいは眼中にないのです。)

前回のご質問でお答えしたように、事実を述べている文章や正確さが必要な記事の場合は、「論理的に全部」であり、もしも例外があった...続きを読む


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