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私は、真言宗の檀家になります。お墓の開眼.撥遣についてお伺いします。
撥遣をお性根を抜く(魂抜き)といいますが、お性根を抜いたらお墓にあった
魂は、どこに行くのでしょうか?
また、古いお墓から新しいお墓に変えたとき、性根を抜いた魂は、どこかに行って
そこから再びお墓に魂を迎え入れるのでしょうか?
また、お墓に魂があるということと密厳浄土に魂があるということと矛盾するように思うのですが、
これは、魂が二つに分散して、浄土とお墓の両方にあるということなのでしょうか?
まったく仏教の知識がないのでわかりません。
真言宗の立場と他宗派では違うのか、そこら辺のことも含めてお教えいただければ幸いです。
よろしくお願い申し上げます。

A 回答 (1件)

小生は専門家ではありませんので、間違っている部分もあると思いますので、参考程度に。



お墓というのは、一種の“依り代”だと思います。
魂はお浄土(真言宗でお浄土と言うかどうか分かりませんが、要は“あの世”です)にいますが、お浄土では、なんとなく、ふわふわと漂っているイメージ、この世にいる人からすれば、亡くなった方はいったいどこにいるのだろうと思ってしまうわけです。
小生の勝手なイメージでは、お浄土もこの世も同じで、ただ次元が違うので生きている人間は死者の魂と出会うことがないのでは?と思います。

どこにいるか分からなかったら、どこに向かって拝めばいいのか、どこに向かってその人を偲べばいいのか、途方に暮れてしまいます。
そこで、お墓を、あの世とこの世を繋ぐ“依り代”というか、お浄土での“家”として考え、亡くなった方はそこにいるのだと思うようになったのだと思います。
実際、生前の体であったお骨もそこにあるわけですし。

お墓を建て直す時とか、お位牌に新たに戒名を追加して彫る時とか、お性根を抜きますが、その時は、ちょっとの間、“家”を離れて、ふわふわとお浄土に漂っていていただいているんじゃないでしょうか。
そして、お墓が新調された時、お位牌が新しくなった時に、帰ってきていただくという感じじゃないでしょうか。

と、ここまで書いて、「あれ、そういえばお位牌もお性根を抜くことがある、ということは、お墓とお位牌と、両方に魂が宿っていることになるなあ」と気づきました。
お位牌も、お墓と同じ考え方だと思いますが、生きた人間と違って、魂は自由ですから、いくつかに分かれていても特に問題はないんじゃないでしょうか。
“分骨”なんてことも普通に行なわれているわけですし。

要は、残された、生きている人が、死者を偲ぶことが目的で、少しでも身近にいてほしいという願いから、どこか遠い“お浄土”ではなく、家に近い“お墓”であったり、家の中にある“お位牌”に宿っているのだと“思いたい”のだと思います。

身近にいると感じられることで、残された者は癒されていくのだと思います。

こちらのサイトには宗教のカテゴリーはありませんが、宗教関係は哲学のカテゴリーで質問されることが多いようです。そちらには専門の方もいらっしゃると思いますから、こちらを締め切って、哲学のカテゴリーで質問し直されるといいかもしれません。
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この回答へのお礼

ご丁寧なご回答ありがとうございます。
お墓やお位牌を拠り代とする考えには賛成です。
魂が分散するといういうことについてある映画を思い出しました。
ベルナルド.ベルドリッチ監督の「リトルブッダ」です。
この映画は、ダライラマの輪廻転生を描いていましたが、先代のダライラマの
魂は、身体.言葉.意識の三密が分散して三人の人間にそれぞれの要素が宿り
転生していたように思います。
生きている人間の意識は、一つと考える固定観念より、あの世の世界は、
魂の状態が自由であってもいいように思います。
いろいろと参考になりました。
本当にありがとうございました。

お礼日時:2010/10/24 06:53

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