電子書籍の厳選無料作品が豊富!

先日、「戦国争乱を生きる」(舘鼻 誠,著)という面白い本を読みました。
特に「父の偉業・子の重圧」章の、毛利元就の跡継ぎという重圧に苛まれながらも国政に励む毛利隆元に頭が下がりました。
ところで気になった事があります。
この章に「隆元の死後、歳入が三千~四千貫文滞り、輝元が財政が苦しいとぼやいた」という記述があります。
同書の他の章に、百六十貫文=約1120万円とあるので、三千貫文=2億円程度だと思います。
既に大大名になっていた毛利家が、年間三千~四千貫文減ったくらいで財政が苦しくなるのか疑問です。
それとも、歳入=歳出で殆ど手元に残らない状況だったので苦しくなったのでしょうか。

そこで、戦国時代の藩財政に詳しい御方、ぜひご教示ください。
毛利隆元が死去した頃の、藩の年間の歳入はどれくらいだったのでしょうか?

A 回答 (2件)

直接の説明になりませんが、太閤検地が行われ前の島津家の例があります。



この時の検地によって、島津本家は太ります。
一つには穏田など個別の国人が隠していた田畑を暴きました。
二つには面積の変更面積の単位を変えた、360町歩→300町歩単位としました。

で、検地の結果各部下に与えられた石高は、額面通り。実質は変わらないで大隅・薩摩で額面が2-3割増えたそうです。
で、増えた分の一部は太閤蔵入地となり、残りは島津家本家が取った。
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Dice/5752/se …

島津本家が太ったというのは、当時の部下の日記に書いてあった。伊集院某だったような記憶がある。

で、太る前はどうだったかというと、有力部下とそんな大差がなかったそうだ。

毛利家も島津家同様に戦国時代においては、(太閤検地の前においては)有力国人の中の最有力者程度でした。
豊臣政権下で優遇されなかった吉川家が広家の段階で14万石程度なので、毛利本家も直轄領としては多めに見ても20万石いくか行かないかと推測します。

20万石だと10万貫文程度なので、五割を税収として 年予算 5万貫文
3-4千貫文といえば 10%近い金額だから そりゃぁ 苦しいでしょう
    • good
    • 0
この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。

この頃の毛利家は有力国人の中の最有力者程度で、本家にあまり入らなかったのですね。
それにしても、直轄領20万石前後・年予算5万貫ほどだったとは思いもよりませんでした。
確かに、歳入が10%近くも減れば財政が苦しくなる訳ですね・・・。

事例と具体的な数字を用いた丁寧な御説明のおかげで合点が行きました。
tanuki4uさん、どうもありがとうございました。

お礼日時:2010/12/14 21:25

尼子がまだまだ強力な時代に真っ向からぶつかっている時期なので、支出面でも毛利家からしてみたら苦しい時期だと思いますよ。


毛利家は養子送り込んで乗っ取りとか陶を奇策で破ったりといった謀略系が多いのですが、織田と尼子相手はかなり真っ向から激突してます。(もちろん謀略や引き抜き工作もやってはいますが。)
    • good
    • 0
この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。

毛利元就は謀略の印象が強烈ですが、尼子家とはかなり真っ向から激突したのですね。
戦で出費が激しい時期だったのも財政難の原因と納得しました。

jkpawapuroさん、どうもありがとうございました。

お礼日時:2010/12/14 21:30

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!


おすすめ情報