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かなりきわどい質問ですが、南京大虐殺について質問します。長い間賛否両論が論じられてきた問題ですが、みなさんのなかで南京大虐殺についての確実な情報がありませんか?意見や知識よりも、自分が見た(これはいないかも…??)、あるいは直接こう聞いた、などの生の声をお待ちしてます。

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A 回答 (23件中11~20件)

南京大虐殺が(30万人の虐殺)があったこと、は、東京裁判の前後に出版された書籍が初出です。



実際には、(NO12の方はかなり強い確信を持ってご発言されていますが)、事件と同じ日に、何人もの日本人が南京市内に入っていますが、証拠となる写真は、いまだに一枚もありません。

南京には「約20万人」が居住していました。その時にそこに居合わせた日本軍の兵隊の数は、約2千人ほどだたということです。

殺害があり、確かな目撃者があった件数は、1件です。


仮に、「30万人の人々が、虐殺されたとしたら」、数が合わないところは、目をつぶったとしても(?)どんな方法で、どれくらいの時間をかけて、やったのか、また、当時、数多くの外来者(記者や文士等)が居合わせていた訳ですが、現在にいたるまで、「本物の」写真等は、一枚もありません。

残念ながら(・?)、検証の積み重ねではなく、当初から、喧伝と虚構の積み重ねであった可能性のほうが、非常に強いです。


東京裁判の時に、残された判決文書があります。ご存知のかたも多いかと思いますが、パール判事という方の書かれた、判決文書です。

このなかに南京大虐殺についての考察があり、一読をお勧めします。

「パル判事判決文書」講談社学術文庫下巻 560頁~



詳しい方がおられます。

以下、引用します。


例の南京戦虚偽捏造報道に関して下記の追加情報が来ました
ご参考にしてください
 
この度は自由主義史観研究会宛てにメールいただきありがとうございました。僭越な
がら、下の各人の所属した部隊がどのような行動をとっていたか、私の知る範囲内で
返信いたします。
 
==========(引用開始)===========
町田義成(89歳・仮名)
1913年生まれ
当時24才
第16師団歩兵第33連隊第3大隊
 
大田俊夫(89歳・仮名)
1913年生まれ
当時24才
第16師団歩兵第33連隊第3大隊
 
三木本一平(89歳・仮名)
1913年生まれ
当時24才
第16師団歩兵第33連隊第2大隊
 
===========(引用中断)==========
 
 第16師団歩兵第33連隊と38連隊は津市に本部を持つ第30旅団を構成しま
す。この第30旅団と第19旅団とで第16師団を構成しています。師団本部は京都
です。
 
 さて、まず33連隊の動きについて説明します。12月13日、南京が陥落した日
には、この連隊は昼間は下関を掃討し、夜は下関に野営しました。このうち、第2大
隊が14日に城内に進入し、宿営しています。
 この日の旅団命令では第33連隊は金川門より西中山北路ぞいの三角地帯、獅子山
を担当し、支那兵を撃滅すべしということでしたが、果たしてそこに第二大隊が向
かったところ、獅子山砲台で約200人の敗残兵に遭遇、これを投降させました。夕
刻に城内に入った第二大隊の羽田一等兵は市役所に集結した市内には死体をほとんど
見かけなかったと南京戦史にあります。また、歩兵33連隊史によれば、第二大隊が
獅子山にて武器を捨て便衣着用の残敵に遭遇、2-300人投降したと書いていま
す。
 
 しかし彼らが宿営した場所はラーベらが管理していた安全区の外であり、人っ子一
人見あたらないゴーストタウンの部分にいたに過ぎません。12月15日からは城外
掃討に移ったので、(つまり南京城の外)彼らの内14日に安全区に入って狼藉を働
くものがいるとすれば、三本木氏のみです。しかし、安全区には歩哨が立っていて、
ここには連隊長といえども入ることが許されていなかったので、第二大隊のメンバー
が安全区内の難民に危害を加えることは物理的に不可能です。すなわち、町田氏と太
田氏は南京戦に参加したと言っても南京城の外にいたのであって、難民ひしめく安全
区はおろか、南京市内そのものに入れたわけではありません。
 
 12月21日になると、新配備計画により、各部隊の配置が変更になります。第1
大隊と、第二大隊が城内を警備することになり、第3大隊は南京南方約30キロの江
寧鎮を守備することになりました。つまり、第3大隊は南京市内にここでも入ってい
ません。町田、太田の両氏は結局、南京市民とは接触していないはずです。また、第
二大隊が守備を命じられたのは住民が既に避難していないはずの南京市の南部であ
り、安全区があるのは漢中路以北でありますから、やはり住民との接触は考えられま
せん。三本木氏が南京市民と接触するとすれば14日以外は考えられませんが、先に
述べた通り、安全区内には入っていません。
 
 なお、この33連隊は1月22日以後北支にに向かったので、以後は南京市とは関
係ありません。
 
===========(引用再開)==========
田所耕太(86歳・仮名)
1916年生まれ
当時21才
第16師団歩兵第38連隊第1大隊
===========(引用終了)==========
 
 問題はこの38連隊です。この38連隊は13日には城外北部を掃討にあたり、夜
は城外に野営しました。14日には第1・3大隊が入城しましたが、夜は城外で宿営
しました。15日から24日にかけては城外を掃討し、新配備計画が出ると38連隊
が安全区も含めて警備に当たりました。
 だから虐殺に関係したとすれば、38連隊の疑いが濃くなりますが、安全区内には
住民が20万あまり、敗残兵も2万人弱はおり、警備する日本軍は2千人弱です。さ
あて、これで中国がいうように30万人も虐殺できるのだろうか。(笑)
 
 田所氏は第1大隊だとのことなので、14日に南京城内に入ったことになります
が、これは安全区ではありません。城の北部ですが、この日は33連隊の第2大隊と
は違い、夜にはもう南京城を出ています。なお、安全区には金沢第7連隊の第1・2
大隊が担当しています。この第7連隊は12月24日をもって第9師団麾下の諸連隊
とともに蘇州へ転進し、南京を去っています。事務引き継ぎの関係上、第38連隊が
安全区を含めた南京北部を掌握するのは25日以後です。それまで第16師団の各隊
は南京城東方の敵と戦っていたので、南京市内にはいませんでした。なお、安全区内
に入ったのは、38連隊の中の1個大隊ということなので、実際に住民と接触があっ
たのは2000人の中の3分の1に過ぎません。
 
 さて、38連隊がそうすると虐殺を働いていたのか?ということですが、全ての安
全区内の文書の事例や残留外国人報告事例、ヴォートリンの日記の事例、ラーベの日
記の事例を全てたしても、殺人は91件です。いわゆる日本軍の非行を全て足すと、
全部でのべ967件あることになります。このうち、目撃者のいる事件はのべ101
件です。
 しかし、その中で立件可能な事件(記録者が明らかであり、被害者も特定でき、目
撃者もいる)は殺人が2件で、歩兵38連隊が関わった事件が1件です。いいです
か。たった1件なのです。
 あれだけ外国人ジャーナリストやら日本のジャーナリストやらがいて、目撃された
38連隊による殺人が1件とは。
 その事件は1月9日に起こったものです。安全区文書及びラーベ日記に記載のある
ものですが、山西路で追跡された支那人男性が射殺されたというものだが、これはあ
の誰何事件のことです。ちなみに洞富雄氏はこの原文がexecuteになっているにもか
かわらず、これを虐殺としているのです。
 
 私は残念ながら、久米宏が全体でどんなことを言っていたのかは知りません(最後
のところだけしか見られなかったため)しかし、あの文章を読み上げる久米の顔はま
るで悪魔教の経典でも読んでいるみたいだった(笑)。
 

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「三千人 丸を二つで 三十万」


これが真実です。
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>異論とか歴史学的な検証をする事自体を批判されることです。

検証=
>疑義と見られ、その事だけで虐殺を正当化したような扱いをされてしまいます。

 これは間違いです。
 南京事件の論争史をすこし調べればわかりますが、検証の歴史の
積み重ねです。

>南京大虐殺が歴史的には疑義があることは、学問的
>には常識であると言われていますが、表立ってそれ
>を学者が表明することは、日本の学会では困難のようです。

 表だって表明する事が困難なら、なぜそれが常識になりうるでしょう?

 南京大虐殺が歴史的に疑義がある事は、学問の常識でも
何でもありません。それはデマゴギーです。
 南京事件があった事が常識なのだし、資料もそれを裏付け
ています。
 南京事件の論争史は否定派のそうしたデマのウソを、地道な資料発掘に
よって一つ一つ検証していったプロセスに他なりません。

 南京事件論争史については秦郁彦氏の「南京事件」中公新書に簡潔に
まとめられています。
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>本国に送った状況報告や日記に色々な数字が飛び交っていますが、


>小林よしのり氏の著書で、5万という数字の信憑性の「低さ」
>について説明しています。

ラーベの推定した約5万人は、秦郁彦氏が日本側資料の戦闘詳報に
記載された「処分された捕虜」の総計から推計した数字とほぼ一致
しており、信頼が置けます。

 小林よしのりの「戦争論」や「ゴーマニズム」は、元資料には
載っていない事やあからさまに嘘をついていたりするので、全く
信頼できません。
 
 資料を重視している故板倉氏などから突っ込まれてあわてて
単行本化したときに言い訳を書いたりしていますが、作中で
豪語しているように本当に資料を読んでいれば犯すはずのない
間違いです。
 読んでいないか、読んでいたのなら読者を騙すためにわざと
偽りを書いたかのどちらかしかあり得ません。
 
 
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確実な情報源としては以下の二つがあげられます



(1)南京事件資料集I
   南京事件資料集II
   南京戦史
    発行元:偕行社
    
(2)南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち
    発行元:大月書店

 特に(1)は旧日本陸軍士官学校のOB会が、南京事件を否定するために
当時の資料(陣中日誌、戦闘詳報、仕官と兵士の日記その他)を集めたもの
です。ところが当初の意図と反して出てくる資料が全て南京大虐殺を裏付け
るものばかりだったため、南京大虐殺を認めざるを得なくなったというもの
です。
 
 編集部が資料の裏を取るために資料提供者や部隊の生き残りに確認に
言ったりしていますので、資料としては最も確実です。
 編集委員に本職の南京攻略部隊の各部隊の代表と歴史学者二人、秦氏と
並んで資料重視派だった故板倉重明氏が加わっています。
 いまのところ、これが最も確実で基礎的な日本側の資料です。
 
 一部を抜粋したものはここで見る事ができます。
http://www5.tok2.com/home/JOHNVOID/index.htm

○南京市の人口について
 南京大虐殺の大部分は、戦闘終了後に捕虜となった中国の南京防衛軍の兵士が
殺害されたものですから、南京の一般市民の人口をいくらいじったところで、
殺害された人数は出てきません。

○略奪について
 略奪は無人となった民家や、外国公館、あるいは商店を狙って行われたので
あって、避難民を狙ったのではありません。
 略奪については上記の「南京戦史資料集I、II」に収録されている第16師団
中島師団長の日記や、飯沼上海派遣軍参謀長の日記に出てきます。
 中島師団長に至っては自ら略奪を行い、蒋介石の執務や住居を荒らして略奪品を
集めています。それを上司の松井司令官にたしなめられると、「略奪の何が悪い、
うるさいジジイ」と開き直って得意げに日記に記しています。
 これは松井司令官と中島中将の日記双方から確認できます。


○便衣兵について
 南京では便衣兵はいません。
 殺害された兵士は皆、国民党政府の南京防衛軍の兵士たちです。
 日本軍は投降してきた捕虜を片っ端から殺害したので(これは
飯沼参謀長の日記から確認できます)、生き残るために軍服を脱
ぎ捨てたのです。
 南京国際安全区委員会に日本軍との間を取り持ってもらい、生
命の保証を得ようした投降兵もいましたが、全員殺害されました。
 

参考URL:http://www5.tok2.com/home/JOHNVOID/index.htm
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そうですねぇ。

私としては南京大虐殺は大と呼ぶには程遠く、実際にはそれほどのものではなかったように思います。
当時南京の人口は100万人と言われているようですが、日本軍が南京に上陸したさいに蒋介石の国民軍(八路軍でしたらすみません)と市民80万人は南京を脱出してしまったそうです。残った20万の人々は貧困により脱出が不可能であった人たちのようです。
その残った市民は安全区という一区域にいたそうですが、その周りにはすでに逃げた金持ちの家がたくさんあるので、なぜわざわざ市民の中に入って略奪する必要があったのでしょう。こういっては失礼ですが、貧乏な人より金持ちから奪ったほうがよかったのでは?
当時の支那兵は便意兵とよばれるゲリラ的なものでした。兵隊が守るべき自分たちの国民から衣服を略奪し、一般人の格好をしていきなりおそってくるのです。一般人がげりらか、すくなくとも私には性格に見分けて攻撃するようなことはできません。
旧日本軍の兵隊のかたも相当苦労されたはずです。国際法でゲリラは殺してもよかったのです。
中国人への虐殺行為が批判されるなら、当時満州にいた日本人の邦人300人が虐殺された事件はどうなるのでしょう。そのほかにも残虐行為をうけた日本人は多くいたのです。数の問題ではない!という方もいらっしゃるようですが、そのとおりです。数ではありません。一般市民が犠牲になったことがいけないのです。日本も中共も被害者を抱えていたのです。
当時の自分たちの蛮行を日本軍が行ったものだと押し付けて批判している中共には嫌気がさします。
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>当時南京の安全地帯で一部始終を目にしたという、ドイツの民間人


>(だったと思いますが

ジョン・ラーベかな?その人は南京安全区国際委員会委員長だった人です。

本国に送った状況報告や日記に色々な数字が飛び交っていますが、小林よしのり氏の著書で、5万という数字の信憑性の「低さ」について説明しています。

また、殺されたのが民間人と言われているけど、便衣兵だったとか(ゲリラを殺すことは国際法上合法)、中国兵が衣服を奪うために中国人民間人を襲った分まで日本軍が殺した数字にカウントしていたりとか。。。

米軍の原子爆弾や焼夷弾は、明らかに民間人殺害を目的とした作戦行動であり、国際法の上では南京事件より罪は明らかですが、当時においてはGHQの言論統制により表立って問題にならず、現在においてはサヨク活動の成果により表立って問題になっていないのでしょう。
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#5


>インドネシア、マ-レシア,シンガポ-ル、フィリッピンの人々も、
>そのような考えでしょうか。
存じ上げませぬ。
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この回答へのお礼

回答をしてくださいました皆さん、ありがとうございました。最近読んだ本のなかに、当時南京の安全地帯で一部始終を目にしたという、ドイツの民間人(だったと思いますが、なんせ立ち読みなので詳しくは忘れてしまいました)の証言によると、確かに日本兵による虐殺があったそうです。ただ、その数は中国側が主張する30万にはほど遠い、自分が見た限りではせいぜい多くて5万であろう、ということでした。
南京大虐殺について論議されるべき本当の理由として、虐殺の人数ではなく民間人が殺されたと言うことであり、これは戦争の国際ルールを外れたものであるということでしょう。そう言う意味で、日本におとされた原子爆弾や沖縄の問題がうやむやにされていることはどういうことか、と思ってしまいます。
これは政治的な問題であると言う通り、歴史の真実を付きとめることもさることながら、外交的なカードでもあるのでしょう。

お礼日時:2001/04/26 01:21

happy people さんのご回答をいただきまして,ありがとうございます。

このヒント の「中華思想」「東夷秩序」が、インドネシア、マ-レシア,シンガポ-ル、フィリッピンの人々も、そのような考えでしょうか。私の知人のインドネシアの方も私と同じことをいっていましたので。本題の質問とはずれてすみません。 
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#3


>アジアでなぜ短期間なのに旧日本軍は評判は悪く,長く植民地していた欧米は
>憎まれにくいのでしょうか。私はこれがいつも疑問です。

「中華思想」「東夷秩序」がヒントになると思います。

支那・朝鮮において日本を含めた三国は「支那>朝鮮>日本」の序列で考えられており、当時の日本の行動はこの序列に逆らうものだったと捉えられているのでしょう。
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