重要なお知らせ

「教えて! goo」は2025年9月17日(水)をもちまして、サービスを終了いたします。詳細はこちら>

電子書籍の厳選無料作品が豊富!

 ( a ) 天使とは 純粋思想であり 純粋なる内なることばのことを言うか?

 ( b ) そのことばが 人間にかかわるようなものであるなら 堕落しうる。天使も堕落しうる。と。

 ( c )  つぎの文句のあいだに天使が位置するか? 1:4から1:5にかけてである。

 ◆ (ヨハネによる福音 1:1-5) ~~~
 
 1:1 はじめに ことばがあった。
    ことばは神とともにあった。
    ことばは神であった。

 1:2 このことばは はじめに神とともにあった。

 1:3 すべてのものは ことばによって成った。
    成ったもののうち ひとつとして ことばによらないものはなかった。

 1:4 このことばに命があった。
    この命は人を照らす光りであった。

 1:5 光りは闇のなかに輝いている。
    闇は光りをとらえなかった。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち 《1:4 このことばに命があった。この命は人を照らす光りであった。》というときの《命》もしくは《光り》としては すでにこの経験世界ないし人間の世界のことにも触れて言っていると思われる。《闇》(1:5)と言うなら すでに経験事象である。
 言いかえると 次のように位置づけるかたちである。

 ( d ) 神をなぜ《ことば》にたとえたかの問題でもあるように考えられることには 次のような位置づけである。

  ○ (ことばの階層) ~~~

  (α) 神としてのことば 

  (α’) 天使としてのことば

  (β・γ) 経験事象としての光なることば(ひらめき?)  

  (δ) 人間のことば

  ~~~~~~~~~~


 ( e ) 次の図式によっても説明しうるか? 《ことば》を《ロゴス》と言いかえている。

  ○ (ロゴスの階層) ~~~~

  スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神

  ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________

  インスピレーション=ロゴス(β):異言
       :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ
       
  インスピレーション=ロゴス(γ):預言
       :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化
         :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?

  ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理

  ~~~~~~~~~~~~


 ( f ) 問題は 天使が 永遠の霊的な存在であるなら どうして神に背き堕落しえたか? である。
 被造物ではないが 自由意志を持ち選択という行為をなす存在であるということだろうか?
 もし堕落したのであれば それが――そのうち特に神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者が―― 悪魔であるという規定になる。


 おしえてください。
 

A 回答 (81件中21~30件)

土偶にはブロードキャスト(同報送信)的な働きが期待されているのでしょうか?


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AD% …
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 いえいえ まったく趣味嗜好です。

 いい絵があれば 掲げたい。それだけです。
 
 これは(土偶は) 変わっていておもしろいと思ったからです。

 ご投稿をありがとう。

お礼日時:2011/05/13 22:56

「善乗千里馬」よりも高度な次元に位置した悟り(?)なのかも知れませんね。

    • good
    • 0
この回答へのお礼

 たぶん 直前のやり取りでお礼欄の末尾に書きました二点が やはりかかわっているように思うのですが。
 悟りを得るかどうかが 人間の側の操作によって簡単に実現しうるという性質のものではないのではないかと。

 どこかで書いておられたように記憶するのですが 
 ★ 畏れ
 ☆ ここから――神とのつながりは――すべて始まるというように思っています。

 あっ もしその方程式を破るとしたら それは それも 神の側からなのであると。(つまりその例としては 極悪人が 神のあわれみによって 一瞬のうちに我れに還るといった場合のようなです)。

お礼日時:2011/05/13 06:01

久し振りに此方側にも参加します。



又もやデジタル通信関連の用語による喩えで畏れ入りますが、
イメージに過ぎませんから、次の通りの報告を御許し下さいませ。

つまり、先験的な言葉は神から特定の人間へ発せられていなくて、
ユーザーのPCからサーバへのアクセスの様に、
神の側が学び手達を受け入れる為に、ポートを空けてくれているのに、
人間の側から其処へアクセスする為のアプリケーションソフト(中継媒体)が失われたのかも知れない、という気がして参りました。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DD%A1%BC%A5%C8

従いまして、妄想的な私見によりますと、
本来的に備わっていた原始心性のアプリケーションの機能鈍化こそが、
堕落の切っ掛けだったのではないでしょうか?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ううーん。一点。
 技術にかんすることなどが分かっていないかも分かりませんが もし神とのつながりを問題にするのでしたら それは そのつながりが出来るかどうか その通常は一回きりの一時点こそが大事なのではないかと そういう思いを持つの一点です。
 わが心に非思考の庭が成るかどうかのその一時点での判断です。

 たしかにいつでもつながりうるという存在のあり方をしていると言えば それまでですが その《いつでも》という状態は それほど人間の側が自由に操作することが出来るようなものではないように思われます。
 ★ ~~~~
 神の側が学び手達を受け入れる為に、ポートを空けてくれているのに、
 人間の側から其処へアクセスする為のアプリケーションソフト(中継媒体)が失われたのかも知れない、という気がして参りました。
 ~~~~~~
 ☆ この場合のような《アクセスするためのソフト》は たしかにその種はやどっているというかたちでそのとおりだというふうにも思われるのですが どうもそう簡単に《いつでも》アクセス可能といった状態とは少し違うようにも思えて来るのです。
 微妙と言いますか こまかい事態についても詳しく知らないと何とも言えないようですが けっきょく次のことをわたしの側からは確認のために提出したいと考えます。
 
 1. 神とのつながりは 神の側がその機会をつくってくれるものである。

 2. もし神へのアクセス・ソフトヱアが失われたのかも知れないと言うとすれば それはむしろ人間がそのソフトをいつかどこかで棄てたのである。

 ☆ このようです。どうでしょうかねぇ。微妙でしょうが。

お礼日時:2011/05/13 05:55

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

ヒドッチでございます。

> どうもわたしは 世間で使われる自己責任という語の意味を誤解していたようです。
 責任があるから 自業自得であり 損害を元に戻すためのまたその処理をするための費用は自己負担である。こういう意味で言っているようなのですね その主張者は。

 「責任があるから 自業自得であり 損害を元に戻すためのまたその処理をするための費用は自己負担(税金を使うな)」ということのようでございます。
 Google検索におきましても、自己責任、次にスペースとしますと、自動的に“津波”、“地震”がきております。それだけ、この震災におきましても“自己責任論”が蔓延していると察せられます。以下に一例を示してございます(2chなので、特に表現がキツイのかもしれませんが)。つまり、なんでもありの状況となっているように見受けられます。

「地震も津波 も被害にあうやつは自己責任 まあそんなバカなやつは死んでもいい」
「地震の処理費用を税金で払うのはおかしいだろ」 
 
 これは、ご質問者様が掲げられた以下のご質問にも通じるところがあろうかと推察しております。ですが、なぜこういった輩が多くなったのかは不明でございます(税金を使うと言いましても、別段、彼らは高額納税者という訳でもないと思うのですが)。
http://okwave.jp/qa/q6713001.html 

> あとは 不可抗力の事態や公共性の問題などの観点から その《自己》は存在の関係性(社会性)といった基礎の上で 連帯していると見られる場合が起きるということ。こう見ていました。

 実を申しますと、愚生も同じ考えでございました。

> ですから 助かって帰って来たとき 《ちょっと危険を冒し過ぎたかも知れません。ご心配をおかけしました》と言っていれば 問題はないと思うのです。そのとき実際はどうだったか 記憶が薄れていますが 何だかぎくしゃくしたのではなかったでしょうか。

 ここで問題となりますのは、誰に対してか? と考えられます。マスコミに煽られた国民に対してなのか、それとも政府に対してなのか?でございます。
 まず、納税者たる国民には、一言お詫びの言葉を添えておくべきだったと思われます。ですが、政府に対しましては、その必要性はないと考えております。
 そもそも、イラクに大量殺戮兵器があるという名目で、宣戦布告したはずでございざます。しかも国会答弁にて、コイズミ氏が「見つかると思いますよ。フセインの死体が見つからないからフセインはいなかったことになるんですか?」と答えたにも関わらず、フセインの身柄が拘束され、処刑された今になっても大量破壊兵器が見つからない状況にあります。つまり、そもそも無理のある戦争だったかと思われるからでございます。そんな無茶をしておきながら、彼らに非難を浴びせることには無理があろうかと考えております。

> ▲ アメリカにしても、フランスにしても、たった一人になったとしても、言論と活動を通じて、justice を守りぬくことは尊いという理想があります(justice は「正義」と言うよりも、「公正さ」と訳すべきです。日本国憲法の前文では正当にそう翻訳されています)。フランスであれば、ヴォルテールやエミール・ゾラ、ジャン=ポール・サルトルという闘う知識人の伝統があります。
 ☆ これは 社会行動についての考え方の違いがあると思います。その公正さを実現するためには どう振る舞うのがよいかは 日本では臨機応変にするのがよいとわたしは考えます。一般には 根回しのようなこととして人びとの見方考え方を 水かさを増すように かたちづくって行く道をとります。

 これは愚見でございますが、そもそも日本は、”自己決定”を育む社会ではないため、欧米諸国とは少し異なるのかもしれません。

> ☆ これは 演劇や映画のコンセプトについての見解から広げて見た場合を言っていますが このように見て来たところから考えますと わたくしが言いたかったことは ただひとつです。無謀を顧みず自由文体をすすむ場合には 無謀を顧みる人びとも世の中にはいるのだと分かった上でやって欲しい これです。

 なるほどですね。了解致しました。

> ところが確かに そこで・その上で分かっていることは そのように《いまやることは無謀だと自分で分かっていて しかもほかの人びとがそのように無謀だと心の内でも思っているしあるいは時にオモテに出しても言っているということ これも分かっている人間》に対しては 日本人の一般は もう相手にしないくせがあるようなのです。

 仰れますように、 かような人達には以外と冷たいところがあるのかもしれません。 元来日本人は義理人情には厚い国民かと思われるのですが、こういった方達には案外冷ややかなのかもしれません。

> ということは どうなのでしょう。ひとりの素朴なスサノヲには その行動にも圧力を加えて押さえようとする勢力があるとともに それを評価する人びとがいるということでしょうか? 世界の趨勢は 後者である場合がしばしば見られるということなのでしょうか?

 世界一般からしますと、 その当時でおいてすら、 後者の方達はしばしば見られるかと思っております。残念ながら、日本では、かなりの時間が経過してから、というのが多いように見受けられます。

> わたしの考えでは 思想つまり社会思想は そういう文学的な自由さですすみますねと見ると同時に 理論は けっきょくアマテラス公民の(つまりは一般に社会科学の)立ち場にも立って 打ち出すものと考えています。スサノヲ市民およびアマテラス公民の全体観として言い出すものと考えていました。自己責任についても そういう観点から見ていたと思います。
 果たして わたくしは変わっているでしょうか?

 いえいえ。そんなことはないと考えております。ただ、ひどっちクンも変わり者扱いされております故、残念ながら、愚生には説得力が幾分欠けるかもしれませんが・・・

> 日本の社会民主党は 為政者の立ち場に立ってというよりは 社会思想家の立ち場からものを言っていると思います。素朴なスサノヲでしょうか。

 確かに、沖縄基地に関しましては、非常に筋が通っていた(筋を通していた)かと推察しております。おそらく、この件では、評価が高まったとも耳にしております。
 現在の社民党につきましては、詳細を存じていないのですが、以前の”社会党”と呼ばれていたときには、自民党なんか比べ物にならない程、保守的な政党であったと耳にしたことがございましたが(友人の父君が社民党の市会議員をしておりまして、そこからの伝聞でございます)・・・

> 日本共産党は その見なしは 現在の社会現実を飛び越してしまっていると思われます。

 現時点におきまして、日米安保破棄は非現実的かと考えております。また、多数決を認めない というところも少し愚生にはついていけないところがございます。

 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ひどっちさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ▲ フランスであれば、ヴォルテールやエミール・ゾラ、ジャン=ポール・サルトルという闘う知識人の伝統があります。 
 ☆ これは《知識人》が知識人としておこなうという特別の要素もあるのかも知れないと思いました。言いかえると 公共の仕事をする人びとの中で 弱者や少数意見の側を擁護する人つまり同じ公民がいるかたちではないかと。市民は デモに繰り出すのではないかと。

 自己責任の使い方を思うと 何だか情けない思いになって来ました。そう言えば ここでも荒らしをする場合は けっきょく破れかぶれなんですね。自己責任という味気ない考えにみづから閉じこもって行こうとしているような。
 けれども すべてが言いっぱなしであるという特徴は もっと広くひとかどの文章を書く人の場合にも 現われます。おれが書くものを 受け容れるなら受け取れ いやならそれでよいと言っているようです。独我論が流行るわけです。

 どうも暗くなって来ました。日本人は死んでいるのでしょうか? などの問いを問うていたとき そこまでの認識がなかったものですから。
 どうしましょう?

お礼日時:2011/05/13 05:40

つまり、聖霊の風に吹かれていたいのだという事でしょうか。


ここで、心が清められていなくてはならないとありますが、心が清まるとはどういった事を言うのでしょうか?邪心がなくなるとかそういうことですか?

隣人を愛するについては、おっしゃりたいことはなんとなくわかりました。隣人の内部にも聖霊が宿っているから大丈夫だ、みたいな事でしょうか。

つまりブラジュロンさんの中では、天使とは聖霊の事であると決まっているのではないですか?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ つまり、聖霊の風に吹かれていたいのだという事でしょうか。
 ☆ 何となくそういうふうに表現をされると あれっ ちがうかなという感じを持ちますが うまく反論できません。

 ★ ここで、心が清められていなくてはならないとありますが、心が清まるとはどういった事を言うのでしょうか? 邪心がなくなるとかそういうことですか?
 ☆ これは 主観です。また主観と主観とだけの対話です。まったく自由に拒み得ます。きよければ神が――天使をつうじて――おとづれる。神があなたの心の窓をノックするなら あなたの心はきよい。そういったことにおいて すべては主観です。そういう限定した話も出しました。

 ★ 隣人の内部にも聖霊が宿っているから大丈夫だ、みたいな事でしょうか。
 ☆ あぁ えぇ そうなのかも知れません。かも知れないというのは そう思って行動してはいないからです。きわめて通俗的に日本語なら日本語で話し合えば 言おうとすることは通じるはずだと思って 隣人とともにあるほうを――その流れやたとえば津波にさえ流されるとしても――基本的にえらぶということだと思います。

 ただ この頃は――この今年に入ってからのことです――変わって来ました そう言えば。それを忘れていました。以前の通例として答えていました。
 この二月三月には わたしにとっては大きな事件がこの質疑応答の場でありました。いまこのように自分の考えを明らかにして発表しつつ情報交換をしているその営みのようなことについて 時が満ちるということが現われました。時が満ちたのです。
 したがって このように時が満ちたからには その転換のことをもしっかりと自己表現の中に表わして行こうと思っています。たとえば同じことの繰り返しになるようなら その対話を――それはもはや対話ではないと見限って――原則としてやめようと考えています。その実行にすでに入っています。たとえば ブロックするといったことです。
 そのほうが 相手は おのれの心に返り見ることになります。またそうしなければ 堂々巡りになります。つまり 実際問題としてもうかれこれ三・四年は 同じことの繰り返しや水かけ論のみをおこなって来たという事情があります。これを嫌い これを切ることにしました。

 ★ つまりブラジュロンさんの中では、天使とは聖霊の事であると決まっているのではないですか?
 ☆ これは 違います。聖霊は 神です。天使は み使いです。

お礼日時:2011/05/13 00:06

なるほど、なんとなくつかめました。

スピリトゥス、つまり神界と呼びうるような世界があって、それは世界に遍在していると。しかし直接的な経験はできず、かみの声、つまり天使によって間接的に認知されるだけだと。しかもそれは非思考のもので、いわば経験として与えられる。そして、その絶対なる神界からのメッセージを聞いて随うのであるが、なぜか苦境に導かれることがある。それを悪魔と呼ぶとする。(垂直の壁とは絶望的な状況と解釈しました。)

ここで疑問に思ったのは、何故神界を不可侵の絶対領域として認めるのであろうかという事です。
質問者さんはどうしたいのか、どうなりたいのか、と言うところも知りたくおもいます。
ある人々は神に近づきたい、と思うでしょうし、神界を経験したいとも思うはずです。
しかしブラジュロンさんは、あえてそこは不可侵の領域として、非経験の謎と設定されている。その意図は何なのかと言うことが気になります。

私の場合なら、神域は経験されるべきで、それを目指すという方が、しっくりきます。それは素晴らしいものであるのなら。

経験世界を超えているのに、遍在であるということもまた不思議です。遍在であるなら既に(その神界を)経験しているとさえ言えないでしょうか。経験されているが遍在であるために認知できない、そういうならばわかる気がします。透明は見えないが、色彩の成り立つ前提としてあるようなものです。神界は透明のようなものではないのか?

この質問におけるブラジュロンさんの方向性としては、悪魔に見えたものが実は天使なのではないか?ということを考えてみたいという事でよろしいでしょうか。
(悪魔が実は天使であったかどうかと言うことは、結果を見なければわからないともいえますが、)できることは、苦境に立たされているその時点で、自分がどうあるか、その時点で最善の選択をするということよりも、自分の有り様によって行く先を決定させるといった方が、よいでしょうか。

苦境に立たされると、いつもの自分ではいられなくなりますし、逃れたいという必死の思いに奔走することになると思います。ですがそうではなく、常に自分自身のあり方を確立して、苦境にあっても動じないということが、結果的に良い方向へ人を導くのではないかと思います。そのとき、自分には確かな天性、あるいは神性があったといえるのではないかと思います。そのようなことができる人は稀だと思いますが。。
 
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 二点ありますね。今回はどちらにも反論いたします。

 ★ ~~~~~ 
 ここで疑問に思ったのは、何故神界を不可侵の絶対領域として認めるのであろうかという事です。
 質問者さんはどうしたいのか、どうなりたいのか、と言うところも知りたくおもいます。
 ある人々は神に近づきたい、と思うでしょうし、神界を経験したいとも思うはずです。・・・
 ~~~~~~~
 ☆ 違う観点というのは こうです。天使をつうじてということになるのでしょうが 神は 神のほうからわたしたちに近づく。これです。この命題を持っています。なぜか? 
 神は 風のように吹くのですし 神はいつくしもうと思う者をいつくしみ あわれもうと思う者をあわれむ。
 からです。えこひいきするからです。
 そのためには 心がきよめられなければならなかった。心の清い人はさいわいだ 神を見る。ゆえに。


 ★ ・・・常に自分自身のあり方を確立して、苦境にあっても動じないということが、結果的に良い方向へ人を導くのではないかと思います。
 ☆ わたしの考えでは その情況その当事者たちにそれぞれ正面から向き合って その相手にきちんと向き合ったかたちにおいて言わば成り行きに従ってすすむ。これが 偉大な振る舞いであると考えます。
 その心は ともに――隣人とともに――その絶望の苦境から・つまり悪魔から脱出するのだという方程式にあります。
 《隣人を愛せ》に 神を愛することが含まれていると思うからです。
 つまり 苦境にあって 神を信じる者は 《動じる》のです。情況に沿って思いっきり動じます。揺れますし 悩みますし よれよれにまでなります。神がそのわたしを練り上げてくれます。ほどよい仕上げですよ。それでないと 純金はできにくい。でも 純度100%にまで行くと これまた 周りからけむたがられます。

お礼日時:2011/05/12 17:00

非経験の謎といわれているものがなんなのか、よくわかりません。

それが、未だ経験されていない事柄の事なのか、原理的に一生経験できない事柄の事を指しているのか、またそれが謎だといわれているところがさらによくわかりません。質問者としてはこれがキーワードになっているようなので、これを理解せねば問答もおぼつかないと思います。補足お願いできますでしょうか。

また、垂直壁と言う表現がありますが、これも良くわかりませんでした。ずいぶんと独自の世界を構築されているようですし、いきなりで理解するのは難しいと思いました。垂直壁という表現ですが、これについても補足お願いします。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~
 ( e ) 次の図式によっても説明しうるか? 《ことば》を《ロゴス》と言いかえている。

  ○ (ロゴスの階層) ~~~~~~~~~

  スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神

  ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________

  インスピレーション=ロゴス(β):異言
       :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ
       
  インスピレーション=ロゴス(γ):預言
       :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化
         :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?

  ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理
~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  ~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここで《天使(α’)》の横線の上と下とで 非経験と経験世界とに分かれます。非経験というのは 経験世界を超えているところという意味です。絶対=無限=不可変性などと同義です。
 人間が経験しえないところと言えば 《なぞ》です。


 ところが この相対的な経験世界を超えているということは――その想定にもとづくなら―― その非経験の領域は じつにこの経験世界を覆っている。包んでいる。あるいは つらぬいている。とまで言えることになります。つまり 神は遍在するという帰結になります。そういう問題もあつかっています。
 遍在しているそのナゾの何ものかが 仮りに声を発するとすれば それを人間の側が受け取るとき 言ってみれば天の使いというふうにも言ってみる。こういう主題です。
 ところが われわれは その天使の声によいことばかりを聞くわけではありません。悪いことを聞きますし 悪い情況つまり苦境にもあたかもみちびかれることがあります。その苦境に立ちはだかる垂直の壁 これのことをも悪魔と呼びたいのですし その情況にみちびいた声(ないしはたらき)をも悪魔と呼びたい。
 けれども ゆくゆくは(つまり その苦境の進展するにしたがって) この悪魔だと思っていた声は やはり天使であって 実際には神のみちびく手だったと気づくことがある。のではないか?――こういう問いを前にしています。



 ○ 垂直壁
 ☆ No.26補足欄で 悪魔をそのような情況のこととしてたとえたものです。《垂直壁》という言い方にしてくださったのは ok9608 さんです。=回答No.38。

お礼日時:2011/05/12 14:58

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

ヒドッチでございます。

> ★▼ 1)「自己責任」の現在の一般的用法・・・
 ☆ この場合の《一般的》という言葉には 困りました。わたしはあくまで誤用であると一般的に思われているものと思っていました。

 誠に申し訳ございません。出典の記載を忘れておりました。ソースを以下に示してございます。上から目線の「自己責任」を揶揄したものとなってございます。誤解を招く表現となってしまい、深くお詫び申し上げます。
http://www.jlp.net/letter/040615d.html (労働新聞からのものでございます)

 なお、イラク問題のときにも「自己責任」が叫ばれましたが、本家(?)の欧米人は、「なぜ、自国民の人質に対して、こんなに冷たいの?」と不思議がっていたのを記憶しております。
参考:http://www.geocities.co.jp/Bookend/4208/mm/mm34. … 

・そもそも、イラクへの入国を日本国が禁止したことは一切ないこと(外務省から、退避勧告は出ていましたが、退避命令は出ておりませんでした)。
・国民の生命と財産を守るのが国家の役割で、それを放棄されてしまいますと、国家不要論が出てきます。

 以上から、「自己責任」と一蹴するのは、おかしいと判断しております。

 そこで、ご質問者様の見解につきまして、愚見を述べさせていただきます。

> (1) すべての思惟および行動としての自己表現は それに答責性がともなう。

 “自由”、この単語は、福沢諭吉( or 西周)によって和訳されたものかと記憶してございます。freedom, liberal の語源は略させていただきますが、自らが由と(よりと)判断して、行動・発言することを意味しているかと考えております。
 従いまして、必然的に答責性が伴う、と解してございます。

> (2) その意味で 自己責任が 原則である。

 後述させていただきたく存じます。

> (3) 自己責任の範囲にあることは すべてそのまま自己が負う。

 はい。“人様でなく、自らが負う”、まさしく仰るとおりかと存じます。

> (4) 自然現象などの不可抗力が人びとの共同自治にとって支障をきたす被害をもたらした場合 これは公共のこととしてあつかう。

 このご見解につきましても、意見を等しく致します。もし、共同自治に住んでいる人たちが甚大な被害を被った場合、それを支えていくのが地方自治の役割かと思われるからです。もちろん、国家権力の乱用を防ぐためにも、住民が主体となります。

> (5) 原子力発電所にかんしても 住民が家屋に被害をこうむったことと同じように扱われる。さらにその放射能にまつわる第二次災害についても 同じである。

 原則、公共性の高い発電所に関しましても、当てはまると考えられます。ただ、「原子力損害の賠償に関する法律」というものがあるとのことです。原則、無過失責任が要求されているのだそうです。ただ、賠償額が巨大になりすぎますと、国が支援する、ということになっているようでございます(国が支援するのをシブッているようではございますが)。
 従いまして、東電と、国(最終的にはおそらく)が共同で補償していくことになるようでございます。

(無過失責任、責任の集中等)
第三条  原子炉の運転等の際、当該原子炉の運転等により原子力損害を与えたときは、当該原子炉の運転等に係る原子力事業者がその損害を賠償する責めに任ずる。ただし、その損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によつて生じたものであるときは、この限りでない。
(国の措置)
第十六条  政府は、原子力損害が生じた場合において、原子力事業者(外国原子力船に係る原子力事業者を除く。)が第三条の規定により損害を賠償する責めに任ずべき額が賠償措置額をこえ、かつ、この法律の目的を達成するため必要があると認めるときは、原子力事業者に対し、原子力事業者が損害を賠償するために必要な援助を行なうものとする。
参考:http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S36/S36HO147.html 

> (6) つまり 自己責任の原則を基礎として その上にさらには不可抗力の問題あるいは公共性の事実にかんがみる場合 連帯責任ないし原状復帰への連帯行動をも 同じく原則とする。

 自己責任、“self-responsibility”にもございますように、”self”が主体となっております。つまり、”self”を超えたものにつきましては、公共性鑑み、連帯責任・連帯行動が要求される、と解されます。

> (7) 法律が明示していなければ この原則にもとづきあたらしくつくることとする。

 ここまで、この言葉が独り歩きしてしまうのでしたら、新たに定義づけした方がよろしいかと考えております。


 そこで、(2)とも関係するのですが、何時ごろから、「自己責任」という言葉が出てきたかということでございます。

 以前は、「自分のケツは自分で拭け」、「自分のまいた種は自分で刈り取らねばならない」等の言葉がよく似た意味で用いられていたかと記憶しております。
 そこで、”自己責任”、“self-responsibility”で検索をかけましても、それらしいものがヒットしてこないのです。
 1999年には、既に見られていたようではございます。おそらく、銀行への公的資金注入の問題が生じた頃ぐらいかと思っているのですが、もし、ご存じでしたら、ご教示いただければ、幸甚に存じます。
参考:玄倉川水難事故(くろくらがわすいなんじこ)は1999年8月14日
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%84%E5%80%89% … 

 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ひどっちさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 どうもわたしは 世間で使われる自己責任という語の意味を誤解していたようです。
 責任があるから 自業自得であり 損害を元に戻すためのまたその処理をするための費用は自己負担である。こういう意味で言っているようなのですね その主張者は。
 
 わたしは 自己表現にはつねに答責性があるということ。そしてそれゆえ そのおのれの意志行為である(あった)という事実は つねに引き受けられているということ。――ここまでのことを言っています。
 あとは 不可抗力の事態や公共性の問題などの観点から その《自己》は存在の関係性(社会性)といった基礎の上で 連帯していると見られる場合が起きるということ。こう見ていました。

 ★ 玄倉川水難事故
 ☆ 被災者らは 災難に遭った本人としてまづおのれにその答責性を求めるのが ふつうだと考えます。その意味での自己責任は 原則であり しかも自然災害などの観点から――自己責任の原則を離れてではなく その原則の上にと考えるのですが――公共の支援や助け合いがおこなわれると見ます。

 ほかの場合も同じようです。
 ▼ (イラクにおける日本人人質事件) ~~~
 パウエル長官(2004年4月15日)

 ( a ) そうですね。誰でも、危険地域に行くことのリスクは理解すべきです。
 ( b ) だからといって誰もリスクを引き受けようとしなかったら、私たちには前進はなくなります。私たちは私たちの世界を前進させることはなくなるでしょう。
 ( c ) …ですから、私は、あの日本人市民が、より偉大な善のため、より崇高な目的のために、自己を危険に曝したことは嬉しいことです。
 ( d ) 日本人は、そのようなことを進んで引き受けた市民を持っていることを大いに誇りに思うべきです。
 ( e ) またイラクに派遣された、危険を引き受ける用意がある、あなた方の兵士のことを大いに誇りに思うべきです。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ ( a )から( b )へ話が移るときの考え方にはっきりしないところがあると考えます。
 ( a )は 答責性をともなう自己表現の行為を言っていると見られます。そのあと わたしの考えでは その意味での自己責任性を別の場所に置くということをしないで その原則に立って社会性の問題は捉えていくものと思っていました。
 言いかえるならこの場合には 《リスクを引き受ける》ことは 多少ともほかの人びとの同意を得ておこなうものだと考えます。
 ルモンドの場合は 
 ▲ 人道主義に駆り立てられた若者を誇るべきなのに
 ☆ ということですが この見方も わたしなら自己表現(あるいは文体)の原則の上に成り立つものと思うのです。言いかえると 少なくともその若者本人たちは おのれの責任を思うはずだと思っていました。つまり 国が人質状態からの解放を成し遂げることや人びとがそのために協力することも その自由文体という原則を互いに確認し合っておこなうことだとです。
 ですから 助かって帰って来たとき 《ちょっと危険を冒し過ぎたかも知れません。ご心配をおかけしました》と言っていれば 問題はないと思うのです。そのとき実際はどうだったか 記憶が薄れていますが 何だかぎくしゃくしたのではなかったでしょうか。
 ( c )は 《より偉大な善のため、より崇高な目的のために》の中身をどう考えるかで 人それぞれだと思います。一概に決まっているとは考えません。それは( e )の場合も同じだと思います。つねに主戦論と非戦論との両方の見方を考慮するほうがよいと思います。

 ルモンドによる評論として
 ▼ 解放された人質が「イラクで仕事を続けたい」と発言したことをきっかけに、「日本政府と保守系メディアの間に無理解と怒号が沸き起こった」
 ☆ とのことですが 怒号は別として《無理解》は 一理あると考えます。ほんのひとこと 《また人質になってご厄介をおかけするかも知れないのですが わたしの気持ちと考えとしては》とつけ加えて欲しかった。
 ▲ 「日本では人質が解放費用の支払い義務」
 ☆ これは 自由文体にもとづき いちおうその災難経験者たちに向かって言ってみるということだと見ます。支払えなければ 国民が負担しますよという意味でひとこと伝えるものと考えます。

 ▲ アメリカにしても、フランスにしても、たった一人になったとしても、言論と活動を通じて、justice を守りぬくことは尊いという理想があります(justice は「正義」と言うよりも、「公正さ」と訳すべきです。日本国憲法の前文では正当にそう翻訳されています)。フランスであれば、ヴォルテールやエミール・ゾラ、ジャン=ポール・サルトルという闘う知識人の伝統があります。
 ☆ これは 社会行動についての考え方の違いがあると思います。その公正さを実現するためには どう振る舞うのがよいかは 日本では臨機応変にするのがよいとわたしは考えます。一般には 根回しのようなこととして人びとの見方考え方を 水かさを増すように かたちづくって行く道をとります。
 杉原千畝の場合は 一人で行動せざるを得ないと判断したのだろうと考えます。ですから その決断は政府に背くという腹を決めてやったのだと思っていましたら あとで戦後になってなおもかれは 外務省職員の地位にとどまろうとしています。そこが わたしの考える自由文体という原則との違いです。背いたという自由行為を引き受けなくなっていると見るからです。
 ▲ 田中正造のように justice のために、孤独な闘争を続けた人もいます。
 ☆ ほかに道はなかったのかも知れません。直球勝負をつらぬいたのだと見ます。

 ▲ ~~~~~~
 日本人は「プロットを運ぶことばかり考えて」、「完結的」で、「自分が『わかっているところ』」でしかしないのです。観客は無視されています。日本人の「小ささ」はこうした自己完結性から生まれます。
 コンセプトさえしっかりしていれば、「むしろ未完のまま、理由づけされないまま、存在としての幅を広げてくれること」が望ましいのです。
 世界が求めているのはそういう姿勢です。
 その逆が正しいと信じているとしたら、国際社会にとってではなく、自分にとっての国際貢献でしかありません。

 人質になった被害者はイラクに「自分の手からなにものかを手離す」ことを実行してきました。それを「自分が『わかっているところ』」でしかしようとしない人たちが責めているのです。被害者に好意的なメディアでさえ、その判断を疑問視していますが、「自分が『わかっているところ』」でしか物事をしない認識に毒されている証です。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ これは 演劇や映画のコンセプトについての見解から広げて見た場合を言っていますが このように見て来たところから考えますと わたくしが言いたかったことは ただひとつです。無謀を顧みず自由文体をすすむ場合には 無謀を顧みる人びとも世の中にはいるのだと分かった上でやって欲しい これです。
 ところが確かに そこで・その上で分かっていることは そのように《いまやることは無謀だと自分で分かっていて しかもほかの人びとがそのように無謀だと心の内でも思っているしあるいは時にオモテに出しても言っているということ これも分かっている人間》に対しては 日本人の一般は もう相手にしないくせがあるようなのです。

 ということは どうなのでしょう。ひとりの素朴なスサノヲには その行動にも圧力を加えて押さえようとする勢力があるとともに それを評価する人びとがいるということでしょうか? 世界の趨勢は 後者である場合がしばしば見られるということなのでしょうか?
 わたしの考えでは 思想つまり社会思想は そういう文学的な自由さですすみますねと見ると同時に 理論は けっきょくアマテラス公民の(つまりは一般に社会科学の)立ち場にも立って 打ち出すものと考えています。スサノヲ市民およびアマテラス公民の全体観として言い出すものと考えていました。自己責任についても そういう観点から見ていたと思います。
 果たして わたくしは変わっているでしょうか?

 * 日本の社会民主党は 為政者の立ち場に立ってというよりは 社会思想家の立ち場からものを言っていると思います。素朴なスサノヲでしょうか。日本共産党は すでに現在において或る社会制度が潜在性としてでも現実であると見なした上で 為政者の立ち場に立っているように思います。その見なしは 現在の社会現実を飛び越してしまっていると思われます。

お礼日時:2011/05/12 06:43

文字の訂正です。


・私は次のように考えました。原書の言葉、スピリトゥスは、いわば原始的な言葉であり、云々→私は次のように考えました。原初の言葉、スピリトゥスは、いわば原始的な言葉であり、云々

・c)の返答部分、石と言う漢字を、意思にしてください。

・d)むしろことばがあり気で・・→むしろことばがありきで・・

誤字多くてスミマセン。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 了解。

お礼日時:2011/05/12 17:04

人間を中心に見て考えると、ロゴスの階層は、むしろラチオが最も高等であり、次に預言、異言、天使、そしてスピリトゥスと言うことになると思います。

なぜなら、ラチオ以下様々な言葉の種類は皆、ラチオによって解説されているからです。今話している言葉もラチオであるはずです。
私は次のように考えました。原書の言葉、スピリトゥスは、いわば原始的な言葉であり、強力なものだったとは思いますが、現代の人類が使うことばに比べればずいぶんと幼いものであったと。
その力は、ゴリラのそれに似て現生人類の言葉よりもパワーはあったかもしれないが。
このような考え方を持ちました。
故に、
a)内なることばと聞けば、それは想いであるのではないかと思いました。
b)堕落しうるというよりも、多様化しえるのではないか?
c)ここでいう命とは、感動の事ではないかと思いました。石が伝わることの感動、伝わらないという闇の中で、伝わるという光、そのように思いました。
d)神を何故ことばにたとえたか、むしろことばがあり気でなぜそれが神になったのか、と言うほうが私にはわかりやすい問いではありますが、その階層は、

神としての言葉               =原初の言葉
天使としての言葉              =少し文法や単語が生まれた段階
経験事象としての光なることば(ひらめき?) =言いたい事をずばり言う直感のようなもの
人間のことば                =現代の我々が使用している言葉。

e)その図式に同意するならば説明は成り立つと思います。
f)喩えば炎にもいろいろな色があるように、バリエーションが出たと考えることはできないだろうか。

以上が別の観点から見た解答になります。

もう一つ回答があります。それは、人が目指すそれについてです。究極、人はどのようなことばを話し、どのような体験をし、どのような振る舞いをなすものなのかと言う問いから見た、今回の設問における考えです。
この場合、ここで言われるスピリトゥスを目指すわけですが、天使の言葉はその前段階に当たるということで、静的な動体であり、スムースに進む乗り物のようなイメージです。完成された究極の相ではないにせよ、内的にはその究極の胚芽が見られるといったような様態です。これに沿うと、

a)それは思想ではないが、いわば航行する船における羅針盤のようなものであり、言葉や行為、経験などを導くそれであると思う。
 
b)むしろそれは人間のそれであり、つまり、なにか究極を目指して歩く人の生き方なのであり、堕落とは正反対に作用するものであると思う。この場合の天使は在るというだけであり、人堕落させることもないし、自らが失墜することも勿論ありえない。羅針盤は只指し示すのみであると知られる。
 
c)喩えを羅針盤の変わりに道先案内人とするならば、霊的な命はあるといって良いかもしれない。生命体としての命ではなく、生ける言葉としての命と言う意味で。どちらに進めばよいかわからない、何をすればよいかわからない、という暗闇の中で、それは確かに明かりであるといえると思う。闇夜に星々が輝く。人類はそれによって息を吹き返すとも言える。
 
d)言葉をブラッシュアップすれば大体はそのような階層分けのようなことも可能なのかもしれないが、(δ)に挙げられている人間のことばは、ここでは、常用の言葉と言い換えた方がよいかもしれない。

e)究極のそれがこの度の質問におけるクレドと同じかどうかはわからない。究極のそれは謎ではなく明らかであるはずであるから。次に、天使がロゴス(究極のことば)の使いであるかどうかであるが、それは内的なものであって、外から使わされたというよりも、むしろその人自身による、その人の内的願望、あるいは希望、あるいは望みから発生したものではないかと思う。だから、使いと言うよりは、子供と言う方がしっくりきます。子供は成長すれば大人になるのであり、その意味でも、使いと言うよりは子供の方が相応しいと思います。
次にインスピレーションですが、本質的な事柄を言い当てた言葉のことをインスピレーションと言ってよいのかどうかわかりません。ラチオについても、かならずも論理的であるかどうかはわかりません。感情的なものもあるだろうし、言いきれないと思いました。
 
f)もし仮に、道を歩くことだけで満足して目的に到達せずとも良いと考えた人があるとします。この人の歩みは歩みといえるものでしょうか?堕落についても同じで、ただ天使であることに満足して、キリスト教的に言うなら、神に仕えることに満足しないと考えた天使があるとしましょう。その天使が堕落したというのではないでしょうか?本末転倒したという事です。
大人になどなりたくないと言う子どもの様でもあるかもしれません。
傍から見れば十分大人であるのに、本人はおとなになりきれておらず、やんちゃばかりしている不良少年の類と言っても良いかもしれません。そしてそのままヤクザになった少年のような天使が、悪魔ということになるのではないでしょうか。どうして堕落して悪魔になったか?それはわからずやだったからです。勘違いのバカヤロウということになります。法を逸脱することではくがつくと思っている人たちと一緒です。究極を求めない人はさておいて、究極を一時は求めておきながら、途中の求めているだけで満足してしまい歩みをやめてしまうような修行僧と同じかもしれません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 人間を中心に見て考えると、ロゴスの階層は、むしろラチオが最も高等であり、次に預言、異言、天使、そしてスピリトゥスと言うことになると思います。
 ☆ すなわち《人間を中心に見て考えると》であるようです。

 すなわち次のように 人間という目から見てのことです。
 ★ ~~~~
 私は次のように考えました。原初の言葉、スピリトゥスは、いわば原始的な言葉であり、強力なものだったとは思いますが、現代の人類が使うことばに比べればずいぶんと幼いものであったと。
 その力は、ゴリラのそれに似て現生人類の言葉よりもパワーはあったかもしれないが。
 ~~~~~~
 ☆ すなわち人間の目が中心でありおそらく最高のものだという前提があるのでしょう。
 《スピリトゥス》は 《非経験》だと言っているのにです。それを《ことば》と言っているのは あくまで仮りの表現です。シルシとしての《ことば》が神ではありません。《神》ということばもほんとうの神ではありません。《神》という文字も神ではありません。k-a-m-i という発音も神ではありません。
 非経験なのですから 人間の能力では表象し得ません。
 それでも 人間はこの神を想定して 言語習慣の中でも用いています。その神が ただ一つの言葉にまとまってしまうと人は窮屈に感じますから たとえばそれを《無い神》と表わす場合も出て来ました。そういう事情として捉えたら いかがでしょう。

 あとは この事例に即して 《経験事象》と《非経験のナゾ》とをげんみつに分けて捉えてください。
 
 経験世界に属するもの:
 ★ a)《内なることば》と聞けば、それは《想い》であるのではないかと
 ★ c)ここでいう命とは、《感動》の事ではないかと思いました。《意志》が伝わることの感動、伝わらないという《闇》の中で、伝わるという光、そのように思いました。
 ☆ 《命 / 光》は 両様に使われています。経験事象としての場合と非経験を仮りに表わすための場合と。

 ★ b)堕落しうるというよりも、多様化しえるのではないか?
 ☆ ここでは悪魔=堕天使ということを主題としていますので 《堕落しうる》ということに絞っています。

 ★ e)その図式に同意するならば説明は成り立つと思います。
 ☆ ありがとうございます。

 ★ f)喩えば炎にもいろいろな色があるように、バリエーションが出たと考えることはできないだろうか。
 ☆ ですから 悪魔という主題に絞るということは 人生において遭う苦境のことを問題にしています。自分の前に立ちはだかるいわば垂直壁は 悪魔に見えるのではないかといった事態です。


 ★ もう一つ回答があります。・・・この場合、ここで言われるスピリトゥスを目指すわけですが、天使の言葉はその前段階に当たるということで、静的な動体であり、スムースに進む乗り物のようなイメージです。完成された究極の相ではないにせよ、内的にはその究極の胚芽が見られるといったような様態です。
 ☆ このように捉える視点は おおよそ上にわたしが述べましたその内容と同じ方向を向いていると思います。
 
 ただしその具体的な中身は さまざまな観点から考えられ表わされているようで 光が乱反射しているかに思いました。例示します。

 ★ e)究極のそれがこの度の質問におけるクレドと同じかどうかはわからない。
 ☆ クレドは 非経験なる神をわが心に受け容れるというその行為を表わした定義のしての言葉です。用語がふさわしくないとすれば そのように議論しますし そうでなければ定義として仮りでにも受け取ってください。

 ★ 究極のそれは謎ではなく明らかであるはずであるから。
 ☆ おそらくわが心においてつまり主観としては神は《明らかであるはず》なのでしょう。ただし一般の定義としては 非経験なのですからどこまでも《なぞ》です。それ以外にこの場合は考えられません。よ。

 ★ 次に、天使がロゴス(究極のことば)の使いであるかどうかであるが、それは内的なものであって、外から使わされたというよりも、むしろその人自身による、その人の内的願望、あるいは希望、あるいは望みから発生したものではないかと思う。
 ☆ おそらくこう見るのが 一般的ではないでしょうか? すなわち《究極のことばなる神の使いとしての天使は 純粋思想であって それがあたかも神の声として人にとどくことがあると捉えられる。そのとき この天使は 人間にとってすでにわが心の〈内的なものであって〉よいでしょう》と。
 《人の内的願望 あるいは希望・・・から発生したもの》は それとしてありましょうが もしそれが天使やましてや神のことだと言ってしまえば けっきょく人間の思いが天使であり神であることになります。矛盾です。非経験だと言っているのですから。

 ★ 堕落についても同じで、ただ天使であることに満足して、キリスト教的に言うなら、神に仕えることに満足しないと考えた天使があるとしましょう。その天使が堕落したというのではないでしょうか?本末転倒したという事です。
 ☆ もし天使が純粋思想であるなら それを擬人化してそういう堕落の物語をつくることも出来るかも知れません。たぶんそのときの問題は その堕天使が悪魔として 人にとっては苦境に遭ったときの垂直壁になるという事態をどう見るかです。そういうかたちで これまで問い求めて来ています。
 そこのところが いまひとつ腑に落ちるかたちでぴったりとした説明が得られていません。そのような状態です。

お礼日時:2011/05/12 12:51
←前の回答 1  2  3  4  5  6  7  8  9 次の回答→

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す