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 ( a ) 天使とは 純粋思想であり 純粋なる内なることばのことを言うか?

 ( b ) そのことばが 人間にかかわるようなものであるなら 堕落しうる。天使も堕落しうる。と。

 ( c )  つぎの文句のあいだに天使が位置するか? 1:4から1:5にかけてである。

 ◆ (ヨハネによる福音 1:1-5) ~~~
 
 1:1 はじめに ことばがあった。
    ことばは神とともにあった。
    ことばは神であった。

 1:2 このことばは はじめに神とともにあった。

 1:3 すべてのものは ことばによって成った。
    成ったもののうち ひとつとして ことばによらないものはなかった。

 1:4 このことばに命があった。
    この命は人を照らす光りであった。

 1:5 光りは闇のなかに輝いている。
    闇は光りをとらえなかった。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち 《1:4 このことばに命があった。この命は人を照らす光りであった。》というときの《命》もしくは《光り》としては すでにこの経験世界ないし人間の世界のことにも触れて言っていると思われる。《闇》(1:5)と言うなら すでに経験事象である。
 言いかえると 次のように位置づけるかたちである。

 ( d ) 神をなぜ《ことば》にたとえたかの問題でもあるように考えられることには 次のような位置づけである。

  ○ (ことばの階層) ~~~

  (α) 神としてのことば 

  (α’) 天使としてのことば

  (β・γ) 経験事象としての光なることば(ひらめき?)  

  (δ) 人間のことば

  ~~~~~~~~~~


 ( e ) 次の図式によっても説明しうるか? 《ことば》を《ロゴス》と言いかえている。

  ○ (ロゴスの階層) ~~~~

  スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神

  ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________

  インスピレーション=ロゴス(β):異言
       :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ
       
  インスピレーション=ロゴス(γ):預言
       :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化
         :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?

  ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理

  ~~~~~~~~~~~~


 ( f ) 問題は 天使が 永遠の霊的な存在であるなら どうして神に背き堕落しえたか? である。
 被造物ではないが 自由意志を持ち選択という行為をなす存在であるということだろうか?
 もし堕落したのであれば それが――そのうち特に神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者が―― 悪魔であるという規定になる。


 おしえてください。
 

A 回答 (81件中1~10件)

クライアントPCのユーザーがサーバの挙動の把握を経験し得る可能性は存在していません。



例えば、「此のサイトへの入力の際に、サーバの遠隔操作を為さっているのだろう。」
と若しかして誤解なさっているのではないですか?

あくまでも、クライアントPCの側での読み書きは、ブラウザーソフトウェア上だけでの出来事でして、画面更新の際にクライアントとサーバとの間で行なわれる通信は、ユーザーの経験に「全く」関わっていません。

そこで確認の為に伺いますが、何故に無関係なのかを既に理解出来ていますよね。

因みに、最近の日本では、多くの小学生達が是を理解しています。
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この回答へのお礼

 分かりません。小学生以下です。

 もしどうしても コンピュータの理解から始めて 神ないし天使の問題とからめるという順序を取るというのでしたら それは ご自分でそういう質問を立てて情報交換をなすったらよい。
 順序が このわたしの質問では 逆です。

お礼日時:2011/05/23 00:17

ターミネータとかマトリックスとかの映画で極端乍らも描かれています通りに、電力供給とか接続関連のメンテナンスとか利用料金の回収とかが必要になっている事情を除きますと、ネットワークの現状維持には、最早、人間の存在が要求されていません。



つまり、既に【人間が関与する低俗な領域】を、
「通信ネットワーク」は超越しつつあるのです。
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この回答へのお礼

 その超越と 非経験の領域とは 別だと 口を酸っぱくしてお伝えしつづけています。

お礼日時:2011/05/22 01:04

例よって、質問者が教えようとなさる、という本末転倒が起きつつありますが、私の側での説明の不足が多過ぎるからなのかも知れませんから、追加の補足説明を致します。



そもそも、神もが「繋がり(ネットワーク)の【管理者】」になってはいけません。

但し、プロトコルはサーバが開発される誕生の前から、
サーバによる経験に先立って存在しているとは言えましょうから、
其の意味ではプロトコルが神の象徴なのかも知れません。

そして、プロトコルの裏をかく「ポイスニング」の犯罪の存在が、
是迄にも報告され続けてきていますので、そういう意味では、
堕落の恐れもが潜んでいる、と言えます。

確かに、プロトコルはあくまでも「規格」に留まっていまして、繋がりの仕組みを保たたせるだけですが、ネットワークへの参加の為の開発の基準を、【OSI参照モデル】のプロトコルが開発者達に教え諭しているのかも知れません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%97% …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AC% …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%83% …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A9% …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%83% …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%BC% …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E7%90%86% …
http://ja.wikipedia.org/wiki/OSI%E5%8F%82%E7%85% …

この回答への補足

 そろそろ閉めようと思っています。

補足日時:2011/05/21 08:19
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この回答へのお礼

 ★ 質問者が教えようとなさる
 ☆ これは 誤解です。これまでにそういう振る舞いがあったとしても それは 互いに問い求めの同じ出発点に立ちたいというための質問者としての務めです。務めとしておこなっているものです。 
 しかも 今回は 単に質問の焦点はどこにあるか。これを明らかにしたまでです。とうぜんだと考えます。
 
 このところ じどうしゃがいしゃさんからの投稿は この問いで問い求めるところとは 筋がずれています。そのように指摘したまでです。


 ★ そもそも、神もが「繋がり(ネットワーク)の【管理者】」になってはいけません。
 ☆ これはあまりにも 不用意な発言ないし考え方です。《神》を出すのに こんな漠然とした持ち出し方はないと思います。定義の問題としてはです。そうでなければ 雑談のたぐいになります。
 あるいはひょっとして ネットワークのことに詳しくないからそのわたしが 汲み取れないだけかと思い直すなら それでもまづはしっかりとした初めからの定義のもとにひととおりの仮説を述べるのでないと それは通りすがりに顧慮されるに終わっても仕方がない問題提起だと考えます。
 おそらくこの判断に大きな間違いはないでしょう。そこのところをしっかりと受けとめさらに 持論を展開していただくよう願います。

 ☆☆(No.80お礼欄) ~~~
 (あ) 神は非経験です。

 (い) おのぞみなら 神は遍在すると言えるのですから すべてに通じていると捉えたら どうでしょう。
 
 (う) 神を何か特定のひとつのことに取り決めることが まちがいでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この(あ)と(い)とのふたつの側面が 同時に言えるというのが 神の存在=(あ)であり それに伴なわれる属性=(い)です。

 たとえばこの命題と絡み合わせて 論じるのでなければ 筋が違っていると見えてしまいます。
 次に 例証します。

 ★ ~~~~
 但し、プロトコルはサーバが開発される誕生の前から、
 サーバによる経験に先立って存在しているとは言えましょうから、
 其の意味ではプロトコルが神の象徴なのかも知れません。
 ~~~~~~
 ☆ この場合の《経験に先立って存在している》というのは その形相つまりアイディアとして人間の頭の中にはもともとあったのだということを意味しているはずです。
 神は それらすべての経験事象を超えている。と同時に それら経験事象のいづれに対しても 遍在しているという捉え方もされ得る。こういう見方を 提出しています。
 この見方に絡めて 説明して欲しいという要望を出すと 質問者が教えることになりましょうか。

お礼日時:2011/05/21 00:32

プロトコルへの認識が経験され「得ない」様に作られているからこそ、


其の仕組みの喩えが妥当なのだろう、と言えます。

そもそも、辿られるべき経路は、ユーザー側で認識されない処か、
中継のノードによっても認識され得ず、隣接部位だけが分かる様に留められています。

余りにも理解が杜撰過ぎます。
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この回答へのお礼

 あまりにも神を無みしすぎます。

 ( f ) 問題は 天使が 永遠の霊的な存在であるなら どうして神に背き堕落しえたか? である。
 被造物ではないが 自由意志を持ち選択という行為をなす存在であるということだろうか?
 もし堕落したのであれば それが――そのうち特に神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者が―― 悪魔であるという規定になる。


 おしえてください。

お礼日時:2011/05/20 18:44

#75の続きです。



先ず、若し神をネットワークの外部へ配置するのでしたら、
ネットワークは破綻します。

そして、たとえ「サーバとユーザーのクライアント群との連絡を取り持つ【プロトコル】は神なのだ」と見做しましても、別の大きな問題の存在が直ぐに明らかになります。

つまり、プロトコルは文字通りの約束事に留まっていまして、閃きの提供を期待させてはくれないのです。

(※各プロトコルに準拠した製品を拵えませんと、他社製のサーバとの通信を致せませんから、企業が自社の製品の売れ行きを伸ばす為に、OSI参照モデルのプロトコルに準拠させて、PC関連の製品群が開発されています。)

従いまして、現時点では、勇み足の状態に過ぎないのかも知れません。
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この回答へのお礼

 ★ 外部
 ☆ というのは どこまで言っても 経験世界におけるどこかの場所です。神は非経験です。


 おのぞみなら 神は遍在すると言えるのですから すべてに通じていると捉えたら どうでしょう。

 神を何か特定のひとつのことに取り決めることが まちがいでしょう。



 もし仮りに 神を経験世界における何のもかにでも決めるのでしたら そのような仮説なり理論なりをまづ提出してからの話になります。
 コンピュータやインタネットの世界で 神のことをめぐって話をするのはあくまで たとえ話としてです。
 それをもくつがえすというのでしたら それなりの見方を出して話をすすめてください。
 同じことの指摘は もう飽きました。

お礼日時:2011/05/20 10:42

サーバから率先してクライアント側へのアクセスを試みさせて貰えない、


という事情を皮肉った冗談プロトコルもが策定されています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/Hyper_Text_Coffee_P …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E9%A1%9E% …
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この回答へのお礼

 ありがとうございます。

お礼日時:2011/05/19 05:28

初めに有りし約束事は何なのでしょう。

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この回答へのお礼

 りとるきっづさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 うん?
 ★ 初めに有りし約束事
 ☆ ? いやいや そんなものありませんよ。あるって誰が言ったんですか?
 
 あぁ それとも モーセのときの十戒やらその前のアブラハムとの契約の話ですか?

 それなら アブラハムの《約束事》が先ですから それについて述べますが でもずいぶん何度か書いたはずなんですが。
 でもそれは オモテに現われたこととしては 《父祖の地を去って 行け》という声を聞いたということです。75歳だったそうで けれどもどこかはっきりした土地を示されたのではなく 分からないままとにかく去れという声に従ったという話です。ここから 《信じる》という行為が――おそらく人類にとって歴史的に明確なかたちでは初めて――始まりました。

 この信仰の中身を たとえばむさぼるなかれといったように戒めとして モーセのときに言葉として表わされたという歴史がつづきます。
 さらにそのあと歴史を経て イエスという男は 自分はこれらモーセやアブラハムより前にいたのだと言い出しました。その信仰の動態が 一人ひとり《わたし》の生きることにおいて実現したよとも言いました。

 イエスの前には そのような実現は無理でした。むさぼるなかれなどの戒めを生涯きちんと守ることのできる人間はいなかったからです。
 パウロは これを説明して その存在じたいが完全になったのではないが その信仰の動態をあゆむその過程は たとえ脱線したとしてもただちに復帰できるかたちにおいて〔過程をあゆむこと自体としては〕すでに完全であると言いました。つまり イエスの十字架上のはりつけとその後の復活〔のうわさ〕によってそれは実現したと宣言しました。

 ★ 初めに有りし約束事
 ☆ というのでしたら そういう話になると思いますが 果たしてお応えできましたでしょうか。


 * 初めにあったのは 《ことば》です。それと《わたし》との関係が・つまり約束事が アブラハムの時に起きたという物語です。

お礼日時:2011/05/18 17:42

厳密な訳語に気付きました。



「初めに言葉成りませり。」
という表現こそが原義に近似しているのかも知れません。

つまり、【高天の原に成りませる神】と同じ見方です。
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この回答へのお礼

 《成る》というのも 経験事象に とうぜん当てはまります。
 それを非経験のシルシとして成り立たせるのは  おそらく次に出て来る《神》などの語ないしそれを取り巻く全体としての物語の性格にあるでしょう。

 ★ 【高天の原に成りませる神】
 ☆ については たとえば その神が
 ● 独り神に成りまして 身を隠したまひき。
 ☆ でしたか そういう表現で中身を吟味させようとするまでの文章としての力量はありますが 総合的に言って 非経験のナゾの何ものかについてその文章のままで指し示すところは きわめて薄いと考えます。
 
 アマテラスは お日さまのことです。
 オホモノヌシ(物)とヒトコトヌシ(事・言)のそれぞれ神という表現については モノの究極としての物質や精神ないし概念の究極としてのイデアのようなものを想起させていると採れば採れないこともないようではあります。そのつてで 取りようによっては 非経験のナゾについて解釈が出来なくもないと思います。
 ですが 総じて言って 記紀神話だけによっては 発展がその力にとぼしいと見ます。

 経験世界と非経験とを峻別してください。また そのように峻別したかたちに解釈しうる文章表現を問い求めるべきです。
 一文だけでは 用を成さないとも考えられます。

お礼日時:2011/05/18 16:22

失礼を致しました。


更にもう1つの情報の追加が必要でした。

ブロードキャストの場合には、TVの配信と同じく、
受信側がキャッチ出来ているのか否かの確認をしていません。

其の際に使われるプロトコルは是です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/UDP
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この回答へのお礼

 直前のお応えにて 礼を失するとは考えません。

お礼日時:2011/05/18 16:10

すみません。


私の勇み足なのか、微妙な修正が必要です。

そもそも、「布教」と申します行為の喩えは、恐らく「サーバ(神様)へのアクセスの為のアプリケーションソフトの【無料配布】」に相当するのだろう、と思われます。

現在には私達が当たり前の如くにインターネットへのアクセスの権利を行使させて貰っていますので、通信費を期日迄に支払っていますと、中々気付かれ難いのですが、インターネット接続(ウェブブラウジング)の為のブラウザソフトウェアは、昔からインストールされていたのではなく、昔のPCの中には存在していませんでした。

従いまして、最初にインターネット回線のサービスが提供された頃には、それを利用する為に、「様々なソフトウェア・ハードウェアの意図的な【追加】」が必要になっていました。

とすると、それ等の流布の際に「【初期不良品群】の混入」もが有り得たのではないでしょうか?

そして、もう1つです。

ユーザーのクライアントPCの側ではウィルス・スパイウェア等からの侵略を防ぐべく、空きポート番号を隠す為に、毎回にポート番号を変更させていますので、どの番号のポートが開放され得るのかはサーバ側から分かりませんから、無謀なブロードキャストが出来ないのです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 ですが 残念ながら 同じお応えになります。

さて おそらくコンピュータないしインタネットの仕組みとの喩えでは ぴったりときれいに当てはまっているのであろうと思われます。
 それと 神とわれとの関係にかんしてどう捉えるかについては 微妙に違うところも見られる。こういう結論に行き着きます。

 わたくしの立ち場からのみ捉えるなら こうなります。
 《天はみづから助くる者を助く》ということわざに即して考えるなら どうなるかから出発する。
 けっきょくこれまでの説明を受けて理解したところによれば こう考えられます。

 1. サーバは 神ではなくて 人間とその社会としてのいとなみなる経験世界に属している。

 2. 神は 天のほうである。その神は 《無い神》でもよい。

 3. つまり 《みづから助く》という行為が 人間のつくったサーバなり何なりを含むそのネットワークの全体にかんする取り扱いに及ぶものだと見られる。

 4. 無い神にしろ神にしろその天が そのような人間たちのいとなみを見守っている。

 5. 無い神つまり無神論の場合には そういう《無い神とわれとの関係》としては 有神論と同じ類型において非思考すなわち信仰という心の場も持ち合わせているが その信仰類型を一たん確かめたあとは もうその《無い神》にはこだわらない。

 5-1.せいぜいが いま取り上げていることわざやあるいは《人事を尽くして天命を俟つ》というようにたとえば《天》で言いかえるのが ふつうのようである。

 6. 有神論としての信仰の場合には むろん同じように人事を尽くすのであるが そのあと天命を俟つというかたちでは必ずしもないかも知れない。それには ふたつの見方がある。

 6-1. ひとつには 人間の能力と努力には限界があるとつねづね思っている。もともと《天命》には勝てないと思いつつ 能力を最大限に発揮する。人事を尽くすと言うよりは つねに――おのれの能力が磨かれて発達することもあれば情況が絶えず変わっていることもあり 全体としておのれの境地が高められることがあるとともに――振る舞い方や問題への対処の仕方も変わるはずであるから 《尽くし切る》ということはむしろないという前提に立っている。
 その務めあるいは人生としての仕事について局面は変わり段階を踏むことになりステージも移って行くであろうから そのつどの一幕ごとに区切られた個別の仕事もあると考えられるが そして人力に限界があると思っているにもかかわらず おのれの務めを尽くし切るということはないとも思っている。

 6-2. ひとつにはぎゃくに見ることになるが すでに《走って来た》という自負があるときには むしろ天命を俟つと言うよりは 神に対してその走って来たことの結果を堂々と催促すると言ったほうが 合っている。ただし けっきょくのところは つねに天命に俟っている。
 すなわち基本的に天命に俟ちつつしかも 具体的な個々の天命を俟つというよりは おのれの務めの成果を求めて神に請求書を出す。しかも上の観点をここに加味すれば 務めの終わりという意味での仕上げはない。

 こんな感じでしょうか。今回は大胆に述べています。


 そうですね。
 理神論という思想がありました。アダムスミスの経済学は その考え方に則っているとも言われます。
 簡単に言って 一人ひとりがむしろ利己的に経済活動をおこなうなら その結果こそが――《見えざる手にみちびかれて》―― 社会全体の効率をよくし利益をも増すのだという自由市場経済の説明にあるものです。
 言いかえると 市場経済に《一元的な管理者を存在させていない という仕組み》こそが 《見えざる手》の解釈としては 神の配剤によるのだということでしたでしょうか。

 よく似ています。インタネット回線のその世界大の仕組みについてと似ています。

 どうなんでしょう? 
 スミスは はっきりと《神》とは言っていないかも知れません。《 the Invisible Hand 》とのみ言っているかと思います。ただし理神論を信奉していたらしい。

 どうですかねぇ。
 ★ 【認識されていない神】の介在を連想させてくれている、と言えそうですか?
 ☆ うっすらと言えるかも知れませんかねぇ。ただそれは どうも《認識されていない》という規定において 《非経験》のことを示唆しているゆえに そうであるだけなのかも知れません。
 
 結論:そのように《連想させてくれる》かも知れないが 特筆大書してそう規定するものでもないと思われる。

 ですかね。さらによい見解がありましたら お寄せください。

お礼日時:2011/05/18 16:09
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