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江戸時代の三大飢饉の享保、天明、天保の飢饉の正確な死者数が知りたいです。享保は1万2,500人ぐらいだと思うんですが、他の飢饉の死者数が地方ごとの死者数は分かっても全体の死者数はあいまいでよくわからないんです。

A 回答 (2件)

残念ながら正確な数字はムリです。



当時はまともな統計がない上に(そもそも日本全国の人口だって怪しい)、伝聞による死者数の増加、
記録すべき人間すら死んでしまったというような状況である上に、
飢饉の後の疫病やなんかまで一緒くたになってしまっていますので。

例えば天明の大飢饉で仙台藩の餓死者数は40万人と記録されていますが
これはあまりにも数が多すぎますし、

享保の大飢饉で『徳川実紀』によると「すべて山陽、西国、四国等にて餓死するもの96万9千人」とありますが、これも本当かどうかなどまったく不明です。

寛政の飢饉で京都での死者が8万2千人という資料がありますが、
これも禅僧雲泉大極の『碧山日録』に、
「洛北の僧が木片の卒搭婆を8万4千作り、死体に1つ1つ置いていったところ、2ケ月で残り2千になった」
という記述がよりどころですので、実数は誰にもわかりません。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。ここに質問するのは初めてでしたがこんなにはやく答えが返ってくるとは思いませんでした。

お礼日時:2003/10/02 14:51

下の方が回答されているように、当時正確な死者数を出すことは困難であり不可能であったとされているので、文献の別やその記録によって諸説あり現在に至っても正確な数字は出されていません。



死者の出し方にしても餓死者と疫死者を一つとして出すか、餓死者のみとするかという点でも別れており、餓死者と疫死者を見分けがつかなかった場合もあるので仮に数字が出ていてもそれが正確なものとは言えないでしょう。

というわけで、ここからはいくつかの諸説織り交ぜて回答させて頂きます。

まず享保の大飢饉ですが、この死者数には二つの説があります。文献『虫附損毛留書』及び『日本災異志』によると全国の餓死者12,172人とあるのですが、『徳川実記』によると96万9,900人とされています。当時の飢民数が265万人とされていますので、後者『徳川実記』の96万9,900人という数字もあながち間違いとするものではないと考えられています。

天明の大飢饉における死者数はこれまた説が分かれており、死者は6万人(一藩で数万から30万人以上の死者を出したところもあるとの記録があるので、この6万人は信憑性が薄いですが)とも90万以上100万人近くであったともされています。が、松平定信が残した記録によると天明4年から5年にかけて全国で140万人の死者があったとされています。天明の大飢饉は天明3年から6年(または7年)にかけてですから、この記録を正しいとすれば予想するに200万人規模で死者を出したと考えられます。

最後に天保の飢饉ですがこれも曖昧なものが多く諸説あるのですが、一説には10万とも20~30万人ともされています。しかし東北だけで数十万の死者が出たともされているので、これによれば前者は否定されることとなりますので一概にどららが正しいとは言えません。大体にしてですが、この飢饉の惨状を紹介する際に用いられる死者数は後者の20~30万人とする場合が多いようです。
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この回答へのお礼

享保の飢饉の一万と九十万はすごい差ですね。ありがとうございました、課題研究に役立てます。

お礼日時:2003/10/02 14:48

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