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文系の出身ではないのですが,最近,古代史に興味を持ち始めました.日本には,もともと縄文人が独特の狩猟(加えて,栽培・農耕)文化を持っていたようです.あとから,稲作をする弥生人が移住してきたようです.大事件だったはずです.北九州の弥生遺跡では,弥生人同士の争いのあとはありますが,縄文人・弥生人は大規模な戦争をした様子はなく,どうやら平和的にゆっくり混血していったようです.後から来たものが先住者を殲滅することの多いヨーロッパの歴史とは大きく違うようです.不思議です.稲作は徐々に日本中に広まって,青森の縄文遺跡でも稲作のあとが発見されたりしています.日本人は,混血・雑種民族のようです.おおきく同じ文化・言語で暮らしていますが,西日本と東日本で異なる習慣・文化も息づいています.基本的に争いを好まず,忍耐強く,ものを大切にする暮らしを続けてきました.日本人(日本民族)がどのように形成されてきたのか,なぜ弥生人と縄文人が平和的に統合されていったのか,同一言語をもった雑種形成がうまくいったのか,その後の日本文化・国家の形成にどのような影響を与えたのか,世界史のなかで,それはどのような特徴をもつことなのか,わかりやすく解説した歴史書はありますか?そのようなことを研究されている大学・学者はいらっしゃいますか?まったく素人ですが,勉強してみたいです.

A 回答 (6件)

お役に立ちそうにはありませんが、感想を。



私も縄文人から渡来人の影響をうけて弥生人になり 古墳時代を経て歴史時代になっていく過程の明細を知りたいと思っています。
 池橋宏、中橋孝雄の人口増加シュミレーションによりますと 渡来人が極少数派であっても 縄文人より増加率が高ければ1000年もたてば縄文人人口と比較できそうです。BC1000までは縄文時代であって それ以後 稲とともに渡来人が何回かに分けて渡来してくればAD0年前後では 縄文人並の人口になっていてもおかしくないという説です。崎谷満はY遺伝子に注目しています。縄文人をD2遺伝子と認め、O2b、O3を渡来弥生人と認めていますが 現代日本人男子の40%がD2(縄文系)、40%がO2b、O3となっています。
 が多くの疑問があります。例えば 弥生渡来人が着始めて3000年が経とうとしており 弥生人、縄文人の増加率が昔からかわらなければ縄文人は圧倒されていなければいけない と思いますが そうなってないのです。両者の人口が拮抗したとき 人為的に縄文人を増加させたのでしょうか。南米ペルーのY遺伝子を調べたところ80%はヨーロッパ系のようです。外観はインカのインデアンですが遺伝子は違うのです。ヨーロッパに攻められた経緯はありますが500年で圧倒されているのです。
これは理解し易いように思います。
日本の場合 渡来人がやってきて 何が起きて歴史時代に入って行ったのか これから徐々にではあるが 学者先生中心に謎が解かされて行くのではないでしょうか。私の趣味の範囲では とにかく新しい本に注目することと思っています。新発見は
一挙に根底からシナリオが変ることがある と思っています。

以上失礼しました。
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この回答へのお礼

貴重なご回答ありがとうございます.お礼が遅くなり恐縮です.渡来人が100万人単位でやってきた,という言説もあったようですが,遺伝的に日本人が,中国大陸・朝鮮半島とかなり異なっている(雑種)点は,注目すべきだと思います.決して縄文人は圧倒されていないようです.南米のインディオは,武力的に迫害されただけでなく,ヨーロッパから持ち込まれた麻疹(はしか),梅毒など,未経験の感染症に蹂躙され,遺伝的にも圧迫されてしまい,それら感染症に対して生き延びてきたヨーロッパ人の遺伝子をもった混血が優位に生き残った,ということでしょうか.「縄文人」「弥生人」などという分け方にしても,かなり乱暴なくくり方なのでしょう.北海道・東北は,土器・骨角器などにしてもシベリア・北方アジアの影響が強く,寒冷で稲作が遅れたこともあり,続縄文文化が長く残りました.しかしそれは単なる本州・西日本の縄文文化がそのまま取り残されたものとはちがうようです.一方,沖縄・琉球列島も,独特の琉球文化がありますが,稲の生長に大切な夏に台風の被害があることから稲作の定着は遅れました.稲作が文化のバロメーターという旧来の見方がありますが,続縄文文化や琉球文化は,西日本の弥生文化に比べ「遅れたもの」とは違うと思います.北方系民族,南方系民族,縄文人,大陸系弥生人が平和的に徐々に混血し,「単一民族」などという幻想まで抱くようになった日本史のユニークさは,興味が尽きません.

お礼日時:2011/05/11 20:24

あるサイトから見て来た内容ですが。




弥生人は、西暦に入り極南が九州に入りその後、東へ移動する際に高地性集落を作り移動したようです。この時期が倭国の大乱と呼ばれた時期だそうで、関東の句奴(毛野・・縄文人)が流入を阻止するべく立ち上がるそうです。弥生人は道教を信奉し登仙を行う目的で本州に入り込んだとの事です。この難局を乗り越える為女性王が立てられ卑弥呼が、魏に助けを求め休戦に漕ぎ着けたそうです。弥生人は、中部地方には土岐(都支、トゥキ・・杯の意味)国より展開したそうです。東海三神山が登仙先で、三河(参河と呼ばれる)地方の現鳳来寺(蓬莱)、石巻(エイ州)、本宮(方丈)であるらしく、古代弥奴(美濃)まで伊勢海が入り込みそこから船出して文身国経由して(古代東山道)徐福の大漢国から信仰の山に登ったらしいです。外洋航海船を用い小人国(現パラオ)や裸国(現パプアニューギニア)まで貝銭貿易したそうです。

女性が多くて、女性を信仰もし規則が厳しく集権国家を嫌った為、縄文人は日本での共同支配者として弥生人を捨て朝鮮半島の騎馬民族を選び、東海地方、東北地方の弥生人を味方に付け350年の10月14、15日に当時水の都の邪馬台国(ヤムトェ・・栗の産地の意味)を滅ぼし残党を九州北部で破り恭順した者を日田に住まわせたと言います。捕らわれた邪馬台国の王は銅鐸の神(兵主神、しゆう)に祈るが処刑されたそうです。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなり、たいへんもうしわけありません。北九州で、弥生人同士が争った形跡はあるのに、弥生・縄文人があらそい、ジェノサイドがあったあとがないのは、ふしぎです。騎馬民族説、魅力的ですよね。それにしても、腐りやすい馬具はともかく、ほかの騎馬民族の遺跡から出るような、馬・騎馬文化に関する遺物が、圧倒的にすくないのが、疑問です。

お礼日時:2011/06/13 21:03

竹内文書、竹内文献でお調べ下さい。



>本には,もともと縄文人が独特の狩猟(加えて,栽培・農耕)文化を持っていたようです.
どうも、この定説が嘘ぽっい。

>日本人は,混血・雑種民族のようです.
純血はいるのではと思います。
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この回答へのお礼

お礼が大変おそくなってしまい、まことにもうしわけありません。貴重なご指摘、ありがとうございます。たしかに、縄文人は、均一だった、とするのは、あやうい考え方かもしれません。日本の国土では、なかなか人骨がのこらないのですが、2万年まえの港川人の人骨は、典型的とされる縄文人の人骨とおおいに異なる点があるようです。縄文人も1~2万年かけて、中国南部、東南アジア(スンダランド)からの流れをもとに、徐々に形成された可能性があるでしょう。さいごに、朝鮮半島を経由して、寒冷地適応した北方アジア人が流入し、弥生・縄文の混合がおこった、ということでしょうか。しかーし、なぜ平和的に混合していったのか。九州北部で、弥生人同士の戦闘のあとはあるのに、縄文人とあらそった形跡はなく、むしろ人類学(頭蓋骨形態、ミトコンドリア遺伝子)的な見地からは、積極的に混血し、農耕(稲作)による生産性にすぐれた弥生人の遺伝的形質がじょじょに優位になった形跡があるらしいのです。いったいまぜ、日本では、ジェノサイドがおこらなかったのか。

お礼日時:2011/06/13 20:59

大学で考古学、それも縄文時代を専攻していました。


そのときに学んだのは

縄文時代は、ドングリ類をとって食べたり、魚を捕ったり貝を採ったりがメインで、
プラスして、狩猟していたと考えるほうが自然です。
野生の動物を捕まえるなんて、常時安定的には難しいですよね!

その後、コメが入ってきて、主食を作ることを覚えたので、ドングリ+魚 の食生活が、
コメ+魚 に変わったと考えるほうが自然です。まさに今の和食そのもの。
だから、縄文人と弥生人が争うなどということではなく、ごく自然に時代が移ったのだと思います。

という視点で、何かよい本を紹介できればよいのですが、何せ学生時代に読んだのは
専門書ばかりなので(当たり前ですが…)、これといって思い当たらず、すいません。

時間があれば、一度博物館にでも行かれることをお勧めします。
縄文遺跡のある地域には、たいがい、立派な博物館がありますので。
ご参考になれば。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます.日本の国土の恵みを利用して,採取・漁撈・狩猟を行っていて,スムースに米作も加わったのですね.

お礼日時:2011/05/07 15:16

私も同じような疑問をもっています。


時間はたっぷりあるので近くの図書館で調べているのですが、まだまだよく解りません。
キーになるのは、「水田稲作」と「信仰・神」だと思いますので、今もいろいろ読んでいます。
すでに読まれているかも知れませんが、素人の私でも理解できた数冊をご紹介します。
新しい発掘や発見が続出していますので、その成果を反映した近刊がよいのではないでしょうか。

『稲作渡来民 日本人成立の謎』 2008年4月発行
http://www.kojinkaratani.com/jp/bookrv/bkrv4.html
http://booklog.kinokuniya.co.jp/hayase/archives/ …

私の読書メモには、
「一度に渡来した人数が少ないと在来民の中に飲み込まれてしまうはず、が結果としては、渡来人は人類学的形質を置換するほど大きな変化をもたらした、なぜか」
と書いています。

『農耕社会の成立』 2010年10月
http://www.niaes.affrc.go.jp/magazine/128/mgzn12 …

「その後の日本文化・国家の形成にどのような影響を与えたのか」については,
「神道」が果たした役割は大きいと思います。
神道は、私には取り付きにくい分野ですが、何とか読むことができた1冊です。

『神道と日本文化』
http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode …

私の読書メモには、
「約1万年前くらいから同じ土器、南から北まで出土。等質の同じような人が住んでいたと考えてよい。弥生時代を迎えたとき瞬く間に稲作が列島に広がるということはやはり同じ言語、同じ世界観、宗教観、生活様式そういうものを共有していたから。年という言葉の原義は稲の実り。神道の古い祭・祈年祭は豊作を祈願する祭、稲は一年に一度できるのでそのサイクルを年という言葉で。古い祝詞では稲は奥津御年オクツミトシと年に敬語をつける」
と書いています。
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この回答へのお礼

ご丁寧な回答ありがとうございます.渡来人は,やはりあるていどまとまった人数がやってきた,と考えてよろしいでしょうか.縄文時代から,日本海側を中心にさかんな交流の後(糸魚川で産出された翡翠が北海道でみつかったり,伊豆諸島産の鉱物が交易されていたり,沖縄の貝殻が東北で見つかったり,黒曜石が遠く運ばれていたり)があるようですね.わたしたちの想像以上に国内の交易,平和的交流がしっかりあったようですね.

お礼日時:2011/05/07 15:13

●日本人(日本民族)がどのように形成されてきたのか,なぜ弥生人と縄文人が平和的に統合されていったのか


○それは日本考古学における最大のテーマのひとつであり、それを解明するためにさまざまな研究・論争が行われています。従って現在では答えは出ていませんし、乏しいデータから推理する以上、「定説」は完成しても「答え」は得られないかもしれません。
「定説」は新たな資料、学説によって覆ることもありますし、定着する場合もあります。

●そのようなことを研究されている大学・学者はいらっしゃいますか
○人類学の研究者や縄文時代末期~弥生時代初期を研究対象にしている研究者すべてです。

●わかりやすく解説した歴史書はありますか
○最近だと講談社発行の「日本の歴史」シリーズがよいかもしれません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます.「日本の歴史」探してみたいです.

お礼日時:2011/05/04 19:07

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