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半済令の発布は観応3年(1352)に足利義詮によるものが最初とされていますが、足利尊氏は、六波羅を陥落させた前後から、京都周辺・畿内の荘官層に対して、荘官名を半済にし、名田の半分を荘官の一円所領とし、荘官を御家人に取り立て、自軍に組み入れる政策をとっていました。
尊氏のもとで執事・侍所頭人であった高師直・師泰兄弟も同じような方法を用いて組織を拡大させ、強力な戦力を構築していった経緯があります。また、楠木正行との戦いに河内に出陣した時には独断で所領を与えることすらしています。さらに、恩賞が少ないならば、近辺の寺社本所所領の境を越えて知行せよと下知したなど、所領の横領を是認し、重層的な土地支配の形態であり、職務権限であり、得分権であった職(しき)の体系の破壊でした。職の体系は、荘園公領制の中で朝廷と幕府の共同の国家秩序の体系であるため、重層的な権利者が実力で確保しなくても機能し、問題が起これば裁判によって決着をつけるようになっていました。このような職の体系は鎌倉時代でも地頭請や下地中分などによって徐々に侵略されてはいたわけですが、鎌倉時代には基本的な社会構造として維持されていたわけです。建武新政が破れ、室町幕府が成立すると、「尊氏は弓矢、直義は政道」として将軍権力を二分して、軍事・御家人統制は尊氏、行政・訴訟などを直義が扱うようになります。また、尊氏には執事として高師直、直義には執事として上杉重能が付き、二分された権力のもと各々に人脈が形成され、好むと好まざるとにかかわらず自然に派閥が形成されていきます。さらに直義は裁判関係の評定衆・引付・内談方を中心に人脈ができていったようです。直義は動乱の中で行政・訴訟を中心に扱う過程で、先に挙げた職の体系の維持の方向性で動いているわけで、建武4年の建武式目追加には、戦乱で武士が臨時に預かっている(正確には横領)状態になっている寺社国衙領家職を、荘官に返すように指示されています。このような状況下で直義側と、尊氏・高兄弟を中心とするグループに分かれ派閥抗争が発生し、尊氏・直義個人の感情を押し流し、両派閥の人間模様(高兄弟との感情問題等)も含め、抜き差しならない状況に至っています。
両グループ関係悪化は暦応年間から顕在化し、高師直が貞和4年四条畷に楠木正行を破り、余勢をかって吉野の南朝の本拠を陥れたことにより高兄弟の権威が最高潮に達し、両派のバランスが崩れ、貞和5年(1349)閏6月ごろには直義派、高兄弟派共に京都に軍勢を集め、一触即発状況になっています。この中で、直義派は高兄弟の暗殺を計画したとの話もあります。確実なことは直義派の上杉重能(直義執事)と畠山直宗が僧侶の妙吉を使って師直・師泰を尊氏に讒言したこと。同年の4月に中国探題として備後に下向していた直冬を呼び戻すために同じく妙吉を使者としたことです。8月になると師直が実力行使に出て、直義を討つために兵を動かします。直義は尊氏邸に逃れ、それを包囲した師直は、讒言した上杉重能)と畠山直宗の引き渡しを要求します。結局、上杉重能と畠山直宗は越前に流罪(流罪直後に高一派に暗殺されます)、直義は失脚ということでこの場は決着します。この結末には尊氏と師直の間の密約説があります。これは10月に義詮を鎌倉から呼び戻して(基氏が代わりに鎌倉に下向)政務を担当させたことからも、計画的であったのではないかと思われています。その前には尊氏は直冬討伐軍を派遣し、直冬を破り、九州に走らせます。ここまで追い詰められて直義は12月には出家するようになります。
しかし、翌年観応元年(1350)になると九州に落ち延びた直冬が在地の武士を集め、強力な勢力となり、九州のみならず中国地方にも勢力を伸ばし始めます。10月になると尊氏自身が追討に赴かなければならない状況となります。そのような状況のもと直義は京都を脱失し、奈良で南朝側と交渉しながら挙兵し、募兵に成功して京都を目指します。この間、北朝は直義追討の綸旨を出していますが、これが決定的な契機となって直義は南朝に降ります。この間尊氏は直冬討伐のために備前に下向しており、義詮は翌観応2年(1351)1月には京都を守りきれず、京都を直義に明け渡して、尊氏のもとに逃げ込みます。この時直義側には斯波高経・山名時氏・畠山国清・細川顕氏・石堂頼房・吉良貞氏・桃井直常らが加わり、上杉憲顕は関東から上京します。これらの勢力を率いて直義軍は播磨に進出して尊氏軍を破り、2月には尊氏、直義の間で和議が結ばれ、師直・師泰は出家することとなりましたが、帰京途上の摂津で上杉・畠山軍に一族もろとも殺されてしまいます。この結果、殺害の首謀者の上杉能憲の流罪で片付き、直義の義詮の補佐の形で政務復帰。また、直冬と尊氏の和平ということになり、表面的には直義派の勝利の形態と一応なりました。
しかし、7月となると直義と義詮の仲が決裂し、直義は補佐・政務から降り、近江の京極道誉と播磨の赤松則祐が南朝に走り、8月になると尊氏は近江、義詮は播磨に出兵して京都を留守にします(どう見ても出来レースですが)。直義はこの状況を見て斯波高経・桃井直常・上杉朝定・山名時氏・吉良満貞ほか所領裁判に関係した評定衆などを伴って北陸に下向します。9月には直義は近江に進出しますが、鎌倉に下向します。10月には今度は尊氏が南朝に降伏し、直義追討の綸旨を受け、11月に関東に向け発向します。
この時点では畿内を中心に尊氏が、北陸から関東にかけて直義派が、そして九州を中心に中国地方の西部を直冬が抑えている構図です。直冬は質問にあるように直義の養子で、一応直義派ですが、直義のために行動する姿勢は弱く、東西挟撃の好機にもかかわらず、それを実施していません。どちらかというと、独自の勢力を築くことに主が置かれている感じです。
尊氏は駿河の薩埵峠、相模の早川の合戦で直義軍を撃破して、観応3年(1352)1月に鎌倉に入り、直義は降伏します。2月26日に直義は急死しますが、毒殺とされています。この間に南朝勢力は京都に侵攻し、義詮は近江に走ります。また、鎌倉は新田の残存兵力により攻略され、南朝により征夷大将軍を解任された尊氏は武蔵に逃れます。南(正平の一統)。しかし、3月になると尊氏、義詮側も反攻に転じ、5月には南朝の拠点である男山が陥落して、南朝勢力は本拠地の賀名生に退却します。この間に北朝の天皇・上皇・皇太子が賀名生に連れ去られ、後光厳天皇が、広義門院(女院-西園寺寧子)を治天の君とする異例の措置の中で即位します。
観応の擾乱は全国規模で一族がわかれ、戦った争乱で、惣領制から単独相続へと移る中、惣領が一族内部での権限強化を目指す動きと、有力庶子が独立・反抗しようとする動きの中で、足利一門も有力庶子家である斯波・吉良・畠山・石堂などが直義を担いで、惣領の尊氏に対抗したり、独立を画策した側面もあります。高師直と感情的な対立、疎外受けた足利一門もありますが、高師直は惣領の執事として、惣領権の拡大を目指し、一門を疎外した面もあるように思います。実否は定かではありませんが、太平記によると、斯波高経が新田義貞を打ち取った際、源氏の重宝である鬼切丸を獲得しますが、尊氏からは、末の源氏の持つ物に非ずとして、献納を命じられたとあります。また、子の義将の代には足利の名字の使用を禁じられるなど、惣領権の圧迫を受ける庶子家の姿が明らかになっています。高経自身は観応2年の直義の北陸脱出時には直義に同行しますが、その後尊氏派に転向しています。このように向背常ならざる姿が多くの武将にみられ、それが全国的に展開された時期ともいえます。
長々と書きましたが、いろいろな勢力が入り交じり、その上向背常ならざる時代ですので、書き落としも多いと思います。
ご回答を賜りまして、誠にありがとうございます。
時系列に詳しく分かり易くお教え願いまして、大変、参考になり私の疑問解決に大助かりです。
心より感謝とお礼を申し上げます。
ありがとうございました。
No.1
- 回答日時:
本郷恵子『将軍権力の発見』(講談社選書メチエ、2010年)
とかを読む。
仮想としての天皇権力
その下に将軍権力 + 執権権力
というのが、鎌倉時代の権力構造
実力のない天皇権力という「帽子」みたいなものがあって、それなりに安定した
室町期には、フィクションとしての天皇権力に対して、将軍権力が上位になってきた。
とすると、安定度がなくなるので、整理整頓のため 執権的権力である直義が排除された。
主なとかを簡単に説明なんてできないでしょう。説明できないから南北朝の騒乱が続いたわけで。
ご回答を賜りまして、誠にありがとうございます。
また、参考図書の紹介と天皇権力VS将軍権力と執権的権力の確執との考察・ご意見を頂戴して、参考になりました。
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