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弟子の慧可が「悩んでいるのです」に対して、
達磨大師は、「その悩みを見せてみろ」といい、
慧可は「見せることは出来ません」というと、
達磨大師は「ならば悩みというのは存在しない。」と言ったそうな。

達磨大師の言いたかったことは、悩みというのは心の中にのみ存在するのであって、
現実には存在しないんだよ~ ってことなんでしょうか。

解釈はあっていますか?

いやいや、そのこころが悩んでるから聞いてるんじゃない?
見ることが出来ないから無いって言われても?
って思ったのですが・・・

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A 回答 (8件)

達磨大師は、悩みと苦しみにばかり向けられている慧可の心を、悩みの本質を考える方向に切り替えさせようとしているんです。



答えを教えてやろうとしているのではなく、自ら気付き、悟る得る様に仕向けているんです。

それも、無心のうちに、ね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

そうですね。本質に目を向けさせようとしているのですね。

お礼日時:2011/08/02 10:21

無気力人げんのダルマだけに



手も足もでない ということなんじゃないですか?
 
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慧可は悩みを見せたと思います。


自分の片腕を切り落して、達磨に見せて問いたとされています。
切り落とされて、何も掴むことが出来なくなった手の平の姿が、慧可の悩みの姿です。

事実であったかどうかは分かりません。
しかし、このような峻烈なやりとりは禅独特のものです。
言葉に含まれる既成概念を否定することによって、概念以上のものを示そうという狙いがあるようです。
言葉の形だけをそのまま受け取ったのでは、既成概念の中に留まるだけになってしまうのでしょう。
慧可が達磨から印可を受けたという事は
失った片腕の手に達磨が掴むものを与えた、という事なのだと思います。
心で掴むものとは既成概念以上のものなのでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

自分の体の一部を切断してまで得たいものがあるって、壮絶ですね。

お礼日時:2011/08/02 10:24

観点が変わる事で、解釈も変わる事ある。


悩みは見せる事出来ない。何故見せる事出来ないか。
其れが己の実体で有るのだから、実体である空を
見せる事出来ないだ。

即ち、悩む心が己の実体である。見えないものが
有るのである。見える物は移ろい往く現象である。
然し、心もまた、移ろい往くのである。
移ろい往くが故に、空である。
空である故に有るのである。いう空観。

若者AとBが木の枝が風に揺れているを見て議論した。
そこに老人来て言った「心が揺れているだ」
若者 A「树枝摇曳着」
若者 B「空气摇曳着」
老人 「树枝摇曳的空气摇曳的不同意,心摇摆不定着」

                         谢谢。 

この回答への補足

だから、何なんですか?

悩みは心の中にあるので「見せる」ことはできない。
という説明以上になっていませんが・・・

補足日時:2011/08/02 10:20
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解釈はあっていますか?


いやいや、そのこころが悩んでるから聞いてるんじゃない?
見ることが出来ないから無いって言われても? って思ったのですが・・・

○ それでいいんですよ。至極真っ当な考えです。
達磨の答えはひどい答えですね。こんなのまねしてはいけませんね。禅を頓知問答にしていますね。
一休並みのひどさですね。一休は屏風に描かれた虎を出してみろといいましたが、それ並みですね。
達磨も一休も仏教の悟りからは程遠いということですね。
仏教では悩みは雑草に例えられます。雑草と同じく刈れども刈れども出てきますね。でも刈り込みさえたえずしておけば雑草は管理できますね。悩みもそのようなものです。悩みが刈れずに大きくなりそうであれば、別の目標をたてそれを常に考えるようにすれば、悩みという雑草は自然と枯れていくものです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

仏教では悩みは雑草に例えられるのですね。
自然に出てくるもの、放置すればどんどん大きくなる・・・

お礼日時:2011/08/02 10:06

「40キロ走れ!」と命令されれば、大変な苦痛だが、


マラソンの時、人はお金を払ってでも喜んで走っている。
何かが苦痛であるか、喜びであるかは、心の持ちようであり、
悩みは、自分が勝手に作り出しているだけだ、という話で。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

そのとき、勝手に作り出している自分の悩みを如何にして消し去るか、が本題なのですね。

お礼日時:2011/08/01 12:40

悩みを、打ち明けられない時に他人に悩んでいると言う事は


自身の悩みが不明確で、他人に伝える域に到達してはいない。

悩みを、打ち明けられないと言う事はその相手を相談者として
認めていないのだから、喩悩みを達磨に伝えても悩みを解決は
出来ないのだ。

あやふやな悩みを、あやふやなまま内に秘める事無く
自身で大いに悩みその事で、どうしても悩みを解決する為に
相談相手に、きちんと伝えきれる悩み以外は「悩むと」他者に
話したとして、その悩みに解決の糸口など有り様はずもない。

「ならば、悩みと言うものは存在しない」

単純に、私個人で二人の会話はそうでないか?
と、思っただけです。

達磨が、単純に弟子が嫌いで相談何てのりたくないのかもしれない。
達磨は、別の事を考えていてそっちを優先して弟子の悩みが取るに足らない
問題だったのかもしれない。

そんな事は、結局二人を間近にして普段から一緒に生活してなきゃ
判らんです。近くに居てすら人間同士はなかなか理解出来ないものなのだから。

ここまでを、踏まえて「悩みが存在しない」の解の一助と為れば幸いです。

この回答への補足

<そんな事は、結局二人を間近にして普段から一緒に生活してなきゃ
<判らんです。近くに居てすら人間同士はなかなか理解出来ないものなのだから。

実も蓋もない回答、ありがとうございます。

補足日時:2011/08/01 10:55
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説法のようなものでしょう。

達磨大師も悩みの存在を認めているのだと思います。それを見えないものなど捨ててしまえと言っているのでは?一種の思いやりとも感じますが…。
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この回答へのお礼

なるほど、思いやりという解釈もありますね。

お礼日時:2011/08/01 10:55

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Aベストアンサー

禅の系譜では、菩提達磨の師が般若多羅尊者であることははっきりしています。
(#1のご回答に「プラギャターラ」とありますが、これはちょっと不正確で、実際には「プラジュニャーターラ」《梵語では「明白な智慧」といった意味にもとれる》になると思います。発音符を除いたアルファベット表記は「Prajnatara」で、これで検索するとかなりの数のサイトがヒットします)

禅は依所の経典がない分、「誰の法を嗣いでいるのか」という人の系譜を極めて重視するのですが、にも関わらず、般若多羅尊者については詳しいことはわかっていないのが実情です。

というのも、そもそも菩提達磨大師自体の出自すら歴史的には不明確で、それゆえに中国で禅を宣揚するために後代になって“捏造された架空の人物”である、という学説も昔から根強くあるほどです。
ですから、その師とされる般若多羅尊者についても、中国で伝えられる定型的な説明以上のものはほとんどありません。その教えの枢要なところは何であったのか、達磨大師の独特な壁観の坐禅は師から嗣いだのかどうか、などの諸点は、禅宗史の中で遡及的かつ伝説的に伝えられるだけで、詳しい事はわからないのが実情でしょう。
(実際にPrajnataraで検索してヒットするどのサイトも、残念ながらほとんど情報量は同じです)

珍しいところとしては、「宏智広録(わんしこうろく)」という11世紀頃の禅籍に、般若多羅尊者の言葉として以下のような偈が載っています。

「貧道は出息衆縁に随わず、入息(にっそく)蘊界(うんかい)に居せず。
 常に如是経を転ずること、百千万億巻なり。但一両巻のみにあらず」

自分はあれやこれやの理屈をいうことなく、あるがままに真理であるこの世界を生きている、というような意味でしょうか。中国禅の香りに溢れた内容で、真偽のほどはわかりませんが、これも達磨大師の師の言葉として遡及的に作られた言葉であるようにも思えます。

参考までに、英語サイトですが祖師の絵の載ったサイトをひとつ紹介しておきます。
(内容的にはしっかりしているようです)
http://www.goldsummitmonastery.org/patriarchs.shtml

参考URL:http://www.goldsummitmonastery.org/patriarchs.shtml

禅の系譜では、菩提達磨の師が般若多羅尊者であることははっきりしています。
(#1のご回答に「プラギャターラ」とありますが、これはちょっと不正確で、実際には「プラジュニャーターラ」《梵語では「明白な智慧」といった意味にもとれる》になると思います。発音符を除いたアルファベット表記は「Prajnatara」で、これで検索するとかなりの数のサイトがヒットします)

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