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 社会形態は いやしくも国家と称するようになるならば 市民たちの第一階とそして公民圏としての第二階とから成ると考えられ この一階と二階との社会力学的な関係のあり方によって 市民一般の生活のありさまや 生活態度としての思想がかなりの程度において規定される。こう考えます。

 市民圏= 第一階: S 圏: 市民 S
 公民圏= 第二階: A 圏: 公民 A

 これら互いの力学関係: A ‐ S 連関制・・・(α)

 こういう用語で説明します。

 日本における国家は 《国ゆづり》型であるゆえ 市民 S らは おとなしい。もともとおとなしく けんかをするほどに仲良しであった。その中から出た公民 A らは 特に優秀であったゆえ 人びとは社会というヤシロにも特別な神棚をこしらえてやりもっぱらその空中庭園に住まわせた。この第二階となる神棚にまつりあげたことになる。

 優秀であるうえに品行方正で申し分のないほど人間的な人間たちであったが ただひとつ玉にきずなのは つねに人びとから注目を浴びていなければ落ち着かない。お山の大将型であったことだ。
 市民らは かれらに根負けして それならと言うので神棚をわざわざこしらえて そこを棲み処とさせた。檻に住まわせたとも言えるのだけれど これが のちのち或る意味でわざわいともなった。

 市民 S らの中には この第二階への出世志向が流行り病いのごとく起こり ひとつには とうとう A 者公民たちにこびへつらうようになり ひとつには ゆすり・たかりをはたらき甘い汁を吸おうとするようになる者が出た。
 このお二階さん志向――そして 別様に言えば お上意識――が絡んでくると 仲間どうしのあいだでも いざこざが絶えなくなる。
 簡単に言ってこういうわけで 市民 S 者のあいだには まっすぐな心持ちにもとづく行動と どこか歪んだところのある振る舞いと 両面が見られることになる。



 ちなみに西欧の市民は そして公民も 誰もがおのれの中にお二階さん志向(または アマアガリ症候群)を持つ。すなわち A = S としての市民 S であり この市民がおそらく誰もが 同じく A = S としての公民 A となる傾向を有する。と推し測られる。

 (ω) 欧米型(または遊牧民型): A ( A=S ) ∽ S ( A=S ) 連関制

 相似形の記号( ∽ )の意味は つねに転覆(回転=レヲ゛リューション)が起こり得るということを表わす。
 言いかえるとその社会では 第一階においてすでに 《人は人に対して狼なり。 / 万人の万人に対するたたかい》という市民( A = S なる市民 S )どうしの意識の流れが関係し合っている。意識の対立とその弁証法的展開が ふつうに見通されているのではないか?

 日本市民が このアマアガリ志向に対して《くにゆづり》をしたと言う時 それは非戦論であり そうだとすれば それに対して欧米市民は 主戦論に立つものと考えられる。
 土地に縄を張って ここはおれのものだと宣言したとき 言葉たくみににしろ力づくでにしろ その土地を獲ってしまえば 自分のものになると考える傾向なのだろうか。
 日本市民は これこれはおれのものだと主張するときに どういうかたちにしろ争うことは 人間の弱さから来ると考え それならと言って 非戦論を採った。いちどゆづったら その神棚に挙げてしまったのだから おいそれとは返せとは言えない。言わない。おとなしい。ただ それだけのことだと考えられる。
 ただしそのアマアガリ・シンドローム(末は博士か大臣かの出世症候群)の感染具合いに応じて 波風も立つこともある。



 ちなみに 別様の A - S 連関制がありうる。
 《アフリカ的段階》と呼ばれるもので 市民らに絶対主権があるようなかたちである。

 (κ) アフリカ型:S (=じつは A ) ∽ A 連関制

 ◆ (『アフリカ的段階について』 ヘーゲルを解剖学した世界観?) ~~~
  http://y-bat.txt-nifty.com/doyo/2009/01/post-8de …

 マルクスはインド・ヨーロッパ語圏の外にアジア的共同体を見出したが、吉本〔隆明〕はそのアジア的段階より前の段階としてアフリカを見出している。

 ( a ) そこには殺生与奪権を独占し自由に行使できる王(* A )がいる。

 ( b ) しかし、民衆(* ――《〈じつは A 〉なる S 》――)は豊穣と生活の保障と引き換えに王(* 権力)を認知しているのであって、不作や疫病があれば王は民に殺されてしまう。

 ( c ) 生命の等価交換(という原始的なシステム)の上に成り立っていた頃の世界がそこにはある。

 ( d ) 民衆(個人 S と共同性)と王(権力と象徴= amaterasity アマテラシテ)は等価なのだ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ このアフリカ型(κ)は 民衆暴君型である。日本は対話型(α) 西欧は競争型(ω)であろうか。

   *     *     *


 Q1: 対話型なら もっと話し合いをすすめることが出来るはずではないか? 

 Q2: 口を開けば 権力者の悪口である。ぼろくそに言うのもいいが 中身がどうなのか? 

 Q3: それとも 例のアマアガリ・シンドロームが それほど酷くわれわれのこころを腐らせていようか。仲間どうし・同等の相手どうしとして 対等に自由に話し合える間柄であったはずが 何かと顔を合わせば 互いの悪口である。足の引っ張り合いが絶えないというのは やはり アマテラス志向・お上意識なるアマアガリ症候群にひどく手足を縛られてしまっていようか。気がついているのか いないのか。

 Q4: スサノヲ( S )市民の心意気は いったいどこへ行ってしまったのか。 欧米型の革命志向はそのかけらも――たぶんさいわいなことに――見られないとすれば ひょっとしてアフリカ型の破れかぶれ症候群が 隠然と深く静かに潜行しているのか。

 Q5: まさか そんなことはないと信じるけれど とにもかくにも ひとびとは もはや互いに話し合いが出来なくなっているのか?

 Q6: それとも もとから――《対話型》は 理念の上だけであって―― 隠微なけんかと互いを不幸のどん底へ落としやり合うという生活が消えることはなかったのか?

 Q7: あるいは 上の歴史および社会にかんする分析が おかしいか。

A 回答 (24件中11~20件)

 こんばんは、ひどっち でございます。





> Q1: 対話型なら もっと話し合いをすすめることが出来るはずではないか?
 

 はい、可能と考えられます。ただ一般論と致しまして、日本人は、心地よい議論をするのに苦手意識を持っているのかもしれません(一昔前ですが、人知れず、寡黙に、自己の信念に従って行動するといった”無言実行”型が理想とされていからでございます)。


> Q2: 口を開けば 権力者の悪口である。ぼろくそに言うのもいいが 中身がどうなのか?
 

 権力者は一般に”公人”として扱われますため、ある程度の批判にさらされるのは、やむを得ないところがあろうかと考えられます。ですが、一例を挙げさせていただきますと、普天間基地の移設問題のときもそうでございましたが、ただただ、メディア等は批判するだけであり、建設的な(中身のある)議論はほとんどなかったように見受けられました。
 批判するだけならば、誰にでもできるのですが・・・
 ぼろくそに言うのでしたら、ぜひとも模範例(模範解答)を示していただきたいと常々思っております。


> Q3: それとも 例のアマアガリ・シンドロームが それほど酷くわれわれのこころを腐らせていようか。仲間どうし・同等の相手どうしとして 対等に自由に話し合える間柄であったはずが 何かと顔を合わせば 互いの悪口である。足の引っ張り合いが絶えないというのは やはり アマテラス志向・お上意識なるアマアガリ症候群にひどく手足を縛られてしまっていようか。気がついているのか いないのか。


 昨今の安直な”競争主義”も、影響を与えているものとも考えております。そこでは、”競争”である以上は、優劣が決せられます。そして、自分の立場を優位に立たせたい、もしくは、競争相手となるものは蹴落としたいという感情から、足を引っ張る、という事態が生じるものと思われます。ですが、その発言の中には、アマテラス用語(学術用語)の巧みな使用が認められること、さらには自分を優位に見せたいという情動が往々にしてあることから、お上意識なるアマアガリ症候群に繋がるものが見られるものと考えております。”足を引っ張る”のではなく、状況に応じて、”手を引っ張って”くれてもよさそうなのですが・・・


> Q4: スサノヲ( S )市民の心意気は いったいどこへ行ってしまったのか。 欧米型の革命志向はそのかけらも――たぶんさいわいなことに――見られないとすれば ひょっとしてアフリカ型の破れかぶれ症候群が 隠然と深く静かに潜行しているのか。


戦前

・「第一次護憲運動」(大正2年:1913年)桂内閣総辞職
・「越中女一揆」(大正7年:1918年)この騒動が全国に拡大して「米騒動」となり、寺内毅内閣総辞職

戦後
・「60年安保闘争」
・「70年安保闘争」

 少し前までですと、民衆の不満は、デモや学生の抗議運動を通して訴えてきました(ことの是非はともかくとして)。ですが、昨今では、お上(お二階様)への抵抗も減少してしまい、むしろ、それは下へ向けられることになったと考えております。自分より弱い者を作り出し、その弱者、さらには貧者へと、でございます。  
 自分のことを棚上げし、他人に丸投げ・逃げ口実として用いられる”自己責任”、スタート地点は本来同じはずなのに、実際は異なっています”競争主義”、これらを”葵の御紋”のように振りかざし、日頃のうっぷんすらも、弱者やマイノリティに押し付けているものと考えております。
 「痩せたソクラテスよりも、太った豚」なのかもしれません。


> Q5: まさか そんなことはないと信じるけれど とにもかくにも ひとびとは もはや互いに話し合いが出来なくなっているのか?


 まだそこまではいっていないと考えております。少なくともこの哲学カテゴリーでは、ご質問者ーご回答者の間での対話が成立しているのを鑑みますと、まだまだ話し合いは可能と考えております。


> Q6: それとも もとから――《対話型》は 理念の上だけであって―― 隠微なけんかと互いを不幸のどん底へ落としやり合うという生活が消えることはなかったのか?


 いえ。戦後焼け野原から出発し、その後の発展を築きました。この中では、何かしらのチームワーク、協力・共同作業があったものと考えております。


> Q7: あるいは 上の歴史および社会にかんする分析が おかしいか。

 いえ、正道かと考えております。

 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
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この回答へのお礼

 こんばんは ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 西欧の革命型にはなっていないけれど――ましてや 破れかぶれでのように民衆が暴君となるアフリカ型とは一線を画しているけれど―― 現代日本においては《競争型》の色に相当程度染まっているであろうと。

 ★ いえ。戦後焼け野原から出発し、その後の発展を築きました。この中では、何かしらのチームワーク、協力・共同作業があったものと考えております。
 ☆ つまりはこの戦後の復興から高度経済成長の時代には それとして競争もあったろうけれど あるいは政官財の団結するまたは癒着するお二階さんに対して賃金闘争こそおこなってその意味で競争型を採り入れていたけれど――三井炭鉱の紛争で死者を出してからはでしたか―― 過度に物分かりがよいと言われても A - S 連関は 対話型で社会をいとなみ国を推し進めて来たのだ。

 低成長ないし安定成長期に移行すると 何故だかしなくてもよいところで競争をしたがる。それも すでに出発点が決して対等ではないかたちで その競い合いが始められる。
 ★ ~~~~
 ですが、昨今では、お上(お二階様)への抵抗も減少してしまい、むしろ、それは下へ向けられることになったと考えております。自分より弱い者を作り出し、その弱者、さらには貧者へと、でございます。  
 自分のことを棚上げし、他人に丸投げ・逃げ口実として用いられる”自己責任”、スタート地点は本来同じはずなのに、実際は異なっています”競争主義”、これらを”葵の御紋”のように振りかざし、日頃のうっぷんすらも、弱者やマイノリティに押し付けているものと考えております。
 ~~~~~
 ☆ 《「痩せたソクラテスよりも、太った豚」なのかもしれません。》とつづきます。――たしか当時わたしも卒業間近かの学生だったか 東大総長の大河内一男が言ったというニュースを聞いたおぼえがあります。(大河内は 社会思想史専門なので覚えています。眠狂四郎の作者・柴田練三郎に顔が似ていました)。――なのですかねぇ。人それぞれかも分かりませんが。

 でもまだ話し合いが出来なくなったわけではない。
 ★ 少なくともこの哲学カテゴリーでは、ご質問者ーご回答者の間での対話が成立しているのを鑑みますと、まだまだ話し合いは可能と考えております。
 ☆ 少々やり玉に挙げるというような拙速をしでかしますと 《対話型ではなく 追従型だ》という見解が出されてもいます。
 ですが これも
 ▼ 沈黙は金
 ☆ というようなことわざに関連させているのならば――いるようですから――
 ★ (一昔前ですが、人知れず、寡黙に、自己の信念に従って行動するといった”無言実行”型が理想とされていたからでございます)。
 ☆ の遠慮版の対話型と捉えればよいでしょうか。


 ★ ~~~~~
  戦前
 ・「第一次護憲運動」(大正2年:1913年)桂内閣総辞職
 ・「越中女一揆」(大正7年:1918年)この騒動が全国に拡大して「米騒動」となり、寺内毅内閣総辞職
  戦後
 ・「60年安保闘争」
 ・「70年安保闘争」

 少し前までですと、民衆の不満は、デモや学生の抗議運動を通して訴えてきました(ことの是非はともかくとして)。
 ~~~~~~~~
 ☆ このあたりも さらに詳しく――基調をおさえたかたちで分かりやすく――捉えられればよいと思うのですが これは 追い追いということにします。単純に言って・大きく言って 日露戦争の勝利に自信を持って――いえ 持ちすぎて―― 人びとが膨れ上がって行く過程にありましょうか? いえ現実がそれほど厳し過ぎたのだと言うべきでしょうか?

 そしていわゆるイデオロギーによる闘争については もはや対話型の共同自治は風前の灯だったようにも――ふり返ってみてですが――思われます。幸か不幸か ドイツや朝鮮半島のように国が二分されることはなかった。

 競争がどのようにあるかについて 言論もしくは学問にかかわるようなところでは――と採って見てみたのですが――
 ★ ~~~~~
 〔昨今の安直な”競争主義”も、影響を与えているものとも考えております。〕

 そこでは、”競争”である以上は、優劣が決せられます。そして、自分の立場を優位に立たせたい、もしくは、競争相手となるものは蹴落としたいという感情から、足を引っ張る、という事態が生じるものと思われます。

 ですが、その発言の中には、アマテラス用語(学術用語)の巧みな使用が認められること、さらには自分を優位に見せたいという情動が往々にしてあることから、お上意識なるアマアガリ症候群に繋がるものが見られるものと考えております。
 ~~~~~~~
 ☆ スサノヲ市民のあいだにおいても その言語習慣について中でアマアガリ志向(あえて うつくしく)の場合には アマテラス学術語をあやつる いえ違った 上手に駆使するような言葉づかいが ひとつの流れをかたちづくる。
 要するに 使用言語が スサノヲ市民圏においても S 語と A 語とに分裂の様相を呈する側面が見られる。人間語なる S 語に立脚した学術語の A 語を活用し得ているのならば 文句無しなのでしょうけれど。
 また学術語にしても・アマテラス普遍語と言っても 社会の各層や各分野にまんべんなく有効・有益な政策を策定しうるものでもない。この点でも 対話型の本領を発揮して行って欲しいものです。
 ★ 自分を優位に見せたいという情動が往々にしてある
 ☆ のを もうどうでもよいこととして
 ★ アマテラス用語(学術用語)の巧みな使用
 ☆ は むしろ利害関係のぶつかり合うところについていくつかの政策案のあいだを むしろ自己の案に不利な点をしっかりと明らかにして互いにまとめあげていくために活用して欲しいところです。

 そうして何よりも 自分たちの足は スサノヲ市民社会にしっかりとつけていて欲しいと思います。その意味で アマテラス公民は アマクダリを果たして欲しい。その方向でみづからの将来を決めてくれたらと思います。


 うわぁ 言いたい放題になりました。
 でも 検討していただけるなら ありがたいです。という意味で このままをお応えとします。

お礼日時:2011/08/12 23:10

丁寧に書かれているので、すべてをちゃんと読んで自分なりに解釈をして回答しないと失礼だなと考えます。


ですが、本当、気が楽になります。

真剣に図書館などで考えながら、読みたいです。
どうしてもこんがらがってしまう。意見が飛ぶ。
皆さんのように答えたい。

頭が悪いなと感じます。

ありがとうございます。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。
 
 もう広げませんが 用語の整理集をお届けします。
なにぶん常識を破りあたらしい常識をねらっていますので(!?) 見方を変えて捉えていただかなくてはならないところがあるかと思います。

 【Q:現代日本に必要な哲学は?】
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4151421.html
 その回答No.1などです。( noname#80116 は以前のわたしです)。





 優秀ないまのアマテラス国家公務員が それぞれのムラ(市町村)の公務員として――アマクダリして――活躍するようになる日をたのしみにしています。

お礼日時:2011/08/11 09:32

ペースを変えずに補足ありがとうございます。


本当、回答しようと安心します。

ですが、、難しい。。
と言うよりどうしても更に追加の御質問のやりとりを見て、
あぁ、こういう風にニュースを哲学と結びつけて考えていくのかとか、
何故互いが論点のみ感情を含めず丁寧に答えられるのだろうとかばかりに
気をとられ、
いい加減ではなく、キチンと自分なりに答えたいから休日に。
こうやって、人とは違って答えに時間がかかるから、迷惑がかかるんだなとか。

論点とは違うところで頭が一杯になってしまいます。

これは日常において、よろしくないな。。と。
通常はこの頭の中をその間話しませんし。。
改善の機会をいただいてありがとうございます。
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この回答へのお礼

 またたびさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 時間はいくらでもありますから。それに質問やその趣旨説明から受けた印象であるにせよ感覚的な反発であるにせよまたは賛同にせよこれらを含めて 何でも応答してよいのではないでしょうか。
 ことばは 《あやまちうる人間的自由のスサノヲ人間語‐その自由のための規範を抽出したアマテラス人格語》としての総合的な自己表現であってよいと考えます。
 後者の科学的にも認められた普遍性を捉えた人格語は その無謬性をとなえ始めるとともに またその無謬性に理性において基づこうとするとともに けっきょくきわめて偏頗な狭いウラオモテの差の激しい自分たちだけの世界をかたちづくるようになる。
 アマテラス人格語は 部分的な人間語であるかたちに縮小し ただの方言でしかないようになっていく。霞が関方言や永田町方言としてのように。

 スサノヲ‐アマテラスの連関についての具体的な主題は いくらでもありますが あともうひとつをお出しします。いくぶん変わった角度からながめているはずです。アマテラス規範人格語をあやつる政治的人間は けっきょくウラオモテの二重性をもあやつらなくてはならなくなり そこで悪魔と手を結ばなければならなくなるか? という問いです。

 ○ 【Q:アマテラス政治家の無謬性の神話がくづれたか?】~~~
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6597041.html

 アマテラス公民ないし国家公務員については――それはいわゆる幕藩体制からのお上であって―― 無謬性というしるしが 神話としてのごとく添えられて来たのだと考えられます。《斬り捨て御免》という慣わしに代表されるごとく たとえかれらがあやまちを犯していてもスサノヲ市民らはそれは間違ってはいないと言わなければいけなかった。そういう至上命令ないし錯覚があったということでしょう。
 社会保険庁のあやまちが引き金を引いたのかどうか この無謬性の神話はくづれて来ています。

 ところが いまの民主党政権もしくは菅政権については どうもその性格や事情がいちじるしくそれまでのアマテラス政権とは異なって来ているのではないか?
 感覚で言うのですが 鳩山前政権については まだその社会的な身分としての神話をあたかも引きずっていたからか そのままアマテラス公民の無謬性を どこかで何となく保ち得たかのように映っています。
 鳩山由紀夫は出自がアマテラス圏であり 菅直人はそうではなくスサノヲ圏からであるという違いが出ているのかどうか?

 そこでこの質問は このアマテラス公民の無謬性という慣わしと 《職業としての政治》にまつわる《悪魔性》とのつながりや如何? と問うものです。
 まづは次のM.ヱーバーの議論を聞いてください。悪魔メフィストーフェレスに魂を売るファウストのごとく そのデモーニッシュな動物的な・別種の魂が必要なのだと言っていますか?

 ▲ (ヱーバー) ~~~~~~~~~~~~
 およそ政治をおこなおうとする者 とくに職業としておこなおうとする者は・・・すべての暴力の中に身を潜めている悪魔の力と関係を結ぶのである。

 無差別の人間愛と慈悲の心に溢れた偉大な達人たちは ナザレの生まれ〔のキリスト・イエス〕であれ アッシジの生まれ〔の聖フランチェスコ〕 インドの王城の出〔のブッダ〕であれ 暴力という政治の手段を用いはしなかった。
 彼らの王国は《この世のものにあらず》ではあったが それでいて彼らは昔も今もこの世に影響を与え続けている。
 〔トルストイの描く〕プラトン・カラタエフやドストエフスキーの描く聖者の姿は 今なお この人類愛に生きた達人たちの最も見事な再現である。
 自分の魂の救済と他人の魂の救済を願う者は これを政治という方法によって求めはしない。

 政治には それとまったく別の課題 つまり暴力によってのみ解決できるような課題がある。政治の守護神やデーモンは 愛の神 いや教会に表現されたキリスト教徒の神とも いつ解決不可能な闘いとなって爆発するかも知れないような そんな内的な緊張関係の中で生きているのである。
 (『職業としての政治』 1919 脇圭平訳 pp.99-100)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 政治家としてアマテラス公民たる者はすべからく悪魔に身をゆだねるデーモン(悪鬼)にならざるべからず。――こうでしょうか?

 極論して言うのですが この方策を忠実に取ったアマテラス政権は 安泰であって そうでない政権――たとえば民主党政権――は もはやスサノヲ市民らの信頼も支えも失くした。――こうでしょうか?

 それとも そもそもアマテラス‐スサノヲの国家という二階建ての家における逆立ちした連関制が 無理なのでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ まぁ ゲームをしてあそぶような感覚でよいのではないでしょうか?

お礼日時:2011/08/11 07:10

丁寧に回答をつけていただいてありがとうございます。


ですが、なかなか集中して読める回答する環境が作れないです。
常に人から自分に声が掛かるので、内容が全く頭に入らず読めず。。

丁寧に回答いただいてるのに申し訳ないです。
1人でじっくり集中出来る環境になって補足いたします。
すみません。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 それぢゃあ いぢわるの虫が起きて来ましたので 次の質疑応答も掲げておきたいと思います。あくまで自由にですが。

 ○ 【Q:アマテラスお二階さんは 一階に大政奉還すべし。】 ~~
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6373495.html

 いわゆる地域主権について問うものです。

 なぜ大政(ムラムラのマツリをつうじての共同自治)をいまの二階にあるマツリゴトから元の一階スサノヲらのくにに奉還すべきか?
 それは もともと平屋建ての市民社会が どうして二階建てになったか? を見てみると分かるはずです。
 すっ飛びの仮説によって考えてみます。

      *

 感性と理性を交えた或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見た。
 イリ(世界への入りをおこなう)人は このまぼろしをそのままなぞとして心にしまっておいた。
 ヨセ(世界を束ね寄せる)人は まぼろしに取り憑いた。その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。いよいよその《いと高き者》に似てきたとき――きわめて人間的な人間になったとき―― 周りを見てみれば このまぼろしには誰も 関心がない。
 ヨセ人は ここであきらめなかった。このまぼろしによって人びとを感化し 世の中を束ね寄せる。そうしてみせる。そうすれば《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。と踏んだ。

 このヨセ人なるアマテラス種族が 平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったとき――スサノヲらはとうとう根競べに負けて―― 《くにゆづり》をした。イリ知性のスサノヲ市民村におこなわれる《まつり》は 第二階によって束ねられ おまけに税を取られ 全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。
 かくて 《アマテラス‐スサノヲ》連関制の完成である。くにのいえと言う。家というからには 二階建てである。

 《ひかり もしくは まぼろし》と現実とのあいだに隔たりがあるとすれば 誰れの発言(自己表現)にも 本音と建前がある。あるいはさらに 二枚舌の問題が必然的に現われる。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。
 広くマ(間・間合い)がそういった心的および社会的な《関係ないし連関》のあり方として成り立って来ており むろんその問題をあつかう。ここでは 《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》連関制としてのマである。

 第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方であり そこに起こるマチガイの正し方の問題です。おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしているのではないか? そこから マチガイがつねに起こり得るのではないか?
 細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガイが生じるでしょうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられます。問題は そもそもは 《 S (主権)- A (従属)》の連関だったものが A 圏主導の《 A - S 》連関として逆立ちしているというところにあると見ます。

 つまりは すぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。
 イリ人は このイデアをとおして――《をとおして》――マツリをおこないカミにささげものをした。ヨセ人は このイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。
 こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えます。つまりそれが アマテラス語方言という言語類型――無謬性の神話に包まれている――であり そこから必然的に現われると言っていいところの二枚舌現象だと言いたい。そう言いたいのですが これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は 反措定の反措定ですから 綜合であり人間のふつうの存在の肯定であると考えてよいのではないでしょうか? 
 マチガイからのマの回復。つまり 地域主権の実現としての大政奉還。

 これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。また 経済的にも立ち行かなくなった。
 アマテラス公務員の無謬性なる神話がくずれた。

 マの問題。この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?
 じつは国家の止揚として世界史的な課題であるのではないか? 国家ゆえに領土問題と戦争がある。
 ~~~~~~~~~~

 一方的ですので 軽くいなしておいてください。

お礼日時:2011/08/10 22:57

ありがとうございます。



他の回答の方を見ていると、
私と同じように質問の真意を勝手に思い込みで判断をして、
質問者に返す事なく話を進め、結論はこうだからこうしなさい。もあるなぁ。と。

参加しなかったら、何でこの人は勝手に思い込んで、人の指示をする?と
思っていました。自分もそうだなと。

そうではないと仮に質問者が言うと、何で?

これは根本から治さないと。。ネットではない社会生活において、よろしくないなと。

自分の言った意見の回答を冷静に見る力をつけ、
回答には様々な場数を踏んだ訓練が必要なんだなと。

自分も恥ずかしいと言って下さった事で、安心し意見を
言う気持ちになりましたが、ほんと、、、まだかなり見る勇気がなく痛いです。

よく皆さん出来るなと。。

ご助言ありがとうございます。のんびりコツコツ改善します。
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この回答へのお礼

 またたびさん ご回答をありがとうございます。

 ふと思いなおしたことがあります。
 ★★(回答No.5) ~~~
 ソクラテスに関しては、そこまで深くは知りません。
 太宰と似ているなと考えたくらいです。

 ただ、最近どなたかがおっしゃった国の決まりを守って餓死した裁判官。
 ソクラテスが自分を貫いて死刑になった事。
 ~~~~~~~~
 ☆ この箇所についてまだまだ勘違いをしていたかも知れないと。
 後半の部分については 再考を書きこみましたが 全体として言わんとするところは何か?
 
 ひょっとして回答No.1への応えとしてわたくしが例に出した戸谷新右衛門の行動について触れたものだったでしょうか?
 規則に従うだけではだめだというような趣旨だったでしょうか? それはそれとして 《再考》でわたしもすでに受けとめて反応してはいますが 戸谷の振る舞いについてとしてちょっと考えてみました。

 地主である高野山がいかに米一升ごとに測る際に不正を犯したと言っても そのちょろまかしの量は知れたものだとも考えられます。年々その不正の差が蓄積されると言っても どこまで行ってもただ量の問題だとさえ考えられます。つまりそれを 《法律あるいは規則》一色においてのように戸谷は反対しこだわったのか?

 まづ細かく見てみますと 不正による差は 一升につきこの程度です:
 
 ○ 京枡1,755.9cm^3 vs. 新京枡1,774.2cm^3

 ☆ 京枡は 信長や秀吉が制定し江戸幕府もつづいて採用したと言います。幕府の統制がゆるむと 各藩の中で 新京枡が出回ったとか。上の容積は 立法センチメートルに換算してみたものです。
 ▼ (ヰキぺ:京枡) ~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%9E%A1

 京都十合枡(京枡)は、内法(うちのり)は縦横ともに曲尺5寸(約15.2センチメートル)四方、深さ2寸5分(約7.6センチメートル)、すなわち容積62500立方分であった(異説もある)。

 新京枡は 内法は縦横ともに曲尺4寸9分(約14.8センチメートル)四方、深さ2寸7分(約8.1センチメートル)、すなわち容積64827立方分をもって1升としたものである。
 ~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 村々を合わせて高野山の領地全体としてどのくらいになったのか分かりませんが 新右衛門がもしその量にはこだわらなかったと仮りに見たなら どういうことが考えられるか。

 おそらく領主が 人びとにおしえを説く仏教の尊師や修業者であるということにこだわったのではないでしょうか?
 かれらは さとりを得たものと見なされるでしょうし 一般に人びとの鏡であると思われていたのでしょう。それが たとえわづかの量だと言え インチキを白昼堂々とおこなう。このことにおさまりがつかなかったのではないでしょうか?

 何も体を張って反発し抵抗したというのでもないかも知れません。というのも あくまで話し合いを求め 納得の行く解決の道を求めた。それでなければ かれらが衆生に説教するなどとは ちゃんちゃらおかしい。これほどの矛盾にだまっていては 人間が廃れてしまうとでも思ったのでしょう。
 【Q:日本人は 魂が去勢されているのでしょうか?】
 というわけだったのでは?

 異をとなえる最後のひとりとなって さらに対話を求めつづけたのではないでしょうか。
 犠牲になるとは思っていなかったでしょう。幕府の沙汰が決まってから 坊主どもから意趣返しをこうむってしまった。(そりゃあ これだけ商魂たくましいのであれば 東北の被災地でも戒名を売るなどの商売を忘れずにせっせと《活躍》するのも不思議ではないのでしょう)。

 (でも 檀家制度において 仏教組織は アマテラス公民圏の寄生者ですから あまり突ついてもしょうがないかも分かりません。すでに腑抜けになってしまっているのかも知れません)。

 (でも そういう批判の思潮も このカテで出て来ていますね。もしそういうときには この新右衛門という一人の人間が かつて日本に日本人としていたかいなかったかでは 大違いになるとも思われます。かれのたましいは 生きていましょう)。

 ○ 新右衛門は 願って犠牲になったわけではない。そのこころは あくまで相手との対話であった。
 
 ○ ソクラテスや戦後まもないころの理っ直な裁判官あるいは太宰治と どう同じでどう違うでしょう。
 
 これは 補足質問になるかも知れませんし あるいは誰かが 別の質問として挙げるかも知れませんね。

 ということで この新右衛門の話で 今回は持ち切りでした。おあとがよろしいようで。

お礼日時:2011/08/10 11:49

軌道修正をいただいてありがとうございます。


見てると、何も感じませんが、回答に参加すると難しい。

理論的に回答が出来ていないなと。
書いて、客観的に見ると
まぁ無理矢理に自分のほうに考えを向けようとする。

全ての質問から自分が違うと感じるところだけつまみあげて、
違う、違うと言っている幼さがあるなと。

書いた後に、答えを見る勇気も痛さを我慢する必要もある。
何故、痛いのか、みっともないと完ぺきを求めているのか、
とにかく自分の意見の回答を見るのは、痛い。

ネットで顔も見えないのに、現実はどこまで自分は話せているだろう。

会話にも好き勝手に相手の少しをつまんで話しているかもなと。

攻撃的になった私に理論的に落ち着いて丁寧に答えていただいているので、
安心して話してもいいのだなと思えました。

私に合わせた対話をありがとうございます。

一度で嫌がらず、知識のない事を馬鹿にもしない。

このように対話をあらゆる人が繰り返されるのであれば、
成り立つのではないかと考えます。
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この回答へのお礼

 またまた またたびさんの謙虚さには感服いたしました。二度目です。
 ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 感想のたぐい あるいは 年寄りの過去の思い出になりますが わたしはつねにと言っていいほど
 ★ 攻撃的になった
 ☆ ところから・つまり 何かの文章や論文を読んでこれはおかしいのではと疑ったところから出発していました。早く言えば けんか腰です。
 学生のころには 話し相手がいても あまりたいした内容のことは話せませんでした。院生をも出たころには 近くに話し相手はいなくなっていました。ですから 文章にして書き出すわけですが 沈没する場合もあれば かなり最後まで残ってさらに発展させうる中身をまとめ得たと思うときもあったわけです。

 もっと言えば 分からないから書き出すのだと思います。つまりうたがうのですし 考え始めるのだと。モニター(つまりフィードバックの過程ですね)がいないと なかなか論旨にまとまりがつかないと言われています。幸か不幸か ひとりで書きものをしつづけました。
 《軌道修正》を繰り返して行くと けっこうまとまりもついて来ます。その代わり 定説をきちんと把握しておかねばならないでしょうし その定説も 定評のある第一人者らの著作にあたるべきだと思います。その内容と照らし合わせて行けば かなりいいところまで行くのではないでしょうか。
 聖書の読みにしても ブディズムの中核を知っているかにしても そうして 西欧の哲学史の――細かいところは知りませんが――主流と言いますか 何が問題でそれをどう扱って行くのか あるいは 日本人論・日本社会論にしても 読んでも読んでもいまひとつ物足りないと思っていたところ 古代日本の歴史をまなぶとそれが解けて来たことなどなど これらを おかしいぞと感じ《攻撃的になって》批判し始めるところから いつも踏み出していました。
 試行錯誤でいいんぢゃないですか。というよりも それしかあゆむ道はないほどに思います。

 
 まづった考えや すべった文章をあとで読み返すと たしかに顔から火が出て来ます。われわれは 暗中模索のようなものですから そういう結果を思うとまるでストリップを自作自演でおこなっているかに思われます。
 でもその――別の意味での――ニヒルの状態から どうもいい考えは浮かんでくるようですよ。あたかも磔にされた状態になったところで 浮かぶ瀬に連れられて来ていたと思うときがあります。世の中 よくしたものです。


 あぁ もうひとつです。ひとりで考え ものを書いているときには 誰かひとり言わば話し相手としてかあるいは論文の審査官として想い描いてその人に向かって説得するようにして文章を書いて行くと いいかも知れません。これは ほかにもやり方はあるかと思います。わたしの個人的な体験にもとづくものです。

 まぁ ぼちぼち行くということであるとともに おそらく一時期として一路まい進するというときがあるとも思います。ゆったりと急いでみてください。

 (あぁ 年取ったもんだ。)

お礼日時:2011/08/09 23:08

怒っているようになってはいけないですね。


私は知識がない素人です。

自分の考える範囲で答えているので、
数多くの階段を登らずに答えています。

考えて答えない事には知識は深まらないと
思っているので、お考えになる
当然常識であろう哲学知識はありません。

知識のかなりのズレがあります。
ご気分を害されてはいけないと考えました。

それでは。

この回答への補足

 そうですね。
 No.7のお礼欄がすべてだと捉えてくださってよろしいと思います。
 どうでしょうか。

 質問者は これまで 相手の考え方についてその不備を理由を付してこれこれこうではないかと述べて来たことはありますが 知識をそれが少ないからこうだ・間違っているからどうだというかたちで触れたことはありません。言わば知恵と言うべき考え方との組み合わせとして知識に触れるのみです。

 そういう振る舞いをつねとしている場合には 相手からその振る舞いなどによって気分を害されるといったことは まったくありません。お気づかいはうれしいのですが 事情はかなり違っていますので 明らかにいたします。

 わたしが怒っていると見えたとするなら それは 同じことを二度述べることになったからでしょう。
 哲学にも喜怒哀楽。これを アマテラス普遍語すなわち アマテラス学術語およびアマテラス人格語 とは違った・あやまちうる人間的自由にもとづくスサノヲ人間語ゆえにそうなのだと言います。
 哲学は あやまち得ない――無謬性の――アマテラス学術語による観念体系であるとでも思われていましょうか。
 もっと自由に。もっともっと自由に。
 バカ丸出しのぶらじゅろんぬというやからもいることです。
 知識が何ぼのものぞ!
 これが 対話なのでは?

補足日時:2011/08/09 18:32
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この回答へのお礼

 いまから野暮用です。夕方になります。

お礼日時:2011/08/09 14:28

対話になっている???


そうですか。
その状態で対話が進んでいるのであれば、
ご自身の質問の対話も進んでいるでしょう。

自らの何故出来ないかにご自身でお答えになっているのではないでしょうか?

素晴らしい回答に巡りあえると良いですが。
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この回答へのお礼

 ふーむ。まづは ご回答をありがとうございます。

 一つひとつの事柄をきちんと整理してまいりましょう。

 1. 《対話になっている》とわたしが言ったのは たとえその話し合いが中断したとしても 互いに――というのは 初めは一方の側が言い出すのですが それを受けて他方の側も―― その段階では《見解の相違という状態にある。しばらく冷却期間を置こう》と了解して中断する場合があるという意味です。
 この場合にかろうじて入るのは たとえ怒って議論を投げ出したとしても 《タンマ》とひと言言って去った場合です。

 2. そのことと《対話が進んでいる》こととは 別です。説明は不要ですね。

 3. ★ 自らの何故出来ないかにご自身でお答えになっているのではないでしょうか?
 ☆ これは たとえば次のわたしの文章に対するご評言でしょうか?
 
 ☆☆(No.6お礼欄) ~~~
 馬を水飲み場まで連れて行くことは出来るが 水を飲ませることは出来ない。これが いまの結論です。したがって 地道によい質問を挙げ よい質疑応答を重ねて行くこと。これ以外にいまは考えられません。
 それとももしよい具体案がお有りでしたら おしえてくださるか それともご自身でそういう質問を展開して行かれるのがよい こう思います。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ もしそうでしたら 《馬に水を飲ませることは出来ない》というのは 馬を水飲み場まで連れて行った側――このばあい わたくし(ぶらじゅろんぬ)――には もう行動を起こす余地はないという意味ですよ?
 もし《何故出来ないか》と無理にでも問うならば それは 相手の側の交通(まじわり)に対する姿勢に問題があるとなります。一般に 無難な言い方をすれば 時期尚早だったと受け取ればよいのではないでしょうか。

 4. ★ 素晴らしい回答に巡りあえると良いですが。
 ☆ 考えてみれば このように質問とは直接に向き合わなくても 問いは《対話》についてですし 《交通》論なのですから けっきょくふさわしい質疑応答になっているのではないですか。対話がすすんでいますよ。

 5. 質問趣旨は このような対話がもし何かのきっかけで阻まれることがあるとしたら それは スサノヲ市民たちの中にも《アマアガリ・シンドローム》があって あたかもアマテラス公民のこころを自分のこころとしてのように ほんとうの《アマクダリ》を促すような見方を提出する者に対しては 白い目を向けるということであろう。これが 質問趣旨のたたき台です。
 早い話が アマテラス公民の指導による社会の秩序にさからう声は KY だとして排除する傾向を スサノヲ市民さえもが持つことがある。こういう疑問を提出しています。
 
 どうでしょう?

 対話がかみ合いました。


 * ほんとうのアマクダリというのは アマテラス公民圏が 主権のあるスサノヲ市民圏にその主権を実際にもゆだねるということです。早い話が お二階さんは もう要らないということ。国家は解体されていくであろうということです。
 

お礼日時:2011/08/09 14:27

僕の範囲で答えて。

僕はそういう回答を求めないが対話にならないし、
それが哲学にならないのでは?

相手の範囲も考えないと、幅は広がらないと思います。
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この回答へのお礼

 よく飲み込めていないとまづおことわりします。

 またたびさん ご回答をありがとうございます。

 かんたんだと思われるほうからまいります。
 ★ 相手の範囲も考えないと、幅は広がらないと思います。
 ☆ たとえばこころざしといったこと それは あります。誰にもあると思います。遠く将来のわが社会の姿を思うこころざしなどです。
 ですが いまはここでは 問いと答えです。問いたい人が問い 答えたい人が答えます。相手の範囲を考えなさいというのは 幅広く回答が寄せられるように趣旨説明のあり方を考えろということでしょうか。あるいは幅は広くなくても 上の志の問題を差し挟むなら きちんと考えている人びとをその《相手》に定め その人びととのやり取りがきちんとできるように説明をほどこすべきだというところでしょうか。

 まぁ ざっくばらんに言いますと 《幅が広がる》かどうかは どうも――この質疑応答の場で四五年やって来ましたが―― こちらの努力や質に帰するところと そして相手の問題のほうが大きいと思われるところと これら二つの要因を取り上げるならば 後者のほうがうんと大きい。こういう現段階での結論を得ています。
 馬を水飲み場まで連れて行くことは出来るが 水を飲ませることは出来ない。これが いまの結論です。したがって 地道によい質問を挙げ よい質疑応答を重ねて行くこと。これ以外にいまは考えられません。
 それとももしよい具体案がお有りでしたら おしえてくださるか それともご自身でそういう質問を展開して行かれるのがよい こう思います。

 

 次の文章は 読み取りがむつかしいです。
 ★ ~~~~~
 僕の範囲で答えて。僕はそういう回答を求めないが対話にならないし、
 それが哲学にならないのでは?
 ~~~~~~~
 ☆ 《そういう回答》とは 何を指しているのか? も然ることながら 《対話にならない / 哲学にならない》というのは いったいどういう事態を差して言っておられるのか? 皆目見当がつきません。

 それというのも この質問の趣旨説明などをめぐる哲学としての弱点については すでにこちらから触れました。《対話になる・ならない》とは いったいどういう事態を差していましょうか。

 たとえば《わたしは あなたと見解を異にする。ゆえに 議論はここまでとして その必要が認められるような考えや情況の変化が現われるまで 対話を中止する》と 一方的に言って話し合いが中断したとしても それは《対話になっている》のですよ。


 ここまでをお応えしてお礼に代えます。

お礼日時:2011/08/09 10:09

哲学はあらゆるしがらみから外れた思考の自立のために生まれたものかと。



様々な事、思考は、人間は、行動はこうであるべきに違いない。
は哲学と言わないのではないか、と考えます。

ソクラテスに関しては、そこまで深くは知りません。
太宰と似ているなと考えたくらいです。

ただ、最近どなたかがおっしゃった国の決まりを守って餓死した裁判官。
ソクラテスが自分を貫いて死刑になった事。

私自身はそこで哲学が終わっているのでは?思考の停止では?と考えます。
結果、それ以上の人を納得させられなかった。失敗では?と。
哲学は、そこで、思考を変えると都合のいい人間のようになります。

回答に関しては、様々なものが生まれる筈。
それぞれの思考の自立ですから。

上記をふまえ、御質問に関しては、分析する事はおかしな事だとは思いません。
ただ、幾つかに分類わけされている質問はまだ範囲が広過ぎると感じますが。

より細分化しないと、見えてこないのではないかと思います。

対話に関しては、知識や環境の差は必ずあると思います。
そこを考慮せずに一方的に知識のあるほうが、たたみかけると
わからず、苛々して対話にならないでしょうから、悪口にならざるを得ないかと。

互いの配慮が同じように出来るか、かなり難しいとは思います。が出来ないで止まると、
哲学もそれまででは?
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この回答へのお礼

 むつかしいことをおっしゃる。
 質問者にとっては――おっと またたびさん ご回答をありがとうございます―― 言葉がわるいですが しちめんどうなことをお出しになったと思われます。

 日本社会の特質は 人びとが互いに対話を果たすこと・答えが見つからなくても地道につづけることだと思うが それについて どう考えるか? 同じように思うのならば 話し合いを日常においてふつうに持ち合いこれをつづけること こうなりますよね? と問うています。それだけです。

 いま出されている質問に
 【Q:すべての物事は話し合いで解決できるのではないか?】
 があります。いわばそれへのひとつの回答として ただし質問のかたちで 問うたものです。

 哲学は たしかに実際の現場から一たん離れるようにして迂回生産というかたちを取ります。不要不急のことがらをも あらゆる可能性を考える上で取り上げ じっくりと考えておくものだと思います。
 ただし それもこれも じつは現場の問題を解決するためでもあります。具体的な個々の問題を解きほぐして 一般性をもった可能性の世界として想像した場に置いてみて よりよき解決法をさぐります。
 あるいは 解決の作業は別として その問題の分析やら交通整理やらを哲学と言う場合さえあるかと。

 まぁたしかに この質問における趣旨説明を見れば それは扱う範囲が広すぎるのに その基礎認識として説明する内容が大雑把であるといううらみがあります。また 哲学の認識作業に徹するとはとうてい言えず すでに解決策を模索するかたちであり 言わば――社会哲学だと言えるとも思われるものの―― ふつうに社会思想であると言わねばならないと見なされるでしょう。

 ★ より細分化しないと、見えてこないのではないかと思います。
 ☆ そうかも知れませんし 知れませんが いま見えた範囲で回答を寄せていただけばよろしいと思います。

 ★ ~~~
 ただ、最近どなたかがおっしゃった国の決まりを守って餓死した裁判官。
 ソクラテスが自分を貫いて死刑になった事。
 ~~~~~
 ☆ 《対話型》だと規定すると その規定によって規定され その自由な思惟や行動を型に嵌められた上でふるまうことになる。といったご指摘でしょうか?
 そういうことになる向きには 回答を期待しないことにします。

 ★ 荒らし
 ☆ に会うといった趣旨に理解しましたが かまいません。屁の河童です。

 ★ 哲学はあらゆるしがらみから外れた思考の自立のために生まれたものかと。
 ☆ むしろ現実のしがらみを解きほぐして行こう そのために話し合いがよいのではないか こう問うています。それのみです。
 この単純さがお嫌いであれば 仕方がありません。
 ありがとうございました。

お礼日時:2011/08/08 22:45

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