一回も披露したことのない豆知識

生きているのが苦痛です

何故わざわざ辛く、苦しい思いをしてまで生きていなければならないのでしょうか。

まだ若僧ですが頑張ることに疲れました。努力する気も起きません。
どうせいつか死ぬのなら、今日死んでも一緒です。むしろ辛い思いをしてまで生きるなら今日死んだほうがマシに思えます。

生きている意味とは何でしょう

A 回答 (24件中1~10件)

 このような問いをしてくれてありがとう


 
 辛く苦しい思いをしたくないから今日死にたいのですね。
 逆に言えば、楽しい思いしかしてないならこの質問も浮かばないでしょうね。
 そして23の回答もなかったと。
 私を含めて23人は少なくとも、あなた=私 として、あなたの問いを自分の問いに置き換えて思考したはず
  
 なぜ回答があるんでしょうね。
 どうして誰も「好きに死んでください」と回答してこないんでしょうね。
 今目の前で自殺をしようとしている人がいたら、あなたは見殺しにしますか

 いまここに、私も、あなたも、存在していることの不思議さを実感できたなら
 明日も生きられるのではないでしょうか


   
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切実な問題としてメンタルな健康カテにじゃなく


哲学カテでそんなことを人に聞いてくるようでは。。
一見、時期が来たとも言えそうで
人に聞けることと聞いても意味ないことをわきまえない
そんなことを人に答えを求めている場違いな甘ちゃんとも言える

成長の段階において生きてる意味とはって問うようになったら
自らの命の使い道を定める
もしくは
自らの内にそれを見つけたらよかろう

淡く

静かに
深く

気概は
ただ
やわらかく

気負わず

人知れず路傍に咲く一輪の野の花のようであっても
凛として

どんな些細なことのようであっても意味は人から与えられるものではなく
自らの内に見出すものなのではないか?

いまだその時期が来ない未熟で
それができないのであれば人の指示、命令に従っていればいいではないか
それはそれでまたそれなりの意味が含まれているのであるから

人にはそれぞれ実るまでにいくつかの節目を経るという時の経過が必要なのであろうし
人にもまた早生と晩生があるように

現実認識と乖離しておバカみたいに有頂天になることによって得られることなど何もないんだしね
若い時の苦労は買ってでもしろと言われるくらいで
むしろ
将来につながる真実は苦悩の中にその解決の道は隠されていたりする

真理とは実在するものの肯定であり、実在しないものの否定である
現実から乖離した妄想は真実とは言えない

これは何を言っているかというと
今ある社会が真であるとか、偽であるとかということが問題なのではなく
例えば
今抱える様々な問題を総合的に解決させうる可能性のある具体的なものを
今ある社会を受け入れ、そこから、整合性を保って道筋が構築されていなければならないということに他ならない

目指す社会がどのようなものであり
今ある社会と思考の整合性を保ってそこに移行できる道筋が描かれない限り、脳天気な鳩山前首相の普天間問題の腹案と同じようなものにしか成らない

そのうち現実と乖離することもなく
生きる意味は自らの内に見出すようになる



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意味の無いことを強いられるのは、かなりの苦痛です。

苦痛の合理化の為に、幻の意味を求め、かえって苦痛を膨らまかせ続けているように思います。
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外に出ていますか?


日差しに当たっていますか?

頭は時に休ませて(^_^)
考えないよう忙しい場所で手伝うのが1番なんですけどね。
飲食店とか、旅館とかバタバタと。
考えないし、人の役に立っていると何時の間にか実感してる。

人の役に立たないとと悩まずに
何時の間にか役に立つ仕組みを作ると治りますよ。

あとは、色々考えずに、やる。
挨拶されたら返す。メールが来たら、返す。
楽しそうだと思ったら、参加する。
好きだと思ったら、好きと言う。
人の目を見て、身体を向けて話す。

そういう事が意外と難しかったりしますよね。
そんな積み重ねで楽になっていきますよ。
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生の意味 それは成功と達成の内に在るのではない。


生の意味 それは絶望と 自らに対する失望の内に在るのである。

見よ 君の歩んできた来た道を。そこには失いかけた生に対して
自らを再生させた 自身の涙と砂埃と嗚咽にまみれた挑戦があった
のではないか?
それこそが 生の意味を知るべく人に与えられた最善の道なのだ。
失いかけた生の再生。それが生の意味を知る最短距離なのだ。

生の意味を人に教える事はできない。人に聞く事もできないのだ。
ならば己の祖先に想い馳せるが善い。己を人間たらしめた祖先だ。
彼等はアフリカの大地に生を受け 猛獣と格闘しながら生き延び
暑さ寒さに耐えながら 新天地を求めた。

そこで君は祖先に問いかけるのだ。しかし彼らは生の意味など
こたえはしないであろう。彼らはただ ひとこと言うのである
「生の意味は すでに己の内に手渡した」と。

鳥達とて 獣達とて 生の意味を持たぬ者はいない。それゆえに
鳥達は飛び 唄う。獣達は走り 歓喜の声を上げる。人間達は
苦しみ 生を失いかけ 祈り 喜び 踊り狂う。そしてまた苦し
むのだが いつか苦しみは消え 泥の中からの復活を果たす。
それが脈々と続けられてきたアフリカの大地なのだから。

ライオンには昼寝の時間が許されているという。
ならば人間にも昼寝の時間が許されても善いではないか。
ああ あまりに精神論的であり 人間的であり 形而上的であり
非合目的 的ではあるのだが アフリカの大地に免じて 読了
してほしいのです。
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生きるのに理由なんてありません‥‥でも、理由がないゆえの必然性、というのもあるのです。



物質に「目的」はありません。
しかし、その「無目的=エントロピー増大」は淘汰となり、二次的に進化を導きます。
「いや違う!」と主張する事は可能ですが、厳しい生存競争の中で、生き残るために努力しない個体の遺伝子が次世代に伝わり、種の形質となる事はなく、進化は常に、「生きる事」を目的とするよう導くのです。

一方、どのような行動も、本質的には任意=意志の充足であり、「意志の充足じゃない」というのも一つの意志として、精神的充足の追及という方向性から逃れることはできません。
生きる事の本質的目的は、人生を通算した充足量の最大化(生理的拡大×欲求の強さ×それを「人生通算での最大」にコントロールする認識力×その達成度×それを把握する認識力)に収束します。

「精神的充足感のため」というのは、刹那的な快楽主義に帰結するのではなく、最大限の大きな目的、最大限の愛と、最大限の認識を兼ね備えたものになるのです(短絡的な快感の帰結は麻薬だが、それが最大充足でないのはご存知の通り)。

であるならば、人が生きるのは、物質的豊かさのためではなく、精神的充足感のためであり、人が働くのは、お金をもらうためではなく、助け合い=愛のためです。
生物として、「生きること」が唯一の目的であるが、社会生命=助け合うために集まっているものとしては、働くことが生きること。

しかし今、そうした「他人を助ける」=愛のために働いている人が、どれほどいるでしょう?
人がとらわれているのは、“お金(や、その源泉としての出世)”という虚構の価値であって。
原始共産制の助け合いから、組織が分業化&拡大する上で、人の意識の社会性を発達させずに、お金や権力といった“馬車馬の目の前のニンジン”で、他律的に社会行動をとらせる道をとったのです。

お金は、本来助け合うために集まったはずの社会において、自己チュー的な意識のまま社会行動をとらせるための“矯正具”として発達したものなので(社会生命として生きる事である労働(助け合い)を、お金をもらうために嫌々働く)、当然、自由意志を束縛する機能があります。
本来、社会的生命として助け合うために集まっている人々をして、弱肉強食のジャングルに変える、悪魔のツール。

本来それは、分業=助け合いに於ける“感謝のしるし”であるにもかかわらず、いつの間にか(助け合っているはずの人々と)それを奪い合い、お金をもらうために仕方なく働くようになってしまっているのだ。
(その錯覚の端的な例が、取引きに於いて、役に立つものをもらう=助けられている方ではなく、手あかで汚れた紙切れ(お札)をもらう方が、お礼を言う奇妙)
その結果としての“自己チュー”な意識において、死は絶対的な敗北となり、人生は必ず敗北に尽きるものになってしまう。
「自分のため」ではなく、皆んなのために生きる時、人は真の自由を得るのです。
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色んな理由があるのです



分かりやすい所からは 貴方に生を与えた親の願いが篭っています

おそらくは生きてほしいと思って産み育てられたのではないでしょうか

中島みゆきさんの「誕生」という歌があります。YOU TUBEでも聴けます

次に苦しいという事ですが  苦しみから逃れる為に人は頑張ります

逃げられない苦しみはいらない苦しみですが

労働の苦しみ 恋愛の苦しみ 出産子育ての苦しみ 病気の苦しみにしても

努力して苦しみを超える事で人間として役に立ち健康にもなる

歯が痛い苦しみが無かったら 歯はボロボロになるのではないでしょうか

それから人間は未来の存在を実現する為に生きています 

子供もそうですが それ以外にも仕事をすればそれが未来の存在の実現の役に立つのです。

人生は重荷を負って山道を歩くようなものです

人生は如何様に生きても苦しいのではあるまいか(倉田百三)

人によって違うでしょうけど 大なり小なり人は苦しいです

存在することが価値なのです 存在する事に意義があるのです 生きることを信じてください

生きていれば可能性は在ります なにがあるか最期まで分かりません。

人間は未来の永遠を目指す存在を実現する為に生きるのです これは僕の考えですが。
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もし不老不死を手にいれても、宇宙も最終的には消滅するので意味がないとなりそうですね。


結局は、神になりたいという妄想と同レベルの質問なのでしょう。
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生きるのは辛いに決まっているじゃありませんか。


何を寝呆けたことを。

透析が辛いなどの事情でしたら、
明日死んだら最高と思えるような今日を、
来週死んだら最高と思えるような今週を、
来月死んだら最高と思えるような今月を、
来年死んだら最高と思えるような今年を、
精一杯楽しんでください。
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「修行者(比丘 物乞いをして礼を言わない乞食)達は、一日一度の粗末な


食事しか取らないのに、何故あんなにも生き生きとしているのですか」
との問いに。
「彼らは、過去を悔やむ事も、未来を憂うる事もなく、今、だけに生きている
から、あんなに、生き生き、としているのだ」と釈迦は答えた。
その釈迦の言葉に
「人間の一切は苦であると、知恵によりて見る者、は自らの苦悩を癒す」
というのがあります、後の大乗仏教が法印(仏教=釈迦の思想、であると認める
根拠)の一つ、としている。一切皆苦、という思想です。
しかし、釈迦の思想の神髄と見るべきは、人間の一切は苦である。との認識、自覚、
ではなく。後の、知恵によりて見る(理法に照らして考える)、の方です。
そして、知恵によりて見る者、菩薩(ボーディン・サットバ、悟りを求める者=愛知者、哲学者)が
自殺する事はありませんし、(当然訪れる)死、を気にすることもないはずです。

何故、生きているのか?生きていてもしょうがない。死にたい。
は。このカテの定期便的質問(一部は、そう言っているだけ?)
でもあるようですが。
昨日生きていたから今日も生きている、まだ死んでいない。
明日は分からない。という事であり。何故、を付ける意味があるのでしょうか。

若い頃、気に止めた、言葉の一つに、チェーホフの「桜の薗」一節とかでしたが

「安心していてはいけませんよ、自分を眠らせてしまってはいけませんよ。
幸せ、なんてものはありません。また、あるはずがないのです。
もし人生に、意義や目的があるとしたら。それは私たちの幸せ、などにあるのではなく、
何かもっと合理的なもの、偉大なものの中にこそあるのです。」
というものですが。
合理的なもの、偉大なもの、ってなんでしょうね。
考えてみられてはどうでしょう。考える課題、知りたい事、を持っている者は、死のう、などとは
思わないものですよ。

仏教の基本思想の一つは
「悟って一日生きるは悟らず100年生きるに勝る」
「悟らず100年生きるは、悟って1日生きるに劣る」
でしょうが。チェーホフは、仏教に接していたんでしょうかね。

知恵者、哲人、の代表と言える、釈迦と老子の自己認識、自己評価、として。
釈迦は常に、口にしていたのは
「己を陽炎泡沫の如きものと思う者(思える者)には既に知恵がある」
「己を陽炎泡沫の如きものと、知恵によりて見る者は自らの苦悩を癒す」
であり。
老子は
「自分は、人々のようにうまく世渡りも出来ないし解り合える事もない。
何の役にも立たない、デク、である。」という、優れている=劣っている。
との自己評価だったようです。
自らを、若僧、との自覚が有る限り。あなたには大丈夫。知恵がある。
自殺したりはしない。と思いますよ。
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