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仏教では、死後転生すると教えているはずなのに、何故お盆に先祖の霊が帰ってくるなどという行事を行うのでしょうか?仏教の教えならば、先祖の霊はとっくに転生して別人格としてこの世のどこかにいるのではないですかね?

それとも、もともと神道の行事だったものを取り込んだとかそういうことなんですかね?

A 回答 (2件)

 日本の仏教は神仏習合してるので仏教的な行事はどれもあいまいになってます。


そもそも552年(538年説あり)に仏教が公伝した当初から、仏は、蕃神(となりのくにのかみ)として日本の神と同質の存在として認識していた経緯があります

 で仏教のお盆は元々盂蘭盆会(うらぼんえ、ullambana、उल्लम्बन)から来ています。
 これは安居(あんご)の最後の日、7月15日 (旧暦)を盂蘭盆(ullambana)とよんで、父母や祖霊を供養し、倒懸(とうけん)の苦を救うという行事である。これは『盂蘭盆経 』(西晋、竺法護訳)『報恩奉盆経 』(東晋、失訳)などに説かれる目連尊者の餓鬼道に堕ちた亡母への供養の伝説によります

>ともと神道の行事だったものを取り込んだとかそういうことなんですかね?
 無論、国家神道を掲げた明治政府の影響も多大です
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

ああモッガラーナのあれか、思い出しました。

お礼日時:2011/08/16 15:04

「仏教の教え」という括りに問題がありますね。


実は仏教と言っても日本にある数多くの宗派によって少しずつ違うんですよ。
浄土宗などのように死ねば必ず成仏するというものから日蓮宗などのように他宗派(邪教)は全て地獄に落ちるというものまで様々です。
また、あの世の考え方も宗派によっても違うし、人に伝えるときに喩えて言うものだから状況がドンドン違っていってしまったんです。
だから「仏教では輪廻でこの世に転生する」とは一概に言えないわけです。
また、輪廻も彼方頭この世に転生するものではなく「魂は輪廻を繰り返しながら徐々に悟りへと近づく」というのが基本的な考え方です。
そして特にこの世に生まれている間の生き様によって畜生道から仏界までの様々な次元に転生するということです。
つまり、この世における「解脱」は仏界に転生する事を言いますが、仏界には入っても修行は続き、菩薩から仏陀に向けて転生を繰り返しながら昇り詰めていくわけです。
その中でいまだ人間界との縁が切れず修行そしている魂や色道などの世界に転生している魂が盆にはこの世に戻ってくるというのが一つの考え方です。

読経は死者のためではなく、生きているもののためだという人がいます。
しかし正確に言えば仏教に生死の違いはありません。魂が悟りを開く修行の中で一つの段階が「この世」であるというだけの話です。だから魂に生も死もないのです。
読経は魂の向上を目的に「法」を音読するものです。そしてそれによって得るものが「得」です。
自分の為に音読するのは「自利」ですが、他人に読み聞かせれば「利他」になります。人にも聞かせることで更に大きな得を得ます。だから利他は自利でもあるわけです。
だから死んだ後も「全ての魂」のために法を説いて聞かせるわけです。これが布施です。

で。元々はインドで雨季の間、修行僧が集まって行なっていた勉強会みたいなものらしいですが、ウラボンの教えから衆生救済の為の祈りに変わり、やがてその救いを求めて、救われない魂が寄せてくるという話から地獄のフタがあくという話になり、更に。どうせなら身内を寄せようではないかということから身内が帰ってくるということなり、最初のモクレンさんの例え話が無駄になるように身内の為に祈る習慣になってしまったわけですね。
でも浄土眞宗以外のお寺では「施餓鬼」といって身内以外の人にも法を説く行事があります。

神道との関係
神社本庁などの回答例を見ると、本来神道で行なわれていた「先祖祀り」が本来の姿だとしています。それが江戸時代に幕府の命令で庶民の祖例祭も仏式で行なうように強制した為、仏教行事と誤解されたとしています(「神道いろは」より)
しかし仏教では「仏教の習慣が神道に移った」としているので、どちらが真実かは私には判りません。

とりあえず、様々な考えが交じり合って生まれた習慣であることには間違いは無いようです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

いろいろ混ざり合って出来た日本独特の習慣、ということになるんですね。

お礼日時:2011/08/16 16:42

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