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隋は短命だったのに対して、
唐は300年も続いた。
この違いについてどういう理由が考えられるか。

っていう問題なんですけど
分からないので回答お願いします。

A 回答 (5件)

 隋は



(1) 高句麗討伐に失敗し、威信低下、財政悪化を招いた。

(2) 大運河の掘削など、大規模支出を伴う政策を急ぎすぎて、反発、威信低下、財政悪化を招いた。

 などと、高校時代に習いましたね。もっとあったかもしれませんが、覚えているのはこの2点。運河は今、役立っているそうですが。

 でも私は、

(3) 従兄弟(つまりかなり強い立場の貴族)に、優秀な唐の王家「李」氏がいた

というのが最大の理由ではないかと考えています。

 つまり、唐は、隋の貴族として、煬帝らへの反感の受け皿として衆望を集めることができ、(戦乱を経てはいますが)比較的楽々建国できたのです。

 李氏が、まったくのゼロからスタートせざるを得なかったとしたら、隋はあんなに簡単には滅ばなかったのではないか、と思っていますよ。

 日本には、「売り家と唐様で書く三代目」という言葉がありますが、どこの国でも、滅亡するか、形だけでもその後も存続できるかは、だいたい三代目で決まりますね。

 優秀な人が建国し、その人の背中を見ながら育つ二代目。

 三代目は「祖父や父は皆の同僚であったので皆に遠慮があったかもしれないが、ヨは生まれながらの将軍であるぞ」というわけす。

 彼がどう育つかは教育の成果。そのころには国家体制も固まる頃(隋のように大きく制度を変えるのは失敗の元)。

 彼の教育に成功したら、代々その方法を踏襲すればいいのですが、失敗したら三代目でアウト。
 
 ふつうはそうなんですが、唐は、李氏の優秀な兄弟が父を説得して建国させた形で実権を掌握し、国家体制もほとんど隋の制度を踏襲しているので反発も招かず、体制の基礎が早く築けたというのが、長期政権の理由だと私は見ています。
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付け足すと、初唐の体制が安定した理由として、宗室の李氏一族を始めとする北周以来の貴族層や建国功臣の子孫が既得権益層になって腐敗し始めるタイミングで則天武后が現れ、ライバルになりそうな彼らを皆殺しにした事があげられます。

唐自体が乗っ取られかけましたが、結果として玄宗即位までに宮廷を乱す要因が殆ど一掃され、内部の権力闘争に明け暮れて国力を疲弊させる外征や土木工事を縮小していたので非常に政治がやりやすい環境になっていました。

中期以降に唐が早々に滅びなかったのは、

(1)藩鎮の数が増えて規模が小さくなり、安史の乱の様にスケールの大きい叛逆者が出にくくなった、出ても他の節度使に足を引っ張られる様になった
唐の命取りになった黄巣の乱は藩鎮ではなく、塩の密売ネットワークから出現した。

(2)百年以上続いた唐室に権威が加わって倒しにくくなった(そして実権はないので倒す理由もあまりない)
朱全忠が唐を滅ぼした時、大部分の節度使は数年間唐の年号を使い続ける事で新王朝を拒否し、しかる後に独立を宣言して五代十国が始まった。

あと税制改革がどうたらといった要因もあった筈ですが説明できるほど覚えていません。
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唐は300年と言っても、安史の乱以降は、戦国時代のような物で、実質的な統一国家としては100年余です。

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馬鹿馬鹿しい。

ナンセンスです。そもそも隋は北朝の最終ランナーです。南朝の陳を滅ぼして南北を統一したから南北朝時代に含めるのは適当ではないのかも知れないけど、南北朝時代と見れば、隋の30年は決して短命だったわけでもない。それまでの南北朝の諸王朝と比べれば隋は普通であって、とりたてて短命というわけでもないのです。唐と比べるから短命に見えるだけの話。そもそも王朝の寿命を比較することに何の意味があるのか。どうして隋は唐と比べられなければならないのか。私には理解できません。でも質問者さんには、それが分かっているのでしょうね。
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隋は煬帝が,唐は太宗帝が代表です。


彼らの政治姿勢を見れば明らかです。(ただし,かなり脚色されているとは思いますが)

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E8%A6%B3% …
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