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先ず、私は動物愛護だとかの考えに基づき書き込むのではないと言っておきます。

最近テレビで、東日本大震災で行き別れた犬に再開すると云う、
心温まるお話を見ました。

一見、心温まるお話ですが、その飼い主は家族同然に買っていた犬の事を
「飼っている」だとか「飼っていて」良かったと言いました。
ここで、「家族」に「飼う」はないだろうと。

人類の歴史を遡れば、愛玩としての動物は古くから飼われていたようですが、
それらは所詮、(極端に云えば)玩具であり、余暇やストレスからの開放の為の道具に過ぎないと考えます。

交配など云い出せば切りがありませんので取り上げませんが、
単なるヒトのエゴではないでしょうか?

有名な哲学用語に「ルサンチマン」と云う考え方があります。
弱者が強者に対しての恨み・妬み等を指す言葉として翻訳されていますが、
人間はそのルサンチマンのはけ口(まだ自分より下がいるんだと云う優越感)に動物を選び昇華させているのではないでしょうか?

奴隷貿易と似たような感覚で、
ヒエラルキーの最下層に動物を置くことで、アイデンティティを保っているのでしょうか?

私はこう云う考えをもってから、動物を飼うことにすごく抵抗が出来ました。
しかし牛肉もクジラも食べますし、陳腐な動物愛護ではありません。

長文になりましたが、皆さまの考えをお聞かせ下さい。
また、私の上記捉え方が違うのであればお聞かせ下さい。
よろしくお願いします。

A 回答 (12件中1~10件)

確かに人のエゴです、


だからといって動物を飼う事に抵抗があるなら
そこまで私は、気にしなくても言いと思います、
じぶんは、エゴになりたくないと思っていても常に知らず知らずの間に何かにエゴに
なっているのが人間です、例えばあなたの家が、建っているところは、もともと何があったのでしょうか
あなたが使っている道路は、もともと何があったのでしょうか、
最近ニュースで猪が山から降りてきて畑を荒らして困っていると言う人がたくさんいましたけど人間が
勝手にお金で土地を買って勝手に畑や家に変えて動物達の住みかを奪っています。
つまり人間が貴方がエゴにならないと言うのは、とても難しいことだと思います
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エゴといえばエゴですが、イヌや猫は違うと思います。


人間と共存できる彼らは人間と意思疎通に優れているので飼うというか家族な感じがします。

逆に物珍しい生き物を飼ってる人は物としか扱ってない気がします。

それとテレビは感動の押し売りをするので質問者様には余計不快に見えたのではないでしょうか。
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人は、世代交代や社会組織化において、自分以外の存在を


“大事に”思う必要が生じる。
世代交代において、交配における異性への愛、生殖における
子供への愛が生じ、社会的な分業=助け合いにおいて、
他人に対する愛を抱く。
「利己的」といっても、その「己」が分業化によって社会生命性を
帯びる時、それを正しく自覚すれば、利己と利他の複合した
「他我」に到る。
「飼う」であれ「使役する」であれ「殺して食う」であれ、そこに
全地球的生態系の持続性に基づく正しき愛(全体的生命性の
最大限の発揮)があれば、「ヒトのエゴ」などではあり得ない。
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#4


どちらが主でどちらが従かということではなく、
その二つが同時に存在しているという事です。
円柱を真上から見れば円、真横から見れば四角であるのと同じです。
エゴによって買われた玩具にたいして愛情が芽生えることもあるでしょうし、
愛情によって飼われ始めた動物をエゴによって捨てることもあるでしょう。

エゴという言葉だけで人を理解しようとするのは無理です。
完全な愛がないのと同じように完全なエゴも無いのです。

なぜ、エゴにこだわるのですか。
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公で言う言葉だから「犬を飼う」「犬を飼ってて良かった」と言うのではないでしょうか?



犬を飼ってる人は、気持ちとしては家族として迎え、いっしょに暮らしてるんだと思いますが、だからといって公の場で「○○と暮らしてる」「○○と暮らしてて良かった」とか言ったら、犬と人間は違う扱いを受けている社会にいる人間達からしたら変に思われるからあえて避けてるんです。

私の家にも犬が3匹いますが、友達の前では「○○っていう種類の犬を飼ってるよ」と言います。
犬は所詮人間のエゴで飼ってるだけ、と思う人が大勢いる世の中だからです。実際に、法律などでも動物は人間と同等に扱われることはありませんし、人間とその他の動物は違うのだ、という世界ですからね。そういう人間社会に犬を連れ込んでしまったことが間違いだったのかもしれません。だからといって、既に犬は野生では生きていけないように進化してしまっています。ですから、人間に食べ物を与えてもらうしか生きる道がありません。

私は家では犬のドックフードを食べることもあります。しかし、それを公の場で行うと、怒られます。「もっと人間としての尊厳を持て」と。実際に、寄せ鍋でドックフードと缶詰を入れて食べていたら怒られました。一番人間のエゴに浸ってる人は、動物を飼わず「動物を飼うことは人間のエゴだ」と言う人のことなのかもしれません。ですから、私は公では「人間が犬を飼っている」という風な上下関係をわざと含ませた言い方をします。そうしないと、「おかしいんじゃない?犬は犬だろ。人間とは命の重みが違う」と非難されるからです。

うちにいる犬の3匹のうち、2匹と私は仲が良くて遊ぶので、人間の友達に「昨日はうちの仲良し3人組で遊んだ」と言ったら「は?ばかじゃないの?」って言われました。

犬は今まで飼ってきましたが、実際犬から学ぶことがとても多いです。そこらへんの人間よりよく人間ができてます。悩むことがあったら、犬の行動や優しさ、素直さを目標にすることにしています。そうやって日々家では犬に学び、癒されながら暮らしています。

人間のエゴは動物を飼っていない方でももっと身近にあります。
子どもを作り育てることです。
そして教育もそうです。教育者たちです。
介護もそうです。
しかし、どちらも必要なことであります。
身をわきまえた親、教師は「勉強を教える」という上から目線の言い方はしません。
日々、子どもや生徒から学ぶことで、お互いが成長していくのです。

犬を育てることも似たようなものです。

全ての動物を飼うことは好ましいことではありませんが、犬猫のように、人間に懐こうとする動物になってしまえばいっしょに暮らさざるを得ないと私は考えます。
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チャールス・ミンガスと同じ名前が気になって立ち寄りました。


『荒馬と女』という映画がありました。変な映画ですが、マリリン・モンローが最後にぷんぷんと怒って飛び跳ねるのは、20年前の記憶が違っていなければ「こんなの人間のエゴだ、ひどい!」という感じだったでしょうか。
映画の主眼はおそらく馬と女の対比にあって、男性的な作家性が際立てられているのだろうと思われ、エゴかエゴでないかの話題を提出するような作りにはなっていないですね。いろんな意味で問題の位相の違うものが混ぜ合わさっている、という感触が印象的でした。ご質問を見てちょっと思いだして。

逸れた話から始めましたが、もう少し続けます。野生動物は動けない状態に追い込まれると抵抗をやめますが、本能的に、無駄に傷ついて体力消耗する事を恐れるからだと思います。逃げるより一瞬でも長く生きる方へ望みをシフトするのでしょう。捕獲した人間はというと馴化を始めます。
おいしい食べ物と人間とをセットで記憶させ、ブラシをかけたり掻いてやったりして、動物のほうでそれが当然のように錯覚してくる。すると、馬であれば、いよいよ鞍をつけて乗る。馬がなんだろう?と思っているうちに、思い切り走らせたり褒めたりして、馬はまたこれで当然のような気がしてくるのですね。

犬や猫は長い歴史の中で、こうした馴化のしやすかった個体の掛け合わせに次ぐ掛け合わせを経てきているわけですが、かつて人間の生活の役に立っていたことは確かでしょう。馬や牛や駱駝によって長距離移動が可能になり、羊の毛や山羊の乳や、それらの糞の肥料が役に立ちました。家畜を支配するのを手伝う犬や、狩猟の手伝いをする犬や、鼠や虫を捕まえる猫がいました。
人が小鳥や小動物をつかまえて閉じ込め可愛がるというのは、犬や猫と少し違っていて、自然の一部を手にいれることによって、自然への憧憬を満たしている、生活に自然を呼び込んでいる行為ですね。

いまや、犬や猫のペットの大半は生活上の役割を過大に期待されていません。「飼う」とは「食べさせる」を根本として養うことですが、むしろ飼い主の役割のほうが主要になりました。
ところで捕獲馬に役割が求められていたのと同じように女に役割が求められていた時代も過去となり、捕獲馬が自由を束縛されたのに反して女が本来の自由を拘束されたくないと憤慨した時代も過去となりました。家父長制度的にそれほど拘束されていない女性もまた生活上の仕事を過大に期待されなくなったのか、石川達三なんて作家が結婚に疑義をはさむ小説をいくつかヒットさせたこともありました。

残るは愛や慰みの問題ということになるのですが、これはルサンチマンともヒエラルキーともアイデンティティとも一枚岩の論理では片付かない複雑な事柄でしょう。
対象の、自由かつ自律的存在が、愛によってどれくらい脅かされるのか。。。
使役の対象、崇敬の対象、愛の対象の違いは何に由来するのか。。。
愛の対象の「玩具化」とはどういう事態なのか。。。
「余暇」や「ストレスからの解放」で、飼う=動物を食べさせ養うということが成し遂げられるだろうか。破綻しないだろうか。。。
エゴ、つまり自分本位ということについて、自分本位な愛、自分本位な慰みを、家族に向けないということはどのように徹底されるだろうか。すなわち、弱い者、順位の低い者がペットではなく幼児などの家族であるという事態も世に起こりうる。。。

あまりまとめる気がなくてすみませんが、蛇足ながら、わたしは動物を飼っていません。ひとえに動物を飼う習慣を持っていないからです。
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食って、糞して、寝るだけの人生よりも、”心温まる人生”の方がよっぽど良いとは思いまへんか?



食って、糞して、寝るだけの人生なら、刑務所でもできるよ。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございます。

食って、糞して、寝るだけの人生より、何かを犠牲にして得た”心温まる人生”の方が重い(良い)と云うことですか?

一部の人を除き、そもそも一般人にとって刑務所は”心温まる人生”など求める場所でもないでしょうから、同じ俎上に載せるのは違うのでは。

つまり”心温まる人生”を送る為の犠牲 = エゴ と云うことですか。

勿論、食って、糞して、寝るのは人についてですよね。

お礼日時:2011/11/09 01:13

初めましてこんばんは。



家族であるとは思いますが。
人間が、(生命が)生きるためには、ヒエラルキーにおいて、常に何か自分の思いどうりになるものを傍に置かないといけない。人間の、欲求の象徴である、品種改良された生命体。
将来の人間自身を映し出す鏡のようなもので、とてもいとおしい「かわいい」のではないでしょうか。
ああ~いずれは人も他の生命体に取って代わられる、そういう感覚かもしれません。
同じような意見です。
私は、限りある生命体だからこそ、出来ればより飼ってあげたいと思いますが。
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この回答へのお礼

「将来の人間自身を映し出す鏡のようなもの」
大変興味深いご意見です。
確かに人間の都合のいい様に品種改良されたからこそ、かわいいのですね。
今後も続々と新たな「鏡」が作り出されるのでしょう。
最早、愛玩動物はエゴをも超越しているのかもしれませんね。
どうもありがとうございました。

お礼日時:2011/11/09 00:58

紋切り型で解釈すべきではないですよ。


玩具でもあり家族でもあるはずです。
家族で無ければ全ては玩具という二元論では人の心理は理解できないと思います。
セックスを否定したいがために愛を否定するようなものですなー
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この回答へのお礼

どうもありがとうございます。

玩具でもあり家族でもある、と云う二律背反の構図をヒト対ヒトに当てはめた場合、どの様な構図になるでしょうか。
主に対する従は買われてきた奴隷、もしくは絶対的マゾヒストくらいしか思い浮かびません。
奴隷は家族ではないので、ヒトと比較することがそもそも違うのでしょうが‥。
つまり、玩具でもあり家族でもあると云う状態は、表題の人間の身勝手なエゴでしょうか。

お礼日時:2011/11/09 00:56

人間のエゴ以外なにか他に考えられますか?

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この回答へのお礼

友人複数にこの話をしたのですが、(私のまわりでは)半数ほどがエゴでは無いと云う答えでした。
しかし、その半数全員がただの感情論になってい、
ヒトが如何に優しいかなどの性善説に終始し、納得のいく回答は得られませんでした。
動物も保護を求めているはずだ、とどこかに飛躍した意見さえありました。
どうもありがとうございました。

お礼日時:2011/11/09 00:47

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