プロが教えるわが家の防犯対策術!

日本人の話し方が奇妙になってきているような気がします。

テレビを見ているとあちこちで耳につきます。
いくつか例を挙げますと、

(1)「・・・だしィ~」、「・・・でぇ~」、「・・・だとォ~」、「・・・けどォ~」
など語尾にいちいち強いアクセントを付けて延ばし、更に尻上がりのイントネーション
の話し方(ひどいときには1オクターブぐらい上がって下がる)。

(2)「友情?」のように、しょっちゅう自分で自分に質問しながら話すような話し方。

(3)「~みたいな」で終わる話し方。

(4)「~さんとお付き合いさせていただいています」
のような気味の悪いへりくだり

(5)「・・・かなァ~、と思います」のようにきっぱり「~と思います」
と言い切らないあいまいな話し方。

とりあえず今思い出したままを並べましたが、
聞いていてとてもベタベタした感じですっきり感がありませし、
「個人の意見」を述べているという感じがしません。

言葉や話方は時代とともに変わるのは自然だと思いますが、
それにしても義務教育期間に何もスタンダードが示されない
というのは変ではないでしょうか。

それではまるでアメーバーのようにどうにでも変わっていってしまい、
日本人や日本語のアイデンティティーが無いに
等しいのではないでしょうか。

そこで皆様のご意見をお聞きしたいのです。

1)フランスは自国語をとても大切にすると聞きましたが、
そもそも義務教育期間中に、話す訓練をしない国など
あるのでしょうか?

2)日本人が意見を言うのが下手で、話し方にも無頓着に見えるのは
義務教育期間中に話す訓練が全く無いに等しいからではないのでしょうか?

3)日本も義務教育期間中に話す訓練を取り入れるべきではないのでしょうか?
話すことは個人の存在、尊厳に関わることであり、もっと教育の一環として
重視されてもいいのではないでしょうか?

※ここでいう「話す訓練」とは、アクセント、イントネーション、自己紹介
スピーチ、ディベートなどです。

ご関心をお持ちの義務教育関係者、語学教育関係者、社会学、
文化人類学、言語学などがご専門の方のご意見を
お聞かせいただければ大変嬉しく思います。

A 回答 (6件)

テレビを見てても気になることがありますね。



アナウンサーの言葉づかい、
政治家の言葉づかい、

「命がけでやります」とか、
「おかしい」とか、
「普通」とか、
「常識」とか、
「ちゃんと」とか、

そんな言葉をどこで覚えてきたんじゃい !

とテレビに向かってどなっている時あります。

なんの解決にもならない言葉を教えるのが
学校教育だす。

その方が、
御自分に、出来ない事があるのが
ばれると、恥ずかしいと思っている、
また、
出来ない事がばれてしまうと、
御自分にぶら下がっている、
イチモツがショボショボになってしまう、
御国のトップ、あらゆるナルシストトップの方々にとって、

いつでも、国民を自分たちのいい様に動かせるからです。
税金を払う国民の代わりなどいくらでもいるからです。

今日、オンギャーと産まれて来たベイビーの為には、
御自分に出来ない事があれば、
それを表現出来る、
「読む」
「書く」
「聞く」
「話す」
などの手立て、(他にもございます)
御自分の出来る事で生きていけるすべ、手立てを
学習させる内容をいかした教育が必要かと思います。

その方が、
人類として、または人間として、生き残りやすい。


そして、
出来ない事が、はずかしい事ではない。
出来ないことから生まれてくる
御仕事の方が多いのですから。

自分がどの程度の器量しか持ち合わせていないか、
習い事でもいい、
途中でやめて、子供が「僕はこの程度の器量かな ?」
と向き合う事が、途中で習い事をやめても、
知る、ということが実りなんです。


子供が自分自身と向き合う様に教育することが望ましいと思います。

産まれたときから違うのです、
男性と女性が違う様に、
男性に出来る事があれば、出来ない事もある、
女性に出来る事もあれば、出来ない事もある、


あらゆるいい加減な御国仕事、強制教育、
人の気持ちもわかりましょう・・・
ですって !
人の気持ちがまるまるわかったらボロボロになっちまいますよ。
男性の気持ちがまるまるわかったら、
女性はボロボロになり~の、
男性が女性の気持ちをまるまるわかれば、
男性もボロボロになりましてよ。

極端な表現ですが、
ボロボロになったお姿をみて、
悪い点数をつけ、
ボロボロにならずにいれば、
いい点数をつけるのが
御国の教育です。

悪い点数をもらっても、つけられても、
良い点数をもらっても、つけられても、
本人はボロボロですよっ、
そして、
そのボロボロの中にいる間、
仕方がない、とかいっている間は、
御国仕事のなすがまま、となる訳ですね。

どこのお国でも一緒です、
つまらない御国仕事と
つまらない宗教仕事が

人間という、動物の本能を奪っていっている。

そう思えば、
この間の日本の戦争では、
アメリカは日本人のことを良く研究なさってましたね。

アメリカには、あの時分に、
将来、今の日本なることを
想像出来た方もいらっしゃったと思いますよ。
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お礼ありがとうございました。



> 「奇妙な話し方」に重心を置いていまして、
> この妙な「くせ」をどこかの時点で修正するチャンスが
> ないものかなあ、と思ったのが投稿のきっかけでした

このことも考えたのですがね、
そちらが重点だとしたら、テレビをなくすのが一番の近道だと思います。
極論かもしれませんが。
なぜそのように思うのかといいますと、
子どもは授業中の発言と、普段の言葉遣いは、
結構使い分けているんですよ。
人の前で自分の考えを発言するときに、
わたしは(ぼくは)○○だと思います。
なぜなら、~だからです。
というような定型はどこでも使われていますし、
子ども同士の話し合いやディベートの時にも、
「でもさぁ、~でぇ・・・~じゃん(上がり矢印)」
というような言い方をすることはあまりないです。

教師の側も、主述の関係がおかしかったり、修飾関係が間違っているときには、
いちいち直します。
また
「先生、トイレ!」
「先生はトイレではありません。」
は、もはや有名ですが、
子ども同士で
「トイレに行かせてください、だろ。」
とか、
「トイレに行ってきます。だろ。」
とか、突っ込み合っていますよ。
それでも休み時間の友達同士での会話を聞くと、
質問者様がおっしゃるような、
今時の言葉遣いをしているなあと良く思います。

使い分け、をしている子ども達に、
教育課程の中でいかに増やしても、
効果は薄いと思いますがいかがでしょうか。

尚、
とり立てて時間を設けなくとも、
(もうければそれはそれで良いのでしょうが)
全員が何らかの形で自分の考えや思ったことを話すチャンスは、
少なくとも1日1回以上はあります。
全体の前でなくとも、学習でわかったことを隣の人と伝え合う活動や、
学習した感想を伝え合う活動、なんかは、
国語以外でもよくなされている活動です。
話し方の定型(スタンダード)は、学年に応じた内容が
国語をはじめとする各教科の教科書にも明示されていますから、
是非、今時の教科書もご覧になってみてくださいませ。
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この回答へのお礼

>子どもは授業中の発言と、普段の言葉遣いは、
結構使い分けているんですよ。

●う~ん、この点は盲点でした。
確かにそうかもしれません。
大人に置き換えたとしても、
例えば、イントネーションに関して、一番極端なのは20~40代ぐらいの
女性だと感じていますが、彼女たちにしても、
まさか仕事の場でそういう話し方はしませんよね。
ということは、私が例に挙げた(1)~(3)に関しては、
プライベートと公の場では皆使い分けているということなのですね。

●乗り物の中やテレビの街頭インタビューなどでの奇妙なイントネーションや話し方は、
あれは公と意識していないからなのですね。きちんと話そうと思えば
話せるわけですね。そう考えれば、確かにそういう気がします。


●一方私が挙げた例(4)、(5)などは、芸能人、政治家、企業経営者などの
記者会見等、公の場で広く耳にしますが、この際(1)~(3)などとは区別して
考える必要がありそうですね。今こうして考えると、(1)~(3)と(4)(5)はちょっと
性格を異にするようですね。

●(1)~(3)は単なる癖、(4)(5)は癖というより自分の発言を
ぼかしたり(良くとればソフト化?)、敵を作らないでおこうというような
無意識の言葉遣いであり、文化人類学的考察の範疇に入るのかも
知れませんね。ここは分けて論じるべきなのかもしれません。
これまで一緒くたに捉えていました。良い着想をいただきました。

●(1)~(3)などの癖は、いかにプライベートでのものとはいえ、
「汚いなあ」、「だらしないなあ」という印象が強いです。
もちろんこれも世代によって感じ方が違うのでしょうが、
公私使い分けての上のことであるなら、
修正は難しいのでしょうかねえ。

●(4)(5)のような言い回しについては、また別の質問を立てて
話題を募ったら興味深いご意見が聞けるかもしれません。


このたび大変は貴重なご意見を頂きありがとうございました。
大変勉強になりました。

お礼日時:2011/11/06 23:17

1)他の国は存じ上げませんが、


   日本の小学校国語科は、
   読む
   書く
   話す・聞く
   の分野で構成されています。
   指導要領改訂のたび、話す・聞くの内容は
   強化されてきているように感じています。

2)上記の通り、「まったくない」のは、
  質問者様の思い込みなので、そのような理由はないと思います。
  個人的に感じているのは、
  小学校入学時の子どもが持つ「語彙」が、
  この20年間で100語減っているというデータが示すように、
  元々の言語力が低下しているため、上にのせていくのに
  苦労しているのではないかということです。
  実際、算数などを指導していても、
  「日本語が通じない!」
  と思うことはよくあります。 
  また、
  幼児期から言語を利用したコミュニケーションをおろそかにし、
  映像メディアの利用が増えてきていることも一因だと感じています。
  一目でわかる表示 が、もてはやされていますよね。
  あとは、「言い聞かせる」しつけから、
  「威嚇する」しつけをする人が増えていることもあるでしょうか。

3)義務教育期間中には、かなりの時間を割いて
  話す・聞くの活動が行われていまし、
  そのうえ、どの教科においても、
  言語活動を重視して話し合いなどの活動を取り入れて学習しております。
  そんなわけですので、
  他のところでいかに言葉を重視していくか。
  多少わかりにくくて回りくどくても、いかに言葉を使っていくか。
  そんな社会にならないと、学校だけでは如何ともしがたいと思います。


イントネーションとアクセントですが、
発音がはっきりしない子が増えているのは、
食生活によるところが大きいと思います。
あごが発達しないので、発語がはっきりしない(喋るのに労力がかけられない)
私見ですが。
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この回答へのお礼

>3)義務教育期間中には、かなりの時間を割いて
  話す・聞くの活動が行われていまし、
  そのうえ、どの教科においても、
  言語活動を重視して話し合いなどの活動を取り入れて学習しております。


●そうなんですか。自分の子供時代を思い返しても、
みんなの前に立たされて、何かを発表したり、
スピーチをさせられたという記憶がほとんどないものですから…。
最近は文部省の指導要領などには明示されていて、
現場でも重視するようになってきているのでしょうか?

●この質問を出す前にいろいろ検索してみましたが、
「スピーチ」「小学校」などで検索すると、
必ず英語教育の話になり、母国語のスピーチの
話題がヒットしません。ということは、義務教育では
話す練習が「スピーチ」としては行われていないのではと思いました。
各科目の学習過程で「発表」のような形で行われているのでしょうか。
だとしても、自由意見発表のような形での「スピーチ」
の時間はほしいところですね。例えば、月曜日に「先週末にしたこと」などのテーマで
一人ずつ前に出てスピーチするとか…。
今の忙しい学校教育の中では無理なのでしょうかねえ…。


●ただ、今回の質問では話の内容より、
「奇妙な話し方」に重心を置いていまして、
この妙な「くせ」をどこかの時点で修正するチャンスが
ないものかなあ、と思ったのが投稿のきっかけでした。
そういう意味では、義務教育などでは発言させるだけで手いっぱいで、
話し方の癖を直すどころではないのでしょうかね。
先生も相当過酷な状況のようですから。

●ここは思い切って、算数・国語・社会などと並んで「話し方」
という科目を設けて、本格的にやってほしいくらいです。
「話し方」には独立した科目をあてがってもいいほどの
重要性があると思うのですが。よその国ではそういう科目があるのでしょうか?
ちょっと調べてみたいと思います。

貴重なご意見ありがとうございました。

お礼日時:2011/11/06 16:49

専門でもなんでもないですが、貴方のおっしゃるとおりに感じています。

しかし、江戸時代の喋りが今使われたら違和感があるでしょうから、時代とともに変わルと言うことで、諦めるしかないのかも判りませんね。
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この回答へのお礼

>江戸時代の喋りが今使われたら違和感があるでしょうから

●いやあ、今これを読んで、現代人が時代劇のような話し方を
していることを想像してにんまりしてしまいました。
確かに言葉は時代とともに変わっていきますよね。
それはどこの国でもきっと同じことでしょう。
しかし、江戸時代でも子供が変な言葉を使ったり、
変な抑揚でしゃべったら、
大人は注意しなかったのでしょうかね?
それこそ長屋のご隠居さんとかが!

●諦めからは何も生まれませんから、
ここは頑張って「話し方」ということに
もっとスポットライトを浴びせてもいいのではないでしょうか?
どこの国でも義務教育に「スピーチ」の授業ぐらいあると思います。
子供の話し方が全く野放しな国があるのでしょうか?

●子供に自己紹介をさせると、「○○小学校、○年○組の××です」
で終わってしまう子がたくさんいます。
ああ、決定的に話す訓練が不足しているんだなあと実感します。

●きちんとしたしゃべり方ができれば、きちんとした自己紹介もでき、
自分の意見に責任をもった話し方ができるようになり、
当然責任も自覚するようになり、遠大な話ですが、
そのずっと先には世の中が前向きになるような気もしますが。

●まあ、そこまで言わなくともいいですが!

ご意見ありがとうございました。

お礼日時:2011/11/06 11:58

教育する側に、教える能力がない。

教師だけでなく成人全体のレベルが不充分です。
これがいちばんの問題です。次に、マニュアル化された事を教えるブロイラー製造の
ような学校では、質問者の言う分野は育成しづらい。さまざまな年齢層の見知らぬ人間と
接する事のできる機会が重要ですが、サークル活動やボランティアの方が適しています。

また、会話能力なんて学校で磨かれる物ではありません。家庭教育こそが重要なのです。
学校にいる時間より家庭(校外)で過ごす方が時間が長いのですから。

現代教育は外聞のために第二外国語の導入を考えていますが、母国語すら危うい事を
認識している者は殆どいません。さらに、学校や教育機関の腐敗が酷く、公的機関に
一任できる状態ではありません。日教組やセクハラ問題だけでも重症なのが分かります。
さらに、関東のPTAが提唱している児童ポルノ規制は、自分の子供に性教育すらできない
愚か者がヒステリーをおこしたに過ぎません。

重ねて言います。現行世代の大人が不充分なのに、どうやって改善するのか。
そこにいちばんの問題があります。また、教育とは行政の区分ですが政情などで
変遷します。教育機関を行政から独立させた方がマシになるのではないかと
思った事があります。

最後に、若年層のTV離れはかなりのものです。現状のままだと数年単位で、TVのいらない
世代がやってくるでしょう。質問者もそういうTVコンテンツから離れる事を推奨します。
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この回答へのお礼

>教育する側に、教える能力がない。

●確かにそうですね。私もその点が心配です。
質問で例に挙げたような「奇妙な話し方」は
すでに50代ぐらいまでに広がっているように観察しています。

●しかし、諦めていても何も変わりませんから、
例えば、各分野の識者による「話し方ガイドライン」「マニュアル」
のような物をとりあえず作ってみることもできるのではないでしょうか?
まったく日本語の話し方が義務教育で注意されることが無い
という状況も野放図な感じがします。

>マニュアル化された事を教えるブロイラー製造の
ような学校では、質問者の言う分野は育成しづらい。

●「ブロイラー製造のような学校」とはうまい表現ですねえ!
笑えます!確かにブロイラーみたいですね!!
でもマニュアル化されたことを教えるのが上手であれば、
意外と話し方訓練もマニュアル化してあれば練習させやすい
かもしれませんね。

●ここで言う「マニュアル化」とは、「マニュアル化された話し方をする
人間をブロイラー的に増やす」という目的のものではなく、
少なくとも日本語を母国語とする上で、
基本的なアクセント、イントネーションの知識や
自分の意見をしっかり効率的に伝える技術・コツなどの
ガイドラインとなるような「話法のマニュアル」という意味です。

>質問者もそういうTVコンテンツから離れる事を推奨します。

●テレビはあくまで世の中を映す鏡としてここではあげています。
お笑い芸人やタレントや特別な人の話し方を言っているのではなく、
ニュースなどに出てくる市井の人や政治家、文化人と呼ばれる人、
さらにはアナウンサー、キャスターなどあらゆる人の話し方について
述べています。この質問はテレビの中だけに限定するものではありません。

参考になるご意見をありがとうございました。

お礼日時:2011/11/06 11:35

全くの素人です。


最近の日本語は曖昧な表現で責任を明確化しない傾向があるのはご質問者の意見通りです。
これは世の中の風潮にも責任があり、最近大臣が失言問題で辞める事例が多いですが、言葉の一部分を取り上げて追求されるとどうしようもなく、それを避けるために「・・・かなァ~、と思います」のように尻尾を捕まれない言い方をしたり、個人の意見ではなく組織の意向のように責任を転嫁する言い方しか出来なくなっていると思う。
ブログ、ツイーターでも同様で、感情の趣くままに書いてしまうと炎上してとんでもないことに。

個人ばかりでなく、企業でも同様で、いろいろ電話すると昔は食いついてきて積極的な提案を出してくる担当も多かったですが、現在はマニュアル的で、言質をとられないようなどうでもよい話が多く、時間の無駄と言うことも多々あります。

ご質問者が

>言葉や話方は時代とともに変わるのは自然だと思いますが

という事ではないかと思います。
会議の場で欧米のように自分の主張を獅子吼して議論を戦わせ、成果を上げていくという風土はもともと日本には合わないもので、その手の人間は異端として排除される傾向がある。
有益だと思っても「俺は聞いていないぞ」と事前の相談がないことだけで反対したり、「先送り」とか「慎重な対応」とかよく判らない言葉も出てきます。
「先送り」という言葉が出たので『具体的な時期はいつか?』、「慎重な対応」と言われたので『やる方向で作業を進めてよいか』と突っ込むと、場を知らない人間だと次回から外されてしまうか、一人でやってくれと誰も出てこなくなる。

風土が違うので、欧米のようなディベートは難しいと思うし、日本語は変化しやすい言葉だと思う。
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この回答へのお礼

>会議の場で欧米のように自分の主張を獅子吼して議論を戦わせ、
成果を上げていくという風土はもともと日本には合わないもので、
その手の人間は異端として排除される傾向がある。

●確かにそうですね。風土というものは100年、200年では変わらないですからねえ。
まあ、しかし、社会に出てからのディベートまでは期待しないまでも、
義務教育での「話す練習」としてのディベートは、そうした風土を少しでも変え、
自分の言葉に自信やプライド、責任が持てる人間を増やすことになるのではないでしょうか。

>有益だと思っても「俺は聞いていないぞ」と
事前の相談がないことだけで反対したり、
「先送り」とか「慎重な対応」とかよく判らない言葉も出てきます。

●はっはっは!まったく、鋭い観察ですね!
確かにそんな言葉が頻繁にまかり通っていますね。

●言葉をあいまいにして、正しい方向へと進むべきエネルギーを
雲散霧消にしているのですね。そういう風土では先進的な考え方を
次々と実行している韓国などに太刀打ちできませんね。

●しかし、ここでは論点を「奇妙な話し方」そのものに絞り、
義務教育でのトレーニングの可能性を考えてみたいのですが、
どなたがご意見ございませんでしょうか?

Hikowan88さん、非常に面白いご意見
ありがとうございました。大変参考になりました。

お礼日時:2011/11/06 10:58

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