No.1ベストアンサー
- 回答日時:
京都・地形で必ず出てくる説明に「四神相応の地」であることが挙げられます。
URLをご覧下さい。更に日本全体においての京都の位置、ということに関しての私見です。
・それ以前の都が奈良にあり、ある程度近い場所への移転が自然
・大雑把に言って奈良時代や平安初期の朝廷の範囲は現在の関東くらいまで、関東以北はしっかりした支配が及ぼせない範囲であるので、全体のなかの中心としては近畿地方が適当だろうと思う。
・当時は文明の進んだ大陸からの文物・人材の受け入れに積極的であったので瀬戸内海・敦賀湾などの海路で大陸との交流がしやすい場所が良かった。
(しかし日本海に面していると来襲も心配なので、ある程度内陸部に引っ込むことも大事)
というような理由で京都だったのではないでしょうか。
狭いことは狭いですけれど、奈良の都はもっと狭いですし、遷都当時は十分な広さに見えたのでしょう。
「長らく」を江戸の終わりまでだとするとその間に政治の中心は福原にちょっとだけ移ったり、鎌倉に移ったり江戸に移ったりしていますが、政治を担うことになった武士階級は、朝廷と物理的な距離を置きたかったのではないですか。だからこそ都は京都から動かなかった。
また、全ての機能が京都に集中していたら、人口が増えすぎて収容しきれなくなっていたでしょうが、
政治の中心を別に構えたことと、経済の中心としての大阪が発展していったこと(これはひょっとしたら京都が手狭だからこそ大阪が発展した、という側面もあるかもしれません。まあ港があったということが大きいのでしょうが)でうまく分散されたので、あえて都を移す必要性がなかったのだと思います。
いろいろ書きましたが、ご質問はひょっとして「四神相応」だけで解決できましたか?そうであれば、残りの部分はおまけだと思ってお読み捨て下さい。私見ですし。
では失礼します。
参考URL:http://www.unki-up.com/i/shishin.html
回答有難うございます。
「四神相応の地」ですか。はじめて聞きました。
風水的に良い土地だったのですね。
そういえば奈良に都があったのも不思議に思います。
交易に便利だった土地が選ばれたという説もなるほどと思いました。
興味深いお話有難うございました。
No.7
- 回答日時:
他の方の回答におおむね賛成ですが、No.4の方の意見にだけ
反論します。
>風水学も絡んできますが、要は守りやすい地形だったと
>言えるでしょう。
>平野部だと、四方から攻め込まれますが、
>今のように自動車や飛行機があるわけではなく、
>徒歩や騎馬での移動になるため、
>山岳部だと、おのずと侵攻ルートは限られてきます。
京都は実は、極めて守りにくい地形です。
周囲を山に囲まれているので、一見守るのが楽そうですが、
実は侵攻ルートが複数存在し、守備側はその全てに兵力を
手当てしなくてはいけないため、一ヶ所あたりの防御力が
低下します。
日本の歴史を振り返ると、京都をめぐる戦いは、ほとんどが
防御側が敗北しています。
源平合戦の時代の木曽義仲、南北朝時代の後醍醐天皇などです。
軍事に明るい武将は京都の防御の弱さに気づいており、
万が一攻められた際は、京都を逃げよという言葉を残して
います。
万が一の際は京都を捨て、福原(現在の神戸)に遷都せよ
といった平清盛、京都を逃げ比叡山にいくよう後醍醐天皇
に進言した楠木正成などです。
実は幕末の戊辰戦争でも、京都を攻める幕府軍は軍隊を分散させ、
複数ルートから京都に侵攻すれば絶対に勝てたはずなのですが、
大局を見据えた戦争指揮ができる人材が幕府側にいなかった
ため、鳥羽・伏見方面の一方向からしか侵攻しなかったため、
ここを重点的に固めた薩長側に負けてしまいました。
ご回答有難うございます。
京都は守りにくい地形なのですね。
私は兵法に詳しくないためよくわかりませんが色々あるのでしょうね。
ではなぜ守りにくい土地を都にしようと思ったのでしょう。
やはり風水の力が大きかったのでしょうか。
現代の考え方では推し量れないものがありますね。
No.6
- 回答日時:
今日、京都駅で、昔の京都と、今の京都市の重なった地図をみたのですけれどもね、
盆地の真中4分の1ほどだったようですよ。
平安京って。
あと、できた当時は、少なくとも大阪は内陸湖のような海の下でしたしねぇ。
しかし、鎌倉時代は首都、鎌倉だったと考えた方がいいんでないでしょうか??
アフガンではカブールにディフェンスミニスターはいるけど、それ以上の元首はいないって時期があったわけで、征夷大将軍って英語ではディフェンスミニスターですもの。
イタリアにおけるローマとバチカンみたいに、
封建時代の京都って、飾り物の町だったのではないでしょうか??
ご回答有難うございます。
京都駅に昔の京都と今の京都を比較できる地図があるのですか?
すみません、それはどのへんにあるのかもしご存知でしたら教えていただけないでしょうか。
次回京都へ行く時は是非見てきたいと思います。
No.5
- 回答日時:
長らく京都が都であった理由についてはすでに述べられているので、奈良の都(平城京)から京都(平安京)に改められた理由だけ補足したいと思います。
壬申の乱(672年)以後、天智天皇系の家系を抑えて、天武天皇系の家系が天皇として君臨し、聖武天皇から娘の孝謙天皇(のちに称徳天皇となる)へと政権は受け継がれました。ところが、孝謙天皇は結婚していなかったため、子孫が無く、より近い家系の人物に天皇は受け継がれることになります。その人物が天智系を引く白壁王なのですが、この人はいい加減もうジイサンで、その息子の他部親王(母親が聖武天皇の娘)に皇位を譲ることを目論んだのでした。母親が聖武の娘なら、天武の家系は危うくも保たれるからです。しかし、政権争いでこの母子は敗れ、他部親王は獄死します。
そこへ、白壁王のもうひとりの息子、山部王が候補に上りました。この人の母親は渡来系の女性でした。白壁天皇が天智系である以上、ここで天武系の継承が完全に絶たれることになりました。こうして即位した山部王が、桓武天皇です。
桓武天皇は、それまで優勢であった天武を破って新王権を立てた、という自覚・プライドのもと、中国の王朝交代になぞらえて、都も奈良から京都へと大規模な遷都を行ったのでした。
京都が都に選ばれた理由は、風水思想によるものでした。地形の面、方角、あらゆる面を考慮した結果です。加えて、皇位継承に敗れた他部王の恨み・呪いから自分の立てた新都を守護する意味もあり、「平安の都」すなわち「平安京」と名づけたわけです。
また、都の鬼門となる場所に比叡山延暦寺、羅城門の東西に東寺と西寺が控えることで、仏教の力で完全に悪鬼をシャットアウトし、都を守る役割を図りました。つまり、寺院を擁した「四神相応の地」だったのです。
以上のことから、京都へと遷都されたのは、新王朝の樹立という桓武天皇の自覚、それに伴う地形の利便性が風水によって決定されたことが原因と言えます。
以後、京都の強大な寺院と天皇家の結びつきの強さや正統性により、長く天皇家が住み着くことになります。 幕府が成立しても都は変わらなかったのは、幕府そのものの性質によります。幕府は、東北の蝦夷の討伐、国内の自治を守るための機関であって、根本の価値は都に置いたままで派遣された軍事グループという役目があったのです。幕府がいくら権力を振るおうとも天皇家が廃絶しなかったのは、天皇が日本書紀以来の「神の系統を引く者」という観念があったからこそでした。
(もちろん、鎌倉幕府が成立するまでの黎明期は軍事と政権と天皇が同じ京都にあり、分かちがたく結びついて一体を為していたわけですが。)
このようなことから、幕府と天皇家(朝廷)の関係上、京の都は長らく首都としてその権威を保ち続けたと言えるでしょう。
ご回答有難うございます。
なるほど、京都がその地に選ばれたのはやはり風水によるところが大きかったのですね。
鬼門となる場所に延暦寺などを配置したという部分、とても興味深く拝見しました。
有難うございました。
No.4
- 回答日時:
風水学も絡んできますが、要は守りやすい地形だったと言えるでしょう。
平野部だと、四方から攻め込まれますが、
今のように自動車や飛行機があるわけではなく、
徒歩や騎馬での移動になるため、
山岳部だと、おのずと侵攻ルートは限られてきます。
ちなみに「日本の首都は東京」という法律は明治以降発布されていないので、
法律上はいまだに平安京が首都だったりします。
かつての国旗・国歌と同レベルのことですが。
ご回答有難うございます。守りやすい地形、というのは頷けます。飛行機や自動車の無い時代、地の利を利用しての戦いが重要だったのでしょうね。
>ちなみに「日本の首都は東京」という法律は明治以降発布されていないので、
法律上はいまだに平安京が首都だったりします。
とのことですが、平安京というと桓武天皇の頃から変わっていない、という事でしょうか。
「天皇のいる場所=首都」と思い込んでいましたが少し混乱してきました。
でも首都が法律で定められているものならば、日本の法律が存在しなかった時代の詔勅がいまだ生きているというのはおかしな話のような気もします。
No.3
- 回答日時:
こんにちは。
#1,2さんが,ほぼ書きつくされていますので,別の観点から書かせていただきます。(私見です)
私が思いますには,京都が長らく日本の首都だったのは天皇制に関係があるのではないかと思います。
古代は,天皇が権力を握っていたので,天皇の座を巡っての骨肉の争いが当たり前で,度々,旧勢力から逃れるため,新政権は遷都をしてきました。また,京都方面へ来たのも,奈良の仏教勢力の力が強くなりすぎたのが一因と言われていますし。
しかし,次第に天皇の継承方法も安定していき(一時南北朝の時期もありましたが),武家政権が実権を握るようになってからは,天皇家は飾り物になり遷都をする必要がなくなったからだと思います。
それと,遷都には当然莫大な費用がかかりますから,実権を失った(したがって財力が低下した)天皇家が遷都をするのは無理だったと言うのも,理由の一つかもしれませんね。
それと,今でいう首都という感覚は当時は無かったのではないでしょうか。(当初はあったと思いますが,だんだん,武家政権が成立してからは,天皇がいる場所という程度の感覚になったのではないでしょうか。)
ご回答有難うございます。なるほど、現代の日本では天皇のいる場所が首都となりますが、当時はそういう概念がなかったという事ですね。そう言われると「日本」という国の概念ができたのも明治以降のようですものね。
No.2
- 回答日時:
なぜ、現在の京都に置かれたか?に関しては、1の方の通り「中国の観念論」からきています。
中国人は内陸人ですから、元々海に面して・・・という発想があり得ません。
狭い京都に・・・と今の感覚で見るとなりますが、広大な沖積平野が開発されたのは戦国時代以降、特に江戸時代になってからです。現代の日本人の感覚からすると便利な平野ですが、当時の感覚では、大暴れする大河の近くということになります。
※ 江戸時代初期に当時の利根川は東京湾に流れていましたが、付け替え工事で現在の銚子に流れるようになりました。
結果として長らく京都に首都があったというのは、歴史の偶然でしょう。天皇家が打倒されたら首都が変わったのでしょうが、武家政権は、「おいら、勝手に地方でやっていくから、天皇はそのまま ご自由に」という方針でしたので、朝廷があるところとしての首都は変わりませんでした。
また、京都盆地の地下には、琵琶湖に匹敵する規模の巨大な地下水系があるそうです。人口の集積地には、飲み水が大量に必要です。京都盆地の地下水系がふんだんにあったので、水不足にはならなかったというのも隠れた理由かもしれません。
ご回答有難うございます。なるほど、当時の関東は治水工事のされていない大河の近くでよろしくなかったのですね。
京都盆地の地下水系の話は初耳でした。
なるほど色んな理由があるわけですね。勉強になります。
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