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縄文人は1万年以上まえから列島に移住し、そのうえにBC1000年ごろから米作技術をもつ弥生渡来人がやってきた とされているようです。初期渡来人が縄文人を奴隷化、占有化、あるいは殺戮した ということは起きなく 平和的融合が進み そののちBC100年以後小国の戦争が始まったようです。対立は縄文人対弥生人ではなく 混成対混成のように思われます。世界史的には文明化された人種が未文明の人種を圧倒していくことは よくあることとおもわれます。
そこで質問ですが
(1)なぜ列島では縄文人と弥生人が平和的に融合したのか
(2)列島での戦争の始まりの原因はなにか
です。

列島で起きたことは 世界史的に例外ではなく どこでもいつでも 条件が整えば起きる という普遍的な回答をお願いします。

A 回答 (3件)

狩猟採集(栽培)から農耕・牧畜に移行する際はどこでも「闘争(戦争)」はないと思います。


それぞれ必要とするものが異なるからです。
農地・放牧地という「土地」、特に優良な土地を巡って争いが起きるのかと思われます。

この回答への補足

縄文人の男子染色体(y)はD2とされてます。列島では略40%の人口比率で現在現れます。ところが 韓国では D2は極わずかなのです。BC1000年以前
韓国にも縄文人が相当いたという説は 韓国の縄文的特長が残る遺跡から 有力と思うのです。お説にしたがえば 韓国では縄文人の農耕=>農地への展開が進んでおり そこに文明度の進んだ別人種が進入し 戦争がおき 縄文人が圧倒され今日に至った と理解されます。正しいでしょうか。

補足日時:2012/01/28 22:40
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(1)


 私は、縄文人が狩猟を中心にしていたことから、それほどの人口密度はなかったと考えています。

 そこへ、少しずつ弥生人が入ってきたと考えます。

 周囲が海ですから、当時の造舟技術からして、大人数が大規模に入ってきたとは考えにくいのです。

 「元朝」の時代の元寇でさえ、台風の季節を知らなかったのですから、めったに来日できたはずがありません。

 ・・・ 少し入ってきた人が、鳥獣のいない(縄文人には興味がない)平地見て、少し土地を耕して米などを作る。

 最初はおそるおそる眺めあっていた縄文人と弥生人の間に、交易がおきたでしょう。

 今でも、旧インカ帝国あたりの山岳民と平原民は物々交換をしています。縄文人は鳥獣を出し、米や野菜と交換するというようなことが当然おきただろうと思われます。

 すると、相手は怖い存在ではないとわかり、友好関係も生じ、縄文人と弥生人と言ったところで、アフリカ系とヨーロッパ系ほども違うわけではありませんから、当然交配もおきたことだろうと思います。

 人があまりいない場所に、100年単位でゆっくりと、すこしずつ他民族が入ってくるという条件が整えば、世界中が日本のようになっただろうと思います(が、その条件が成り立ちそうなところはほとんどない)。

 その点、朝鮮半島は、中国側から一気に大量の文物、人間が入ってきますので、一方は駆逐されるであろう、と考えるのはごく自然な考えだと思いますよ。


(2)
 これは、どこでもありがちですが、土地と農産物でしょうね。

 現代と比べれば、誰も住んでいないと言っていいほどの人口であっても、またいかに豊葦原瑞穂の国とは言え、耕地にできる土地は限られていたはずです。

 土地の奪い合いになったことでしょうし、土地は十分確保しても、環境によっては洪水や日照りで人を養えない状況にもなります。

 縄文時代のように、広範囲にパラパラと人が住むのではなく、耕作のためにかなりの人数が集まって住むのですから、人が飢えれば目に付くし、見ればなんとかしなければならないと思うのは当然です。

 そうなれば、他から奪おうとするのも当然のなりゆきでしょう。

 土地がない、人が余る、食べ物がない、などなどの条件が整えば、世界のどこでもその種の戦争はおきます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

『人があまりいない場所に、100年単位でゆっくりと、すこしずつ他民族が入ってくるという条件が整えば、世界中が日本のようになっただろうと思います(が、その条件が成り立ちそうなところはほとんどない)。』ということは縄文人と弥生渡来人が特別な人種ではなく 条件が整えば世界のどこでも起きるということ理解します。
半島の理解ですが『 その点、朝鮮半島は、中国側から一気に大量の文物、人間が入ってきますので、一方は駆逐されるであろう、と考えるのはごく自然な考えだと思いますよ』にプラスして 戦争の始まりに『土地と農産物』が加味されて駆逐が早まったということですね。半島縄文人は侵入者にとって魅力的な『土地と農産物』をもっていたということと思います。

このような考えにたってBC1000年~AD500年の歴史を発掘資料をもとに再現するは 大変おもしろいし 重要と思います。勉強は続けたいと思います。

2012.1.22のNHK特集ヒューマンとは をみておりますと 相手を助けるというDNAをもっているのは人間固有のもののようです。飢餓に苦しんでいる相手をみたら食料を与えるのです。縄文時代はそういった時代とおもうのです。ところが耕作が始まり 人間はやがて戦争という手段を発明する のです。耕作を文明の始まりとすると 人間は文明発展とともに戦争を抱えたといえるように思います。聖書の知恵の木の実を食べた結果のようです。と連想した次第です。

ありがとうございました。

お礼日時:2012/01/29 10:50

狩猟採集の生活を基本としているが十分にテリトリがある場合、農耕の生活をしているが農耕適地が十分確保できる場合、社会集団間の激しい戦闘は起きにくいでしょう。


人口が増えた場合でも、食料等の蓄財方法がない場合や、服従民や奴隷を抱えても利益がない社会状態にある場合は、戦闘は(自分の領地をどこにするを争う)限定的なものになり、うっかり戦闘して怪我や死者が増えたらいけないので、戦闘を避ける、負けそうならば場所を移動するのでしょう。
(遊牧民は移動性が高いです)
農業をしていても、生産性が低い場合は、生産者が生存するのにやっとの収穫しかありませんから、そこを征服して隷属させても、反抗蜂起を抑える軍事的努力をするメリットもありません。
 
戦闘して奴隷や農奴などを獲得し支配を続けるのにメリットがでるのは、農業生産力が高くなって住民の人口を養う以上の生産を確保できるだけの(農業技術の向上)が可能である必要があります。
 
縄文時代でもある程度の農耕はしていたようですが、まだ生産力が不十分だったのでしょう。
縄文人(かなり前から移住してきた人々)と弥生人(新しく移住してきた人々)も、もともと、生産力が低い時代には、各地域で小集団を作って、ある意味では、お互いのテリトリバランスをとりながら、共存、共生していたのでしょう。
 
やがて、灌漑や稲の品種、その他農業方法で高収穫のものを会得した地域と集団で人口が増加し、より広い土地、より農業生産に向いた土地、農業生産の技術レベルが低い村落を占領し住民を奴隷労働に使えばもっと収穫を増やことができることに気付いた人々が、他の集落の攻撃を始めたのでしょう。
 
中国や朝鮮ではすでにそうした時代になっていたので、新しい渡来民ではそうしたノウハウを知っていたでしょうし、前に渡来して農耕をしていた弥生人や縄文人、その混血民も、他の部族を攻撃して占領・隷属させることで豊かさを獲得できることがわかれば、どんどん戦闘もやるのではないでしょうか。
 
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(1)なぜ列島では縄文人と弥生人が平和的に融合したのか
⇒見解:占領し、隷属させることにメリットがでるだけの社会にはまだなっていなかった。
 
(2)列島での戦争の始まりの原因はなにか
⇒見解:農業人口を維持する以上に農業生産高を増やせる方法ができたこと、各種文化が発展したこと(食べるだけではない豊かさ:十分な食料、住居、権威を象徴できる色々なもの、用具や武器を多く持つことが可能な技術革新が進んだこと)が、戦争を土地や労働力を得る有利な手段にしたためでしょう。
 
鹿や熊、キツネ、トラ、猿、人間でも、原始的な採集や狩猟、漁労、農業でも原始的な段階であれば、個体の争いも、集団間の争いも、戦争状態にはならないです。
他人の労働力を使うことで豊かな収穫を得て、農地整備、土木工事、建築、各種道具、武器、宝飾品、権威品を生産できる技術力や文化を獲得して、初めて集団間の戦争(占領、隷属=支配、収奪)が始まるのでしょう。
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http://www.infokkkna.com/ironroad/dock/iron/6iro … 
(P15/19)
北部九州で始まった農耕文化は東日本に伝播して行きますが、農耕文化と共に遠賀川式土器も東進し、農耕開始期の指標とされています。一方 東国の縄文土器が西日本各地で見られる。
これは、東の縄文人が積極的に西日本の渡来系弥生集落で共存し、農耕文化を習得していった証と見られている。
このような事象から縄文人と弥生人が同じ地域の中で共存・融合しながら、水田稲作を中心とする弥生の文化が花開く。
それが さらには 新しい耕地・水利をめぐる集落間・地域間の争いをめぐって、集落内での地位格差 地域・集落間の格差を生み、争いに備える体制 環濠集落・高地性集落そして国へと発展していったと考えられている。
(P18/19)
渡来系弥生人のもたらした定住農耕文化と「鉄」は北部九州だけでは治まりきらず、またたく間に日本列島を東進この過程で縄文人と弥生人が融合して定住農耕生活が広がり、狩猟・採取の縄文の生活が弥生前期には西日本ではまったく消えてしまう。
しかし、この間 定住農耕の集落での弥生人と縄文人の交流度は千差万別 また 東国から移り住んで先進の農耕生活をスタートさせる集落や その逆に弥生人が縄文人の集落に飛び込み先進農耕を始める場合もあった。
縄文系弥生人・渡来系弥生人の言葉があったが、世代を重ね融合が進むにつれ、人口を増やすと共に現在の日本人に繋がる弥生人が誕生した。
そして、弥生人の定住農耕生活が進み人口が増加するにつれ、集落間の格差を生み、新しい耕地・水利を求めて、地域間の争いや集落内の地位が生まれ、弥生の「戦さ」の時代へと突入する。
ちょうど 農耕定住生活が進み 人口爆発の起こる弥生中期以降であり、西から順に戦闘に備えた村 戦の痕跡が急増する。
この状況は私の住む大阪湾北岸地域でも同じであり、数多くの高地性集落が現れ、戦いに備える。
渡来の弥生人が持ち込んだ「定住農耕の文化」「鉄・金属器」によって 日本で「戦さ」が始まったといわれる所以である。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

詳細な説明 ありがとうございました。
私が興味が引かれるところは 初期弥生渡来人が来たとき 縄文人を排除しなった 理由でした。日本と同じような条件にあたれば あとは平和的に融合していく ということのようで、他に似たような歴史をたどったところがあれば
知りたいところです。
大規模な殺戮を生む戦争は そのごの食料の耕作生産、貯蔵など生産技術が発展した後ということで、この例は世界に多く見受けられると思います。
No 2さんと同じ趣旨のお答えということですみませんがBAはNo.2さんにさせてください。

お礼日時:2012/01/30 00:27

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