【大喜利】【投稿~11/1】 存在しそうで存在しないモノマネ芸人の名前を教えてください

「幸せ」とは?と聞かれれば、いろいろな意見があると思う。
その中で「当人が幸せと思えば幸せだ。」という意見がよくある。
しかし極貧の家庭に生まれ、おまけにブサイクであれば、「幸せと思え」
というほうが無理ではないのか?
そういった境遇の人間が、自分より悲惨な人と比べて「自分は幸せだ。」
と考えるのは偽りの幸せではないだろうか?

要するに幸せとは、本人が決める事ではなく、周りが決めることでは
ないかと思う。
金持ちが、「自分らにも悩みがある。」といったところで周りは彼らを
幸せだと考える。
金の価値を命と同じくらいに考えている人が多いからだと思う。

「幸せ」は「正義」と同じく当人の価値観のように思えて違う気がする。
例えば「正義とは?」と聞かれて、窃盗でも詐欺でも当人がそれを
正義と思えばそれは正義だ。と、いう人は少ないだろうと思う。
他人を不幸にすることが正義と考える人は少ないだろう。
やはり、どれが正義かというのは周りが判断することではないのか。
それと同じで幸せかどうかは、周りが決める事ではないだろうか?

みなさん よろしくお願い致します。

A 回答 (17件中1~10件)

周りや社会は内面に留まる正義の高低を「自制心」や「モラル」と尊重し、介入することは少ないでしょう。


しかし、それらが外の対象に向けられたとき、周りや社会は利害調整するために「共通の社会正義」として介入してきます。

幸福観はそもそも外の対象に向けられることは少ないので社会が介入することはないのですが、親による結婚や職業選択の強制といった場合には介入します。

まとめれば、「正義観」は他者に向けられがちなので、その場合は「共通の社会正義観」が必要だが、「幸福観」は内面に留まりがちなので「共通の社会幸福観」というのは比較的に必要とされないということではないでしょうか。
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感覚というのは相対的で、


高いところがあるからそれより低いところを低いと感じられる
暑い時があるからそれより寒い時に寒さを感じられる
貧乏だからそれより裕福な時を裕福と感じられる

等々です。

幸せとは感じるものであり、絶対的なものではありません。そうじゃないと、立場が上のお偉い裕福な人がどうして自殺したりするのか説明できません。

幸せとは感じるもの、生きるとは感じるもの、
その感じたものの中から今の自分よりも少し上の幸せを自分で意図的に勝ち取った時に達成感があって本当の幸せを感じるのです。本当の勝ち負けを知っている人です。

その時に場合によっては他者と比べて見ても優れていたかもしれません。

だから、幸せは自分以外によって決められるものではないと思います。
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>「(金=命)・・・考えている人が多いからだと思う。



そうですか


「「正当な権利」であれば、受け取って当たり前」という議論ですね。
誰が決める、ということでもないと思います。
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「幸せか否か」は本人が決めてください。


他人が「幸せそう」と感じても、本人はそうではない場合は少なからずあります。

正義には法律などのルールが絡んでくるため、
「幸せ」と「正義」は別々に考えるべきだと思います。
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他人が幸せだと評価すれば、あなた自身が幸せに感じるかってだけだ。



貧しいと不幸?
ぶさいくだと不幸?
貧しくてぶさいくなんで、人一倍努力するパワーが出て、大成功して、美人と結婚できたし、幸せに生きてます。

幸せとは、状況に対する「幸せな向き合い方(パラダイム)」のことであって、その状況ではないよ。

だから実際問題、金と外見あっても、幸せを感じない人もたくさんいるよね。
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 こんにちは。



 主観の問題なのですから それは民主制の原則にのっとって決めます。
 すなわち 話し合いで決めます。

 その当人にたずねてみればよいではないですか?
 おそらく十人十色でしょう。つまり 主観の問題です。

 けっきょく一生をついやしてもまだ 当人も周りの人たちも決められないという部分が残るのではないでしょうか?
 でも その過程でそのつど考えを深め互いに話し合ったというその練り上げも 大事なことだと考えられます。

 それとも わたしはブサイクです。けれどもブサイクでわるかったなぁ。おまえに言われたくない。とでも返して欲しいのでしょうか?



 ★ 金の価値を命と同じくらいに考えている人が多いからだと思う。
 ☆ ほんとにそうですか?
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>「幸せは」当人が決める事ではない?



 結局、幸せあるかどうかを、すべてあなたが決めてますね。あなた自身もAさんの幸せもBさんの幸せも・・・・。Aさんの周りがAさんをどう感じているかをあなたが推定して、Aさんの幸せを決めている・・・Aさん自身に幸福感があろうがなかろうが。

 しかし、Aさんに幸福感があるならAさんは幸せです。Aさんが如何なる状況であれ。
 あなたから見てAさんが悲惨な状況にあってもです。

 「こんな悲惨なAさんは到底幸せとは言えない。」とあなたがいくら主張しても、Aさんに幸福感が存在する以上、Aさんは幸せ。



 
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「幸せ(幸福感)」については、何度か論じて


いますが、これはあくまで本人の個人的私観に
よるものですが、「幸せ(幸福感)」の定義は
人それぞれですし、自身にとってもその時その時
で変わってくる時もあると思います。

ある時、とても満足に思えたものが、次の段階に
なると、違う価値観により満足できなくなる。
こういう事は日々の生活の上で多多ある事だと
思います。

何故、そうなるのでしょうか?

それは、人間の心(念心)が流動的だからです。
そして、「幸せ(幸福感)」という事も、その
心(念心)の変化により変わっていくのです。

で、、、そうなると、究極の「幸せ(幸福感)」
はあるのか?と、いう事になりますが、実はこの
「幸せ(幸福感)」=絶対的幸福といいますが、
これこそが、人間がこの世に生まれた目的なのだ
と言われています。

人間を知る事で、物事の捉え方は大きく変化して
いき、価値観も変わっていくものだと思います。
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幸せとは?


>幸せかどうかは、周りが決める事ではないだろうか?
つまり、誰が見てもあいつは幸せだという基準のようなものがあるということですね。
「あいつは幸せなやつだなー。」
というあれですね。
客観的な幸福度はたとえば生活保護の基準に使われたりします。これ以上の所得がなければ人間は幸せにはなれない。

確かに
国家が目指している国民の幸福度などはそんなところでしょう。
それはそれで意味のあることだと私も思います。


しかし、それは人間の幸福のひとつの指標、最低限の基準であって、それだけではとても幸せだと自覚するには足りないと思います。

私は人間が幸せを実感するためにはそれに何らかの+アルファーが必要だと思います。

客観的な事実に基づくもの、それは心とは無関係だということになりますが、やはり人間は心が満たされなければ幸福とは思わないのではないか?

心が満たされるのはどんな時でしょうか。

私は、何らかの比較がなされて、他よりも自分が良い、あるいはよくなった、いい評価を得たといったときに幸福感が現れるのだと思います。比較されるそれは、例えば過去の自分であることだってあるでしょう。

私の一番シンプルな幸福感は、毎朝、気分良く目覚めたとき、昨夜の睡眠時の不安との比較に対して

「あ、私は今日もまた生きていくことができる。」
という生命感、蘇生感、こういったものですね。

ご参考まで。
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1,他人が決める、ということだと、行き着くのが


最大多数の最大幸福て考え方です。

これは、幸福てのは、大体同じ形をしており
計測可能だ、ということを前提に成り立つ
命題だからです。

こういう考えは社会主義となじむ考え方です。

2,”極貧の家庭に生まれ、おまけにブサイクであれば、「幸せと思え」
というほうが無理ではないのか?”
  ↑
間違いです。

極限の貧乏であれば、食べられる、それだけで
幸せになることが出来ます。

不細工であれば、たった一人の異性がいれば
幸せになることが出来ます。

大金持ちの家庭に生まれ、姿形が美しいと
お金がいくら有っても、幸せになりません。
お金があるのが当たり前になっているからです。

姿形が美しいと、何人の異性が出来ても幸せに
なれません。

日本は、昔と比べれば、桁違いに豊かになって
います。
でも、幸福感はどうでしょう。
豊かさと比例しているでしょうか。

昔の人よりも、幸せでしょうか?
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