これ何て呼びますか

明治天皇の乃木大将に対する姿勢は、寵愛そのものであったと思います。どうして明治天皇はそこまで乃木大将を寵愛されたのでしょうか

A 回答 (4件)

>明治天皇の乃木大将に対する姿勢は、寵愛そのものであったと思います。



その通りですね。
反対に、乃木大将は「明治天皇崩御の時に、殉死」していますよね。

>どうして明治天皇はそこまで乃木大将を寵愛されたのでしょうか

先ず、双方共に「似た境遇」だった事が大きいでしようね。
明治天皇は、父である孝明天皇が暗殺されましたよね。
岩倉具視犯人説が高いですね。
三条実美の日記では「統幕に煮え切らない態度を取る孝明天皇をよりも、幼少の息子(祐宮)を頂いて倒幕挙兵を行なう。その為に、御所に攻め入り祐宮を人質にする」との記述があります。
事実、蛤御門の変?では7卿と一緒(人質)に都落ち(長州行き)しています。
この非道が許されるのか?という疑問が出ますよね。
長州閥の伊藤博文が、手をうちました。
大日本憲法第3条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」
この条文で、天皇に対する関与行為行動は「一切治外法権・不問」としたのです。
既に、藩閥政府の飾りに過ぎなかった明治天皇としての気持ちは・・・。
乃木希輔にしても、大した功績も無く大将に飾られたに過ぎませんよね。
乃木が立てた作戦は、多くが失敗しています。
秋月の乱では、陸軍大佐・福原和勝は「豊津での戦闘以外に戦闘しないで、援軍を要請した事に激怒」しています。
西南戦争では、乃木軍は大敗北。連隊旗を西郷軍に奪われました。
日露戦争でも「突撃将軍」として、世界中で有名です。
「敵1人を打つ為に、10人以上が死ね!」という作戦ですからね。
(恐ろしい事に、1945年まで陸軍の基本戦術になりました)
こちらも、乃木が望むか否かは関係なく軍首脳部で決定した作戦の頭として乃木が飾りになったのです。

次に、乃木大将の人間性でしよう。
軍人としての能力・知識・行動力は別にして、人間味があふれた人物だった様です。
今の会社・組織でも「能力よりも、人間性」で出世が決まる事がありますよね。
結果を残していても、出世しない人。結果が無くても、上司に可愛がられて出世する人。
乃木大将の場合、まさに後者に該当します。
「人なつっこい人物」との評価は、乃木が全国の連隊指揮官として赴任した地域で逸話として残っています。

余談ですが・・・。
乃木希輔ほど、後世の評価が分かれる人は居ませんね。
「乃木は、名将だ」「乃木は、愚将だ」
フィンランドでは、ロシアに勝利した乃木は名将扱いです。
「乃木ビール」が、今でも販売中ですよ。^^;
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この回答へのお礼

人間性人間的魅力によるところが大きかったのでしょうね。
私も色々と考えてみたのですが、つまるところ明治天皇とて血の通った一人の人間ですから、理論理屈ではなく情というか「こころ」からの寵愛であったのでしょう。
学習院院長として乃木大将は生徒から相当に慕われていたことからも、その人間性に偽りがなく本物の人物であったと思われます
子供は正直です

みなさん回答ありがとうございました

お礼日時:2012/02/15 20:53

そんなことは、この程度のスペースで決定論を述べられるものではありません。


歴史の勉強がもっと必要です。
人の評価はいろいろあるものですが、ここまでに出てきた意見の多くは、「司馬史観」 に毒されているようです。
旅順攻撃については、当時は “観戦武官” というヨーロッパ諸国の将校がいましたが、乃木の作戦を非難した見解はどこからも出ていません。
この要塞は、コンクリートで固められ、(その情報に気づかず、日清戦争当時のままだと思い込んで乃木軍を向かわせたのは、日本軍全体の責任) これを陥落させるのは3年はかかると、ロシアはヨーロッパでいっていた。それを半年で落としたことで、ヨーロッパでは 「乃木とその将卒は奇跡をおこした」 と評価されています。
そして、海軍の無理な注文からやむなく肉弾攻撃を行った後、乃木の判断で、塹壕を掘り進めての爆破攻撃に転換しており、以降の世界の要塞攻撃は、乃木方式が標準の戦術とされています。
よく言われる児玉源太郎は、乃木の作戦の決定後にやってきました。

質問者の答にはなっていませんが、あまりにも司馬史観の誤りが蔓延しているようなので、答と関係ありませんが。

なお、「歴史街道」 の去年の秋に出た、日露戦争特集号に、司馬史観のでたらめさが簡単にまとめられています。
他にもいろいろな書籍で司馬氏の歴史解釈の誤り、中には用いた資料の不適格さも明らかにされています。
乃木愚将論は、司馬説だけではありませんが、司馬氏の 「小説」 を歴史と勘違いする人が多いので一言。

この回答への補足

そういう方は、ある意味、司馬教信者といえますね

補足日時:2012/02/14 07:29
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西郷隆盛と島津斉彬のことも連想されますね。


ある弟子が孔子に、他の弟子の事を彼は器、たいへん有能だという。
孔子は、君子は器ならず。有能、無能などは関係ない。というのですね。
乃木さんやせごどん(西郷どん)が君子かどうか、君子とはどういう存在か。
それは議論や見解が分かれるでしょう。
阿部次郎の三太郎の日記に西郷論がのっています、常に自己の全存在を提供する方ですね。
乃木論はしりませんが、漢詩は日本人にはいいですね。
中国人に歌わせてどうか、多分音律や平仄がちがうでしょうが。
一つの人格的な美ではないでしょうか?
有能な官僚、官吏。事務屋。得てして品性はどうか。
でも省庁の局長さんたちはご立派です。そうでなくてはみんなの信頼がありませんから。
敢えて自分でかばう人が多いですね。
有能を超えて、美のひとであった。そういう人たちではないでしょうか?
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乃木希典は皮肉にも戦争が下手でした。

ロクに軍事教育も受けずに大将となり、戦術というものを知りませんでした。旅順攻めでも何の作戦も立てず、ただ人海戦術を繰り広げ、多くの戦死者を出しています。ただ、その戦死者の中に乃木の息子もいたので、非難は辛うじて免れました。また西南の役の際は官軍の少佐として参戦しますが、事もあろうに、乃木は明治大帝から拝領した軍旗を敵に奪われるという失態をおかしてしまいます。一説では、乃木が隠れていた民家に置き忘れたというのもありますが、いずれにしても軍旗を紛失したわけです。乃木は切腹を計りますが、部下に止められました。本来ならば明治大帝の前で切腹ものです。しかし明治大帝はこういった人間をこよなく愛する人物でした。父が幕府政治最後の天皇、孝明天皇であった事もあり、「忠義」というものに対し深い造詣を持っていたんです。

乃木希典こそ、明治大帝の好む人物でした。乃木は明治大帝に対しまさに「忠義を持って尽くし」ました。数々の失態もありましたが、明治大帝は、こういった不器用で古武士的な人物であり、自分に対し忠義を尽くす乃木希典をこよなくかわいがりました。明治政府発祥以降も、あくまでも「忠義一筋」。戦争が下手な乃木を大将にしたのも、そういった背景がありました。普通、軍旗を無くした人物は大帝の逆鱗に触れるものですが、大帝はそれを許し、かつまた、日露戦争で「大将」として旅順に送り込んだのです。また旅順陥落の際の「水師営の会見」では敵将「ステッセル」に乃木は帯刀を許しました。これまた乃木の古武士的な性格の一面を見せる場面です。

明治天皇が崩御すると、乃木はその日から札を外します。そして自宅において、大喪の礼の日に妻と共に殉死します。明治天皇の御真影の下に正座し、軍刀によって、まず割腹し、妻・静子が自害する様子を見た後、軍刀の柄を膝下に立て、剣先を前頸部に当てて、首を刺したままうつ伏せになり、即時に絶命しました。

この出来事が乃木を「軍神化」させました。皮肉にも、日本海海戦でバルチック艦隊を葬った東郷平八郎は「軍神化」されず、戦争が下手な、しかし明治大帝に深く寵愛された乃木が「軍神」となったのです。
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