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最近、よく読みにくい名前の子供に関して話題になっていますが、こういった親はどういう心理によってこのような名前を子供につけるのでしょうか?

ちなみに補足ですが、私自身はこのような名前をつけられるのは正直嫌ですが、名づけは個人の勝手なので他人に関してあれこれ批判する必要はないと思ってます。ただ、どうしてこのような名前が増えたのかというのは、時代背景や教育制度とも関係があるのかな、と思い質問しました。

A 回答 (16件中1~10件)

私はむしろ、ありふれた名前を付ける親の心理を疑います。

(読みにくいとは少し違いますが)
名前というのは識別のためのコードなのですから、一度で本人を特定できるほうがよいです。

いまでは、あたりまえに使われているネットのハンドルネームは、もともとは、ありふれた名前の人が、自分を識別してもらうために、自分でつけた名前だったそうです。
「ハロー、ジョージだけど・・・」 「ん?どこのジョージだ?」 というのを避けるために。

ありふれた文字で、ありふれた音の名前を付けられた子のほうが、損をしていると思います。
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いわゆるDQNネームの氾濫は、



偏った個人主義の蔓延

によるものだと思います。

現代の親世代は、
おおよそ核家族から育ってきました。
核家族は直接血のつながった切り切れない濃い関係の中で生活します。
そのため現代の親世代は多くのことが我慢や思慮深さなく許容されることで、
他者との距離感や想像力が以前に比べて重視されずに成長してきたのではないでしょうか。

全てとはいいませんが、
そのような環境で育った者は、
自分のことに他者から口出しされることを極端に嫌います。
自分がよければ他人に迷惑がかかってもいいといった偏った個人主義に陥ることすらあります。
このような偏った個人主義が蔓延することで、
社会との関係の重要性が様々な面で以前よりも低くなっていると私は考えます。
その結果、子供の名前が視対象として三人称(彼=社会)の比重が下り、
一、二人称(私、あなた=家族)を主眼として決定されてしまいます。
特に顕著なのが音や語呂がよいとして当て字を施す命名法です。
強いて言えばペットの名前の決め方近い。
ペットであれば一生涯その主人と添い遂げますから、
私とあなたといった核家族に近い関係だけで済みますので、
社会性を帯びた名前は不要です。
そういう意味でペットに対しては愛玩される対象として、
かわいさやかっこよさのイメージの名前はつけても関係性はおかしくなりません。
しかし、そのようなペット的な名前を人間に付けると問題が生じやすい。
人間は社会に生きるため、いずれ社会に出るからです。

個人主義がいけないとは思いませんが、
各個人も社会でつながっているということをきちんと理解しておかなければ、
あらぬ問題を生じかねないように思います。
せめて子供が自分の名前の由来を自信を持って説明できればいいとは思いますが。

ご参考下さい。
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最近の子供ではありませんが、私の名前は未だかつて誰にも読めたことがない、あなたの言うところの読みにくい名前です。


しかし、それで不自由をしたとか、いやだと思ったことは一度もありません。むしろそれだけで話題ができ、初対面の方ともスムーズにコミュニケーションが取れることの方が多いと言えます。
因みに、名づけた父曰く、漢字(の字義)と字画へのこだわりと呼び名の音へのこだわりのいずれもを満たしたものということでした。画数の多い字ではありませんが、一般的には使用しない名前のみに通用する読みを使用しています。
驚いたことに、同字同読の方、同字異読の方をそれぞれお一方ずつ新聞、ネットで発見しました。
最近そのような、一見読みにくい名前が増えたのかどうかは定かではありませんが、むしろ子供たちの名前を見ると、同じような読みで使用漢字が異なる名前は多いように思いますし、ひらがな名も増えているように思います。

質問内容から感じるのは、迎合的な性格の方なのかなということです。自分の名前が人と違うことに誇りを持つよりも、人に平易に読んで貰えることが大事と考えておられるようです。
名前よりも平凡な姓で目立たないとぼやく方は多いのに、名前で目立つのは嫌で平凡な名前が良いというのも不思議な感じがします。
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目立つ共通点は、その漢字が単独で持っている読み方から外れている、または、学校で習ったり一般社会で使われることが無いと思われる漢字などです。


前者については、「普通の読み方じゃ、他の人と同じで嫌」という心理からでしょう。
後者については、その上さらに「普通の人が知らない字を、私たちは普通に使っているんだ。」という優越感を持ちたい心理が、名付け親である自分たちも知らなかった漢字を使わせたのでしょう。
でも、自分たちが知らないという事は、世間から認知されにくいという事を考える能力があれば、名前の候補に挙げても、決めるのは思いとどまる筈です。
全体としては「集団からはみ出したり目だったりする事を叩き潰そうとする」くせに、一個人となると「皆と同じは嫌」という内面(うちづら)と外面(そとづら)の大きな差と、それを姑息に使い分ける傾向が、戦後の教育で育まれ、さらにゆとり教育のもとで大きく育ってしまったのではないでしょうか。
若い世代のみならず、KYと言われるから口をつぐんで周りに合わせ、その実、皆と同じは嫌だ、と思っているという事でしょう。
私は戦後の教育を受けた世代ですが、過渡期だったので、「個性を大切にしなければいけないんだよ」「個人の意見を尊重しなければいけないよ」とだけは、しょっちゅう言われても、個性って何か、個人の意見を尊重するってどうすることなのか、よく説明をされず、従って良く理解できずに育ちました。
なので、「あ~・・・なんか変かも・・・」と思っても、個性として何もかも認めなければいけないのかなとも思い、口をつぐんできました。
でも、この歳になり、日本が日本でないような、なんだかおかしな世の中になりつつあるので、世間から見て変な物は「ちょっと変じゃないの」と言っても良いと思っています。
日本人として、漢字のいわれなど、大切にして使っていきたいです。
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社会に出る(入園、入学、就職)。


たくさんの出会い。
難読であるが故に間違えて呼ばれる。
「違います」 初対面の第一声が否定から入る。
否定から始まる出会いが一生続きます。結構エネルギーを使うと思います。
子の健康や幸せなどいろいろな親の思いが名前に込められていると思います。親の真摯な思いのこもった名前なら初対面から相手にインパクトのある自己紹介もできて、素晴らしい財産になります。
安易な流行やノリでつけられた珍奇な名前で苦労するのは子供自身であるとともに、親の無常識を吹聴することでもあります。こんなことにも気付かない親が増えたとゆうこでしょうか。
ちなみに「五輪(いつわ)」昭和39年生 とゆう名前の知人がいます。東京オリンピックにちなんだものであることは明らかですが、オリンピックの精神、戦後からの復興、多くの日本人選手の活躍に皆勇気付けられました。一般的な名前ではありませんが一度聴いたら忘れないすばらしい名前だと思いました。
個性を求めるならかっこよくいきたいですね。
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それはゆとり教育で育って常識がなくなった世代が親になりこういう名前をつけているのでしょう。


でもすぐに慣れると思いますし、立派な人物になれば嫌じゃなくなります。
歴史上の人物は今の子供にはあり得ないような変わった名前が多いですよね。
子供の頃は、自分がこういう名前だったら嫌だなと思っていたのですが、今ではカッコいいと思います。
ちなみに私は自分の名前が良くある平凡な名前なので個性的な名前に憧れます。
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名前は公の場で個人を特定する指標です。



名前とは個人の裁量で付けれるものですが、対社会なのです。
名前と言う看板の表側は社会に向いています、決して個人に向いているものではありません。

難解な名前を付けると言う事は「個性」を表現する前に「認識されにくい存在」を表現しています。
社会に属する多くの人間は名前と言う「看板」をまず見ます。そして判断します。
着ている洋服と同じように…。

いわゆるDQNネームをつけると言う事は「社会」を意識しない自分中心の親視線。
名前は社会と子を繋ぐ最初の目印を断つゆうな名前は如何なものかと思います。

まぁ、親の勝手でしょ?といわれればそうですが、勝手な親ね、と思われても納得でして欲しいですね。
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「DQNネーム?」なんて言っている人たちが親になって一歩間違えたら付けてしまいそう。



「DQN」なんて言葉自体社会的に認知されていない一部の人しか解らない言葉。

はたして老若男女「DQN」って言葉、どの位の比率で理解出来る人が居るかね?

とあるテレビ番組の「目撃○キュン」から取った言葉でしょ。

そういう安易な言葉の氾濫が読みにくい名前を付ける原因じゃないかな。
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まともな社会人が持つべき『想像力』の欠如が原因です。


将来、子供が受ける不利益を『想像(予測)』することが出来ない。他人がどう思うかの『想像(理解)』が出来ない。子供そのものの気持ちを『想像(共感)』出来ない。
大人なら備えているべき能力を備えていない、要するに浅慮で幼稚なのです。


>名づけは個人の勝手なので他人に関してあれこれ批判する必要はないと思ってます

子供が、本来は不要な不幸を背負うことになるので、まともな社会人は批判するものです。

ゆとり教育の弊害はあると思います。また、人との関係が希薄になったことも原因の一つだろうと思います。

一方で、ちゃんとした日本語の名前が読めない人も増えましたけどね。
DQNネームじゃないのに、DQNネーム扱いされたりして。
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語彙力の無さ


創造力の無さ
配慮の無さ
が原因ではないかと思います。

「心理」というより仕方ないのかなと思います。

今まで何百年間、海外からの情報というのは港から入ってきました。そして、ようやく昭和に入って外国のラジオ放送が聴けたりと庶民でも気軽に海外の文化に触れることができます。やがて今テレビやネットで自分達で検索すれば勝手に自分しか知らない言葉、漢字の知識を持つことができるようになりました。広く知られていなくても自分の知識になってしまいます。

名前は、子どもの親だけではなく祖父母、曽祖父母、親戚などと集まって話し合って決めるというのは珍しくなかったと思います。しかし、核家族化が進み地元を離れて暮らす家族はなかなか相談相手がいません。そして頼るのはネットや名付け本になります。自分達だけ読めて周りが読めない名前になるのはその点だと思います。

正しい国語教育を受けていなくとも国文学の世界観を知らなくとも、ネットや辞書でチョチョッと調べれば「そう読めそうな漢字」がたくさん出てきます。そして自分の好みの漢字を選びます。

たとえば
「心愛(ココア)」では、「ココア」という既存の言葉に心と愛という字を当てただけです。
「流惺(りゅうせい)」も既存の「りゅうせい」という響きに漢字を当てただけです。

これが創造力の無さで、適当に当て字をしてしまうというのは逆に素直すぎるのだと思います。
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