マンガでよめる痔のこと・薬のこと

江戸時代以前の江戸とはどのような所だったのでしょうか?

歴史に殆ど登場しないので、太田道灌が江戸城を築城したことくらいしか知りません。

徳川家康は当時無名だった江戸をなぜ選んだのでしょうか?

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A 回答 (3件)

 もともと江戸は、寂しい漁村に過ぎず、江戸という地名も「入江の門戸」の村を意味していました。



 鎌倉時代に江戸氏がこの地と関わりを持ちましたが、とくに長禄元年(1457)に上杉氏の家宰太田道灌が江戸城を築いてから城下町が出来ました。

 その江戸城は、戦国時代には小田原の北条氏の一支城となり、遠山氏が上代を務めて支配していました。

 家康が天正18年(1590)に江戸に入府した頃は、「町屋なども、かや葺きの家百ばかりもあるかなし」で、「城も形ばかりに、城のようにこれもなく」というありさまだったということです。 

 なお、徳川家康が江戸を選んだのではなく、豊臣秀吉から領地替えを命じられ、苦渋の思いをしながら江戸に入府したのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

豊臣秀吉が家康に命令したんですか、知りませんでした。

お礼日時:2004/01/19 00:15

かつての東京は武蔵野台地-低湿地-海だけの土地だったそうです。



特に今の「都心部」(江戸中心部)は
高輪・赤坂・上野・本郷・麻布・湯島などの細かい台地と
それらの間を隔てる川とも海とも泥ともつかぬ湿地しか無かったそうです。

湿地というのは今の私たちでは想像もつきませんが、
常にジメジメしていて..
足を踏み入れれば足元の地面からじわーと水が染み出してくるような..
腰を下ろせばおしりが濡れるような..
夏場は湿気で立っているだけで病気になりそうな..
葦という背丈よりも高い草がただただ広がっているだけの
薮蚊だらけの土地だと言うことです。

また、今のJR大井町-品川-新橋-東京駅あたりは湿地どころか「海」でした。

要するに、にんげんの住める土地はそこには無かったのです。

徳川家康は秀吉より関東を与えられ、まず始めたことは土地改良でした。
湿地には川や運河を掘って水が海に流れやすいようにし、
樹を伐り、草を刈り、根を掘り出し、土を盛りました。
遠浅の海を利用して新たに海を埋め立てたりもしました。
大変な努力だったと想像できます。

江戸時代に入ってようやく都市として体裁が整うようになってきたのですが、
それでも
渋谷には文字通り目黒川が作った「谷」があり、
六本木ヒルズのある狸穴は「狸の巣のありそうな草っ原」で、
赤坂のそばの溜池山王には本当に大きな「溜池」があったそうです。

なんか「~だそうです」ばかりで恐縮ですが、まぁ当時の江戸は誰も
住みたがらない最悪の土地ではあったようですね。
秀吉が嫌がらせに利用したのも肯ける気がします。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2004/01/19 00:18

安土桃山時代(織豊時代)前期


徳川家康は、駿河・遠江・三河
以上三国を領していました。

その後、豊臣秀吉の小田原征伐により
北条氏が滅びました。

その論功行賞の名のもとに、家康に
北条氏の旧領である関八州を与えると言いました。
褒美であると言われれば、辞退する事も
かなわず、不承不承先祖伝来の土地から移った
のでありました。
当時の江戸は、♯1さんの言われる通りでした。

秀吉としては、家康は実力者であり危険で
あったので、中央から遠ざけ、自家の安泰を
図ったつもりだったのですが・・・。

「災い転じて福と為す」
後の結果は、歴史が示す通りです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2004/01/19 00:16

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Q今の東京の土地は昔はどのくらいが海だったのですか?

TVで今の東京の土地の多くは、特に湾岸に近いところや、今では東京湾からもかなり離れているところでも、昔は海だったと聞きました。
特に江戸時代?くらいに埋め立てられたと紹介されていましたが、

今の東京で何区あたりが元は海で埋め立てられた土地なのでしょうか?
教えてください。(うる覚えですが、TVでは港区とか、葛飾区とかも江戸時代以前は全部海だった、ような気がします。間違っていたらすみません。)

あと、その大々的な埋め立て事業はいつ行われていたのかとかも教えてください。
もしリンクなど知っていらっしゃったら貼って頂けると嬉しいです。。
お願いします。。<m(__)m>

Aベストアンサー

東京湾の埋め立ては、家康の江戸入府(1590年)直後から始まっていますが、最初は江戸城の築城工事に伴う堀の掘削土で埋め立てが行われました。当時江戸城の東側は海に面しており、この時に埋め立てられたのが今の丸の内、八重洲地域です。 その後1603年から江戸城北部の台地を切り崩して、日比谷入り江の南部一帯が埋め立てられました。 今の日本橋、京橋、新橋、築地地区です。 大体今の国道15号線がそれまでの海岸線でした。 因みに江戸が大都市に変身するとともに、多くの生活ごみが排出されるようになりましたが、1655年に江戸市中でのごみ処理例が出され、今まで適当に捨てられていたごみを、全て墨田区左岸河口の永代島に集めるようになりました。 その後の江戸湾の大々的な埋め立ては、その永代島に集められたごみが使われるようになったとのことです。

Qもし現代人が江戸時代で1ヶ月生活するとしたら、何で困るでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? それとか、今のように肉食はそんなにしなかったはず。 せいぜい鳥や兎の肉くらいでしょうか? あと、お酒もそうですね。 現代人に飲めますか?

匂い。 どうでしょうか? 当時の家の中や、町全体、一体どんな匂いがしていたでしょうか? そして1ヶ月間、現代人に耐えられるでしょうか?

風呂。 現代人が躊躇なく当時の銭湯に入れますか? 当時は毎日入っていたんでしょうか?

トイレ。 現代人に当時のトイレで大・小できるでしょうか? 特に女性の場合。

人によって感じ方が違うと思いますが、上に挙げた以外で 「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? ...続きを読む

Aベストアンサー

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキのバケツではなく、木の桶で運びますから重たい。道具は何でも重たくて大変。飯炊きの釜や薬缶もアルミ製のものはありません。みんな鉄か瀬戸物です。
(4)カマドに火を着けます。火打ち石でやります。なかなか火が着かず難しいです。火吹き竹で空気を送り込んでやっと景気よく燃え出しました。飯を炊きます。一人当たり三匹の目刺をあぶります。
(5)雨戸を開けます。障子はみな紙です。ガラスではありませんので、吹き降りの日だと雨戸を閉めないといけません。昼間でも暗いです。
(6)家族そろって朝食。
(7)食器などを洗います。油の着いた食器を洗うのは大変です。ママレモンはありませんのでギトギトがなかなか取れません。水道の水でジャージャーやるわけのもいきません。
(8)井戸端で盥で洗濯します。これも大変です。

・・・女性は大変でしょう。田舎の明治生まれの女は、以上のようなことをやっていました。江戸時代とそんなに変わりません。電気(裸電球)とマッチだけが江戸時代よりマシなだけです。

>「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?
・・・夏場の暑いときに一ヶ月滞在すれば、参るでしょう。
・網戸がないので蚊に食われる。
・ハエがブンブン飛び回る。食卓の食べ物にハエがたかる。
・冷房や扇風機がないので暑い。雨の日は雨戸を閉めるのでこれも暑い。
・便所が臭く、人の体も臭い。
 夏場でいいことは、行水などで女性の裸を見る機会が多いことくらいかな。

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(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
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Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Q江戸幕府が江戸に置かれた理由

こんにちは

徳川家康が、江戸幕府を江戸に置いた理由を
知りたいのですが
なぜか、ご存知の方いらっしゃいませんか?

どうぞ、よろしくおねがいします><

Aベストアンサー

こんなところではないでしょうか?

(1)京都の朝廷の影響から出来る限り逃れるため
(2)幕府が開かれた当時、徳川家に反逆する可能性があった大大名は島津家・毛利家・前田家・伊達家くらいで、それらの大名の侵略を考えた場合、大阪・名古屋よりも江戸が防衛上適していた
(3)戦国時代の技術革新で土木技術がすすみ、単なる湿地帯だった武蔵野が有力な穀倉地帯になる見通しがついた
(4)領地が変わると、家臣も引越しで負担がかさみ、現地で徴収される兵士の忠誠度も低い&これまで忠誠を尽くしてくれた支配民と別れなければならない。ほぼ敵なしだったとは言え、既に基盤のできている江戸から他の地域に拠点を移すことは徳川家にとってやはり大きなリスクだった

Q最初の天皇はなぜ誕生したのか?

初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?
神武天皇は、国王(日本で一番偉い人)みたいなものだったのですか?

Aベストアンサー

実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたのであろう。と予測する立場があるんですね。
ですから国家や天皇の成り立ち自体はよくわかっていない中で、神話などの古伝承から国家や天皇の成り立ちを整合性を以って説明できるのでは?と目下奮闘中といった人々もいる。とのあり方が現況では一番進歩が見られるスタンスであり、逆にそのような暗中模索な状況こそが、現在の学界における日本国家成立の研究、ないし天皇支配の淵源の研究などの現状だと思います。

そして天皇(大王)を中心とした国家といった概念が表れたであろうとされるのが、いわゆる4世紀の古墳時代と呼ばれる時代であったことは、考古史料から、特に前方後円墳などの規格性の強い墓制の出現で見当がつきつつあるのですが、そこの詳しい実態は、日本はもとより、3世紀段階における日本の国情を伝えた古代中国の史書などが4世紀時点ではないためよくわからないんです。いわゆる「謎の4世紀問題」ですね。

いずれにせよ『魏志』倭人伝などの記述から、卑弥呼が活躍する前後(3世紀)にあっては「倭国大乱」と評価できる内戦状態が、その規模は別として事実あったのでしょうね。もちろんその戦闘状態は天皇の出現と無関係であるとも思えないんです。その様な中、詳しい経緯はわかりませんが、倭国大乱と呼ばれる混沌とした戦乱の世にあって、統一的国家としてのヤマト政権を樹立するだけの武力ないし交渉力が、4世紀段階における天皇(大王)の祖先にあったことは疑う余地はないのかな?と思いますし、考古史料などが語る結果から帰納法的に糸を手繰りつつ明らかにしようと試みている、3世紀から4世紀にどのような経緯で歴史がつながるのか?といった問題は、識者はもとより僕に限らず古代史に興味を持つ者が一番知りたい部分なのです。

ですから率直に申し上げれば「初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?」という質問については「こっちが知りたい部分です」といった頼りない回答になり、せっかくのご質問に明確にお答えできないことを心苦しく思いながらも、現状をご理解いただければありがたいと思う次第です。

実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたの...続きを読む

Qリベラルとは?

・左派、革新、社会主義
・右派、保守
という分類ができると思うのですが、
リベラルや自由主義は、どう考えたらいいのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共和党政策が旧保守主義(右派リバタリアン)で、それ以後を新保守主義(ネオコン)といい保守と名乗っていますが、実態は左派リバタリアン(左派が保守に転換し、現状を保守する為に革新的手法(戦争など過激な改革を許容する)を執ると言う主義)です。

 自由主義の反対となる統制主義も左派だと共産主義や社会主義、比べると右派に成るイギリスの「ゆりかごから墓場まで(高福祉政策)」などが有ります。

 簡単に言うと、積極的に変えようとするのが左派で、変わらないように規制するのが右派です。そして変える方向(変えない方向)が自由か統制かで分類できます。

 日本には明確に保守を謳う政党が無いので、イメージがわき難いのかも知れませんが…。
 (自民・民主党は中道で、共産党は左派統制主義ですから…。)

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共...続きを読む

Q「幕府」と「朝廷」の違いを教えて

中学校1年生の子供からの質問なのですが、

・「幕府」と「朝廷」の違いが分からない。
・そもそも「幕府」って何?「朝廷」って何?

と言われました。
お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

Aベストアンサー

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるという...続きを読む

Q信長・秀吉・家康のホトトギス

上記三人の人柄をホトトギスを用いて表現した文句は有名ですが↓

信長「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」
秀吉「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」
家康「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」

これらは彼らの人柄をわかりやすく例えるために後世に詠まれた、とこのサイト内の他の質問から知りましたが、これらを考えた「誰か」というのは特定の人物として存在するのでしょうか?
ご存知の方がいらっしゃいましたら教えて下さい。
宜しくお願いします。

Aベストアンサー

作者不明だそうです。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~gokuh/ghp/think/zakki_08.htm

Q江戸時代、渋谷ってどういうところだったんですか?

江戸時代には現在の千代田区、中央区、江東区、台東区にあたる場所がよく出て来ます。
渋谷は今では非常に賑わっている街ですが、時代劇では聞いたことがありません。どういう街だったんでしょうか? また赤坂や六本木はいかがでしょう?

Aベストアンサー

江戸時代の渋谷は、諸侯や寺領のほかは幕府の直轄地として統治されていました。
渋谷の丘はほとんどが武家屋敷で、低地の水田地帯には農家が点在し、宮益坂と元広尾には商家がありました。
渋谷の地域は、江戸市街の繁昌にともない、江戸の郊外地として代官や村役人の支配をうけ、人々は名主の絶大な権力と五人組の連帯責任の中で生活していました。

渋谷の語源についてはいくつかの説がありますが、定説はありません。
•昔、この付近は入江であり、「塩谷の里」と呼ばれていました。
その「塩谷(しおや)」が「渋谷(しぶや)」に変わったとする説。
•平安時代の終わりごろ、このあたりの領主は河崎重家でした。
河崎重家は京都の御所に侵入した賊を捕えました。
この賊の名を渋谷権介盛国といいま した。
そこで、堀川の院は、河崎重家に「渋谷」の姓を与えました。
このことから、重家の領地であった谷盛庄が「渋谷」に変わったとする説。
•この地を流れる川の水が、鉄分を多く含み、赤さび色の「シブ色」だったため「シブヤ川」と呼ばれていたとする説。
•渋谷川の流域の低地が、しぼんだ谷あいだったからとする説。

以上、全て渋谷区のHPから。


赤坂には大昔海が奥深く入り込み、坂の下は海でした。長い間に海が徐々に引いて陸地となり、低地は耕作地となり高台とつなぐ坂道ができて、現在の街の原形ができました。「赤坂」の地名の由来は、その昔、現在の赤坂離宮(旧・紀伊徳川屋敷跡)のある高台で、茜が多く取れたことから茜山と呼ばれ、その坂を茜坂(赤根坂)と言っていました。その「あかねさか」の音が詰まって「あかさか」になり、付近一帯を赤坂と呼ぶようになったと言われています。
赤坂の本格的な始まりは徳川家康の入府に始まります。江戸城の造営に際し、江戸城の西に位置する赤坂台地に紀伊徳川家(現在の赤坂離宮・迎賓館周辺)をはじめ大身の旗本や大名を配置して江戸城西の守りを固めました。低地を流れる川は江戸城外堀として整備し、溜池は一時、江戸の水瓶として利用されていました。その名残が現在も「溜池」の地名として残っています。江戸城入り口に赤坂見附門が置かれ、門を出たすぐの坂下には幕下藩士、城内で働く職人方や庶民が住み、坂の上の高台は大名や旗本の屋敷町となって、その形が現在にも受け継がれています。

以上、赤阪五通り商店街のHPから。




「 六本木 」 という地名の由来には諸説あるようです。


[ 説 : その一 ]
その昔、六方庵という大屋敷があり、その庭に六本の松の木があったためにこう呼ばれたという説。

しかしながら、現在は、この大屋敷も六本の松の木も存在していません。

地名の由来は六本の木があったからだと伝えられるが、位置は不明と、文政11年 ( 1828年 ) に地元の名主が幕府へ差し出した文書に書かれていたそうです。


[ 説 : その二 ]
「 六本木 」 という土地は、江戸城にそう遠くない場所で、武家屋敷が多くあったそうです。

その中に、 「 上杉 」 、 「 朽木 」 、 「 青木 」 、 「 片桐 」 、 「 高木 」 、 「 一柳 」 という大名家があり、どの家も 『 木 』 に関係している苗字を持っていたので、そこから転じて、 「 六つの木の付く名前の家がある 」 から、 「 六本木 」 となったという説です。




ヒント
上杉家は、出羽米沢藩上杉家中屋敷 ( 飯倉片町 )
朽木家は、丹波福知山藩朽木家上屋敷 ( 赤坂今井谷 )
片桐家は、大和小泉藩片桐家下屋敷 ( 麻布鳥居坂 )
高木家は、河内丹南藩高木家中屋敷 ( 麻布笄橋 )
一柳家は、2家あるが、播州小野藩 ・ 伊予小松藩ともに佐久間小路 ( 西新橋 ) に上屋敷があってこれが最も近い。

つまり6大名家の江戸屋敷が揃って六本木地区にあったことはないらしい。


[ 説 : その三 ]
市三坂を登った高台には、昔、五本の榎が高くそびえ、品川沖からもよく見えたので漁師の道しるべとなっていたそうです。

この辺りは、武蔵野の雑木林で大木が生い茂げる土地でした。

その土地に、源氏に追われた平家の6人の落武者が逃れて来て力尽き、五本の榎の幼木を墓標がわりに植えて切腹し相果てたが、1人は肯んぜず、さらに落ち延び、一本松に至ってついに力尽き腹を屠して果てた。

そこで村人が供養してやり、五本榎と一本の松を入れ合わせ六本木といったという説。


[ 説 : その四 ]
江戸六方の男伊達がこのあたりに住んでいたので、六方気という言葉が訛り、いつのまにか六本木になった。

六本木という名の起源 ・ 由来については不確かな言い伝えが複数あります。


◯本木という地名
地名は、自然の形態、地形や土地柄、土壌、植物や産業、農鉱業から転じた名前が命名される場合があります。
六本木のように◯本木という地名は、全国各地に点在しているようです。
一本木 ( 北海道、埼玉県、富山県、長野県 )
二本木 ( 新潟県 )
三本木 ( 青森県 )
五本木 ( 東京都 )
七本木 ( 三重県 )
特に二本木、三本木が日本各地に多いようです。

遠方から見て、台地上の六本の松が目立ち、ごく自然に 「 六本木 」 という地名になった可能性があります。


麻布区史には
「 今の六本木辺に昔六本の松があったことに因ると云ひ、又一説に六本の榎があった為めと傳へる 」 と記されているようです。


“ どこに六本の木があるやら ”
江戸の初期の随筆集に、六本木というが、 “ どこに六本の木があるやら ” と書かれている文献もあったそうです。
“ 木は元々と生えていないのです ”
四つ木にも四本の木は生えていません。
それどころか、古くは日本橋の伝馬町あたりが六本木と呼ばれていたそうです。
馬をつなぐ木が横にならべてあったので、四つ木とか六本木とか呼んだらしいのです。


江戸時代に入ってから 「 六本木 」 が形成
六本木が一つの町として形成され たのは、江戸時代に入ってからのこと。

徳川 秀忠 二代将軍夫人の葬儀に功績のあった僧侶たちが、夫人の火葬場であった六本木の地を寺地として受領して起立したもの。

人気のない寂しいこの地に4つの寺を建て、門前町を開いたことに始まります。


真相は一体どの様なものなのでしょう。



以上、Yahoo知恵袋「 六本木 」 地名 由来の真相は?に対するnsawc_nfwsさんの回答。

江戸時代の渋谷は、諸侯や寺領のほかは幕府の直轄地として統治されていました。
渋谷の丘はほとんどが武家屋敷で、低地の水田地帯には農家が点在し、宮益坂と元広尾には商家がありました。
渋谷の地域は、江戸市街の繁昌にともない、江戸の郊外地として代官や村役人の支配をうけ、人々は名主の絶大な権力と五人組の連帯責任の中で生活していました。

渋谷の語源についてはいくつかの説がありますが、定説はありません。
•昔、この付近は入江であり、「塩谷の里」と呼ばれていました。
その「塩谷(しおや)」が「...続きを読む

Q江戸時代は肥満はどのように見られていたのでしょうか?

宿題のレポートで、「江戸時代の子供と現代の子供に肥満指導をするとしたらどんな方法がよいか」という課題が出ています。江戸時代に肥満児は存在していたのでしょうか?だとしたら、「肥満」は現代のようにマイナスな印象だったのでしょうか?適当な資料もなく困っています。誰か江戸時代の文化に詳しい方がいらしたらよろしくお願いします。

Aベストアンサー

日本に限らないと思いますが、昔は一部の権力者や金持ちを除いて
たいていの人が、毎食満腹になるような食事はとれませんでした。
また、肉体労働が主でしたから現代人と比べてカロリーを消費する生活形態でした。
ですから、飢餓とは隣り合わせでも肥満とは縁遠かったのではないかと思います。

そんな中で肥満になれると言うのは
あくせく働かずに十分食べられるという証拠で
金持ちの象徴のようなものでした。

現代の尺度で言えば、肥満は不健康で寿命を縮める要因かもしれませんが
昔は、それ以前に栄養が取れなくて早死にする人が多かったので
例え肥満の結果肝臓を悪くして死んだとしても、
普通の人の寿命が短いので、早死にとか健康を害したとか思われなかったのかもしれません。

「恰幅が良い」というのは、太鼓腹の貫禄のある姿を指しますが
これは誉め言葉です。
この言葉が、昔の肥満の認識を物語っていると思います。


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