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ノモンハン事件に関しては
「1939年5月11日、ノモンハン付近の大草原で、国境をめぐる小さな衝突が起きた」
「国境で起きた小規模な紛争が…」
「国境線をめぐって起った小競り合いが…」
等の表現が見られます。

この「小さな衝突」、「小競り合い」とは、具体的にどのようなことが起きたのですか。
浜島書店『新詳日本史図説』(1998年印刷)では、ノモンハン事件突発の日付を「5月12日、国境で衝突」としています。
11日とされている説明が多いですが、12日とする説もあるのですか。

よろしくお願いします。

A 回答 (5件)

ウイキペディア大辞典を参考にしてください。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%A2% …
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
Wikiには、
「係争地では満州国軍とモンゴル軍がパトロールしており、たまに遭遇し交戦することがあった。5月11日、12日の交戦は特に大規模なものであったが、…」
と、説明されています。
この「交戦は特に大規模」の様子を知りたくて質問しました。

お礼日時:2012/05/16 08:56

>ノモンハン事件の発端



      ↓
根本原因は、ソ連・モンゴルの主張する国境線と日本・満州国の主張する国境線の違い、その双方が主張する国境線付近の警備パトロール中の衝突に対し、双方が国境守備の名目で主力部隊を投入し大規模な戦闘行為を行う軍事衝突事件に至る。

5月11日のパトロール・索敵警戒から衝突の発端となる戦火を交えた現地時間と本格的に戦火が拡大の様相を見せ始めた12日とする説の違い。<私は、日本史の授業では5月12日で教わった記憶があります>

5/12~9/15(停戦協定)までの戦闘で日本軍は大損害を受け、この戦闘中に独ソ不可侵条約(8/23)が成立し、平沼内閣は総辞職した。

※関連事項の推移
5/12 : 国境で軍事衝突
7/2~5  :日本側の大攻勢
8/20   :ソ連側の反撃
8/23   :独ソ不可侵条約締結
8/31   :日本軍の国境線からの後退
9/15~16:停戦協定締結

※参考記事
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%A2% …
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
ノモンハン事件における日本軍の動きは、5月13日以降は比較的よく解るのですが、11日、12日については、私が調べた限りでは、はっきりしません。
「何者」と「何者」が、何がきっかけで交戦したのか、それが分かりません。

○が馬に水を飲ませようと川へ行くと、「そこは○の領地だ」といったようなやりとりがきっかけだ、と何かの本で読んだような気がしますが、小説だったかも知れません。

ソ連の指示でパトロールに出た「モンゴル兵」と「満州軍国境監視哨」との間で銃撃戦があった、とする説もあるようですが、「満州国国境監視哨」といっても、そこに駐在しているのは、満州人なのか、モンゴル人なのか分かりません。
どうやらモンゴル人同士が撃ち合ったような気がします。

お礼日時:2012/05/16 13:04

日本・満州側とソ連・モンゴル側の主張が対立しているので正確なところは現代になってもはっきりしていませんが・・・



「日本・満州側の主張」
5月11日朝に満州軍警備隊は、ハルハ河を越えバルシャガル高地近くに侵入したモンゴル軍騎兵30人と遭遇。他にも別のモンゴル軍部隊60人がノロ高地に陣地を構えているのを発見。満州軍警備隊はこのモンゴル軍部隊と7時間にも及ぶ戦闘を繰り広げ敵をハルハ河方面に撃退。後には敵の死体が5体と兵器多数が遺棄されていたとのことです。
5月12日に再びモンゴル軍が同じ地区に侵入。これを満州軍警備隊が撃退。満州軍によると敵モンゴル軍は大幅に増強され700人の兵力とのこと。
そして、この方面を管轄していた日本軍第23師団小松原師団長は報告を受け、関東軍司令部に、12日朝モンゴル軍700人がハルハ河を渡河し不法越境してきており満州軍と交戦中、師団から部隊を派遣して敵を撃滅すると打電し、後は戦火が拡大していきます。
なお、小松原師団長は12日のモンゴル兵700人侵入のその兵数は誤りで、現地の状況から見て敵兵力は30人から50人と数日後には判断しています。

「ソ連・モンゴル側の主張」
この方面を担当していたのはモンゴル第7国境警備隊(200人)です。
この国境警備隊の少尉の話によると、10日夜20人の巡察隊を分所に派遣。
その翌日11日にトラック4台を随伴した約300人の日本・満州騎兵部隊がモンゴルの主張する国境線を越え、モンゴル警備隊の分所を攻撃。モンゴル軍は2人戦死。優勢な敵軍に押され撤退を余儀なくされます。敵軍はモンゴルの主張する国境から20キロも進出します。
しかし国境警備隊の増援部隊が到着し、12日の夕刻までに敵軍を国境の外まで撃退する事に成功しました。

なおどちらが先に発砲したかについては、日本はモンゴル兵が先に満州軍警備隊に発砲したと主張。
ソ連・モンゴル側はモンゴル兵がハルハ河東岸河べりで馬に草を食べさせていたところを、侵入してきた日本・満州軍の兵士が発砲してきたと主張しています。

11日、12日の戦闘については日本軍、ソ連軍の衝突ではなく、満州軍警備隊とモンゴル国境警備隊の衝突という事件です。
双方の主張に食い違いがあるのでどちらが正しいとは言えませんが、11日に小さな衝突が起き、12日にそれより少し大きい衝突があった模様です。
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この回答へのお礼

詳しく教えて下さってありがとうございます。
よく解りました。すっきりしました。

「馬に草を食べさせていた」という話は、ソ連側の主張にあるのですね。
これで、もやもやがすっ飛びました。

このような戦闘でも「小競り合い」(朝日新聞記事)と表現するのか、と驚いています。
ご教示に感謝します。

お礼日時:2012/05/17 09:11

ノモンハン事件に従軍した今は亡き祖父を持つ者です。


祖父宅に行けば、関連本や資料があるのですが・・・。

諸説ありますが、説明はすでに他の方がしていますので省きますね。

この事件がはっきりしない原因として、
(1)日本軍(というか関東軍)がほぼ全滅したこと。
(2)生き残った中級・下級司令官は上級司令部から敗戦の責任として、強制自決させられたこと。
(3)上級司令官達は緘口令で喋らず、かつ、太平洋戦争でほぼ戦死して生き残っていないこと。
 (まぁ、最低最悪で軍人失格な辻政信はちゃっかり生き残ってますが・・・)
(4)実際に作戦戦闘を執ったのが関東軍であり、本土の大本営に報告すら上げない暴走だったこと。
(4)日本本土の大本営は、関東軍の暴走として、しっかりした調査・記録を残していないこと。

これらのことから、生き証言が得づらくはっきりしないのです。
(ソ連時代の記録は嘘や誇張が多く、元から信用できない)

ただ、衝突した内容として、満州国と蒙古国(モンゴル)が主張する国境線が交錯しており、
                      ↓蒙古軍のパトロール
         |←満州国主張   ● |
         |   の国境       |
         |              |
  蒙古国   |              |     満州国
         |       蒙古国主張|
         | ◎       の国境⇒|
            ↑満州軍のパトロール

上の図のような感じで、お互いが国境侵入したとして、交戦してしています。
どちらが先に発砲したのか?というのは不明確です。

どちらも国境警備のパトロール隊ですので、装甲車や戦車は無く、
歩兵による直接照準の銃撃戦だったと思われます。
翌日には、蒙古国を支援するソ連軍と、満州国を支援する関東軍が
主張する国境線の確定を狙った交渉を有利にするために勝利を狙って参戦してきます。
ここからは、装甲車・戦車・野砲・戦闘機・爆撃機が戦場に登場します。

祖父存命の際には、ノモンハン事件生き残りの軍人で作る研究会みたいな活動が
あったそうですが、祖父亡きいま、この活動もどうなっているのか分かりません。

ノモンハン事件は学校の歴史教育でさえ、教えられることが無いことが多く、
日本人(特に若い人)で知っている人がかなり少ないのが残念です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
ご祖父さまは、従軍され、そして帰国されていたのですね。
この事件の真相がはっきりしない理由がよく解りました。
停戦後、井置中佐は「無断撤退」の責任を取らされ自決を強要されていますね。
捕虜交換で戻った兵士にも過酷な運命が待っていたことは、いろんな本で知りました。

>どちらも国境警備のパトロール隊ですので、装甲車や戦車は無く、歩兵による直接照準の銃撃戦だったと思われます。

このように回答していただくと、ぐっと真実味が湧いて来ます。

お礼日時:2012/05/17 20:30

例えば、ソ連、モンゴル側のいわゆる東京裁判の宣誓口述証人の証言の


一部を拾い読みすると以下のとおりです。(※一部判読できませんが…)

件名:A級極東国際軍事裁判記録(和文) (NO.134)
[レファレンスコード]A08071300500[画像数]484
[階層]国立公文書館>法務省>戦犯関係>戦争犯罪裁判関係資料>A級裁判記録>
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_A08071300500
<368~379/484>
<「ブイコツ」ソ連陸軍少佐証言>
<372/484>
四、…五月十一日二百名ヲ越ユル日滿騎兵部隊ガ「ノモンハン」地區ニ於テ國境ヲ
  通過シ十五乃至十八粁蒙古領内ニ進出シタト云フ…。
  此ノ部隊ト衝突シタ際蒙國境警備兵數名ガ殺サレマシタ。
  一九三九年(昭和十四年)五月十二日侵犯者ハ國境垨備豫備隊ニ依リ滿洲領内ニ
  撃退サレマシタ。…

<蒙古人民共和國内蒙省國境警備軍司令官「ドルジ」少将証言>
<413/484>
五九、一九三九年五月十一日…武装シタ??百名ノ日本兵ガ…
<414/484>
國境警備隊員二名ハ戰死シ、一名ハ負傷シタ。日本軍ハ…奪ツタ。
六〇、一九三九年五月十二日、…武装シタ日本人六十名ハ「シレン・オボ」地區テ
   越境、我國境警備隊員ニ對シテ射撃ヲ加ヘタ。ソノ結果軍馬ガ一頭射殺サレタ。…

<459~468/484>
<蒙古人民共和國國境警備(隊長)チョグドン(チョグダン)証言>
<461~462/484>
例ヘバ一九三九年五月十日?カラ?十一日ヘノ夜
私ハ「ノムンハン・ブルド・オボ」南西六粁ノ地点ニ哨所政治部員同志「ツェドイブ」ヲ
長トスル二十名ニテ??一時的?國境警備哨ヲ派遣シマシタ。
一九三九年五月十一日朝八時頃、重機、輕機、小銃、手榴彈??武装シタ日滿騎兵隊
約三〇〇名ガ貨物自動車四台ヲトモナッテ「ノムンハン・ブルド・オボ」地區デ
國境ヲ越エテ我哨ヲ攻撃シマシタ。
コノ部隊ノ偵察隊トノ戰斗ニオイテ哨兵「バトテ?」手榴彈兵「ドフシン・ノルボ」ハ戰死。
兵「オチシバト」ハ負傷シマシタ。尚軍馬三頭ガヤラレマシタ。
優勢ナ敵ノ攻撃ヲ受ケテ我哨ハ蒙古領土内奥深ク後退シマシタ。
日滿軍ハ我領土間?二粁侵入シマシタガ到着シタ我國警備隊豫備隊?
テ「ノムン・ハン・ブルド・オボ」南方十八粁ノ「????」地區デ停止サシ、
一九三九年五月十二日ノ晩迄???國境ノ外ニ撃退サレマシタ。…

何とも曖昧です。また、日本側となると余り芳しくありませんが、

・件名:週報 第139号
[レファレンスコード]A06031030100[画像数]29
[階層]国立公文書館>内閣文庫>内閣情報局関係出版物>週報
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_A06031030100
<12/29>
内閣情報部編輯(昭和十四年)六月十四日號
ノモンハン事件 陸軍省情報部
三、戰鬪經過の槪要
…更に五月十一日、重輕攪擲彈筒を有する約八、九十の外蒙兵がノモンハン西南約十五粁
附近に於いて不法越境して來たので同地警備隊は之をハルハ河以南に撃退した。この戰鬪
に於ける敵の遺棄死體五、われに損害はなかった。…

・件名:外蒙軍越境の件(関参に電第538号)
[レファレンスコード]C01003453200[画像数]2
[階層]防衛省防衛研究所>陸軍省大日記>陸満機密・密・普大日記>陸満密大日記>
陸満密大日記>昭和14年>昭和14年 「満受大日記 第11号」
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C01003453200

◇『草原の肉弾-ノモンハン事件全貌記-/樋口紅陽/同文館出版部/昭和17.8』
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130969/14
<14/167>

これでは何の事やら分かりませんのでほかをあたったところ、
下記に行き当たりましたが、
goo-par1732 様のことですから、既に読破済みのようにも思いますが…

『政経研究 48(4)/日本大学/2012-03-10』(97-132頁)
「草原の国境紛争 : 第一次ノモンハン事件/秦郁彦」
http://ci.nii.ac.jp/naid/110008895569

4つの一次情報を対比し、かなりの異同があるとした上で、
やや精度が高いのは3として、

3、五月十一日ノモンハン西南約十五キロ付近の地区に不法越境せる外蒙軍
(機関銃を有する八、九十名)に対し、警備隊の一団は二時三十分攻撃を開始し
勇戦奮闘、敵に多大の損害を与え之を国境線外に撃退せり。
敵の遺棄死体五。防衛司令官(注:小松原)は警備隊の郭文通隊長に対し
賞詞を与えられたり(第二十三師団参謀部の情報記録、五月十二日の項)

対するソ蒙側については、冒頭とダブりますので省略しますが、
双方の言い分を照合、兵力数はせいぜい数十人が数百人にふくれ、
数時間の「激戦」だというのに、五月十一日の戦死者はモンゴル軍は2人、
満軍は0にすぎないと、
日満・ソ蒙共に交戦の規模を誇大に申立てているとしていますが、
やはり真相ははっきりしません(><)

下記なども目を通しましたが?のままですm(_"_)m

http://www.kaikosha.or.jp/_userdata/kin-12.pdf

『立命館文學 第622号/2011.7』
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/622.htm
「ノモンハン事件(ハルハ河戦争)の歴史的研究―共同研究の経緯―
Tumurbaatar Narmandakh」
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/622/622PD …

『一橋論叢 135巻2号/日本評論社/2006.2.1』(139-163頁)
「ノモンハン事件発生原因と「国境線不明」論/
アリウンサイハン・マンダフ」
http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/handle/10086 …

余りヒントにはならないと思いますが、
久々なので投稿させていただきました^^
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

私としては、「第二十三師団参謀部の情報記録、五月十二日の項」にある
五月十一日ノモンハン西南約十五キロ付近の地区に不法越境せる外蒙軍
(機関銃を有する八、九十名)に対し、警備隊の一団は二時三十分攻撃を開始し
勇戦奮闘、敵に多大の損害を与え之を国境線外に撃退せり。

この情報を結論にしたいと思います。
内容の精度がどうであれ、この情報でもって5月13日、師団は捜索隊(東中佐)を出したのですから。
この記録では、「不法越境せる外蒙軍(機関銃を有する八、九十名)に対し、警備隊の一団は二時三十分攻撃を開始し」となっていますから、自軍から積極的に攻撃を開始したのだと、宣言していますね。
攻撃されたから反撃したのかも知れませんが、まず、それはないでしょうし、また、あったとしてもそんなことを記録に残すことはありえませんから。

いつも、詳しく教えて下さって感謝しております。

満州国軍の主力は第10軍管区の国境警備部隊で、司令官だったモンゴル人のウルジン氏は戦後、ソ連に処刑されています。
ソ連と日本との戦いに利用されたモンゴル民族の若者が、今、日本の国技・相撲を支えているのだ、と感慨にふけっています。

お礼日時:2012/05/18 14:16

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