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真実は多くの言葉を必要としないって嘘だと思いませんか?
法律上の争いで真実を他人に認めさせるには
たくさんの言葉が必要になります。

自分正して人皆正しいというのも嘘だと思いませんか?
自分が反省しても他人が正しくない場合も多々あります。

A 回答 (10件)

>法律上の争いで真実を他人に認めさせるにはたくさんの言葉が必要になります。



法律上の争いは、真実ではなく、認識論だからこそたくさんの言葉が必要になるのだと思います。

真実のどの側面を見るかによって、法律上の結論が動くからでしょうね。
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この回答へのお礼

みなさんどうもありがとう。

お礼日時:2012/05/27 23:08

イメージをまとまった認識にするために、アウトプットが必要になる


と思います。象徴記号による思弁は、真実に近づく為のひとつの方法
になりえると思います。

やっぱり、こっちが落ち着くなう。
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>真実は多くの言葉を必要としない



都合の悪いときは隠したり自己弁護におちいりやすい。
言葉が多いのはウソが多い時、説明が長いのは弁解するとき、
それに対して「真実は言葉少なし」ということです
これは比較してのことです

>法律上の争いで真実を他人に認めさせるには
たくさんの言葉が必要になります。

法律上の言い争いの時は
都合の悪いときは隠したり、自己弁護に折り要りやすい
ウソがあるので言葉が多くなるのです
この場合においても
真実をありのまま話す人は多くの言葉を必要しません
これも比較してのことです
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「真実は多くの言葉を必要としない」これは私も嘘だと思います。


正しいのは
「真理は多くの言葉を必要としない」
「真実を伝えるのに、(本当は多くの言葉が必要だが)実際には多くの言葉を使用できない」
「真実を伝えるのは(本来は)言葉を必要としない」
でしょうか。

何か事件があった際の報道を見れば良いと思います。
その事件の真相が真実になるのですが、真実は一つでもその見方は無限にあるのが通例です。

1985年に起きた日本航空123便墜落事故を例にとります。
これらは
1.「事件が起きた直接原因」「間接原因」「背景」などの事故直前までと事故そのものの事象
2.その後の経過
などに分類され、さらにこれらは、上記事象に繋がる対処を行った無数の人間の行動が蓄積された結果、それぞれの事象が歴史に記録され、我々の一つの記憶となるのです。
これらを数語で表すのは至難の業です。

リップマンは群集の意見がどのように形成されるのか、という点について著書「世論」の中で次のように述べています(私が回答した他QAより引用しました)。原文を記載しようと思ったのですが、正確に引用するのが骨であるので、私なりに咀嚼して書きました。分かりやすくする為に私自身の言葉なども少し差し込んでいます。どちらかと言えば私の読後感想ですので、原文を当たりたい場合は上記の書籍をご覧下さい。

「人の意見がどのようにして形成されるかというと、その形成の一因には新聞が挙げられる。新聞がとある記事を掲載した場合は、一定の人が読む事によってその記事から個人差はありながらも自分自身の中での似たような経験を想起し、感情をもたらし、その記事について意見を発生させる。
 しかしながら、新聞記事は物事を100%正確に伝えている訳ではない。本来であれば、100%正確な事を民衆は受け取る権利があると思われるが、何故このような事が起きるのか。その理由としてまず、新聞は限られたスペースがあり、その枠内でニュースを伝えなければならない。字数制限がある中で実際に起こった100%の物事のうち、100%全てを伝える事はできない。
 次に記者の取材が一因として挙げられる。記者の取材も、人間の労働であるので限界がある。発生した事象100%の内、100%を取材する事ができない。
 そうした限られた枠内で取材され、広い地域へ情宣され、現場ではない実地から離れた場所に伝えられた不完全な情報から形成されるのが世論であり、人の意見である。」

また、「社会学の根本概念」から引用すれば「無制限の通俗化という要求と極度の概念的正確の要求とは、いつも調和するとは限らないので、そういう場合は、どうしても、後者を重く見ることになろう。」という事で、これも私なりに言い換えると、「真理の集合・蓄積で真実が作られる。社会の真実を正確に論述するには、一つ一つ丁寧に細かく言う必要が出てくるだろう」というような感じになります。

そして私が更に付け加えるなら「社会を分析する学問としてはそれらが必要になるが、しかし実際の生活で人が社会の状況を判断し、行動するには、時間制限やあるいや伝える情報量の制限が必ず生まれるので、社会に発生した真実が完全に全て伝わる訳ではない」という事になります。

「シーザーを理解するためにシーザーである必要はない」とも言いますが、100%の情報連携というのは完全に有り得ません。何も知らないゼロの状態と、その本人が体験した100の状態の数直線のうち、どこかにプロットを置いて追体験をするしかないのです。

不謹慎な題目となり大変恐縮なのですが、この論を進めますと、日航機が落ちたと言えば、その言葉だけの理解しかしませんが、被害者の方はこうで、家族がいて、本当はこうする予定で、日航の対応はこうで、原因はこうで・・・と聞けば、我々もその心情を追体験します。
そしてその季節の雄鷹山に行けば更にそれが理解できるでしょう。
その当事者が思っていた気持ちは、ある程度我々は理解できるものの、100%の気持ちはその人にしか理解できません。
しかし、ある程度のレベルまでそれが言葉無しでも理解できるのであれば「真実を伝えるのに言葉を必要としない」という事になるのですが、それが報道や法理への応用をされているのであれば、それらは間違いだと私は考えます。現代的な社会を構成しているのは間違いなく現代的な構造であり、それらは法律や報道などの情報連携で成り立っており、更に言えばそれらは言語で成り立っています。

人間として何かを感じるという感性による「言葉は不要」という事と、社会を構成するのに言語は必要であるという論理は、我々に人間社会においてはそれぞれ独立して成り立っています。本能による理解は言葉は不要だが、理性による理解は言葉が必要だと言えば良いでしょうか。
ですので、感性の「言葉は不要」という真理は、社会において正確で細かい言語は不要だ、という論理に転化できません。

「自分正して人皆正しい」というのは私は若干違う解釈をしています。
これは自分が何かを行えば、他の人間が無条件でそうなる、という事ではなく、世間が正さないのであれば、自分からまず正してリーダーシップを取るべきだ、という意味ではないかと考えています。
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「言葉」自体が嘘です。


たとえば「犬」といっても、普遍的な犬はいません。
それぞれ個性を持った個体を、ある共通点をもって
ひっくるめて「犬」と言っている訳ですが、そんな
平均的な犬なんてどこにもいないのです。
逆に、言葉を重ねる事で個性を加えていって、
初めて実体に迫る事ができます。
しかし、もっと手っ取り早いのが、実物の犬を
見せる事です。

つまり、「真実は多くの言葉を要しない」というのも
一端の事実ですが、実際はいつも「実物を見せる」
事ができる訳ではないので、たまたまベースとなる
経験の蓄積が共通で直感的に一致する場合以外は、
多くの言葉を要するのです。

「自分正して~」というのは、世間んは、自分の事を
棚に上げて他人ばかり責める人が多いので、
教訓としては正しいでしょう。
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”真実は多くの言葉を必要としないって嘘だと思いませんか?”


    ↑
真実は多くの言葉を必要としないはずだ、という
ことでしょう。
そういう世の中であるべきだ。
つまり当為の問題です。
現実は違います。
ウソでも百万回言えば、真実になるのが現実です。


”自分正して人皆正しいというのも嘘だと思いませんか?”
    ↑
これもそうですね。
そういう社会であれ、という当為の問題です。
ルールなんか守っていたら、ルール無視の奴に
勝てません。

中国のTVから。
「日本人は誠実だ」
「そうだな」
「そうだ、そうだ」
「お前ら、そんなに日本人を誉めるんなら
 どうして日本人のように誠実にしないのだ?」
「バカいうな。中国で日本人のように誠実に
 したら、身ぐるみ剥がされてしまうだろうが」
「そうだ、そうだ」
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>「法律上の争いで真実を他人に認めさせるには


たくさんの言葉が必要になります。」

嘘。


>「自分正して人皆正しいというのも嘘だと思いませんか?」

嘘。
「自分正して人皆正しい」・・・、嘘と思います。

♪だからといって
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>真実は多くの言葉を必要としない



ある意味真実を言っていると思います。
コンパクトにまとまったいい格言です。

>律上の争いで真実を他人に認めさせるには
たくさんの言葉が必要になります。

これは少し違うようにも思います。
法律が語彙多く多弁に見えるのは、真実を言いたいがためではなく、あいまいさをさけて厳密に言わねばならないからだと思います。

私見として、首記の成句は
ひとはうそを言うとき、あるいは自分で信じていないことを他人には信じさせようとするとき、更には自分の失態をつくろって弁解しようとするとき、多弁になルことが多い、あるいは余計なことを言いがちだということを言いたいのだと思います。
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要は視点の問題ですね。



同じことでも、視点が違えば、ホントも嘘も、正義も悪も、しょっちゅうひっくり返ると思います。


数日単位では嘘にしか見えないことも、数世紀単位で見れば本当になったりとか、
個人単位で見れば悪に見えても、世界全体からみたら調和のとれていることだったり、
時代が変われば、昔は善だったことが、今は悪になったり。


固定した視点からでは、正誤、善悪のものさしでばかり物が見えてしまうと思います。

一つの時代を生きる、一個人としての視点など、たかが知れていますから、
そこだけで正誤のすべてを判断できるものではないのではないでしょうか。
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 世の格言ってそんなものですって。

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