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 教科書の情報でいくと

 古墳時代や飛鳥時代の頃の農民は、玄米を食べていたとありますが

 その後、戦国とか江戸になると

 農民は年貢で苦しいので、あわ・ひえを食べていたとありますが

 なぜ、昔は農民でも米が食べれたのでしょうか?

 逆にあわ・ひえが貴重だった?

 

A 回答 (13件中1~10件)

意味不明です。


江戸時代、米を食べることが出来た
農民は少なかったですよ。
だから、あわひえなどを食べていたのです。

尚、中国では今でもアワを食べています。
私も中国人の友人宅へ行ったとき、アワを
喰わせられましたが、まずかったです。
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いや、古墳時代や飛鳥時代は玄米のほかにも、小麦・大麦・蕎麦・粟・稗も食べられていました。

ただ教科書を書いている人は馬鹿なので、農民なら誰でも玄米を食べていたと勝手に思い込んでしまう。日本は狭いようでも広く気象・水利・土壌の条件が同じではありませんから、地域特性に応じて作付けされていました。
戦国時代や江戸時代だって同じです。粟や稗も食べたでしょうが、玄米だって食べています。小麦・大麦・蕎麦だって食べています。ただ教科書を書いている人は馬鹿なので、農民は領主に搾取されて貧しかったと勝手に思い込んでいるわけです。

米は収穫量も大きく美味なのですが、その分気象・水利・土壌に求める条件が厳しく、わずかな気象の変動で大凶作になってしまうのです。米はハイリスク・ハイリターンな農産物です。大凶作になると、わずかな収穫も年貢に取られてしまうので、農民は米を食べられない。それが何年も続くと粟や稗さえ食べるものがなくなってしまう。それが飢饉です。米に対して粟や稗は、収穫量も食味も劣ります。しかし稗や粟は、米が育たないような気象条件でも育つのです。雨が降らない、気温が上がらない、そんな時でも粟や稗は育つのです。だから米が取れない時の保険として農民は粟や稗も育てていました。凶作・飢饉の備えて、粟や稗を倉庫に備蓄していました。

そういったことは古墳時代や飛鳥時代も戦国時代や江戸時代も同じです。リスク分散なんですね。米一辺倒では、米が取れなかったときにお手上げですから、万一の保険をかけておく。

品種改良、土壌改良、農薬、肥料の進歩によって米の収穫量が安定するようになったのは戦後のことに過ぎません。1993年は北海道・東北地方で戦後最悪の不作となり、平成の米騒動と呼ばれる問題になりましたが、その程度の不作は江戸時代以前はごく普通のことで、珍しくもなんともなかったのです。まず質問者さんに認識してもらいたいのは米は収穫量が安定しない不安定な作物だったということです。現代人は何でも現代基準にものごとを考えて、現代のことが当たり前なのだと思い込んでいるから歴史を正しく捉えれないのです。1993年の平成の米騒動は長く続く安定に慢心して保険をかけることを忘れてしまったことが一因です。舌が贅沢になった現代人は、冷害に強い品種でも、味に劣る品種の米を食べようとしない。ましてや粟や稗なんか食べません。そういう消費者に合わせて、北海道や東北地方といった歴史的に冷害が多い地域でも冷害に強い品種の作付けをやめてしまっていた。ましてや粟や稗など、もう誰も育てては居ない。米価が高騰し、問屋は売り惜しみ・売り渋りで市場に出荷しない。それが平成の米騒動でした。

ただし古墳時代や飛鳥時代の頃と戦国時代・江戸時代で何も違いが無かった訳ではありません。

1点目は人口が違います。古墳時代や飛鳥時代は日本の人口は500万人前後だったと推定されていますが、戦国時代には1000万人を超えていたと推定されています。古墳時代や飛鳥時代は条件に恵まれた土地しか開拓されていなかったということです。北海道や東北地方では、まだ稲作は行われていない。もっとも北海道は江戸時代でも稲作は行われていない。

2点目は気象が違います。1400年から1850年は世界的に寒冷化が進んだと考えられています。寒冷化といって平均気温が1,2度下がるぐらいで、氷河期になるわけではありませんが、それでも温暖な気候を好む稲の作況を不安定にする重大要因でありました。

戦国時代・江戸時代は人口が増えて、条件が不利な土地でも稲作が行われている上に、気温が下がるわけですから、より米は不作になりやすく、その影響が大きかったわけです。

3点目は戦国時代・江戸時代は、作付けの品目に農民の裁量権が無かったことです。1643年に田畑勝手作禁止令が発せられたように、農民が栽培する品目を自分で決める権利が無いのです。何事も領主の承認が必要。というのは建前で、実際は時代が進むと田畑勝手作禁止令は形骸化して、やはり農民は換金性が高い作物を育てようとしていました。

4点目は貨幣経済の進展です。米は大阪に運べば高く売れますが、稗や粟などは売れません。領主(大名)は、商人からの借金を返済する為にたとえ凶作であっても情け容赦なく年貢を取り立てる必要があった。また農民も米より高く売れる商品作物を栽培したがった。中には米を全く作らずに木綿・煙草・菜種といった米より高く売れる商品作物だけを栽培して、その販売代金の一部で他所から米を買ってきて年貢として領主に納める農民もいたぐらいです。それは貨幣経済が進展したから、可能になったことです。

そんな具合に農民が米作りをおろそかにして、金儲けに夢中になってしまったことが田畑勝手作禁止令が発せられた社会背景であり、米不足になり粟や稗などの雑穀を食べざるを得なくなった背景です。貨幣経済が進展すると、貧富の格差が拡大します。要領のいい人間にはいくらでも儲けるチャンスが生まれる。その一方で要領の悪い人間は、農業や商売に失敗して借金を作ってしまう。借金を返済する為に食べる米があるくらいなら、市場で売って返済原資にして、自分たちは売れない稗や粟を食べようと考えます。

以上のように、教科書では説明していないでしょうが、古墳時代や飛鳥時代と戦国時代・江戸時代では共通点もありますし、相違点もあります。

歴史の勉強は、教科書の解釈学ではない。頭の悪い人が書いた文章の言葉の上っ面だけをとらえて、妄想を繰り広げることが歴史の勉強ではない。文章をどう理解するかが歴史の勉強ではない。

教科書は、これから始める勉強のとっかかり、出発地点に過ぎないということです。出鱈目な海図でも何も地図がないと東に行けばよいか西に行けばよいか分からない。それでは未知の大海に船出することはできません。教科書の役割はそうしたものなのです。

日本人は古来より五穀豊穣を神に祈願してきました。五穀とは何か。古事記によれば、稲・麦・粟・大豆・小豆。日本書紀によれば、稲・麦・粟・稗・豆。

五穀豊穣にご利益がある神社を護国神社といいます。これは嘘ですけど。

米が採れない土地、米が採れない気象でも粟や稗は実るのです。こういう大事なことを教えない日本の教科書って何なのでしょうか。
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 簡単に言います。

米も粟も稗も穀の着いた穀物です。
律令制下の租税システムのことを憶えているでしょうか?。学校で習った租・調庸・雑徭のあれです。この中で農民にとって最大の負担は雑徭ですが、それに次ぐ負担は調庸です。租ではありません。租は個別人身支配を実現するためにとられた「籍帳に基づき土地に人間を縛り付けて移動させないシステム」の別称ともいえます。
 そしてこの租を徴税として課するためにとられたのが口分田の班給であり、そこには田の等級基準が記されています。曰く「上田・中田・下田・下々田」です。上田が安定して収穫量の高い肥沃な田地であるのに対し、下々田は耕作に不適とされる痩せた土地です。ですから収穫高もたかくありません。そんな土地でも農民は生活していかねばなりません。米を納めねば税金を納めることができなかった、それによって生活も維持していたから米を食べていたとの論理になります。栗やキビも食べていました。
 山上憶良の作品「貧窮問答歌」の名前を聞いた憶えはありますか?。『万葉集』に録られている奈良時代の農民の生活を描写し苦しい生活の様子を綴った作品です。その中には「竃(かまど)には 火気(ほけ)ふき立てず 甑(こしき)には 蜘蛛の巣懸(か)きて 飯炊(かし)く 事も忘れて」との一節もあり、とても貧しくて家族の空腹を満たす食事すらも満足に与えることができないとの様子を伝えています。それほど過酷な生活実態や官吏の取り立てが苛斂誅求だったことをお忘れでしょうか?。
 また中世から近世に対する庶民の食生活も逆です。中世の平安半ばを契機として商業は大きく変貌を遂げます。商業自体が社会全体に占めるウェイトが大きくなります。それ以前の農業経済とは異なり物流によって利益を上げる人々が歴史の歯車を動かし始める時代です。室町幕府の新編追加や江戸時代の贅沢禁止令が幾度となく出される背景には庶民の生活の質が向上していたとの裏付けがあります。これらによれば結構ゴージャスでグルメな生活を営んでいたとも考えられます。今で言えば、今月は少し残業が多かったから手取りが多かった。だから時には外食でもしようかなどのささやかな楽しみが社会全体の経済活動を牽引し底上げしていく形になります。
 粟といえば小鳥のえさなどとの印象がありますが、立田野の粟ぜんざいやたねやの粟餅には数多くのファンもいて僕もその一人です。
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食えますね。


男子は口分田として2段(反)を支給されました。

租税である租は1反につき2束2把(3~10%)と
江戸時代の5公5民とでは大きな開きがあったからです。

しかし、実際には租庸調の3つの義務があり、判断は難しいのです。
また、逃亡する百姓が後を絶ちませんでした。


平安時代になると百姓は雑穀のお粥、米は貴族と分かれるようになったそうです。

しかし、班田収授がうまく機能していた時代である古墳時代や飛鳥時代の頃の農民は、
玄米を食べられたかどうかは大いに疑問です。
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教科書の書き方、読み方の問題です。


 
古墳時代や飛鳥時代の頃の一般の人(農民)の食事は、弥生時代とあまり変わらず質素であった。食事の内容として、玄米を土器で炊いて、塩、山野草を食べていた。
これは、食材の種類が少ないこと、稲籾を食するにも石器で押しつぶして脱穀し玄米にする程度のことしか出来なかったことを、簡単に表現しているだけです。一年中玄米を食べられるほどの稲の収穫は難しく、クリ、クルミ、ドングリやソラマメ、ウズラマメ、ササゲ、アズキ、ハス、ハジカミ、芋、コムギ、大麦、アワ、ヒエ、ソバ、キビ、ヒエも食事に出来るものは何でも、その季節に応じて食べています。
一般の人も、米を食べるにしても、玄米を土器で煮たり、蒸して食べていたということを書いているのです。 人口の1%にも満たない例外の人を除けば、みんながそうした食事をしています。 この時代はもともと農業の収穫は少なく、食糧事情が悪いので、小さい児がたくさん死ぬだけでなく、人口そのものも多くはありません。
 
平安時代の上流貴族は、玄米をさらに精米して白米にして、煮て粥にしたり、蒸して食べるようになりますが、鎌倉時代の武士が米を食べる場合も、玄米を蒸したり粥にして食べています。 鎌倉時代でも、ごく一部の人を除けば、飛鳥、奈良、平安、鎌倉時代前半の人々の食生活や住居は大きな変化がないのです。
大豆を本格的に食べるようになったのは、仏教などの影響で肉食を避けるようになった鎌倉時代のようです。 
鎌倉、戦国、織豊期(安土桃山)と時代が進んで、農業技術も進歩し、江戸時代には肥料も使うようになっています。食料生産はずいぶんと増えたので、農業などの食料生産をしない武士や町人も多数養えるほどになっています。人口は、江戸初期から1700年代までに倍に増えます。 http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/1150.html
上流階級や上級の武士は玄米を精米した白米を現在のように炊いて食べます。 それでも、それだけ多くの人口を養うのは大変なので、稲の収穫も不足気味です。 下級の人は、玄米や麦、雑穀、豆、イモを混ぜたものを食べます。 それでも天候不順で収穫が少なければ、飢饉になったりします。
「農民は年貢で苦しいので、あわ・ひえを食べていた」というのは、教科書では、そのような社会階層の状況(階層が分かれて、人口の10、20%が食事内容も良くなったが、80%の人は、まだ十分に米を食べられる状態ではない)ことに注目している書き方をしているのでしょう。
 
ヒエやアワ、ソバ、イモなどが貴重だったのではなくて、米や麦の収穫が、人口に比べて少なかったのです。
 
どこまで一般化できるかわかりませんが、昭和30年代でも関東・多摩地方の主穀は大麦で、昭和50年代には山梨件上野原市で長寿村として有名になった山間部の村の主食はオバクだったそうです。オバクは、精白した大麦の丸い粒+ジャガイモ+インゲン+小豆などを入れて、半日以上炊いてようやく食べられるようになるようなものだったそうです。少し東京寄りの現在は東京都立川市あたりでも、明治の後半までは日常の主食は大麦を石臼や水車で挽いて割ったものを10合に米を1合混ぜていて、大正時代後半になって押し大麦10合+米2合くらいになったそうです。量を確保するためには、豆や栗、イモ、大根、山菜、キノコなどを混ぜていたらしいです。
地方から出稼ぎに東京に出てきた労働者の方が、米を食べられる機会は多かったのでしょう。
 
教科書でも授業でも、細かいことを全部は説明していません。
その箇所で説明したいことポイントを絞って、説明しているのだと思います。
 
古墳時代や飛鳥時代の頃の説明では、
(豪族や飛鳥文化のようなことだけではないよ)
一般の食生活はまだ貧弱だということを説明し、
江戸時代の説明では、
(元禄文化、文化文政、武士の生活、大阪商人ばかりではないよ)
農民の生活は苦しかったという説明をしたかったのでしょう。
 
他のことでも同じだと思うのですが、教科書や参考書に書いてある言葉だけを抜き出して並べて考えると、わけがわからないことがでて来ます。
その時代の何を説明しようとしているのかという意図なども考えながら読む方が良いと思います。
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  「食えますね。

男子は口分田として2段(反)を支給されました。租税である租は1反につき2束2把(3~10%)と江戸時代の5公5民とでは大きな開きがあったからです。しかし、実際には租庸調の3つの義務があり、判断は難しいのです。また、逃亡する百姓が後を絶ちませんでした」との話ですが、既に自らの論理矛盾を露呈しているにすぎません。取るに足らない学校秀才の模範解答それもはるか昔のカビが生えたような学説を引用しているだけで説得力は一つとしてありません。
 「なぜ逃亡(史料上は浮逃之輩)が後を絶たなかったのか」「男子は口分田として二段を支給され租は一段につき二足二把(3~10%)」が江戸時代と比較してと論理のすり替えを平然として行っています。
 この数字(3~10%)は沢田吾一の『奈良朝時代民政経済の数的研究』(1943年刊)が典拠とされ現在も学界では最も信頼に値する「数字(数値)」とされていますが、沢田自身がこの数字が持つ「意味」に関しては述べていません。それが当時の農民にとって負担として重税感があったかどうかの評価を彼は一言として説明していない。3~10パーセントが果たして実際の耕作地の地種に即して妥当なものであったのか、耕作に適さない土地にも一律に同額の税を課すことの意味を問うなら、そこからは何も見えてこない。高校の日本史で暗記させられる律令制下の租税システムをデータとして記憶することと変わらない。つまり回答者の見識はその程度のものであるとしか評価できない。こうした部分に言及しているのは虎尾俊哉であり吉田孝であり門脇禎二であり早川庄八です
 従って「食えます」などと簡単にいうことはできない、というのが実情(日本の歴史学界、歴史学研究会及び日本史研究会に属する研究者達の共通認識)です。
 データには解釈が伴います。データそれだけを示しただけでは意味がありません。なぜなら「データを発表した側」と「そのデータを読みとる側」ではデータに対する関与の仕方が異なり、どう見るかに位差が少なからず生じることによります。言葉が語り手の口から離れた瞬間に一人歩きを始める性質の存在だからです。
 この点を鑑みて少なくとも僕には恐ろしくて「食えます」などとは言えません。また少なくとも70年代後半以降に歴史学を専門として学んだ者の立場からは到底許容できる性質のものではありません。
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江戸時代の農民が、お米を食べていなかったというのは非常に疑問がある。


農民一揆の要求としては、確かに年貢の軽減ということもあったであるが、
その他に農民を人足として使ったしないことや、奉行の不正に対する是正
などが大きな要求項目となっていることも見逃してはいけません。

だいたい江戸時代後期にもなると、農民も学問をしたり、剣術を習ったりしています。
食うや食わずで困っている人が、そんな余技に取り組むはずがありませんよね。
http://4travel.jp/traveler/u-hayashima/album/100 …

自分の土地を手放してしまい、水のみ百姓と呼ばれる人々もいたかもしれませんが、
逆に豪農と称される富も権力も持った農民もいたことを知ってください。

参考URL:http://www2.ttcn.ne.jp/~kazumatsu/sub226.htm
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考える学習をしなさい。



過去、中学生に全く同じ回答をした記憶がありますよ。

その子は、
口分田は6年に一回全員が支給されると解釈したようです。

実際には、
6歳であれば支給され、5歳は次の戸籍調査の11歳で支給されます。

同じ夫婦子供3人で、
1つの家族4反480歩
もうひとつの家族は2反480歩で租を支払う事になります。


それが戸籍調査が12年に一回になります。
労役で開墾して支給するより人口の増加が多くなったからです。


戸籍12年毎、6歳支給であれば 6歳であれば支給され、5歳なら17歳で支給になるのです。
戸籍12年毎、12歳支給であれば 11歳では23歳まで口分田は与えられない事になります。


残念ながら
白村江の戦いをまるで念頭においていない人物と講釈する時間はありません。


646年、改新の詔で公地公民、租庸調、班田収授法などの詔を出しますが、
663年、白村江の戦いで破れ、防人の労役を追加します。

慌てて飛鳥浄御原令を制定し
戸籍6年に1回、班田収授に関する規定などを制度化していったのです。

白村江の戦いは、進出が逆に敵の上陸に怯える程の方向転換でしたが、
民にとっても国にとっても大きな負担でした。

太平洋戦争の日本や中国の清に照らし合わせて考えてみるのも良いでしょう。
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> 教科書の情報でいくと



教科書の読み取り方の問題でしょう。
教科書というのは非常に解りやすくするために、大雑把に書いたり、簡略化・省略化したり書いています。
また、一人の人が書くのではなく、それぞれの時代の専門家が共著で作っていきます。
当然、専門家ごとに歴史解釈や知識量などもちがい、時には矛盾してたりします。
所詮、教科書の歴史ってのはセンター試験とか大学受験に必要なだけで、歴史的真実が書かれてるわけでもないんです。
まぁ、いまのところ論争の少ない通説を採用してるって感じですね。


>古墳時代や飛鳥時代の頃の農民は、玄米を食べていたとありますが

確かに、玄米も食べていましたが稗や粟もたべていましたよ。
そもそも稗や粟は縄文時代の遺跡から多数みつかっていることから、主食の一つと考えられています。古くは養老律令にも義倉にアワを備蓄するように定められていますし、新嘗祭のお供えに使われていたりします。
どちらも麦や大豆・小豆などと一緒に、五穀の一種でもありす。
時代により必ずしも一定ではありませんが、五穀というのは重要な作物として考えられていたと思われます。


>農民は年貢で苦しいので、あわ・ひえを食べていたとありますが

これは、年貢の問題もありますが、その他にも人口増加やそれに伴う中央政府の支配システムなど様々な要因があります。
特に、戦国時代ともなると戦争に駆り出される回数も増えたりと生産性が低下して行きました。
その後、秀吉による太閤検地の実施や村請制度の創設など、システムの確立によって年貢の取り立ても厳しくなったでしょうね。
それでも、米を全く口に出来なかったかというとそうでもなく、稗・粟・麦などの雑穀中心でしたが、米も付きに3~4割は口にできていたようです。


まぁ、古代と江戸時代とでどちらの農民が米をより多く口にしていたかはわからないのが実情です。
一応、縄文時代と弥生時代の線引きが「稲作の開始」に置かれていましたが、最近の研究では縄文時代でも稲作が行われていた事が分かってきています。
どのように稲作が伝わったかとともに、いつから稲作が始まったかもまだ分からない歴史の謎です。
同じように、古墳時代や平安時代-江戸時代の農民・庶民の食べ物が何だったかも、いろんな説がありますね。

ではでは、参考になれば幸いです。
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戦国や江戸時代の農民はアワやヒエを食べていた、という話は畑作中心の農村から生じたもののように思います。


手元に上野国傍示塚村のデータがあります。慶安郷帳からの数値で「村高192石余、田方31石余、畑高161石余」とあります(角川地名大辞典・群馬県)。
田が非常に少ないんですね。この村から納める年貢は、免(年貢率)を四公六民とすると 192石余×4割=76.8石 となります。これは米で納めたはずですが、この村の田で採れる米では恐らく足りなかったでしょう。(田高は31石余とありますが実際の生産量は不明です。一般的には高よりやや多いはずですが、もし2倍あったと仮定しても足りません。)
この村では米は全部年貢にせねばなりませんから食べることはできなかったはずです。だからといって貧乏村とは言えないかもしれません。畑から採れるアワ・ヒエ・蕎麦などの量が十分であったのなら(味は良くなかったとしても)満腹できましたから 貧乏=アワやヒエを食べる という論理にはなりません。

一般的には江戸期の農民は米を主食にできたと思います。アワやヒエで命をつないでいたのなら、それらはどこで作ったのでしょうか? それだけの土地があるなら米を作ることを考えるはずです(気候などの事情で米が作れない地方は別にして)。つまり米が十分に取れる地域においてもアワやヒエを主食にしていたというのはウソと言わざるを得ないことになります。もし本当に食べていたのならそれは飢饉の時で、しかも川の土手などに自然に生えたものだったと思われます。
また、農家は一般に米は可能な限り売って現金化します。そして自分達はクズ米、雑穀、豆など商品価値の低いものから食べます。このことも「農民はアワやヒエしか食べられない」という話の発端になったように思います。
こういった話に尾ひれが付いて冒頭の話になったのではないでしょうか。
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