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 古墳時代や飛鳥時代の頃の農民は、玄米を食べていたとありますが

 その後、戦国とか江戸になると

 農民は年貢で苦しいので、あわ・ひえを食べていたとありますが

 なぜ、昔は農民でも米が食べれたのでしょうか?

 逆にあわ・ひえが貴重だった?

 

A 回答 (13件中11~13件)

食えますね。


男子は口分田として2段(反)を支給されました。

租税である租は1反につき2束2把(3~10%)と
江戸時代の5公5民とでは大きな開きがあったからです。

しかし、実際には租庸調の3つの義務があり、判断は難しいのです。
また、逃亡する百姓が後を絶ちませんでした。


平安時代になると百姓は雑穀のお粥、米は貴族と分かれるようになったそうです。

しかし、班田収授がうまく機能していた時代である古墳時代や飛鳥時代の頃の農民は、
玄米を食べられたかどうかは大いに疑問です。
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 簡単に言います。

米も粟も稗も穀の着いた穀物です。
律令制下の租税システムのことを憶えているでしょうか?。学校で習った租・調庸・雑徭のあれです。この中で農民にとって最大の負担は雑徭ですが、それに次ぐ負担は調庸です。租ではありません。租は個別人身支配を実現するためにとられた「籍帳に基づき土地に人間を縛り付けて移動させないシステム」の別称ともいえます。
 そしてこの租を徴税として課するためにとられたのが口分田の班給であり、そこには田の等級基準が記されています。曰く「上田・中田・下田・下々田」です。上田が安定して収穫量の高い肥沃な田地であるのに対し、下々田は耕作に不適とされる痩せた土地です。ですから収穫高もたかくありません。そんな土地でも農民は生活していかねばなりません。米を納めねば税金を納めることができなかった、それによって生活も維持していたから米を食べていたとの論理になります。栗やキビも食べていました。
 山上憶良の作品「貧窮問答歌」の名前を聞いた憶えはありますか?。『万葉集』に録られている奈良時代の農民の生活を描写し苦しい生活の様子を綴った作品です。その中には「竃(かまど)には 火気(ほけ)ふき立てず 甑(こしき)には 蜘蛛の巣懸(か)きて 飯炊(かし)く 事も忘れて」との一節もあり、とても貧しくて家族の空腹を満たす食事すらも満足に与えることができないとの様子を伝えています。それほど過酷な生活実態や官吏の取り立てが苛斂誅求だったことをお忘れでしょうか?。
 また中世から近世に対する庶民の食生活も逆です。中世の平安半ばを契機として商業は大きく変貌を遂げます。商業自体が社会全体に占めるウェイトが大きくなります。それ以前の農業経済とは異なり物流によって利益を上げる人々が歴史の歯車を動かし始める時代です。室町幕府の新編追加や江戸時代の贅沢禁止令が幾度となく出される背景には庶民の生活の質が向上していたとの裏付けがあります。これらによれば結構ゴージャスでグルメな生活を営んでいたとも考えられます。今で言えば、今月は少し残業が多かったから手取りが多かった。だから時には外食でもしようかなどのささやかな楽しみが社会全体の経済活動を牽引し底上げしていく形になります。
 粟といえば小鳥のえさなどとの印象がありますが、立田野の粟ぜんざいやたねやの粟餅には数多くのファンもいて僕もその一人です。
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意味不明です。


江戸時代、米を食べることが出来た
農民は少なかったですよ。
だから、あわひえなどを食べていたのです。

尚、中国では今でもアワを食べています。
私も中国人の友人宅へ行ったとき、アワを
喰わせられましたが、まずかったです。
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