女子の「頭皮」のお悩み解決の選択肢とは?

 教科書の情報でいくと

 古墳時代や飛鳥時代の頃の農民は、玄米を食べていたとありますが

 その後、戦国とか江戸になると

 農民は年貢で苦しいので、あわ・ひえを食べていたとありますが

 なぜ、昔は農民でも米が食べれたのでしょうか?

 逆にあわ・ひえが貴重だった?

 

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A 回答 (13件中1~10件)

いや、古墳時代や飛鳥時代は玄米のほかにも、小麦・大麦・蕎麦・粟・稗も食べられていました。

ただ教科書を書いている人は馬鹿なので、農民なら誰でも玄米を食べていたと勝手に思い込んでしまう。日本は狭いようでも広く気象・水利・土壌の条件が同じではありませんから、地域特性に応じて作付けされていました。
戦国時代や江戸時代だって同じです。粟や稗も食べたでしょうが、玄米だって食べています。小麦・大麦・蕎麦だって食べています。ただ教科書を書いている人は馬鹿なので、農民は領主に搾取されて貧しかったと勝手に思い込んでいるわけです。

米は収穫量も大きく美味なのですが、その分気象・水利・土壌に求める条件が厳しく、わずかな気象の変動で大凶作になってしまうのです。米はハイリスク・ハイリターンな農産物です。大凶作になると、わずかな収穫も年貢に取られてしまうので、農民は米を食べられない。それが何年も続くと粟や稗さえ食べるものがなくなってしまう。それが飢饉です。米に対して粟や稗は、収穫量も食味も劣ります。しかし稗や粟は、米が育たないような気象条件でも育つのです。雨が降らない、気温が上がらない、そんな時でも粟や稗は育つのです。だから米が取れない時の保険として農民は粟や稗も育てていました。凶作・飢饉の備えて、粟や稗を倉庫に備蓄していました。

そういったことは古墳時代や飛鳥時代も戦国時代や江戸時代も同じです。リスク分散なんですね。米一辺倒では、米が取れなかったときにお手上げですから、万一の保険をかけておく。

品種改良、土壌改良、農薬、肥料の進歩によって米の収穫量が安定するようになったのは戦後のことに過ぎません。1993年は北海道・東北地方で戦後最悪の不作となり、平成の米騒動と呼ばれる問題になりましたが、その程度の不作は江戸時代以前はごく普通のことで、珍しくもなんともなかったのです。まず質問者さんに認識してもらいたいのは米は収穫量が安定しない不安定な作物だったということです。現代人は何でも現代基準にものごとを考えて、現代のことが当たり前なのだと思い込んでいるから歴史を正しく捉えれないのです。1993年の平成の米騒動は長く続く安定に慢心して保険をかけることを忘れてしまったことが一因です。舌が贅沢になった現代人は、冷害に強い品種でも、味に劣る品種の米を食べようとしない。ましてや粟や稗なんか食べません。そういう消費者に合わせて、北海道や東北地方といった歴史的に冷害が多い地域でも冷害に強い品種の作付けをやめてしまっていた。ましてや粟や稗など、もう誰も育てては居ない。米価が高騰し、問屋は売り惜しみ・売り渋りで市場に出荷しない。それが平成の米騒動でした。

ただし古墳時代や飛鳥時代の頃と戦国時代・江戸時代で何も違いが無かった訳ではありません。

1点目は人口が違います。古墳時代や飛鳥時代は日本の人口は500万人前後だったと推定されていますが、戦国時代には1000万人を超えていたと推定されています。古墳時代や飛鳥時代は条件に恵まれた土地しか開拓されていなかったということです。北海道や東北地方では、まだ稲作は行われていない。もっとも北海道は江戸時代でも稲作は行われていない。

2点目は気象が違います。1400年から1850年は世界的に寒冷化が進んだと考えられています。寒冷化といって平均気温が1,2度下がるぐらいで、氷河期になるわけではありませんが、それでも温暖な気候を好む稲の作況を不安定にする重大要因でありました。

戦国時代・江戸時代は人口が増えて、条件が不利な土地でも稲作が行われている上に、気温が下がるわけですから、より米は不作になりやすく、その影響が大きかったわけです。

3点目は戦国時代・江戸時代は、作付けの品目に農民の裁量権が無かったことです。1643年に田畑勝手作禁止令が発せられたように、農民が栽培する品目を自分で決める権利が無いのです。何事も領主の承認が必要。というのは建前で、実際は時代が進むと田畑勝手作禁止令は形骸化して、やはり農民は換金性が高い作物を育てようとしていました。

4点目は貨幣経済の進展です。米は大阪に運べば高く売れますが、稗や粟などは売れません。領主(大名)は、商人からの借金を返済する為にたとえ凶作であっても情け容赦なく年貢を取り立てる必要があった。また農民も米より高く売れる商品作物を栽培したがった。中には米を全く作らずに木綿・煙草・菜種といった米より高く売れる商品作物だけを栽培して、その販売代金の一部で他所から米を買ってきて年貢として領主に納める農民もいたぐらいです。それは貨幣経済が進展したから、可能になったことです。

そんな具合に農民が米作りをおろそかにして、金儲けに夢中になってしまったことが田畑勝手作禁止令が発せられた社会背景であり、米不足になり粟や稗などの雑穀を食べざるを得なくなった背景です。貨幣経済が進展すると、貧富の格差が拡大します。要領のいい人間にはいくらでも儲けるチャンスが生まれる。その一方で要領の悪い人間は、農業や商売に失敗して借金を作ってしまう。借金を返済する為に食べる米があるくらいなら、市場で売って返済原資にして、自分たちは売れない稗や粟を食べようと考えます。

以上のように、教科書では説明していないでしょうが、古墳時代や飛鳥時代と戦国時代・江戸時代では共通点もありますし、相違点もあります。

歴史の勉強は、教科書の解釈学ではない。頭の悪い人が書いた文章の言葉の上っ面だけをとらえて、妄想を繰り広げることが歴史の勉強ではない。文章をどう理解するかが歴史の勉強ではない。

教科書は、これから始める勉強のとっかかり、出発地点に過ぎないということです。出鱈目な海図でも何も地図がないと東に行けばよいか西に行けばよいか分からない。それでは未知の大海に船出することはできません。教科書の役割はそうしたものなのです。

日本人は古来より五穀豊穣を神に祈願してきました。五穀とは何か。古事記によれば、稲・麦・粟・大豆・小豆。日本書紀によれば、稲・麦・粟・稗・豆。

五穀豊穣にご利益がある神社を護国神社といいます。これは嘘ですけど。

米が採れない土地、米が採れない気象でも粟や稗は実るのです。こういう大事なことを教えない日本の教科書って何なのでしょうか。
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粟稗に対する説明としては必ずしも適切ではありませんが、戦国時代後期に二毛作が大きく普及しました。


これ以降コメの生産量に対する雑穀の生産量は飛躍的に上がります。
これと江戸時代の人口増加が相まって、国内での米生産量に比較して人口が多くなり、江戸時代は相対的に農民の食における米の割合は減ったのではないでしょうか?
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古墳時代、飛鳥時代に律令を持ち出す事自体が間違いです。

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 予想どおりの釈明にもならない釈明が返ってきました、曰く



>実際には 、6歳であれば支給され、5歳は次の戸籍調査の11歳で支給されます。同じ夫婦子供3人で、1つの家族4反480歩もうひとつの家族は2反480歩で租を支払う事になります。それが戸籍調査が12年に一回になります。労役で開墾して支給するより人口の増加が多くなったからです。
戸籍12年毎、6歳支給であれば、6歳であれば支給され、5歳なら17歳で支給になるのです。戸籍12年毎、12歳支給であれば11歳では23歳まで口分田は与えられない事になります」

この部分です。回答者はこの問題と偽籍の問題を捨象してしまっています。なぜ籍帳に正丁の数が実数とかけ離れた数字になっているのか。そこに記されている数字を具体的に追尾するなら、老・緑など課役(この場合は徴税との意味です。読解力が欠如している某回答者のための配慮です)を免除されている構成人員の数が異常に多いのはなぜか、との疑問に対する合理的な説明ができません。また6歳であれば班給されの要件ですが、実際に田地を耕作することが6歳の子供にできるかといったなら、答はできるともできないともいえます。むしろ確率的にはできない方が説得力のある数字でしょう。それは岸俊男の研究史整理でも既に明らかです。


>残念ながら白村江の戦いをまるで念頭においていない人物と講釈する時間はありません。
いつもながら随分と古い学説を持ち出してきて説明されているようですが、現在の研究段階からいえば、これらは賞味期限切れ的な存在です。それを覆い隠して一方的に私を論難することは的外れとしかいいようがありません。自らの墓穴を掘っているだけです。

>646年、改新の詔で公地公民、租庸調、班田収授法などの詔を出しますが、663年、白村江の戦いで破れ、防人の労役を追加します。

「甲子の宣」はその史料としての正当性に疑義が示されていることも確かです。原秀三郎による整理がなされています(岩波講座『講座 日本通史 古代-2』に詳細が掲載されています)。詔が出されたからといってそれが周知徹底されたわけではありません。むしろ唐の均田制をベースとした班田制が意味を持ち始めるのは大宝律令以後、史料的に現存する養老律令以後であることも歴史学の共通認識です。飛鳥浄御原律令に関してはその実像も明らかにされていません。検証中の存在です。ですので性急にこの史料以後と呼ぶには疑問符が付きます。
こうした説明に対して恐らくは「郡評論争」を持ち出してくることでしょう。
 坂本太郎が『日本書紀』に記されている大化改新の詔以前(=「甲子の宣」以前)を史書には多少の潤色(または脚色)があるのは当然であり、それがあるからといって大化前代の地方行政単位として「郡」がなかったとはいえない等の実証を踏まえないままに記紀の記述を鵜呑みにしてしまった姿勢に対し、弟子の井上光貞は「甲子の宣」から大宝律令に至るまで間、全国の金石文に一つとして「郡」の文字が使われていなかったことを拠り所とし、記紀が持つ「史料としての信憑性」に疑義を投げかけた論争です。つまり『記紀』に記されている「甲子の宣」に対する疑義です。これを発展的に整理したのが前出の原秀三郎です。おわかりですか?、ご自身の言っている事が如何に荒唐無稽で非論理的であり、それを蔑ろにして相手を非難する姿勢の空しさにお気付きですか?。
 様々な回答を彼方此方で寄せられているようですが、共通している点は「外圧・戦争」にかこつけて全てを説明しようとしている点。何よりもこれは歴史を社会構造から理解しようとする姿勢とは隔たりがあります。階層構造の変動などの歴史が変動する際のパワーを過小評価しすぎる。過大評価も問題ですが、少なくとも捨象するよりはましです。
 勉強し直していただくのはむしろそちら側です。
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戦国や江戸時代の農民はアワやヒエを食べていた、という話は畑作中心の農村から生じたもののように思います。


手元に上野国傍示塚村のデータがあります。慶安郷帳からの数値で「村高192石余、田方31石余、畑高161石余」とあります(角川地名大辞典・群馬県)。
田が非常に少ないんですね。この村から納める年貢は、免(年貢率)を四公六民とすると 192石余×4割=76.8石 となります。これは米で納めたはずですが、この村の田で採れる米では恐らく足りなかったでしょう。(田高は31石余とありますが実際の生産量は不明です。一般的には高よりやや多いはずですが、もし2倍あったと仮定しても足りません。)
この村では米は全部年貢にせねばなりませんから食べることはできなかったはずです。だからといって貧乏村とは言えないかもしれません。畑から採れるアワ・ヒエ・蕎麦などの量が十分であったのなら(味は良くなかったとしても)満腹できましたから 貧乏=アワやヒエを食べる という論理にはなりません。

一般的には江戸期の農民は米を主食にできたと思います。アワやヒエで命をつないでいたのなら、それらはどこで作ったのでしょうか? それだけの土地があるなら米を作ることを考えるはずです(気候などの事情で米が作れない地方は別にして)。つまり米が十分に取れる地域においてもアワやヒエを主食にしていたというのはウソと言わざるを得ないことになります。もし本当に食べていたのならそれは飢饉の時で、しかも川の土手などに自然に生えたものだったと思われます。
また、農家は一般に米は可能な限り売って現金化します。そして自分達はクズ米、雑穀、豆など商品価値の低いものから食べます。このことも「農民はアワやヒエしか食べられない」という話の発端になったように思います。
こういった話に尾ひれが付いて冒頭の話になったのではないでしょうか。
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> 教科書の情報でいくと



教科書の読み取り方の問題でしょう。
教科書というのは非常に解りやすくするために、大雑把に書いたり、簡略化・省略化したり書いています。
また、一人の人が書くのではなく、それぞれの時代の専門家が共著で作っていきます。
当然、専門家ごとに歴史解釈や知識量などもちがい、時には矛盾してたりします。
所詮、教科書の歴史ってのはセンター試験とか大学受験に必要なだけで、歴史的真実が書かれてるわけでもないんです。
まぁ、いまのところ論争の少ない通説を採用してるって感じですね。


>古墳時代や飛鳥時代の頃の農民は、玄米を食べていたとありますが

確かに、玄米も食べていましたが稗や粟もたべていましたよ。
そもそも稗や粟は縄文時代の遺跡から多数みつかっていることから、主食の一つと考えられています。古くは養老律令にも義倉にアワを備蓄するように定められていますし、新嘗祭のお供えに使われていたりします。
どちらも麦や大豆・小豆などと一緒に、五穀の一種でもありす。
時代により必ずしも一定ではありませんが、五穀というのは重要な作物として考えられていたと思われます。


>農民は年貢で苦しいので、あわ・ひえを食べていたとありますが

これは、年貢の問題もありますが、その他にも人口増加やそれに伴う中央政府の支配システムなど様々な要因があります。
特に、戦国時代ともなると戦争に駆り出される回数も増えたりと生産性が低下して行きました。
その後、秀吉による太閤検地の実施や村請制度の創設など、システムの確立によって年貢の取り立ても厳しくなったでしょうね。
それでも、米を全く口に出来なかったかというとそうでもなく、稗・粟・麦などの雑穀中心でしたが、米も付きに3~4割は口にできていたようです。


まぁ、古代と江戸時代とでどちらの農民が米をより多く口にしていたかはわからないのが実情です。
一応、縄文時代と弥生時代の線引きが「稲作の開始」に置かれていましたが、最近の研究では縄文時代でも稲作が行われていた事が分かってきています。
どのように稲作が伝わったかとともに、いつから稲作が始まったかもまだ分からない歴史の謎です。
同じように、古墳時代や平安時代-江戸時代の農民・庶民の食べ物が何だったかも、いろんな説がありますね。

ではでは、参考になれば幸いです。
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考える学習をしなさい。



過去、中学生に全く同じ回答をした記憶がありますよ。

その子は、
口分田は6年に一回全員が支給されると解釈したようです。

実際には、
6歳であれば支給され、5歳は次の戸籍調査の11歳で支給されます。

同じ夫婦子供3人で、
1つの家族4反480歩
もうひとつの家族は2反480歩で租を支払う事になります。


それが戸籍調査が12年に一回になります。
労役で開墾して支給するより人口の増加が多くなったからです。


戸籍12年毎、6歳支給であれば 6歳であれば支給され、5歳なら17歳で支給になるのです。
戸籍12年毎、12歳支給であれば 11歳では23歳まで口分田は与えられない事になります。


残念ながら
白村江の戦いをまるで念頭においていない人物と講釈する時間はありません。


646年、改新の詔で公地公民、租庸調、班田収授法などの詔を出しますが、
663年、白村江の戦いで破れ、防人の労役を追加します。

慌てて飛鳥浄御原令を制定し
戸籍6年に1回、班田収授に関する規定などを制度化していったのです。

白村江の戦いは、進出が逆に敵の上陸に怯える程の方向転換でしたが、
民にとっても国にとっても大きな負担でした。

太平洋戦争の日本や中国の清に照らし合わせて考えてみるのも良いでしょう。
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江戸時代の農民が、お米を食べていなかったというのは非常に疑問がある。


農民一揆の要求としては、確かに年貢の軽減ということもあったであるが、
その他に農民を人足として使ったしないことや、奉行の不正に対する是正
などが大きな要求項目となっていることも見逃してはいけません。

だいたい江戸時代後期にもなると、農民も学問をしたり、剣術を習ったりしています。
食うや食わずで困っている人が、そんな余技に取り組むはずがありませんよね。
http://4travel.jp/traveler/u-hayashima/album/100 …

自分の土地を手放してしまい、水のみ百姓と呼ばれる人々もいたかもしれませんが、
逆に豪農と称される富も権力も持った農民もいたことを知ってください。

参考URL:http://www2.ttcn.ne.jp/~kazumatsu/sub226.htm
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  「食えますね。

男子は口分田として2段(反)を支給されました。租税である租は1反につき2束2把(3~10%)と江戸時代の5公5民とでは大きな開きがあったからです。しかし、実際には租庸調の3つの義務があり、判断は難しいのです。また、逃亡する百姓が後を絶ちませんでした」との話ですが、既に自らの論理矛盾を露呈しているにすぎません。取るに足らない学校秀才の模範解答それもはるか昔のカビが生えたような学説を引用しているだけで説得力は一つとしてありません。
 「なぜ逃亡(史料上は浮逃之輩)が後を絶たなかったのか」「男子は口分田として二段を支給され租は一段につき二足二把(3~10%)」が江戸時代と比較してと論理のすり替えを平然として行っています。
 この数字(3~10%)は沢田吾一の『奈良朝時代民政経済の数的研究』(1943年刊)が典拠とされ現在も学界では最も信頼に値する「数字(数値)」とされていますが、沢田自身がこの数字が持つ「意味」に関しては述べていません。それが当時の農民にとって負担として重税感があったかどうかの評価を彼は一言として説明していない。3~10パーセントが果たして実際の耕作地の地種に即して妥当なものであったのか、耕作に適さない土地にも一律に同額の税を課すことの意味を問うなら、そこからは何も見えてこない。高校の日本史で暗記させられる律令制下の租税システムをデータとして記憶することと変わらない。つまり回答者の見識はその程度のものであるとしか評価できない。こうした部分に言及しているのは虎尾俊哉であり吉田孝であり門脇禎二であり早川庄八です
 従って「食えます」などと簡単にいうことはできない、というのが実情(日本の歴史学界、歴史学研究会及び日本史研究会に属する研究者達の共通認識)です。
 データには解釈が伴います。データそれだけを示しただけでは意味がありません。なぜなら「データを発表した側」と「そのデータを読みとる側」ではデータに対する関与の仕方が異なり、どう見るかに位差が少なからず生じることによります。言葉が語り手の口から離れた瞬間に一人歩きを始める性質の存在だからです。
 この点を鑑みて少なくとも僕には恐ろしくて「食えます」などとは言えません。また少なくとも70年代後半以降に歴史学を専門として学んだ者の立場からは到底許容できる性質のものではありません。
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教科書の書き方、読み方の問題です。


 
古墳時代や飛鳥時代の頃の一般の人(農民)の食事は、弥生時代とあまり変わらず質素であった。食事の内容として、玄米を土器で炊いて、塩、山野草を食べていた。
これは、食材の種類が少ないこと、稲籾を食するにも石器で押しつぶして脱穀し玄米にする程度のことしか出来なかったことを、簡単に表現しているだけです。一年中玄米を食べられるほどの稲の収穫は難しく、クリ、クルミ、ドングリやソラマメ、ウズラマメ、ササゲ、アズキ、ハス、ハジカミ、芋、コムギ、大麦、アワ、ヒエ、ソバ、キビ、ヒエも食事に出来るものは何でも、その季節に応じて食べています。
一般の人も、米を食べるにしても、玄米を土器で煮たり、蒸して食べていたということを書いているのです。 人口の1%にも満たない例外の人を除けば、みんながそうした食事をしています。 この時代はもともと農業の収穫は少なく、食糧事情が悪いので、小さい児がたくさん死ぬだけでなく、人口そのものも多くはありません。
 
平安時代の上流貴族は、玄米をさらに精米して白米にして、煮て粥にしたり、蒸して食べるようになりますが、鎌倉時代の武士が米を食べる場合も、玄米を蒸したり粥にして食べています。 鎌倉時代でも、ごく一部の人を除けば、飛鳥、奈良、平安、鎌倉時代前半の人々の食生活や住居は大きな変化がないのです。
大豆を本格的に食べるようになったのは、仏教などの影響で肉食を避けるようになった鎌倉時代のようです。 
鎌倉、戦国、織豊期(安土桃山)と時代が進んで、農業技術も進歩し、江戸時代には肥料も使うようになっています。食料生産はずいぶんと増えたので、農業などの食料生産をしない武士や町人も多数養えるほどになっています。人口は、江戸初期から1700年代までに倍に増えます。 http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/1150.html
上流階級や上級の武士は玄米を精米した白米を現在のように炊いて食べます。 それでも、それだけ多くの人口を養うのは大変なので、稲の収穫も不足気味です。 下級の人は、玄米や麦、雑穀、豆、イモを混ぜたものを食べます。 それでも天候不順で収穫が少なければ、飢饉になったりします。
「農民は年貢で苦しいので、あわ・ひえを食べていた」というのは、教科書では、そのような社会階層の状況(階層が分かれて、人口の10、20%が食事内容も良くなったが、80%の人は、まだ十分に米を食べられる状態ではない)ことに注目している書き方をしているのでしょう。
 
ヒエやアワ、ソバ、イモなどが貴重だったのではなくて、米や麦の収穫が、人口に比べて少なかったのです。
 
どこまで一般化できるかわかりませんが、昭和30年代でも関東・多摩地方の主穀は大麦で、昭和50年代には山梨件上野原市で長寿村として有名になった山間部の村の主食はオバクだったそうです。オバクは、精白した大麦の丸い粒+ジャガイモ+インゲン+小豆などを入れて、半日以上炊いてようやく食べられるようになるようなものだったそうです。少し東京寄りの現在は東京都立川市あたりでも、明治の後半までは日常の主食は大麦を石臼や水車で挽いて割ったものを10合に米を1合混ぜていて、大正時代後半になって押し大麦10合+米2合くらいになったそうです。量を確保するためには、豆や栗、イモ、大根、山菜、キノコなどを混ぜていたらしいです。
地方から出稼ぎに東京に出てきた労働者の方が、米を食べられる機会は多かったのでしょう。
 
教科書でも授業でも、細かいことを全部は説明していません。
その箇所で説明したいことポイントを絞って、説明しているのだと思います。
 
古墳時代や飛鳥時代の頃の説明では、
(豪族や飛鳥文化のようなことだけではないよ)
一般の食生活はまだ貧弱だということを説明し、
江戸時代の説明では、
(元禄文化、文化文政、武士の生活、大阪商人ばかりではないよ)
農民の生活は苦しかったという説明をしたかったのでしょう。
 
他のことでも同じだと思うのですが、教科書や参考書に書いてある言葉だけを抜き出して並べて考えると、わけがわからないことがでて来ます。
その時代の何を説明しようとしているのかという意図なども考えながら読む方が良いと思います。
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Q江戸時代の農民は何を食べていたのか

以前、読んだ本の中に書かれていたことです。
(題名や著者名は忘れてしまっています)

「江戸時代の多くの農民(小作)は滅多に米を食べることは出来ずに稗や粟などの雑穀を食べていたとされている。しかしながら、日本全国で生産された米の総量から算出すると酒や味噌などで消費される米の分を差し引きしても、当時の総人口2000~3000万人が主食として食べるのに十分な量があったはずである。」

ということでした。確かに米は貨幣の代わりに売買・流通していても、貨幣なら保存できても米はいつまでも保存は出来ないでしょう。腐って捨てる位なら小作農民もそれなりに(月に数回程度は)食べて消費していてもおかしくないと思います。

江戸時代の米は最終的にはどのように消費されていたのでしょうか。

Aベストアンサー

もし粟や稗を常食にしていたのならそれらを育てる広大な農地が必要です。それだけの農地があるならまず稲を作ることを考えたはずです。つまり江戸時代の農民は米を常食にしていたと小生は考えています。(気候等の理由で稲が作れない所は別ですが)
しかし農民は米は高価で売れるためできるだけ売るようにし、麦を多く食べていたようです。
年貢については五公五民とか四公六民といわれますが、小生が生まれた村は八公ニ民という”悲惨な”村でした。しかしこの数字は収量に対するものでなく、高に対する割合です。
高は江戸初期に検地で決まりますが、その後は総検地でもない限り変わりません。一方生産量は時代とともに増加します。武士は実際の生産量を正確に把握しており、適宜年貢を課します。その結果八公ニ民というとんでもない数値が出てくるわけです。当村の実際の生産量は正確には不明ですが、村高の5~6倍あったと推定しています。その結果実際の年貢率は生産量の15%程度でした。
こういったことを推定する数値として私は村高を村人口で割った「一人あたりの村高」を使用しています。その根拠ですが、まず年貢はいくつかの村で調べてみたところあまり差はなく一人あたり5斗程度。食糧は1石。これに最小限の雑費を加えた2石が最低必要な生活費と考えたからです。農民が生きていた以上これだけ生産量は絶対にあったと思っています。
「一人あたりの村高」を近隣の村で調べたところ、だいたい A:5斗前後の村、B:1石前後、C:2~3石 がありました。そしておもしろいことに貧乏村ほど年貢率が高い傾向にあり、A(当村)は80%、Bは50%、Cは25%程度なのです。しかし実際の生産量に対してはどの村もせいぜい20%止まりだったと考えています。
江戸時代はホンネとタテマエに大きな差がありました。現在に残る記録は武士が残したものが多く農民の状況を正確に記していません。年貢については不思議なことが多いですから貴兄も調べてみてください。

もし粟や稗を常食にしていたのならそれらを育てる広大な農地が必要です。それだけの農地があるならまず稲を作ることを考えたはずです。つまり江戸時代の農民は米を常食にしていたと小生は考えています。(気候等の理由で稲が作れない所は別ですが)
しかし農民は米は高価で売れるためできるだけ売るようにし、麦を多く食べていたようです。
年貢については五公五民とか四公六民といわれますが、小生が生まれた村は八公ニ民という”悲惨な”村でした。しかしこの数字は収量に対するものでなく、高に対する割合です...続きを読む

Q雑草の生命力はなぜ強いのですか?

単純で素朴な素人質問で恐縮ですが、
雑草の類の生命力の強さが、なぜなのか
とても不思議でなりません。

この強さの素を、バイオ技術などを使い
この強さのDNAを
稲や野菜 果樹や花などの品種改良に
活用する研究などは
出来ないものでしょうか・・
教えてください。

Aベストアンサー

 まず、絶対的に「雑草が強い」のではなく、相対的に「雑草は作物よりも強い」ということだと考えてください。

 畑の雑草のほとんどは、生活史が短い「1年生の草本」です。夏場の雑草は、「カラスビシャク―ニシキソウ群集」と呼ばれています。冬場の雑草は、「ホトケノザ―ハコベ群集」と呼ばれています。

 また、畑に生える雑草は背丈が低く、作物の陰に隠れて除草を免れられるものが多いです。さらに畑は光が十分に確保でき、施肥によって十分な養分が確保できます。

 このような良好な条件下では、いわゆる「雑草」が繁茂するのは当然のことと言えます。


 野草の持つ強さを、作物に応用する技術はすでに始まっています。確か、トマトは原生種と掛け合わせて、甘さと病害虫に対する丈夫さを持つ品種を開発しているようです。


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